仕事がめまぐるしく忙しいときに限って、無性に歌集が読みたくなるのが不思議です。
ひとりで。 戸を閉めて。 静かな歌集が読みたいと思うのです。 中津昌子さんの歌集『むかれなかった林檎のために』は、静かに自分のなかにひとつひとつ歌を落としていく、という感じで読みました。 自分のなかにはもう骨も肉も血もなくて、人の形をした壺になったように、歌を落とすと反響してしばらくごおおんと鳴っているのです。
・さびしい雨の日だなと父の声がする受話器は左の手よりはみ出る
このさびしさはなんでしょう。 「受話器は左の手よりはみ出る」って、家の固定の電話でもスマホでもガラケーでも、すっぽり手に収まりきるということはなくて、むしろはみ出ることはあたりまえといえばあたりまえなのに、かなしいよーーー
中津さんの歌は、ほんとうに不思議。
・むかしむかしへ戻りゆく母ひきもどすいっそうの舟わたしにあらず
・そこへゆけばかならず会えるという冬のそこは小さな庭なのだけれど
・よく食べたる母を喜ぶかつてよく食べたとほほえみくれたる母を
お母さんを詠った歌はかなしさを越えたやさしさがあって、どうにもならないさびしさが響き渡ります。 「そこへゆけば」の歌は大好きで、何度読んでも泣いてしまいます。 「よくたべたる母を」の歌は、母と子に流れた時間を思わせられます。 ほんとうに幼いとき、よく食べたというだけで褒められ、笑っただけで親を喜ばせていた自分だった、喜んでいた母だった。 できることが増えるとそれだけありがたみもなくなって、どんどん喜ばせることの質も変わっていった。 けれど、今度は自分が母親が食べてくれるのが嬉しい、という立場になってみて、ふたりの時間の原点に戻るのでしょう。
・赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が
・胸と胸合わせて平たくいるときのみどりの海の底なのかここは
・キリンの顔が下がれば空が降(お)りてきて離れてもいいこのままあなたと
・あじさいにみどりの花がふくらめば手をのべて触れよあなたも空から
いちばん好きな歌は
・つよい国でなくてもいいと思うのだ 冬のひかりが八つ手を照らす
誰にも貸したりせず、ずっとそばに置いておきたい歌集です。