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いつでも君のこと好きだったよ

水曜日は短歌の日(8) 高安国世『Vorfrühling』

2014-08-13 18:45:06 | 日記

 きょうは塔の打ち合わせ2つ。そのあと帰って洗濯とトイレ掃除をしました。

 

 録画していた「花子とアン」を見て、きょうは花子の長男歩が疫痢で死んでしまって、高安さんのことを思いました。

子供が高い熱をだし、あっという間に死んでしまう疫痢は当時本当に恐ろしい病気だったのですね。高安さんも長男国彦を疫痢で亡くしています。3歳でした。

 

 きょうは高安国世の実質的第一歌集『Vorfrühling』の中の一連「颱風」から。

 

 ・昨日まで子が遊びたる我が家の荒れし疊に歸りて坐る

 ・帽子きて柩に入りし汝(なれ)ゆゑに歩む姿の間なくし思ほゆ

 ・雨ふれる前の日汝を連れ歩みし手の感触のそのままにあり

 ・生れし日雪ふみて見に来給へる父母が今日の汝も見給ひぬ

 ・堪へがたきを堪へしめ我を支へたる小さき者は過ぎて今無し

 ・生ける者うるはしくして愛(かな)しきを心に沁みて生きむとぞする

 ・庭隅の無花果ふたつ色づきて雨ふる見れば亡き子ろおもほゆ

 ・亡き子らとふたり造りしわが庭の防空壕に苔生ひむとす

 

 この一連には詞書きにしては長い文が添えられています。国彦の具合が悪くなってから亡くなるまでのことが140字あまりで綴られていて、特に最終行の

 

 「手当を加へるうち台風烈しき午後八時二十分こときれる。翌朝そのまま出棺火葬。」(旧字体のところは新字体にしました)

 

 からは、悲しみが追いついていない様子が伺えて痛々しいです。

 

 水沢遙子さんの著書『高安国世ノート』の中で、繰り返し読み直す頁があります。 国彦の死から半年すぎた1944年3月に高安さんが記した小文が紹介されているのです。

 

  「子供が死んだ。昨日まで朝から晩まで瞬時も休むことなく家中を駆け廻り、その歓声を以て私達の耳を襲し、私の仕事を妨げ私を怒らし私を手古摺らせ、そして結局私を笑はせ私を支へてくれた者は死んだ。さうだ、堪へがたくなり優る私の日々に、いづこから来たともなくいつよりか私の懐にあづけられ、日々猛烈な勢で以て成長し、驚くべき貪欲さで以て微笑ましい知識を獲得して行く幼い命は、いつの間にか私の生活の中心に入込み、私の自分でも知らなかつた人生の意味とも希望ともなつて、私の生命を支へてゐたのだつた。」

 

 「(中略)彼の死が私を破滅へと呼ぶものとはどうしても考へることが許されない。「なぜ彼は死んだのであらう」と考へる時、それはどうしても堪へがたいものの中からも、私をつき動かし導き美しい生命へと私を駆り立てるものとよりほか思ふ事が出来ない。」

(「光の網」『新しき力としての文学』一九四六.四)

 

 高安さんがリルケの思想「死者は我らを必要としないが、我らは死者を必要とする」「真に所有したものは失ふといふことはあり得ない」という考え方に助けられ、「家族や友人や死者の間には目に見えない糸が張りわたされてあり「私達の間のその光の網の目のやうなものを信頼する」」と書き記したこと。高安さんのそこへ達するまでの苦悩と、明るいほうへ自らを導こうとする力に私は何度も助けられてきたのです。

 

 

 

 

 

コメント
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