自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

人類は科学を発達させたが、社会的に進歩しているのか?

2016-08-06 01:28:41 | 自然と人為

 17世紀のデカルト以来、科学は発達したが人類の社会は進歩してきただろうか。何故、戦争の抑止のために軍事力が必要なのか。何故、戦争放棄の憲法を変える必要があるのだろうか。今年も広島、長崎の原爆の日、そして終戦の日を迎えようとし、NHKでは100分 de 名著:カント「永遠平和のために」の放送が始まっている。そこで紹介されている社会契約説から現代を考えて見たい。
 
 ホッブズは「人間の自然権は自由・平等なものと考えたが、同時にその利己的動物としての本質から、自然状態においては『万人の万人による闘争』とならざるを得ない」とした。
 これまでこのブログ動物は基本的には「利己的」(動画)であり、「利他的な人間」となるためには訓練が必要(動画)なことを紹介しているが、ホッブズは「その状態を克服するために個々の権利を国家権力、すなわち国王に委譲するという社会的な契約を結んでいると主張した。」 司馬遼太郎は利他的な人間となるためには個人的な『訓練』が必要と考えたが、ホッブズは絶対王政時代に個人の闘争を防止するには個人と国王の社会的な『契約』が必要と考えた。これは、「それまでの絶対王制国家の王権神授説を否定する理念となり、後のイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説につながっていく革新性があった。」

 ジョン・ロックは、統治二論でホッブズの社会契約説の王権神授説を批判し、「国家は人民の生命・財産・自由といった自然権を守る目的を持ち、その主権は人民にある」とした市民政府を論じた。これは日本の戦後の憲法の土台である「基本的人権と主権在民」に受け継がれ、明治時代に制定された帝国憲法は立憲君主制であったが、それでも非戦論と無教会の内村鑑三を生み、彼が69歳で亡くなる時には海軍の反対を退けてロンドン海軍軍縮会議で世界協調への道を決断した浜口雄幸がいた。現在の政治の堕落は、人々が自然崇拝の心を失ってしまったためと私は思っている。
 参考: 昭和の選択「“ライオン宰相”が夢見た平和~軍縮に挑んだ男 浜口雄幸~」
      2016年7月28日
      ①軍縮に挑んだ第27代総理大臣浜口雄幸(録画)
      ②浜口雄幸暗殺と軍部の暴走を抑えられなかった政党政治(録画)
      内村鑑三 その面影をたずねて(1):鈴井範久 こころの時代(録画)
      内村鑑三 その面影をたずねて(2):鈴井範久 こころの時代(録画)


 内村鑑三は『後世への最大遺物』(第2回)で、『個人は国家より大切である』という本を書いた「ジョン・ロックは身体も弱いし、社会の位地もごく低くあったけれども、彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと思います。それゆえに思想を遺すということは大事業であります。」とジョン・ロックを讃えている。そして、「国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。・・・天然の無限的生産力にあります。・・・外そとに拡ひろがらんとするよりは内うちを開発すべきであります。・・・国の実力は軍隊ではありません、・・・はたまた金ではありません。・・・信仰であります。」と説く、「デンマルク国の話~信仰と樹木とをもって国を救いし話」とともに私に大きな感銘を与えてくれた。なお、私にとっての信仰は、今のところ自然崇拝であるが・・・。

 こころの時代~シリーズ道をひらく~内村鑑三のことば(1)迷いと慰めの書き起こしを残していただいているので、ここで少し紹介させていただく。
鈴木: 「内村鑑三は、一昨年が生誕百五十年でありましたから、その前半はまさに近代日本と歩みを共にしてきましたですね。そうすると近代日本の歩みというのは、ご承知のように、日本が西洋に追い越せ、追っかけるというそういう時代です。そうしますと、私の眼からすると、人間というものを超えた存在―「超越的な存在」と、仮にここでは言っておきますが―「神」と言っていいかも知れませんが―超越的な人間を超えた存在を一つは忘れました。それから合わせて同じようなことかも知れませんが、人間を超えて、あるいは人間と対する存在、「自然」―「天然(てんねん)」と内村は言いますけどね―その二つを忘れてきたのが近代日本だろうと思いますね。それから結果が何をもたらすか、ということを、おそらく日本人の中で、いち早く自覚し説いた―予言者というのはちょっと言い過ぎかも知れませんが、先覚者と言ってもいいだろうと思います。ついでに言いますと、一番おそらく近代の日本人の中で、「個」というもの―「個人」というものの大切さを強調した一人じゃないかと。「個」の大切さというのは、民主主義の上でも非常に大事な概念だと思いますけど、それをおそらく最も強く強調した思想家の一人だろうと思います。
石澤:  時代が、全体主義で大きく動いていた、まさにその時代に生きていた内村が、実は「個」を大事にしていた。
鈴木:  はい。彼はその意味で、単なる孤独と言うんじゃなくて、「単独者」という言い方をしますけどもね、「単独」という。
石澤:  そうすると、内村鑑三の考えていたこと、思想というのは、キリスト教の信仰を、もっているとか、もっていないとか、そんなこととは関係なく、今の時代を生きる私たちすべてに意味があると。
鈴木:  ですから、その根底には確かにキリスト信仰、内村なりの理解した信仰があったことは否定できませんけれども、キリスト信仰をもっていないとその思想がわからないかというと、そうではなくて、万人に通ずる、世界の誰にでも通ずる、そういう思想だろうと、私は考えています。

 私は幼い頃、「お天道様に見られているよ」と育てられた。今もその素朴な自然崇拝の信仰から一歩も出ていないが、寒いほどに冷房を効かし、歩きながらポケモンGOに熱中してコンピュータに遊ばれているボケモンには、自然をもっと身近に感じる場が必要だと思う。「農学栄えて農業滅ぶ」と言われてきたが、生産コスト削減の為に規模拡大を常識とする現代農法では自然に恵まれた里山は荒れていくばかりだ。それは科学が発達しても人間の心は荒れていくばかりと同じ現象ではないか。もう少し自然と人の生き方の関係について考えていきたいと思う。

初稿 2016.8.6