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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

古代の南海地震 康和南海地震

2015年08月30日 | 災害の歴史・伝承
 古代の白鳳南海地震、仁和南海地震を紹介したが、仁和3年(887年)の次の南海地震はというと承徳3(1099)年正月24日に発生している。仁和から212年後のことである。この年は地震と疫病が頻発したので8月に年号は「承徳」から「康和」に改元されている。そのためこの年の地震は「康和地震」と称されている。このような地震災異による改元は承徳/康和だけではない。江戸時代の「安政南海地震」も発生した時の年号は「嘉永」であった。嘉永7年11月に地震や黒船来航、そして内裏炎上という理由で、「安らけく政(まつりごと)を行うことができるように」と「安政」へと改元されている。それ以前にも安土桃山時代の「慶長」も文禄5(1596)年に伏見地震や豊後地震、伊予地震など大地震が連続して発生したことにより、「文禄」から「慶長」に改元された。よく「慶長伊予地震」と呼ばれる地震も発生時点の正確な年号は「文禄」である。「慶長」も「慶ばしいことが長く続く」ことを祈念してつけられた名前である。これらの地震は年号を改元しなければいけない程、被害は大きかったといえる。
 さて、康和南海地震について記した史料は、国立歴史民俗博物館所蔵の廣橋家旧蔵記録文書典籍類(廣橋本)の中にある「兼仲卿記」である。鎌倉時代後期の公家である藤原兼仲の日記であり、兼仲は朝廷行事や裁判実務を担当する中級貴族の家柄で、そうした職務について記述された日記である。この史料は別名「勘仲記」とも称される。これまで歴史地震の研究において「兼仲卿記」と「勘仲記」の双方が用いられ一見、混乱しそうであるが、藤原兼仲の家名が勘解由小路(かげゆのこうじ)と称したことからこの史料が「勘仲記」とも呼ばれてきたのである。この兼仲が記した日記に地震について叙述されているわけではない。実はこの日記に用いられた紙の裏に書かれているのである。この紙はもともと賀茂御祖神社に伝わった文書で土佐国から提出されたものと推定されている。いわゆる紙背文書である。昭和43年頃に東京大学史料編纂所の桃裕行氏がこの文書の中に康和地震の記述を確認し、これが南海地震であったと判断されたのである。康和地震は関白藤原師通の日記「後二条師通記」によれば康和元年正月24日に発生している。ところが「兼仲卿記」紙背文書には「土左(佐?要確認)国潮江庄康和二年正月□四日地震之刻、国内作田千余町皆以成海底畢」とある。康和2年正月?4日に地震が起り、土佐国潮江庄(現在の高知市)の千余町が海底となったという。康和2年とあるが、この文書は39年後に書かれたものであり、康和元年の誤りだとされている。注目すべきは千余町が海底となったという記述であり、白鳳南海地震の土佐国での被害と類似している。直接の津波被害とも考えられるし、地盤の沈降によって海水が入ってきたという被害とも考えられる。いずれにしても高知県における歴代の南海地震での典型的な被害であり、この「兼仲卿記」紙背文書の存在によって康和地震が南海地震であるとされるにいたったのである。
 なお、来月9月21日に行われる第32回歴史地震研究会(京丹後大会)において石橋克彦氏が「『1099 年康和南海地震は実在せず、1096 年永長地震が東海・南海地震だった』という作業仮説」という口頭報告を予定されている。そこで新説が提示されるのかもしれないので、注目しているところである。

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古代の未知の南海地震? 延暦地震について

2015年08月29日 | 災害の歴史・伝承
岡山大学から平成24年4月17日付で「794年に発生した未知の巨大地震を確認」という内容のプレスリリースがありました。

https://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/soumu-pdf/press24/press-120417-7-1.pdf

そのプレスリリースの趣旨は、古代史学の今津勝紀先生が延暦13(794)年7月10日にこれまで知られていなかった地震が発生していたことを確認したというもので、先に述べたように古代の南海地震は天武13(684)年と仁和3(887)年が知られていて、その発生間隔は203年である。それが天武13年の白鳳南海地震と仁和3年の仁和南海地震のほぼ中間時期にあたる延暦13(794)年に未知の南海地震が発生していたことが『日本紀略』に記載されていると発表されたのです。この説は既に平成24年3月3日に奈良文化財研究所で開催された第28回条里制・古代都市研究会にて口頭報告されたものです。私もこの説は古代史関係の先生から教えていただき、注目していました。この延暦年間頃の六国史は『日本後紀』になりますが、全40巻のうち10巻のみか現存し、『国史大系』でも活字化されています。しかし残り30巻は欠けており、奈良時代末期から平安時代初期の歴史を紐解く上で障害となっています。絶対的に史料が少ないのです。ところがその後に六国史の記述を分類整理した『類聚国史』や略文を掲載した『日本紀略』には六国史の内容が踏襲、記載されており、『日本後紀』の欠けている各巻の条文がどのようなものであったのか、その概略のみですが推測できるのです。その『日本紀略』に延暦13年7月10日条に「宮中并びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」との記述があり、この年の九月にかけて連続して地震が発生していたことがわかったというのです。確かに延暦年間は地震の多発した時期でした。それは『類聚国史』を見てもわかります。四国の関連でいえば、この時期は讃岐国出身の弘法大師空海の青年期にあたり、昨年開催された愛媛県歴史文化博物館特別展「弘法大師空海展」の図録でも取り上げてみました。この弘法大師空海の青年期には、蝦夷との戦争、飢饉の頻発、長岡京や平安京への遷都の労役従事、そして地震の頻発と、庶民にとって4つの大きな苦難が重なり、若き空海は庶民の苦しみを済度するために、それまで学んでいた大学での儒教中心の学問ではなく、仏教を基礎とした山林修行に出る決意をしたのではないかと指摘をしました。この延暦13年の地震の震源については、プレスリリースによると、延暦15年に四国を一周していた南海道のうち、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)の海岸部を通っていた道路が廃止をされ、新道が使われるようになっており、これが延暦13年の地震による海岸線被害と関連する可能性を提示されています。この新説が本当に未知の南海地震であったのか、その検証もその後に行われています。代表的なのは雑誌『歴史地震』第29号(2014年発行)に掲載された石橋克彦氏「684年と887年の間に未知の南海トラフ地震があるか?」です。石橋氏は『日本紀略』の記述が「地震う」とか書かれていなくて単に「震」、「震死」のみであることを強調され、当時の史料では地震は「地震」と書かれるのが一般的であり、「震」と書かれる場合は雷や雷に打たれて死ぬことであるため、この『日本紀略』の記述自体、地震史料ではなく、落雷に関する史料であるとしています。そしてこの記事が『類聚国史』の災異部五・地震の項目に載っていない、つまり編者の菅原道真も地震の記事ととらえていなかったというのです。これが未知の南海地震と断定できるわけではない裏付けとされています。このように、白鳳南海地震から仁和南海地震まで203年の間隔がありますが、その中間時期の延暦13(794)年に南海地震が発生したかどうか、現在の研究では可能性が高いとはいえないという状況となっています。ただし、『類聚国史』を見てもわかるように延暦年間に地震が頻発している。これは京都中心の記述になりますから、畿内中心に西日本において地震活動が活発化していたといえるのです。それらの地震史料をもっと詳細に、一つ一つ検証する必要もあるのではないかと思ってしまいます。

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古代の南海地震 仁和南海地震

2015年08月28日 | 災害の歴史・伝承

先に天武天皇13(684)年の白鳳南海地震について紹介したが、そのあとの南海地震は白鳳南海地震から203年後。仁和3(887)年7月30日に発生している。仁和南海地震と呼ばれ、その原典となる記録は『日本三代実録』巻第五十である(『新訂増補国史大系 日本三代実録後篇』、吉川弘文館、昭和27年発行、637頁)。

「卅日辛丑。申時地大震動。経歴数尅。震猶不止。天皇出仁寿殿。御紫宸殿南庭。命大蔵省。立七丈幄二。為御在所。諸司倉屋及東西京廬舎。往往顛覆。圧殺者衆。或有失神頓死者。亥時亦震三度。五畿内七道諸国同日大震。官舎多損。海潮漲陸。溺死者不可勝計。其中摂津国尤甚。」

7月30日の申時(午後4時頃)に発生し、「数尅」(数時間)、揺れが止むことがなかった。つまり直後の余震、誘発地震が多く発生していたことがわかる。そして京都において、天皇は仁寿殿を出て、紫宸殿の南庭に「幄」(テントのような仮小屋)を建てて御在所とした。平安京では諸役所、庶民の家々が数多く倒壊し、圧死する者も出たり、失神して亡くなる者もいた。発生して約6時間後の亥時(午後10時頃)に三回の地震があった。この日は京都だけではなく、五畿七道諸国つまり日本列島の広い範囲で大きな地震を感じた。地方の役所の建物も被害が多く、そして「海潮」が陸上に漲(みなぎ)った。これは大きな津波が襲来したことを示している。溺死した者は数えることができないほどであった。その中でも摂津国の被害が甚大であった。

以上が『日本三代実録』からわかることである。列島の広い範囲で揺れを感じ、京都では大きな揺れによる被害があり、津波で多くの死者が出て、特に摂津国(大阪府北部から兵庫県南東部)での被害は甚大だったというのである。広い範囲で揺れていることと、津波が大阪湾にまで来ていることから、震源は紀伊半島沖、四国沖と推定され、この地震が仁和南海地震と呼ばれているのである。

この地震に関する愛媛県はじめ四国に関する文献史料(一次史料)は確認されていない。『愛媛県編年史』第一を確認しても仁和3(887)年の伊予国関連の史料は載っていない。しかし五畿七道諸国でも被害があったとされ、伊予国でも被害を生じるほどの揺れを感じた可能性は高い。また、大阪湾に津波が襲来していることから四国の太平洋沿岸だけではなく、瀬戸内海沿岸部にも津波が到達したことも考えられる。

この仁和南海地震が最近注目されているのは、地震発生の仁和3年の18年前、貞観11(869)年5月26日に「陸奧國地大震動」(『日本三代実録』)つまり陸奥国沖で発生した大地震との関連である。この貞観地震は2011年3月11日の東日本大震災が「千年に一度の大地震」といわれているが、その千年前の地震にあたる。東北地方での貞観地震が発生した18年後に西日本において仁和地震が発生している。貞観地震が仁和地震を誘発したと短絡的に断定できるわけではないが、平安時代、9世紀後半に東北地方、そして西日本で大きな地震による被害の記録が残っているのは事実である。

もう一つ、注目すべきは白鳳地震から仁和地震まで203年の間隔が空いていることである。江戸時代以降の宝永、安政、昭和南海地震は100~150年周期で発生しているが、白鳳と仁和では200年と間隔が広い。この間に未知の南海地震があった可能性も否定はできない。これは諸説あるので、別に紹介してみたい。


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古代の南海地震  白鳳南海地震

2015年08月26日 | 災害の歴史・伝承
「庚戌。土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。」(出典『新訂増補国史大系〔普及版〕 日本書紀 後篇』(吉川弘文館、昭和46年発行)374頁)

古代の南海地震。天武天皇13(684)年11月3日条である。

土佐国司が白鳳南海地震の津波の被害状況を報告している。地震発生から18日後のことである。

大潮が高くあがって、海水がただよった。これによって調(みつき)を運ぶ船が多く放たれて失せてしまった。

朝廷に納めるべき租税のうちの「調」が、船が津波被害を受けて、納めることができなくなったというのである。

日本書紀の天武天皇13年頃になると、史料の信憑性も増してくる。この条文は国司からの報告であり、当時の国郡里制が定着していた時期であり、創作とは思われない。実際の南海地震の被害として扱っていいと判断できる史料である。

土左国つまり現在の高知県において、地震による海水侵入によって、都に運ぶべき「調」の船が失われてしまった。そういった被害があったというのである。

それを朝廷に報告するまでに18日間の時間がかかっている。

白鳳南海地震の被害記録として確実な史料として、扱うべきであり、ここに紹介してみた。

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久万高原町の牛鬼淵

2015年08月25日 | 口頭伝承
美川村教育委員会編『美川の民話と伝説』(平成7年8月発行、154頁)に、牛鬼淵に関する伝説が紹介されている。美川村は合併して現在は久万高原町となっている。久万高原町には旧面河村にも牛鬼淵伝説があるが、ここでは旧美川村の事例を記しておく。

そもそも牛鬼淵伝説は、宇和島市の高光地区、西予市の旧城川町、大洲市の旧河辺村などに類似する話が伝えられており、その点は以前『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第4号掲載の拙稿「牛鬼論」にて紹介したことがある。愛媛県山間部に広く見られるもので、その伝説地は神社祭礼の練り物である「牛鬼」の分布と重なる部分もあるが、牛鬼淵伝説の方が山間部に広く分布しており、しかも祭礼の牛鬼の起源伝承と牛鬼淵伝説が直接関わっている事例は確認できず、同じ「牛鬼」でも祭礼の練り物牛鬼と、淵の伝説、伝承の関係性はシンプルに解説できるものではない。拙稿の「牛鬼論」で紹介できなかった牛鬼淵伝説の事例をもう少し集積して、その上で祭礼の牛鬼との関係を考えてみたいと思っているところである。

美川村の牛鬼淵伝説は、以下のとおりである。

「大川木地の奥に牛鬼淵(うしおにぶち)という淵があり、牛鬼様をまつってある。むかし、豊久(ほうきゅう)の或る家のはずれに牛を埋めたところ、その牛が真夜中に泣きながら淵まで通ったという。」

「堂山の奥御殿の牛鬼淵という淵がある。むかし、お庄屋さんの牛が死んだとき、お庄屋さんが牛の鼻木を抜かずに埋めたので、丑三ツ刻に毎夜、村の中を鳴いて通るようになった。そこで、お庄屋さんはこれはうちの牛だと分かり、淵に行って、牛鬼さんとしてまつったところ、牛は出なくなったという。(豊久)」

この2つの事例とも、美川村大川の豊久での話である。いまだ現地の「牛鬼様」うかがったことはないが、大川には何度もお邪魔した事がある。ここ数年、足を運んでいないが、この『美川の民話と伝説』を読みながら、久しぶりに行ってみたくなった。











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ブログアクセス数

2015年08月24日 | 日々雑記
現在、このブログ、1200000PVを越えています。これホンマかいな?という数字ではあります。このブログの前のホームページ時代とあわせると約130万PVになります。愛媛県の人口が138万人ですから、それに達してみれば、少しはブログの発信の意味もあったことになるのかな、ということも考えるようになりました。備忘録として使っているブログですが、最近は筆も進まず、講座などのイベント情報発信が中心になっているものの、ほそぼそと続けようかなという気になってきました。ちょっと前までは、このブログをいかにフェードアウトさせるか、と考えていたのですが、いまは消さない方向で考えています。でもすぐ心変わりするかもしれません。ちょっと隠遁したい気もするので、振り子のように揺れています。いまは継続の気持ちモード。いつまで続くやら。

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「なゐ」 地震の古語・方言

2015年08月23日 | 災害の歴史・伝承
 現在では「地震」という漢字は「じしん」と読むのが一般的ですが、さて、古語ではどうだったのでしょうか。1100年代成立の国語辞典『色葉字類抄』に「地震 陰陽部災異部 ヂシン」とあるので、少なくとも平安時代末期には「じしん」と呼ばれていたようです(『日本国語大辞典』第九巻、小学館、1974年、533頁)。ただし、鎌倉時代、1270年頃に成立した辞書『名語記』巻四には「地動をなゐとなづけたり、心如何、答、なゐは地震とかけり、にはわりの反、庭破の義なり」とあります。つまり、平安時代末期以降、「地震」という漢字がすべて「じしん」と読まれていたわけではなく、「なゐ」が地震の古語であったことがわかります。「には」「わり」が転訛して「なゐ」になったと解説しています。「庭」つまり大地が「破」れることが「なゐ(地震)」だという語源説も提示されています。この鎌倉時代の「なゐ」という言葉ですが、使われている時代はかなり古くまで遡ります。たとえば『日本書紀』推古天皇7年4月(岩崎本訓)「則ち四方に令ちて地震(ナヰ)の神を祭ら俾む」とあります。この『日本書紀』の成立は奈良時代、720年であり、漢文体ですが、岩崎本は平安時代中期、900~1000年代に筆写されたもので、漢文体に和訓が記されており、平安時代の訓を知るのに貴重な史料といえます。現在、京都国立博物館に所蔵され、国宝に指定されています。平安時代中期には「地震」を「なゐ」と読んでいたことは確かであり、『栄花物語』花山たづぬる中納言に「今年いかなるにか、大風吹き、なゐなどさへふりていとけうとましき事のみあれば」とあり、やはり「なゐ」が出てきます。この『栄花物語』の「なゐ」に対応する動詞は「ふり(ふる)」となっています。「降る」なのか「震る」なのか考えると、やはり「震る」と考えるのが適当だと思います。同様の用例は先に挙げた『日本書紀』推古天皇7年4月(岩崎本訓)に「地動(ナヰフリ)て舎屋悉に破れぬ」とあります。これらは平安時代中期から後期の訓であり、『日本書紀』成立当時の訓だったどうか検討の余地はありますが、「地震」の訓に「なゐ」以外の例が多く見られるわけではなく、「なゐ」が古くからの訓であったと推測できます。実際に『日本書紀』武烈即位前「臣の子の八符(やふ)の柴垣 下とよみ 那為が揺り来ば 破れむ柴垣」とあります。これは『書紀』の本文であり、先に挙げた岩崎本の訓のように後世に付せられた読み方ではありません。ここに「那為(なゐ)」とあり、つまり奈良時代初期以前には使われていた言葉だったことがわかります。ただしこの文では「那為(なゐ)」が「揺り」とあり、先ほどの「震(ふ)る」と同様に動詞が付いてきます。「なゐ」プラス「震る」「揺る」となると、「なゐ」そのものが地震を表す言葉ではあるのですが、原初的には地盤、大地といった意味の古語だと考える説もあります。「地」の古語が「な」であり、それに「ゐ(居)」が加わったという説です。これは『日本国語大辞典』第十五巻、129頁に紹介されています。地盤、大地を表す言葉が転じて、大地が震動すること、つまり地震の意味にもなったというのです。
 さて「なゐ」は奈良時代初期以前からの地震を表す古語でありますが、日本各地の方言でも「なゐ(い)」は残っています。同じく『日本国語大辞典』第十五巻、129頁にはその方言が伝えられている場所が列挙されています。「ない」の方言は、仙台、常陸鹿島、上総・安房、甲斐、山梨県北巨摩郡、富山県射水郡、島根県鹿足郡蔵木、広島県高田郡、山口県柳井、徳島県祖谷、愛媛県上浮穴久万、土佐幡多郡、熊本県、宮崎県西臼杵郡椎葉、鹿児島県喜界島、沖縄県宮古島が挙げられており、「ない」が訛った方言「なえ」は、盛岡、仙台、秋田県、京都、山口県、肥後菊池郡、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、種子島が挙げられています。また「なや」は広島県御調郡重井、高知県、熊本県宇土郡、大分県東国東郡、そして「ねえ」が沖縄県に見られると紹介されています。以上、地震を意味する方言「ない」、「なえ」、「なや」、「ねえ」の分布を見てみると、東北地方や中四国、九州には多く見られますが、関東地方、東海地方、近畿地方に極端に少ない傾向が見られます。京都に「なえ」の事例があるのが例外ではありますが、大まかな傾向として、日本列島の中央部には少なく、東北地方や中四国、九州に多いという、方言周圏論があてはまりそうな事例だといえます。「ない」が奈良時代以前からの古語であるため、その分布傾向に周圏性が見られるのも不思議ではないと思います。
 このように、地震の古語「なゐ」について調べてみると、現代の方言の地域差も見えてきて興味深いのですが、地震の歴史を追求する場合には「地震」という漢字と「なゐ」という訓があることや、「なゐ」についてもそれが地震を表しているのか、それとも単に地盤、大地を指しているのか、意味の取り方によって解釈が変わってくる可能性があります。歴史地震を調べるために古い史料を読み込む際には、誤った解釈をしないよう、念入りな検証が必要になってくると強く感じさせられます。

 

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古代の南海地震と伊予国 白鳳南海地震

2015年08月22日 | 災害の歴史・伝承
『日本書紀』天武天皇13(684)年10月壬辰条

「壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。」(出典『新訂増補国史大系〔普及版〕 日本書紀 後篇』(吉川弘文館、昭和46年発行)373頁)


この日本書紀の記述は、南海地震に関する文字の記録としては最も古いものです。ここに壬辰、10月14日に、大きく地なゐ。要するに地震があった。国々の男女が叫び、よばいて云々。山が崩れて川はわいて、国々の郡の官舎、つまり役所です。役所とか「おおみたからのくら」、要するに一般庶民の家とか寺とか神社が破損していると。これによって、人々や動物たちが損傷している。そしてこの日本で最古の南海地震の史料にて、実は、最初に出てくる地名は伊予国なのです。「伊予温泉」と書かれている。これ伊予の湯泉、埋もれて出ずとあります。つまり今の松山市の道後温泉なのです。道後温泉が潰れて出なくなった。お湯が出なくなったとあります。実は道後温泉は、歴代の南海地震が起きるたびに必ずと湯の涌出に支障がでています。ただその後に必ず復旧はするのです。一ヶ月後に復旧する場合もあります。三ヶ月後の場合もあります。三年後の場合もあります。恐らく近い将来、南海トラフ地震が発生したときには、やはり道後の湯は止まる可能性は大きいと思います。そして『日本書紀』の記述では伊予の湯が埋もれて出でず、土佐の国の田畑が五〇万代埋もれて海となるとあります。五〇万代は計算すると、大体12平方キロメートルなのです。つまり一辺3キロメートル×4キロメートル程の地域に海水が侵食したのです。これは津波が襲来したのか、それとも地盤が沈下してそこに海潮が入ってきて、そのまま陸地に戻らなくなったのか判断はつきませんが、津波の被害だけではなく、歴代の南海地震での地盤の隆起や沈降の状況を考えると後者の可能性もあると思います。684年の白鳳南海地震の記録が以上のように記されています。また、この『日本書紀』には当時の古老の人曰く、「かくのごとく地が動くことは、今だかってあらず」とも言っているのですから、飛鳥、白鳳期においても被害は未曽有のものだったいうことです。






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明応7年6月11日の南海地震

2015年08月21日 | 災害の歴史・伝承
先月25日に、高知県立歴史民俗資料館でのシンポジウムに出席した帰り、JR高知駅の店で購入した本。

都司嘉宣氏『歴史地震の話ー語り継がれた南海地震ー』高知新聞社、2012年3月発行。

ようやく読了。

隣県の高知県の南海地震関係史料が多く引用されているため、愛媛県の歴史地震を考える上でも重要な著作といえます。

この中に、明応7(1498)年に発生したとされる地震に関する考察が掲載されていて、非常に参考になりました。明応7年の地震といえば8月25日に発生した東海地震が知られており、これは多くの史料が残っています。

西日本の明応地震については、愛媛県新居浜市の黒島神社文書にその記載があるとされ、『新収・日本地震史料補遺編』に掲載されています。しかし、この年の西日本での地震史料は類例が少なく、それがどのような性格の地震だったのか、いまいち理解できていませんでした。8月25日の東海地震が愛媛県まで影響があったと考えるのも唐突であり、黒島神社文書の記述をどう扱えばいいのか、頭を悩ませていました。

都司氏の著作では「幻の『明応地震』を追う」という項目をたてて、解説されています。

紹介された史料は、軍記物の記事ではありますが、九州柳河藩の藩政史料のなかにある「地震の条書抜他諸帖筆写」に『九州軍記』巻二が引用され、明応7年6月11日に九州に大きな地震があって、山が崩れ、泥が湧き出て、寺社の鳥居は転倒し、民家の被害もあったと記されています。これが明応7年の一次史料ではないため、その信憑性について史料批判が必要ですが、注目すべきは6月11日という日付です。

都司氏の著作では、中国の史料に同日に津波と思われる記述があることが紹介されていました。これは宇津徳治氏「日本の地震に関連する中国の史料」(『地震』第2輯、1988年)ではじめて指摘されたことのようですが、都司氏の著作44頁によると、『中国地震歴史資料彙編』に引用された「嘉定県志」(※嘉定は現在の上海市内)に6月11日、「邑中川渠池沼以及井泉、悉皆震蕩、涌高数丈、良久乃定」との記録があり、中国沿岸で水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られたことがわかる。これと同じようなの現象は安政南海地震でも観測されているとのことです。

中国側の史料から、明応7年6月11日に明応南海地震が発生したことを解説されており、これは参考になりました。愛媛の黒島神社文書の記述について、どのように解釈していくべきなのか、都司氏の著作は重要な参考文献として扱うべきであり、また紹介されていた宇津氏の論考も基礎論文として扱うべき事を理解した次第です。



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宝永南海地震の記録(松山藩堀江村)

2015年08月20日 | 災害の歴史・伝承
歴代の南海地震の中でも規模の大きかった宝永南海地震。

『愛媛県史近世編下』に紹介されている江戸時代、宝永南海地震の記録。「元禄・宝永年代堀江村記録」という史料が『松山市史料集』第五巻に所収されていて、そこに宝永4(1707)年の地震や、漁民による津波の見聞記録などが記されている。既によく知られた史料ではあるが、地震の様子が詳細にわかることから、いま一度紹介しておこうと思う。

まずは、地震発生から、余震の状況についてである。
1 宝永4年10月4日午後1時から3時頃に大地震が発生した。
2 発生当日の10月4日から7日までは、1日に7、8回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごした。
3 発生3日後の10月7日から14日までは、1日に3、4回の余震が続いた。
4 そのあとの余震は、翌年宝永5年正月(地震発生から約2ヶ月後)まで、2、3日に一度は発生した。
これを見ると、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになる。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村で感じた揺れであり、当然、愛媛県(伊予国)全体でも同様の状況であったと推察できる。

次に、堀江村周辺(現在の松山市)の被害状況について。
1 安城寺村で瓦葺長屋の倒壊したが、それ以外は、村々に大きな被害はなかった。
2 10月4日の地震によって、道後温泉の湯が止まった。そのため松山藩主は領内の7つの寺社にて祈祷を行わせている。その7寺社とは、道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、藤原薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺観音、大三嶋明神(大山祇神社)である。

次に津波の状況である。ただし、これは堀江村を襲来した津波ではない。堀江村から出漁していた漁民が経験し、伝聞した情報である。
1 宝永4年10月の地震の際、堀江村の漁民34人が豊後国佐伯領(現在の大分県佐伯市)のイワシ網の日傭稼ぎに出稼中であった。
2 地震の発生した4日には佐伯湾外で操業していたが、地震直後に佐伯湾沿岸部を襲った津波で、佐伯の家々が沖に流され、数多くの死者が出た。
3 そして堀江村の漁民は地震発生の10日後の10月14日に、命からがら逃げ帰った。

以上、この「元禄・宝永年代堀江村記録」は、宝永南海地震当日の様子のみならず、余震の状況、道後温泉の湯の湧出が止まったこと、豊後水道特に佐伯地方での津波被害を伝えてくれる貴重な地震史料といえる。

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清絢さん講演 次世代に伝えたい南予の豊かな食文化

2015年08月19日 | 日々雑記



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拙著『触穢の成立』の書評

2015年08月19日 | 日々雑記
『解放研究』199号に掲載されていた拙著『触穢の成立』(創風社出版)の書評。水本正人氏執筆。これがPDFで公開されていたことに気づきました。ありがたいことです。拙著を読んだ方から「何を書いとるのかわからん。もっと読者目線で書いて欲しかった。」という声が少なくないので、このPDF公開は助かります。これをサマリーとして事前に読まれてから、拙著を一読いただければ、と思います。それでもわからん?

http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0199-12_mizumoto.pdf

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四国山間部の「茶堂」の地域差と変容

2015年08月18日 | 信仰・宗教
1.愛媛県西予市山間部の「茶堂」
四国山間部の愛媛県西予市城川町には各地に「茶堂」が残されている。旧街道の辻々に立 っており、約60ヶ所現存し、「茶堂」を機軸とした「文化的景観」を保全している。「茶堂」 は一間四方の方形で屋根は茅ぶきまたは、瓦ぶきの宝形造、柱は径30cmほど角柱である。 三方を吹き抜けとし、正面奥の一面のみが板張りで、そこに棚を設けて石仏等を祀る。床は 厚さ5センチほどの板張りで地面から約45cmの高さにある。祀られる石仏は弘法大師、地 蔵、庚申像など様々である。「茶堂」はかつて「おこもり」の場であり、地区中の者が集まっ て酒宴をする懇親の場、情報交換の場であり一種のコミュニティセンターとして機能してい た。そして現在でも通行人への接待や虫送りなど様々な年中行事が「茶堂」を舞台として行 われている。なお、合併前の旧城川町時代より「永く後世に重要な民俗文化財を保存継承す ることを目的」として「茶堂整備事業補助金交付規程」が制定され、毎年2ヶ所の「茶堂」 の保存修理が行われている。

2.「茶堂」の呼称
「茶堂」では地区の人々が毎年旧暦7月1日から末の31日まで毎日各戸輪番に出て午前 9時ごろから夕刻までお茶を沸かし通行人に接待をしていた所が多い。これが「茶堂」の呼 び名の由縁ともなっている。ただし「茶堂」の名称が一般化したのは昭和50年代以降で、 それまでは単に「辻堂」・「お堂」と呼ばれた。この「茶堂」名称の固定化は、国の民俗文化 財(「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」)に選択され、市内外から注目されて 以降のことである。なお、徳島県、香川県山間部には「四つ足堂」等と呼ばれる三方吹き抜 けの構造の辻堂が見られるが、実際に「茶堂」、「四つ足堂」の呼称は少なく、「氏堂」、「辻堂」、 単に「お堂」や祀っている仏名で「観音堂」等と呼ばれている。そして、「茶堂」は一般的に 四国遍路の「接待」と絡められて語られることが多いが、城川町は遍路道からは遠く離れた 地域であり、城川町の「茶堂」イコール四国遍路道文化と直接とらえることはできない。そ の「茶堂」の発生と遍路文化、歴史の関係性については充分に解明されていない。

3.「茶堂」と接待
茶堂における「接待」については、西予市城川町高野子の杖野々茶堂では昭和12年頃ま では「茶当番」といって旧暦7月中、通行人に対して湯茶、大豆の煮物、梅干、らっきょう等を接待していた。遊子谷泉谷の四ツ庵茶堂でも戦前に旧暦7月中の一ヶ月間、全戸当番制 で自家製の茶、炒り豆を常に置き、接待していた。魚成の蔭之地茶堂では8月(旧暦7月) 1から16日まで当番制で茶、漬物(梅干、らっきょう)、炒り豆、米などを接待した。茶の 種類は窪野の程野茶堂では自家製の番茶であった。参考までに四国遍路関係の接待で施され るものは文政4(1821)年、十返舎一九『金草鞋』によると茶飯、芋豆の強飯、結飯、 白米、味噌、餅、髪月代、煮染、梅干、豆腐汁、半紙、おはぎ、草鞋、風呂、荒布などが施 されている。文政6(1823)年の吉田瑤泉『四国紀行』に「釜ニ茶ヲ煮テ旅人ヲ招キテ 炒麦粉一盆ヲ与ヘテ茶ヲ出ス此ソ四国遍路中摂待トテ所々ニアル事ナル由」とあるように 様々である。なお、『節用集』の「接待(セッタイ)」の項に新城常三著では「煎茶施人」と 記されているが、陽明文庫本(室町中期写)を確認すると「茶ヲ施旅人」とあり、また江戸 時代初期成立の『日葡辞書』に「Xettaiuo」とあり巡礼や貧者のために茶を出し、暖かくもて なすことあるように茶を施すことが基本とされている。実際に室町中期成立の『三十二番職 人歌合』(『群書類従』第28輯)の「巡礼」に「同行のめく(巡)る御てらのそのかす(数) に三十三の茶かはりもかな」とあり、西国巡礼において茶の接待が行われている。ちなみに、 茶を接待したか否かは判断できないが、新城著によると寺院等における「接待所」の記述は、 永仁4(1296)年、遠江国菊河宿(『平田家文書』)が最古とされ、南北朝期にかけて北 は陸奥国から南は土佐国にいたるまで17箇所が紹介されている。このように「接待」は「茶」 を中心としてとらえる必要があるが、四国遍路関係での茶供養の最古の事例は高知県土佐清 水市下ノ加江の貞享5(1688)年7月21日建立供養塔で「諸邊路茶供養」とあり、喜 代吉榮徳氏、小松勝記氏により報告されている。四国八十八ヶ所霊場においても江戸時代中 期に境内周辺に「茶堂」が建てられており、寛政12(1800)年の『四国遍礼名所図会』 には第58番仙遊寺、第59番国分寺(ともに愛媛県今治市)に茶堂とその中の茶釜も描か れている。また第50番札所繁多寺(松山市)については「繁多寺茶堂」と染付された近世 砥部焼の茶碗も石岡ひとみ氏によって確認されている。18世紀に四国遍路の隆盛とともに 茶の接待も盛んとなり、その影響もあって霊場(札所)や遍路道から遠い西予市山間部では 往来者も多い街道沿いにて茶の接待が定着した可能性がある。

4.論点と課題
ここでは愛媛県西予市山間部における「茶堂」の概要を紹介したが、今後、愛媛県 や四国のみならず中国地方、九州地方における類似する辻堂を比較し、三方吹き抜け構造の 辻堂の分布、地域差を紹介すると同時に、そこで行われる「茶」接待の事例を通して四国遍 路文化との関係、および中世以降の盆供養といった先祖供養展開史も絡めて検討し、「茶」を 用いた儀礼の様相を考察する必要がある。

【参考文献】
新城常三(1982)『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房 文化庁文化財保護部(1989)『民俗資料選集 16 茶堂の習俗』国土地理協会 喜代吉榮徳(1997)「遍路と茶の話―茶堂の発生について―」『四国辺路研究』第 12 号 愛媛県生涯学習センター(2005)『平成14年度遍路文化の学術整理報告書 遍路のこころ』 愛媛県美術館 長井健・石岡ひとみ編(2014)『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』四国へんろ
展愛媛編実行委員会

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弘法大師空海への畏怖

2015年08月17日 | 信仰・宗教
いまだ空海について理解することができない(当たり前か!)。深くて、そして広いのだ。「理論」と「実践」の両面を備えており、特に密教の実践に関する著作は、私のような凡夫にはとても理解できるものではない。しかも宗教者としての著作以外に、『文鏡秘府論』といった漢詩評論の書があり、『性霊集』も宗教的視点だけで読み込めるものではない。『性霊集』は漢詩文集でもあるが、「漢詩」にとらわれることなく、書かれた内容から、当時の時代状況、生活、慣習をもうかがい知ることのできる一次史料ともいえる(といっても歴史学者は充分にこの史料を活かしてきただろうか)。このような宗教以外の著作が充実した宗祖は他にいるのだろうか。それだけではなく、満濃池の修池事業(土木)や、綜藝種智院の設立(教育)、三筆(書家)などなど、空海は各種分野で活躍し、総合性を備えた人物である。その著作からは、「総合」を「分類」しえない一種の「畏怖」を感じる。これがために、近代科学の合理性を追求したり、「分類」をすることで安堵を得る科学者(人文科学)にとって、空海は厄介な存在であり、理解できない、分類できない。そして畏怖の存在となり、ゆえに研究対象から排除されがちであったのかもしれない。空海の総合性を克服するには、セクション主義の近代科学の克服が必要であり、いってみれば、21世紀の科学が、科学足り得るための一つの指標は、空海を理解することなのかもしれない。ふとそう思った。自分にはまず無理なのだけれども。

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九州の火山噴火と四国での降灰

2015年08月16日 | 地域史
過去の桜島の噴火と愛媛。

今から101年前、大正3年(1914)1月12日に桜島が大噴火。

翌朝には愛媛県でも降灰あり。「霧が立ち込めて市内は暗たんとして暗し」

しかも、宇和島沖の日振島に「海嘯」(津波のこと。桜島噴火直後の地震によるものか、溶岩流の海面到達によるものか。)があったと当時の新聞に書かれている。

なお、八幡浜市保内町内に降り積もった火山灰が、現在、八幡浜市教委にて保管されている。

参考文献 『保内町誌』58頁




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