愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

仏像を盗むこと

2001年05月24日 | 八幡浜民俗誌
仏像を盗むこと

 西宇和郡三瓶町鴫山で、地元の庵の仏像がかつて九州の者に盗まれたのだと聞かされた。この事例については明治時代後期に記された『双岩村誌』に詳しく、次のような記述がある。「何でもむかし鴫山の庵の御本尊様は一寸八分の阿弥陀如来で、そうして金むくの仏像におはしたが、或る年のことに豊後ノ国からわざわざ之れを盗みに来て、そうして穴井から将にその船を出そうとしたのである。ところが御本尊様は豊後の者に盗まれて行かるるのを欲せられない。此の為めに七日七夜の間盗人の虫をせかせて、鴫山から取り返しに来るのを待って居られたそうであるが、然るにその当時の鴫山人は余程不信心であつたと見えて誰れも取り返しに行かなかった、それでとうとう仕方なく阿弥陀如来は豊後ノ国に渡られ五百羅漢で名高い或る寺院の七扉奥くに安置されておはしますとうふことである。」 これと同様の話は実は宇和海沿岸各地で聞くことのできるものである。
 同様の伝承は東宇和郡明浜町高山にもある。対岸の村の者がやってきて、石鎚信仰のご神体を盗んでいったというのである。また、藤田圭子著『段々畑水荷浦-耕して天に至る-』(私家版)に宇和島市遊子水荷浦の西福寺薬師堂の本尊薬師如来にまつわる伝承が掲載されている。この薬師如来は、行基菩薩の作と言われ、かつては満野氏の守本尊であったという。満野氏は戦乱を避けて水荷浦中浦に居住したが、嗣子がなく、薬師如来は西海寺に安置された。ある時、九州から賊船が来て、この薬師如来を盗み取り、船を漕ぎだして数十里逃げ去ったと思ったが、夜が明けてみると不思議なことに水荷浦の沖に漂っていた。そこで賊は如来の威徳を感じて海岸の上に捨て、逃げ去ったという。
 以上の事例は、単に仏像を骨董品として窃盗したというより、儀礼的な「盗み」の事例ではないかと思われる。というのも、かつて様々な民俗行事の中で「盗み」慣行が存在した。例えば、エビス盗みといって、村で不漁が続いたときに他村のエビス神などを、豊漁になるからといってこっそり盗んでくるという習俗があった。宇和海沿岸でも、エビス神は盗まれるといけないからといって、コンクリート製の祠で頑丈に鍵をかけたりしているところもあり、この慣行が存在したことが確認できる。
 先に挙げた仏像盗みの三事例に共通するのは、対岸の地区の者が盗みにやってきたということである。しかも船を用いて盗んでいることからも、漁民による盗みと見ることができ、エビス盗みの慣行の延長線上にあるものとも理解できる。
 盗人が九州(豊後)からやってくるのも興味深く、ご神体盗みは、同一の漁業圏域内で行われることが多いので、仏像盗みがこの延長線上にあるとすると、これは愛媛県南予地方と大分県の豊後水道を挟んだ文化交流の一事例とも言えるのである。

2001/05/24 南海日日新聞掲載

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疱瘡の民俗

2001年05月17日 | 八幡浜民俗誌
疱瘡の民俗

 疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことで、感染性が強く、人々に最も恐れられてきた疫病である。幕末から明治時代にかけて宇和島藩領内では種痘が広く普及し、次第に天然痘の発生が少なくなり、現在では撲滅されたとされているが、疱瘡に対する人々の恐怖心は消滅わけではなく、八幡浜各地の民俗にその痕跡を垣間見ることができる。
 例えば、中津川のダイミョウジ山に疱瘡神が祀られた祠がある。かつて疱瘡が流行して、それを鎮めるために祀られたといわれるものである。ご神体は現在は田中山大元神社に合祀されているが、かつて、神社の脇にある小山に普段は祀られていた。そして春祭りになると、神社総代と地区の子供(家の長男)が、疱瘡神のご神体を移した神輿を担いで、ダイミョウジ山の祠に持っていって供物を奉納したという。これは戦後間もなくまで行われていた。
 この行事は、疱瘡自体を、疫病をもたらす神に見立てて、毎年、村内から村境の山へ神送りの形式で送り出すという儀礼といえる。恐ろしい疱瘡を神として祀り上げることによって、鎮めようとする心意が働いたもので、これは、祟りをなす者を神に祀り上げることにも共通する事例である。
 そもそも、八幡浜地方にて疱瘡(天然痘)が発生・流行したのは、『八幡浜市誌』に引用されている「二宮庄屋記」によると、安永二(一七七三)年に「疱瘡、麻疹流行に付、死者夥(おびただし)く有之」、また、弘化二(一八四五)年に「正月より十二月迄、疱疹流行、真網代に死者四十三人」とあり、二回の流行が確認されている。また、『大成郡録』によると、宝暦年間(一七五〇年頃)に八幡浜浦(現八幡浜市中心部)で祀られていた神に「疱瘡神」が含まれており、これ以前にも八幡浜において疱瘡の流行があったと思われる。
 なお、現在でも疱瘡神を祀っている神社が谷にある。谷の氏神である宮鷺神社である。創立年代は不詳だが、明治四十二(一九〇九)年に一宮神社と青鷺神社が合祀されたもので、この青鷺神社が疱瘡神として祀り上げられたものである。疱瘡などの流行病に効験があるとされ、『双岩村誌』にも「大峠(谷)に有名なる疱瘡の神、青鷺神社の鎮座し、疱瘡の神として崇敬が厚い」とある。
 疱瘡が流行した際に、それを鎮めるために人々は祀り上げて病を神へと転換させているが、一度祀り上げられると、それが逆に病除けの効験を持つという人々に福をもたらす神になっているのが興味深い。このような神の生成過程は、医療の未発達な時代に、人々が恐ろしきものから自らの生活を防御するための方策であり、民俗の知恵であったといえるのでないだろうか。

2001/05/17 南海日日新聞掲載


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忘れられた遍路道

2001年05月17日 | 信仰・宗教

 つい先日、東宇和郡宇和町岩木にある臨済宗安養寺を訪れた。この寺には臨済宗では珍しく、境内に弘法大師を祀った大師堂がある。ご住職の好意により中を拝見させていただいたのだが、通常の札所と同じく、堂内にお遍路さんの納め札が多数貼られていた事に驚かされた。この寺は四国霊場四十三番札所明石寺のある宇和町内にあるにもかかわらず、遍路道とは遠くかけ離れた所に位置している。現在、この寺は遍路と無縁であるが、実はこの場所はかつて宇和町と八幡浜市とを結ぶ街道であった笠置峠の麓にあり、戦前には、九州方面から来ているお遍路さんが、明石寺で札打ちを終えた後に立ち寄る場所だったというのである。
 現在一般化されている札所と札所を結ぶ遍路道以外にも、かつてお遍路さんが通る道があることに気付かされたのだが、私はこれを「忘れられた遍路道」と名付けてみたい。 「忘れられた遍路道」は八幡浜市にもある。八幡浜から大洲に抜ける夜昼峠の麓に位置する川之内に安政四(一八五七)年建立の遍路道標が残っていることに象徴されるが、九州からのお遍路さんは、八幡浜に上陸し、大洲を通って札打ちを始めていたのである。 石井豫が明治八年に記した八幡浜の住民を列挙した記録によると、当時の港近くの船場通りに「三国屋へんろ宿」、「豊後屋へんろ宿」の二軒の遍路宿が存在していた。また、高群逸枝著『お遍路』(中公文庫)によると、八幡浜では九州から上陸した人のために、遍路衣装や用具一式が揃えて売られていたという。
 「忘れられた遍路道」は上陸地と通常の遍路道を結ぶものだけではない。東宇和郡野村町惣川には「へんどくえお堂」という堂庵がある。「へんどくえ」とは遍路供養のことであろうが、ここには、石造の地蔵菩薩立像が安置されている。この地蔵の台座に「菅生(久万町の四十四番札所大宝寺)迄八リ、右へんろ道」と刻まれている。地元で聞いたところでは、南予地方の山間部の人が四国遍路に旅立つ場合、この惣川から喜多郡河辺村北平を経て、上浮穴郡小田町を通る通常の遍路道に合流したというのである。
 これら南予地方山間部には、茶堂と呼ばれる弘法大師や地蔵を祀った茅葺き屋根の小堂が多く分布している。この茶堂では、かつて地区の人達により弘法大師の命日にあたる三月二十一日に、訪れるお遍路さんや旅人に対して茶、米やお金などの接待が行われていたいう話を各所で聞くことができる。札所の存在しない地域にも、遍路道は存在し、お接待という遍路文化も息づいていたのである。
 戦前には歩き遍路が主流であったが、戦後、道路が整備され、自動車等の交通手段が一般化する中で、整備されていなかった峠越えのような歩き遍路道は次第に忘れられていった。ここで紹介したもの以外にも多数の「忘れられた遍路道」が四国各所にあるに違いない。最近、四国遍路道文化を世界遺産に登録しようという運動が盛んになっている。これを機会に、現在一般化している遍路道のみならず、かつて遍路が行き来した「忘れられた遍路道」を調査・把握することができれば、遍路道文化を、札所同士を結ぶ道の「線」文化ではなく、四国全体という「面」文化としてとらえることが可能となるのではないだろうか。

*本文は『えひめ雑誌』2001年4月10日号所収の原稿を転載したものである。

2001年05月17日

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仏像盗み

2001年05月17日 | 信仰・宗教
宇和島市の高校生藤田さんから自著『段々畑水荷浦-耕して天に至る-』という小冊子を送っていただいた。藤田さんは地歴部の部員で、私が同じく高校時代に地歴部に所属していた際、顧問として歴史・民俗に関してご指導いただいた赤松環先生に教わっている生徒さんである。彼女は歴史とくに江戸時代の庶民生活に興味を持ち、これまでも何冊もの冊子を刊行している今時珍しい高校生。これまでは杉浦日向子的なジャンルに傾倒していたようだが、最近、段々畑などの地元の伝承文化にも目を向けるようになってきたようだ。今回、送られてきた冊子を一通り読んでみたが、私にとって非常に興味深い事例が報告されていたので、ここで紹介してみたい。それは「仏像盗み」についてである。
この冊子の本編は宇和島市遊子水荷浦における段々畑の歴史や、段畑におけるイモの農耕暦が紹介されているが、付編で水荷浦の西福寺薬師堂の本尊薬師如来にまつわる伝承が掲載されている。
この薬師如来は、行基菩薩の作と言われ、かつては満野氏の守本尊であったという。満野氏は戦乱を避けて水荷浦中浦に居住したが、嗣子がなく、薬師如来は西海寺に安置された。ある時、九州から賊船が来て、この薬師如来を盗み取り、船を漕ぎだして数十里逃げ去ったと思ったが、夜が明けてみると不思議なことに水荷浦の沖に漂っていた。そこで賊は如来の威徳を感じて海岸の上に捨て、逃げ去ったという。また、藤田さんの祖母によると薬師如来は九州豊後の佐伯から流れ着いたという話が残っているともいう。
このような、仏像盗みは、宇和海沿岸で各地に聞くことのできる伝承である。私が直接聞いた範囲でも、西宇和郡三瓶町鴫山、東宇和郡明浜町高山に同様の伝承がある。鴫山の事例については明治時代後期に記された『双岩村誌』に詳しく、次のような記述がある。「何でもむかし鴫山の庵の御本尊様は一寸八分の阿弥陀如来で、そうして金むくの仏像におはしたが、或る年のことに豊後ノ国からわざわざ之れを盗みに来て、そうして穴井(現八幡浜市)から将にその船を出そうとしたのである。ところが御本尊様は豊後の者に盗まれて行かるるのを欲せられない。此の為めに七日七夜の間盗人の虫をせかせて、鴫山から取り返しに来るのを待って居られたそうであるが、然るにその当時の鴫山人は余程不信心であつたと見えて誰れも取り返しに行かなかった、それでとうとう仕方なく阿弥陀如来は豊後ノ国に渡られ五百羅漢で名高い或る寺院の七扉奥くに安置されておはしますとうふことである。」
明浜町高山でも、対岸の村の者がやってきて、石鎚信仰のご神体を盗んでいったという伝承がある。
以上の三事例に共通するのは、対岸の者が盗みにやってきたということである。しかも船を用いて盗んでいることからも、漁民による盗みと見ることができる。漁民による盗み慣行については、ご神体盗みといって、村で不漁が続いたときに他村のエビス神などを、豊漁になるからといってこっそり盗んでくるという習俗がある。宇和海沿岸でも、エビス神は盗まれるといけないからといって、コンクリート製の祠で頑丈に鍵をかけたりしているところもあり、この慣行が存在したことが確認できる。
さて、先に挙げた仏像盗みがどのような意味を持つものか、私は判断をしかねている面がある。ご神体盗みの慣行の延長線上にあるものか、それとも別の論理構造を持つものなのか、いまだよくわからない。
鴫山、高山の事例は詳しく聞いていたが、藤田さんが紹介した水荷浦の例は、仏像盗みの事例を蓄積する上で大いに役に立ちそうである。
盗人が九州(豊後)からやってくるのも興味深く、ご神体盗みは、同一の漁業圏域内で行われることが多いので、仏像盗みがこの延長線上にあるとすると、これまであまり注目されてこなかった豊後水道を挟んでの、愛媛県南予地方と大分県の文化交流の一事例として取り上げることができるのではないかという期待を私は持っている。
また、一高校生が、地元の伝承の発掘に取り組み、それを冊子にまとめることにも驚きを感じたが、その報告が新鮮でもあり、今後の研究課題を提示してくれていることもあって、若い世代であっても地元の伝承に興味を持ち、それが自らの郷土にアイデンティティを構築する手段として有用であり、それを実践している人が実際にいることを同時に「発見」した次第である。

2001年05月17日


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五月節供

2001年05月10日 | 八幡浜民俗誌
五月節供

 五月節供つまり五月五日(端午の節供)をめぐる年中行事といえば、一般的に鯉幟や武者人形を飾り、粽や柏餅を食べる習慣などがある。八幡浜ではかつては、五月節供になると、菖蒲で鉢巻きをしたり、菖蒲湯をわかして入浴したり、菖蒲酒を飲んだりしていた。これらはいずれも夏病みをしないまじないだとされていた。この菖蒲に関する習俗も全国的に見られ、蓬などとともに家の軒に挿すというところも多い。このような習俗はすでに平安時代に著された『讃岐典侍日記』や『蜻蛉日記』などの記録にも見えているが、もともと、五月五日を祝う端午節供は、中国において邪気を祓うために行われていた習俗が古代の貴族社会に受け入れられ、その後、全国に広まったものとされている。
 さて、明治時代後期に著された『双岩村誌』に、端午の節供について次のような記述がある。「五月五日、五月ごりやうえ又たは五月の節句と称し、菖蒲、蓬、萱等を軒端に挿み、菖蒲を酒に浸して呑み、始めて男児を挙げたる家にては初幟を建てて祝宴を催ほす」
 「五月ごりやうえ」とは「五月御霊会」のことで、御霊会といえば京都の八坂神社の祇園祭の原型となった行事で、激しい力で祟りをなすような御霊(怨霊)を鎮めることからはじまったものである。なお、五月節供を「ゴリョウ」と呼ぶのは全国的に見ても西日本の一部の地域のみで、愛媛県内では東宇和郡の山間部で聞くことができ、広島県や長崎県対馬でもこのように呼んでいる。
 また、八幡浜市大島や穴井では、五月節供には、男子の生まれた家では鯉幟を立て、床の間にシバダンゴを供える。このシバダンゴはサンキラの葉で包んだ団子のことである。そして菖蒲、蓬、萱を軒先に挿して、子供達がそれを持って「蚤の腰弱れ、親の腰強れ」と呼びながら畳を叩く。同じ様な事例は三崎町にもあり、かつては蓬と真萱を小束二本作り、「蚤の腰弱れ、旦那の腰強れ」と言いながら家中の畳を叩いてまわるということをやっていた。保内町でも同様に、男子は菖蒲の葉で鉢巻きをし、女子は髪にさしたりして「蚤の腰弱れ、旦那の腰強れ」と言って家中を叩いてまわった。この「蚤の腰」の文句は、邪悪な力を弱めて、人間の生命力を回復させようする意味が込められていると思われる。
 このように、五月節供は単なる子供の健康を願う祝いの行事ではなく、菖蒲が夏病み防止のまじないとなったり、「五月御霊会」の呼び方や「蚤の腰」の文句が象徴しているように、邪悪なもの(御霊)を祓い鎮め、人々が健康を回復させようと祈願する行事といえるのである。

2001/05/10 南海日日新聞掲載

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中津川の百矢祭2

2001年05月03日 | 八幡浜民俗誌
中津川の百矢祭2

 中津川の百矢祭の由来は、『八幡浜市誌』によると、五反田元城の家臣井上治部少輔が初めて庄屋になった永禄三(一五六〇)年ごろ、彼の生国大和国の風習から、武芸の奨励を目的として始めたものと紹介されている。中津川の大元神社は、正長元(一四二八)年に若山大元神社から勧請したもので、神社には社殿を造営した際の棟札が、宝徳三(一四五一)年から延宝六(一六七八)年までのものが四枚残っており、百矢祭が中世に始められたという伝承はあながち虚構ではないようである。八幡浜市内各所の祭りの起源は、古くても江戸時代にまでしか遡ることができず、戦国時代以前からの伝統を受け継ぐと考えられる祭りは、この中津川の百矢祭以外には見られないと思われ、この祭りは中世的要素を持つものとして貴重と言える。
 なお、愛媛県内の弓祭りは、①川之江市・宇摩郡新宮村、②越智郡、周桑郡、北条市、③南予地方の以上の三地域に集中的に分布しており、それ以外の地域では全く見られない。これらの弓祭りは室町時代から戦国時代にかけての中世に起源が遡るものが多く、やはり中世的な祭事といえる。ちなみに、県内最古の弓祭りに関する史料は、北条市夏目の池内文書の中にある明応九(一五〇〇)年「熊野谷権現社役之事」で、文中に「正月十日(中略)祝はふしゃの役也」とある。
 南予地方の事例としては、東宇和郡野村町長谷の天満神社の百矢行事がある。十三の的を作り、太郎組、次郎組とに分け、十三の的を射て、終わりの一矢でカワラケを付し、これを射落として終了するものであった、明治四十五年に以降中断しており、祭りの起源・由来に関しては不詳である。しかし、この神社の創建も中世に遡り、中世以来の祭りであったと推測できる。(『渓筋郷土誌』参考)
 さて、百矢祭のような歩射行事以外に、南予地方には各地に流鏑馬も存在していた。瀬戸町三机八幡神社、宇和町東多田八幡神社、明浜町大浦天満神社、野村町白髭三島神社の祭りに行われ、県内では南予にのみ伝承されていたものである。しかも宇和周辺に分布していることに気が付く。これらの淵源も中世に遡るといわれ、中世に宇和を治めていた西園寺氏が伝えて周囲に広まったものとも推察されている。
 南予地方の祭りを代表するものとしては、牛鬼や鹿踊、四ツ太鼓、山車、唐獅子、相撲練りなどが挙げられるが、これらはいずれも江戸時代に宇和島藩領内において流行し、定着した近世的要素の強いものである。今ではほとんどが廃れてしまった弓祭りは、伊達家入部以前の中世西園寺氏の治下において流行したものと思われ、現存唯一の弓祭りである中津川の百矢祭は、南予全般を見渡しても、古い型の祭りの残存と言えるのである。

2001/05/03 南海日日新聞掲載

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