愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

古代の南海地震 康和南海地震

2015年08月30日 | 災害の歴史・伝承
 古代の白鳳南海地震、仁和南海地震を紹介したが、仁和3年(887年)の次の南海地震はというと承徳3(1099)年正月24日に発生している。仁和から212年後のことである。この年は地震と疫病が頻発したので8月に年号は「承徳」から「康和」に改元されている。そのためこの年の地震は「康和地震」と称されている。このような地震災異による改元は承徳/康和だけではない。江戸時代の「安政南海地震」も発生した時の年号は「嘉永」であった。嘉永7年11月に地震や黒船来航、そして内裏炎上という理由で、「安らけく政(まつりごと)を行うことができるように」と「安政」へと改元されている。それ以前にも安土桃山時代の「慶長」も文禄5(1596)年に伏見地震や豊後地震、伊予地震など大地震が連続して発生したことにより、「文禄」から「慶長」に改元された。よく「慶長伊予地震」と呼ばれる地震も発生時点の正確な年号は「文禄」である。「慶長」も「慶ばしいことが長く続く」ことを祈念してつけられた名前である。これらの地震は年号を改元しなければいけない程、被害は大きかったといえる。
 さて、康和南海地震について記した史料は、国立歴史民俗博物館所蔵の廣橋家旧蔵記録文書典籍類(廣橋本)の中にある「兼仲卿記」である。鎌倉時代後期の公家である藤原兼仲の日記であり、兼仲は朝廷行事や裁判実務を担当する中級貴族の家柄で、そうした職務について記述された日記である。この史料は別名「勘仲記」とも称される。これまで歴史地震の研究において「兼仲卿記」と「勘仲記」の双方が用いられ一見、混乱しそうであるが、藤原兼仲の家名が勘解由小路(かげゆのこうじ)と称したことからこの史料が「勘仲記」とも呼ばれてきたのである。この兼仲が記した日記に地震について叙述されているわけではない。実はこの日記に用いられた紙の裏に書かれているのである。この紙はもともと賀茂御祖神社に伝わった文書で土佐国から提出されたものと推定されている。いわゆる紙背文書である。昭和43年頃に東京大学史料編纂所の桃裕行氏がこの文書の中に康和地震の記述を確認し、これが南海地震であったと判断されたのである。康和地震は関白藤原師通の日記「後二条師通記」によれば康和元年正月24日に発生している。ところが「兼仲卿記」紙背文書には「土左(佐?要確認)国潮江庄康和二年正月□四日地震之刻、国内作田千余町皆以成海底畢」とある。康和2年正月?4日に地震が起り、土佐国潮江庄(現在の高知市)の千余町が海底となったという。康和2年とあるが、この文書は39年後に書かれたものであり、康和元年の誤りだとされている。注目すべきは千余町が海底となったという記述であり、白鳳南海地震の土佐国での被害と類似している。直接の津波被害とも考えられるし、地盤の沈降によって海水が入ってきたという被害とも考えられる。いずれにしても高知県における歴代の南海地震での典型的な被害であり、この「兼仲卿記」紙背文書の存在によって康和地震が南海地震であるとされるにいたったのである。
 なお、来月9月21日に行われる第32回歴史地震研究会(京丹後大会)において石橋克彦氏が「『1099 年康和南海地震は実在せず、1096 年永長地震が東海・南海地震だった』という作業仮説」という口頭報告を予定されている。そこで新説が提示されるのかもしれないので、注目しているところである。

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