愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛県における安政大地震の史料一覧

2011年12月31日 | 災害の歴史・伝承
昭和62年3月に東京大学地震研究所から発行された『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二という史料集がある。これは嘉永7年(安政元年)11月4、5、7日に起った安政大地震記録の中で、四国など西日本に関する文献資料を集成したものである。四国だけでもページ数は膨大で、徳島県関係が1793~1909頁、香川県関係が1910~1958頁、愛媛県関係が1959~2072頁、高知県関係が2073~2358頁となっている。四国で全566頁分の史料集積、活字化がなされており、これを編集、刊行した東京大学地震研究所にも頭が下がるが、これを地元で資料集めに奔走した当時の先生方にも頭が下がる思いである。よくぞここまでの史料集を刊行されたと思う。昭和62年以降にも地震史料の取りまとめはさまざま機関、団体主体で行われているが、生の史料を要約、意訳することなく、活字化、刊行されたこの成果は、平成23年になった今でも基礎資料、基本的文献であり、底本でありつづけている。

これがネット上でデータベース化され、検索できるようになることを期待するが、まずはこれが愛媛県立図書館など愛媛県内でも数カ所の図書館には所蔵されているので、地元の過去の地震史料を探す場合には本当に便利である。

ここで、この『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二。愛媛県関係だけでも掲載されている史料の標題を紹介しておきたいと思う。

1、愛媛県編年史9所収の「今治拾遺」13、定保勝道
 今治における被害状況。

2、愛媛県編年史9所収の「塩屋記録」
 伊予市における被害状況。

3、愛媛県編年史9所収の「加藤家年譜」中、泰祉
 加藤家は大洲藩主。大洲における被害状況の記録。

4、一本松町史所収の蕨岡文書
 愛南町の被害状況。

5、一本松町史所収の岩村トク談
 愛南町の被害状況。

6、城辺町誌
 愛南町の被害状況。

7、城辺町誌所収の二宮家文書
 愛南町の被害状況。

8、津島町誌
 宇和島市津島町の被害状況。

9、南豫史(久保盛丸、大正4年発行)
 旧宇和島市内の被害状況。

10、「稿本 藍山公記」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵
 この「稿本藍山公記」は、非常に重要な史料である。1961~1972頁と12頁にわたって翻刻されている。この史料は宇和島藩八代藩主だった伊達宗城の生涯を明治時代になって伊達家に残る一次史料を中心に詳細に書き留めたものである。いわば宇和島藩の公的な記録がこの藍山公記に収録されており、地震史料に関しても、現在の宇和島市、城下だけでなく、旧宇和島藩領域全般にわたって、さまざまな記録が見られる。南予地方の第一級の地震史料といえる。

11、「大控」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵
 この「大控」は1682年から記されている宇和島藩の日記類であり、さまざまな文書の収受についても記されている。いわば宇和島藩の公式記録の性格を持ち、各地から藩へ提出された文書に安政地震のそれぞれの地域の被害状況が詳細に記録されている。村方と藩とでやりとりされた一次史料がそのまま掲載されているので、10の「藍山公記」と内容が重複する部分もあるが、重複箇所で同文の場合はこの日本地震史料では省略されている。それでも1972~1991頁と、20頁にわたって詳細な記録が紹介されている。

12、「御用場記録」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵

13、「安政元甲寅日記 冬」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵

14、「御用伝牒」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵

15、「安政五戊午年諸願指紙扣大浦庄屋所」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵

16、「雑事」宇和島伊達家文書、宇和島伊達文化保存会蔵

17、「諸願指紙控 嘉永七甲寅年 庄屋所」宇和島市大浦新田(番地略)清家(名前略)文書

18、「前原一代記咄し」宇和島、山口常助家文書

19、「郷土史年表」宇和島市教育研

20、「吉田町誌 上」吉田町教育委員会
 立間尻の庄屋赤松家に詳細記録があることを紹介し、「玉津郷土誌稿」も「引用され「巨浪」が来たことなどが記されている。

21、「永代控 天明八申二月 明治四未十一月」吉田町、赤松家文書(立間尻庄屋)

22、「伊予吉田郷土史料之内」吉田町教育委員会
 吉田町教育委員会が編纂した旧吉田藩関係の史料が紹介されているが、1999~2010頁の12頁にわたり、旧吉田藩内の各所の具体的な被害状況が記されている一次史料を所収している。

23、「日土鹿島神社資料」愛媛県立図書館蔵。
 日土鹿島神社は八幡浜市。

24、「大地震荒増記」伊予大洲、西方寺
 大洲における具体的な被害状況を記している。それだけではなく、周辺、諸国の被害の聞き書きも記されている。

25、「洲城要集 十七」伊予史談会蔵
 「洲城」とは大洲城。つまり大洲藩における被害状況。

26、「西海町誌」
 愛南町の被害状況。「下久家下の谷津波で全戸流出」と記されている。

27、「面河村誌」

28、「三輪田米山日記」愛媛県立図書館蔵
 三輪田米山は松山市。旧温泉郡久米村。2017~2025頁と9頁にわたり松山における地震の状況が詳細に記されている。

29、「桜田親興日記 一」伊予史談会蔵(大本補注:伊予史談会文庫目録では史料名は「桜田親興日誌」である。)
 宇和島城下の状況が記されている。

30、「転変奇説集」伊予史談会蔵
 松山、道後の状況が紹介されている。

31、「伊予玉井家文書」国文学研究資料館国立史料館蔵
 玉井家は伊予郡上野村。いまの伊予市。上野村の中の各家々の被害状況が記されている。

32、「双海町誌」伊予郡双海町
 地震の唱えごとコーコーが紹介されている。

33、「伊予市誌」
 市場佐伯家文書「村諸日記」などが紹介されている。

34、「川内町誌」昭和36年版
 現在の東温市。

35、「松前町誌」
 「郷土史北伊予村」、「嘉永六巳歳ゟ心覚集書」徳丸後藤家蔵などを引用。松前町海岸部において海水が噴き出す液状化現象の記録がある。

36、「余土村誌」大正14年発行
 松山における地震記録

37、「愛媛県温泉郡 小野村史」昭和35年
 小野村は現在の松山市。

38、「長浜町誌」
 大洲市長浜町だけではなく、伊予市郡中や八幡浜市保内町、高知県宿毛市の被害の状況を「兵藤(頭?)家文書」を引用して紹介している。

39、「菊間町誌」
 今治市菊間町。「加茂社記」、「池内永常記」を引用して地震の様子、被害の様子を紹介している。

40、「喜佐方村史」昭和33年
 喜佐方村は現在の宇和島市吉田町。

41、「日吉村誌」昭和43年
 現在の北宇和郡鬼北町。

42、「松野町誌」昭和49年
 北宇和郡松野町。

43、「野村郷土誌」昭和34年
 西予市野村町。

44、「土居郷土誌」昭和51年
 西予市城川町土居。

45、「日本庶民生活史料集成二」所収の「藤井此蔵一生記」
 藤井此蔵は大三島といっても旧上浦町(今治市)出身。これはよく知られた有名な史料。

46、「今治市大浜八幡宮文書」大浜村庄屋柳原家史料
 今治市の地震の状況が紹介されている。

47、「小松藩会所日記」小松町
 小松藩の公式記録といってもよい史料。西条市小松町温芳図書館蔵。会所日記のうち嘉永七年の「日記(従七月至十二月)」と安政2年の「日記(従正月至六月)」が翻刻されている。2045~2067頁と23頁分。小松藩領内の被害が記されている。東予地方の被災状況を知るにはエリアが限られてはいるが、小松周辺の被害内容が詳細に出ているので、東予地方における防災には欠かせない史料である。

48、「愛媛県近世地方史料5」所収の「松山藩壬生川浦番所記録」
 壬生川が現在の西条市(旧東予市)

49、「久門家日記」愛媛県立図書館蔵
 西条市の地震の様子。

50、「諸願留 嘉永六年安政四年」新居浜市多喜浜町 天野家文書 日本たばこ産業株式会社
 新居浜市多喜浜の様子を記す。

51、「黒島神社文書」
 黒島神社は、新居浜市。

52、「宇摩郷土史年表」昭和41年
 伊予三島市教育委員会。現在の四国中央市。

以上が、愛媛県関係のものである。昭和62年以降にも数多くの地震史料は確認され、また各市町村において自治体誌も刊行されているため、ここに紹介したものの他にも安政の地震の災害情報はあるのだが、それを集約した業績はいまだ無い。現段階でも基本的文献としてこの『新収日本地震史料』は貴重である。しかし、これがすべてではないことも認識しておかないといけない。

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クリスマスオレンジ

2011年12月24日 | 日々雑記
昨日、松山市大街道マルシェにて、八幡浜市役所さんが配っていたラッピングみかん。クリスマスオレンジ!

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真珠湾攻撃と九軍神、そして愛媛三机

2011年12月09日 | 地域史
昨日は真珠湾攻撃から70年。昭和16年当時、愛媛県伊方町の三机湾を真珠湾に見立てて密かに特殊潜航艇の訓練をしていた若者達。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃により9人が戦死。太平洋戦争で最初の戦死者とされています。以下の記事は、愛媛新聞の前身『愛媛合同新聞』の昭和17年3月13日付のものです。この一週間前に大本営発表で、九軍神のことがはじめて知られるようになり、連日、九軍神について報道されていました。三机の地元の方々との交流や、地元の方の証言も記載されていることから、記事本文を紹介しておきたいと思います。なお、記事本文には「◯◯」と出てきますが、これは佐田岬であったり三机といった地名等が入るのですが、当時の新聞では公表できず「◯◯」と表記されています。



軍神、試錬の道場 意外や本県◯◯湾 海国伊予に光栄の由縁

(◯◯にて横田支局長発)太平洋に威容を誇るアメリカ艦隊を昭和十六年十二月八日真珠湾で撃滅した我が帝国海軍特別攻撃の輝く武勲は世界戦史上に永劫、不滅の栄光としてきざみ込まれたが、その精神は御親征の昔に始まり作戦は既に二十数年前からねられてゐた、真珠湾の檜舞台へひそかに突入せし直前の稽古部隊は如何なる行をしてゐたか?・・・記者は本県◯◯湾にありし日のたゆまざる訓練の足跡をたどつた―


余裕ある訓練ぶり 暇々には子供と遊ぶ

◯◯半島の半農半漁の◯◯村の湾へ真珠湾攻撃の二ヶ月前まで◯◯の船が入り同年十月十八日頃まで猛訓練を繰返してをり、その中には佐々木特務少尉(当時一等兵曹)上田兵曹長(同二等兵曹)片山兵曹長(同上)稲垣兵曹長(同上)と四人までがゐた事がこの程判明したすなはちその当時、戦時日本の国民として防諜に万全を期してゐた村民達だが・・・◯◯町◯◯旅館を休憩所として上陸の休み休みに附近の子供達と無邪気に戯れてゐた勇士達のお世話をしてゐた、◯◯旅館女将井上マツヱさん(四二)と油だらけになった訓練服の洗濯からアイロンカケまでのお世話をしてゐた女中木村キミエさん(二〇)を始め川内善子さん(二一)岩見邦子さん(一九)河野スズヱさん(一九)等は交々左の如く語る


思ひ出す あの顔あの声 面影しのぶ土地の人々

四人の兵曹の方は、どなたも好男子で、おとなしい裡にも朗らか・・・実に立派な人達ばかりでした、私達も一生懸命お手伝ひを致してをりました関係上、よく知り合つて居りましたものでしたから、ラジオや新聞であの方達が戦死した事を知つた時は、全く云ひ知れぬ驚愕に打たれてこの日ワツト泣いた位です◯人の士官さんと共に◯◯名の兵曹さんの中に皆さん(四勇士)が交つて昨年五月頃、こちらに見えましたが訓練の模様は申されませんが、時おり遥か沖合から帰つてくる◯◯をみました今考へて見ると・・・あの船に乗つて敵の大きな軍艦をヤツツケたのだと思へば、実に感慨深いものがあります、何時も沖合に碇泊中の◯◯まで帰り、すぐにカバーをしてその船影を見えなくしてをられました、兵曹さん達は大抵午後の七時頃に上陸して約二時間ほど私達とピンポンをしたり庭球をしてすぐ帰つてをられましたが「昨夜は徹夜をしたので休ませて下さい」とゴロリ横になられてゐた事もあり実に無邪気な面白い人達でした、また時折り魚釣りや汐干狩に鋭気を養なつてゐられた事もありましたが・・・片山兵曹長は少しお酒を好まれ、そんな時にオシヤベリを発揮してをりましたが水泳も達者でした、佐々木兵曹や上田兵曹は本当に静かな落着きのある方でした、ハワイの特別攻撃隊勇士にとつてこの◯◯村は縁深い所と思へば感激に堪へません、その後手紙も貰つてゐますが、想ひ起せば・・・ソボ降る雨の十月十八日「三月頃、暖くなつたらまた来るよ!」との言葉を残して引き上けて行く勇士さん達を遠く見送つたのでありますが、あれが永久のお別で大東亜の軍神となられたのだと思ふと・・・感慨無量です・・・





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