愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

火打ち石のとれる「火打」

2006年08月27日 | 衣食住
内海村(現愛南町)油袋(ゆたい)地区の小字に「火打」というところがある。そこには、学名「放散虫チャート」の岩層がある。チャートは、昔は鉄片と打ち合って発火する火打ち道具として使われたもの。内海村内でもこの場所にしか見られない岩層であり、昭和60年に内海村指定文化財となっている。火打ち石が採れる場所の地名が「火打」。

ちなみに、私も講座等で火打ち道具を使っているが、火打ち石はメノウ。火口は、艾(もぐさ)を消し炭(蒸し炭)にして発火させている。

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森松の入端祭

2006年08月25日 | 祭りと芸能
24日晩は松山市森松の入端祭に行く。ダイバの写真を撮る。面箱に文化年間の銘あり。神仏習合の古い形式をとどめる祭だが、庵から出発する行列、須我神社での謡いや、ダイバを退散させる場面などを見ると殊更に古風というより、江戸時代後期から末期にかけての神道家が考案したかのような印象を持った。盆・施餓鬼行事の神道的解釈から開始したものではないかと、特に確たる根拠があるわけではないが、そう思いながら入端祭を眺めてみた。

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ツクツクボウシバカリナリ

2006年08月23日 | 日々雑記
ツクヽヽボーシツクヽヽボーシバカリナリ

子規の『仰臥漫録』明治34年9月11日の句。

今日は午後から仕事も休み。自宅でのんびりしているが、周りは静か。聞こえてくるのは蝉の声だけ。

庭の木にツクツクボウシが止まって激しく鳴いている。

そこで頭に浮かんだのがこの子規さんの句。蝉は夏の季語だが、ツクツクボウシは秋の季語。

夏もそろそろ終りに近づいている。

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八幡浜ちゃんぽん

2006年08月21日 | 日々雑記
今日の南海放送で八幡浜ちゃんぽんが取り上げられていた。数ヶ月前にはNHK松山放送局でも取り上げていた。近々『松山百点』でも特集記事が出るという話を聞く。最近、八幡浜ちゃんぽんに注目が集まりつつあるようだ。

私も産まれてこのかた千回以上は食べているであろう八幡浜ちゃんぽん。

カレーやカツ丼を食べる回数に匹敵し、ラーメン(即席めんは除く)よりも食べる機会は多かった。

特に新町のロンドンが製造しているちゃんぽんパックは、東京で学生時代を過ごしていた際にも、実家からクール宅急便で送ってもらっていたほど。

個人的には、よさこい食堂のちゃんぽんが一番馴染みがあって、食べるとほっとする。

今、八幡浜ちゃんぽんが熱い!八幡浜YEGのみなさんが「八幡浜ちゃんぽんメジャー化プロジェクト」を立ち上げて盛り上げようと頑張っていて、心意気が伝わってくる。「濱ちゃんぽん」の統一名称も出てきたので、定着してほしいところ。

八幡浜の人はちゃんぽん食べて血肉を育ててきたと言っても過言ではない。

We are the champions!ならぬ、We are the champons! クィーンの「伝説のチャンピオン」ならぬ、「伝説のちゃんぽん!」

八幡浜のちゃんぽんを宣伝するならテーマソングはこれで決まり?

さあ、今晩の夕飯はちゃんぽんにでもするかな。

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ご神体を縛り上げる?

2006年08月21日 | 信仰・宗教
城川町土居の話。『土居郷土誌』599頁によると、失せ物(紛失物)があると、庚申様(こうじんさま)を荒縄でしばりあげ、失せ物が見つかると、といてあげてお礼を言上するという。「失せ物のご利益は確にあるのだろう。しばられっぱなしのご神体はお見かけしない。」とある。

結構乱暴な願掛けの習俗だが、このような事例は全国的に見ると案外多い。

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蛸絵の奉納物

2006年08月21日 | 信仰・宗教
狩江にある春日神社の拝殿に貼られた蛸絵。この地区は蛸を食べないという慣習が古くからある。神社のご神体が盗まれた際に海中で蛸が取り戻したという伝説からである。イボに関するご利益があるといって奉納しているものらしい。

同じような蛸絵は、佐賀関に行ったときにも見たことがある。

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盆棚と水祭り

2006年08月21日 | 年中行事
八幡浜の盆棚は屋内に設置する。(愛媛でも盆棚・精霊棚の設置位置は異なる。詳細はいずれ・・・)
その盆棚に、こいも(里芋)の葉っぱの中にカボチャ・ナスを賽の目に細かく切って中に入れておく。
その横に水を入れたコップを置き、盆花(ミソハギ)を一本立てる。そして盆花に水をつけてナスなどの上にかける。
これを「水祭り」と言っている。

これは昨年の盆に知人の家で教えてもらったこと。でもその知人は、この春先にあの世に旅立ってしまった。今年の盆棚に彼がまつられていようとは、哀しくもあり、虚しくもある。

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城川町田穂の牛鬼

2006年08月21日 | 祭りと芸能
昭和30年代後半に撮影された牛鬼の写真。西予市城川町田穂の牛鬼。宇和島牛鬼とは異なって、近隣の旧野村町や旧肱川町のものに類似している。

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江戸~明治時代の盆行事

2006年08月21日 | 年中行事
今治や宇和島での江戸~明治初期の七夕や盆行事に関する記述の紹介。

事例1 明治時代初期の今治地方の七夕 『国府叢書』巻二十三より
「七夕ノ節句ノ事 七月七日ヲ七夕ノ節句トテ、六日ノ夕ヨリ七夕祭リトテ、笹竹ニ短冊ヲ付シ、之レヲ庭内ニ建、供物等ヲナス事左ニ記ス。机上ニ供アルモノハ、水ノ子(茄子ヲ角ニ切リ、白米ヲ交ヘタル者)ヲ小サキ盆ニ盛リ、田瓜、団子、赤飯等ヲ供ス、又七夕ノ竿ヘハ、茄子、フロヲ及打燈ヲ釣リ、夜間ハ点火ス、七日ノ朝ハ早ク起キテ、男子ハ藁(新稲葉ヲ交ユ)ニテ縄ヲナイ、円形六寸計ノ輪ヲ二ツ拵ヘ、夫レヲ組合シ、之レヲ屋上ニ投シ置キ、女子モ同様早ク起キテ、麻苧ヲ以テ糸ヲ産シ、而シテ其糸ヲ机上ニ置ク、之レ全ク男女共ニ、万術ノ上手ニナラン事ヲ七夕ニ募ヘル義ナリ、建アル笹ハ七日ノ早朝多く海ニ流ス、供物ハ惣テ其夕方廃檀ノ後、之レヲ□□ニ与フルノ習慣トス(挿絵有り)」

*藁で輪を作って屋根の上に投げ上げる行為は、今治地方や周桑地方でも聞くことのできる独特の慣習。これはすでに少なくとも明治時代以前には行われていたことがわかる。


事例2 明治時代初期の今治地方の盆踊 『国府叢書』巻二十三より
「盆躍ノ事 七月八日ハ薬師、十七日ハ観音、廿一日ハ大師、廿三日ハ地蔵等ノ会日ニ付、其日ハ其所江壮年男女寄集リテ、霊前ニテ躍リ、其神佛ヲ慰ム、其外祖先ノ霊魂ヲ慰セントテ、各自庭内ニテ、躍ラシムル者モ多々アリシ、然レ共、藩法ニヨルト、奇異ナル風体ヲシ躍ル事停止セラル」

*「奇異ナル風体」とはどういう格好なのか?明浜や三瓶に残るような歌舞伎くずし踊りのようなものか?

事例3 明治時代初期の今治地方のマンド(万燈) 『国府叢書』巻二十三
「万燈ノ事 七月十四日十五日ノ二夜ハ、万燈ト唱ヘ、毎村山アル所ハ山ニ、山ナキ所ハ堤防或ハ道傍等ニテ、多数ノ篝火或ハ麦藁、松葉等ヲ壱荷位ツツ、数十ヶ所ニ積置キ、一時ニ火付ケ焚ク、其賑ハヒ実ニ盛なり、之モ全ク亡人ノ霊魂ヲ、慰ムル為ナリト云フ。此事ヲ司トルモノハ、毎村トモニ強壮ナルモノ村内毎戸より、右之品ヲ貰請ケテ、執行スルモノ也、今尚行ハルル也」

*マンドは今治地方では盛んだった子供行事だが、今は廃れている。ただ、近年、復活させた地域もあると愛媛新聞の記事で紹介されていた。


事例4 江戸時代中~後期の宇和島地方の盆行事 『桜田随筆』(北宇和郡誌所収)より
「七夕祭、瓜菓のそなへ其外古風に変わることなし。其内七日の夜に祭ることを不知人多しといふこともあれども六日の夜子の刻より七日の夜亥の刻迄は七日の事故家々仕来りの通にてもすむわけなり。
盂蘭盆、うらぼん会十四日、五日。家々のいとなみ古風に違ふ事多し。昔はおしなべて十三日の夜半より団子等を拵へ、夜明けに暖なるを備ふる事を専とせしが、二三十年程前よりは十三日の夕方拵へ、暮頃より備ふる事となれり。之れは夜分蚊に食はるる事を厭へる故と見へたり。亡者への志は薄くなりたる心地す。又おかしきは迂遠の輩は廿四日、五日を裏盆といひて盛物団子を備ふ。表盆・裏盆といふ事更になし。(中略)」

*ウラボンというと、盂蘭盆であり、盆のことを指すのだが、中予地方ではよく盆のあとの行事をウラボン(裏盆)といっているが、江戸時代には既に、ウラボン=盂蘭盆ではなく、「裏盆」と解釈されていたことがわかるのが興味深い。

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防空壕

2006年08月20日 | 地域史
8月16日に地元放送局のニュースで八幡浜第一防空壕について取り上げられ、私も少しコメントする。コメント内容は次の通り。

第一次世界大戦以降、航空兵器の登場と発達する。それによって空襲という新しい戦闘形態が生まれる。そして昭和6年、満州事変を契機とした防空への関心の高まり。「防空演習」が各地で行われるようになる。

愛媛県でも、昭和6年8月に、八幡浜で最初の防空演習が行われる。
八幡浜近隣の小学校の日誌を見ても、この時期に定期的に防空演習は実施されている。

昭和12年には防空法が制定され、消防・避難などの訓練を行う「防空演習」が各地で、本格的に行われる。

昭和14年に、警防団が結成される。(警察の管轄下に「防護団」と「消防組」を統合した「警防団」が設置。)これにより防空体制をさらに強化。

昭和15年には、全国各地で電気・水道などの設備の整った本格的な防空壕が建設される。(当時の内務省主導)

昭和15年10月に、「防空協会愛媛支部」の結成。これは警察中心の組織・防空体制の強化を意図したもの。

そして、八幡濱第一防空壕の建設。(四国最初の本格的防空壕とされる。)
昭和15年5月起工。
昭和16年2月21日完成・・・・・昭和16年12月以降の太平洋戦争開始以前!
照明や水道・トイレ・長いすなどを完備。
実際に、米軍機による空襲で退避に用いられたり、病院の薬品庫として使われる。

これは実際に空襲が始まって、作られたものではない。
戦争が激化する以前に、すでに「国民防空体制」ともいうべき戦時体制が整えられ、
施設整備も行われた上で、太平洋戦争へと突入していったことを物語っている。

防空壕というと、空襲被害との直接的な繋がりで語られやすいが、昭和6~16年と、いかに日本が戦争に突入する体制を作ってきたかという歴史を地域住民の側から見つめ直す意味でも、非常に貴重な戦争遺産だと思う。

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まさに自分のこと

2006年08月20日 | 口頭伝承
伯方町誌を眺めていたら、地元に伝わる「ことわざ」が数多く掲載されている。

「地震のときはトトトトトトととなえれば助かる」 とある。

これは、カーカー、コウコウという唱え言葉は今までも各書で見たことがあるが、

トトトトトトは、初めて見た。語源はなんだろう?

また、

「おんびき飛んでも休みが長い」(おんびきは蛙のこと)

つまり何事もこつこつやることが大事という意味。

まるで自分のことを言われているようで、少々内省・・・。

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ドジョウ施餓鬼

2006年08月20日 | 年中行事
正岡子規『仰臥漫録』に、ドジョウセガキの記述あり。

松山木屋町法界寺ノ鰌施餓鬼トハ路端ニ鰌汁商フ者出ルナリト

母ナドモ幼キ時祖父ドノニツレラレ弁当持テ往テ其川端ニテ食ハレタリト

尤旧暦廿六日頃ノ闇ノ夜ノ事ナリトイフ

餓鬼モ食ヘ闇ノ夜中ノ鰌汁


ちなみに、愛媛県が発行した『ふるさとの歳時記』より
8月25日 山越のドジョウ施餓鬼 松山市山越(木屋町)
御幸橋のたもとにある延命地蔵を祭るドジョウ施餓鬼。この日はドジョウ汁を食べるならわしがある。

以前香川に行った際に書店で香川の郷土料理の冊子を販売していたが、そこにドジョウ汁のことが詳しく紹介されていた。今思えば、その冊子を買っておけばよかった・・と後悔。

なお、愛媛新聞社の本『伊予の台所 直伝ふるさと料理』にはドジョウ汁の作り方は掲載されていて、ドジョウ施餓鬼のことにも少し触れてある。

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様々な死生観

2006年08月11日 | 信仰・宗教
7月8日に松山道後にて生と死について講演した際の内容の一部。

他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間』(岩波文庫)が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となって死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述の個性のある霊魂とは異なり、三十三回忌や四十九回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという考え方である。前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第四の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。

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宇和神楽・筆鉛筆供養

2006年08月07日 | 日々雑記
8月6日は地元で文化の里まつり。中町通り広場で宇和神楽を見る。ダイバンの舞。問答ではダイバンが四方の神々を聞き、その後鎮められるという内容。宇和神楽は明間で伝承されているが、中町で見るのははじめて。演目の一部分しか上演されなかったが、もっと時間をとって、全部見てみたいというのが率直な感想だが、他の出し物との兼ね合いもあるので難しいか。見るならやはり秋祭りか大晦日に明間の神社に行くしかない。

それと夕方5時50分から開明学校で鉛筆供養があった。光教寺のご住職が導師。近隣の子供たちが鉛筆を火の中に投げ入れて供養する。鉛筆に感謝するので、使い切った鉛筆を投げ入れるが本旨。一部、まだまだ使用できる鉛筆も投げ入れられている。子供には「鉛筆を大切に使ってね」とご住職がお話ししていたのが印象的。筆供養の流れを汲む行事だろうが、文化の里・開明学校で行われるのにふさわしい。学問上達の感謝と祈願の行事として来年以降も参加しよう。

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村祈祷

2006年08月06日 | 年中行事
7月15日、午前、松山にて「まじない」に関する考古学の講座で話をして、午後は日浦地区の最も奥にある米野町に行く。目的は大草履つくりをみるため。行事名は、地元では野祈祷とか村祈祷と言っている。毎年7月15日昼に、弥勒堂にて全長70センチほどの藁製大草履を2つ作って、それを上(かみ)と下(しも)の村境に吊るす。地区外から侵入する災いを防ぐため。
 大草履が作られると、弥勒堂では不動明王の掛け軸を飾って数珠繰りをする。そして一献あって、終了後、村境に大草履を吊るしに行く。
 大草履は米野以外にも青波にもあると地元の方は言っていた。南予や久万高原町では頻繁に見られる大草履習俗だが、それは小正月行事として行われているのがほとんど。
 夏の災厄除けとして今でも続けられている事例は珍しい。

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