愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

10月6日 俵津文楽の公演

2012年09月27日 | 日々雑記
10月6日(土)13;30から

西予市明浜町俵津にある俵津文楽会館で文楽公演があります。

愛媛県指定無形民俗文化財「俵津文楽」と

大阪の朝日カルチャーセンター義太夫教室の合同公演です。

義太夫教室では、人形とあわせて上演することは大阪では難しい。

国立文楽劇場で、、、というわけにもいかず、

数年前から、義太夫教室での成果披露として合同公演が行われています。

俵津文楽に指導によく来ていただく

大阪文楽座の三味線の野澤錦糸先生に繋いでいただたご縁です。

今回も野澤錦糸先生も出演される予定です。

演目は、傾城阿波の鳴門「順礼歌の段」と摂州合邦ヶ辻「合邦住家の段」です。

入場は無料。車でお越しの方は、松山自動車道西予宇和ICから車で約20分です。

問い合わせ先は、俵津公民館、もしくは西予市明浜支所の教育課となっています。


文楽の公演ですが、今年は12月16日(日)に

愛媛県の5つの座が合同で公演する機会があります。

会場は、西予市の愛媛県歴史文化博物館のホールです。


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南予地方の布団屋台(太鼓台)「四つ太鼓」

2012年09月24日 | 祭りと芸能
写真は平成8年頃に撮影したものである。

佐田岬半島の瀬戸町(現伊方町)三机の八幡神社の秋祭り。

10月15日。いまはそれに近い週末に行われている。

この写真は、奥の牛鬼と手前の四つ太鼓が鉢合わせをしている勇壮なシーン。

三机の牛鬼も、一般に知られた宇和島型の牛鬼とは形相が異なって面白い。

見ていただきたいのが手前の四つ太鼓。

地元では四つ太鼓と呼ばれているが、中央に太鼓を乗せて、それを4人の子どもが叩く。

四本柱があって、その上に布団屋根がある。

その布団屋根。上から白、赤、青、黄、緑の5枚が重ねられている。

西日本各地に見られる典型的な布団屋台。

愛媛では太鼓台と呼ばれるものである。

でも地元では太鼓台とは呼ばない。

興味深いのは、一番上の布団の模様。

白、赤、青、黄、緑の格子模様。

似た模様は、新居浜市の太鼓台の天幕。

この三机の布団の頂部の模様は、普通に担いでいると、観客には見えない。

斜めになった際にチラッと見えるだけである。

それを考えると、新居浜の太鼓台の天幕の起源は、

布団の頂部の格子模様を観客に見てもらいやすいように半円状に膨らませた。

このように勝手に推測してみた。

史実を確認していないので断定はできないが、

新居浜の太鼓台の天幕はかなり昔は膨らんでいなかった、という記述はよく目にする。

祭りの際に、布団の頂部の模様まで観客に「見せる」ために、

膨らませて半円状にしたのではないか。

あと、この三机の四つ太鼓。布団締め、幕や掛け布団に注目してもらいたい。

5枚の布団を締めている紐状のものが見られるが、これに金糸の刺繍を加えていくと

新居浜などの太鼓台に見られる昇龍、降龍などが装飾された布団締めとなる。

四本柱の上(布団の下)に柱をぐるりと巻かれた幕。

これに刺繍装飾すれば、新居浜の太鼓台でいわれる上幕になる。

そして、子どもたちの背中に見られる高欄に掛けられた布団。

この布団に刺繍装飾をすれば、高欄幕となる。

もっと発達のプロセスを説明すると、

四国中央市に見られるもたれ布団。

もしくは新居浜の太鼓台の江戸時代、嘉永年間の記録に「もたれ布団」の記述。

現在のように、高欄幕が新居浜で発達したのは、

三机の四つ太鼓のような高欄掛けの布団に刺繍装飾がなされ、

それが四国中央市の太鼓台のようなもたれ布団として、

かき棒の上にもたれる形で斜めに配置される。

この形状は四国中央市から香川県西讃に見られる典型である。

ところが、このもたれ布団。

かき棒の上で斜めに置かれると、観客からは十分に見えない。

折角の豪勢な刺繍である。これは観客に十分に「見せる」ためには、

斜めではなく、垂直に立ててしまった方がよい。

このように四国中央市型太鼓台のもたれ布団が、

新居浜太鼓台の高欄幕へと発展、変化したのではないかと推察している。

天幕にしろ、上幕、高欄幕、もたれ布団など、

これら発展のプロセスを考えるヒントとして、

佐田岬半島の三机地区の四つ太鼓は非常に参考となる。


愛媛の太鼓台文化圏。

新居浜市や四国中央市だけではなくて、

佐田岬半島をはじめ、南予地方各地に見られる四つ太鼓。

また、上島町の弓削や生名などしまなみ海道沿いや忽那諸島の津和地島などに見られる

地元で「だんじり」と呼ばれる布団屋台(太鼓台)。

こう見ると、広い範囲にわたってくる。


太鼓台文化は、新居浜市、四国中央市だけで当然、完結するものではない。

愛媛の各所に伝承された布団屋台の装飾は豪華絢爛ではないかもしれない。

でもこのような素朴な布団屋台(太鼓台)も無視するわけにはいかない。



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幕末ガール 楠本イネと 父 シーボルト in 東京築地

2012年09月16日 | 日々雑記
昨日から研究会に参加するため、東京御茶ノ水に行っていたのですが、本日、愛媛への帰りの飛行機の出発までちょっと時間があったので、東京築地界隈を散策してきました。外国人居留地があった近代日本の夜明けを象徴する場所です。

そして、そこは西予市宇和町卯之町ゆかりの幕末ガール おイネさん(楠本イネ)が明治時代になって産院を開業したところ。

その築地におイネさんの父、シーボルト胸像がありました。



そしてシーボルト胸像の説明看板。ちゃんとイネのことも紹介してありました!



ちなみ開業場所は「京橋区築地一番地」とされていて、これはと長崎市のシーボルト記念館に保管されている明治10年代のイネの産婆申請書に、履歴が書かれていて、そこに出てくる地名、住所(だったような記憶・・・)残念ながら、楠本イネが開業した産院が築地のどこかまでは特定されていないようです。

近くには中央区立郷土天文館があり、そこに展示されていた築地居留地界隈を歌川国輝が描いた「東京築地鉄砲洲景」という錦絵があります。明治時代に楠本イネがいた頃の雰囲気が伝わってきて、ちょっと感動しました。

あと、中央区郷土天文館の展示で、明治27年の「築地外国人居留地鳥瞰図」というその界隈を空から鳥瞰したような図がパネル化されていました。もとの原資料は立教大学資料センター蔵とのこと。まさに楠本イネの晩年。明治30年代に麻布で亡くなりますが、この景色の中にイネも過ごしていたと想像してしまいました。

築地界隈。明治時代のおイネさんが活躍した場所。愛媛、西予市、卯之町と東京築地が繋がった感じがして、楽しくお散歩してきました。

ちなみに、イネが開業した近くの明石町に、十数年前まで東京都立築地産院がありました。その跡地にも行ってきました。直接、おイネさんの産院とは繋がらないと思うのですが、何かの縁(えにし)を感じずにはいられませんでした。




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【帰る】の愛媛方言「いんでこうわい」「いぬる」

2012年09月14日 | 口頭伝承
愛媛県とくに松山市周辺では、「帰ります」を「いんでこうわい」という。

同僚が仕事を終えて、先に帰るときに「いんでこうわい」。

はて?帰ってくる?家に帰るのか、はたまた休憩して再度職場に戻ってくるのか?

「いんでこうわい」と言われた側は、また職場に戻るのだろうかと思って、

逆に帰りづらくなる。職場を施錠して帰ろうにも、

「いんでこうわい」と言った同僚はなかなか帰ってこない。

結局、家に帰ってしまっているのである。これが恐怖の松山言葉「いんでこうわい」。


「いんでこうわい」。これは「いぬ」つまり去る、帰るの意味。

日本国語大辞典では「ある場所から立ち去って、他の場所へ行く。また、もと居た所へ帰る」とある。

この辞典の説明も2つの意味がごちゃまぜになっている。

AからBに行く。これだけではなく「もと居た所へ帰る」

この「もと居た所」ってどこ?? Aなのか、それともBなのか。

Aを職場、Bを家に例えると、

「もと居た」はAでもBでも構わないように受け取ることができる。

でも、松山言葉「いんでこうわい」の帰る先はBの家である。

つまり「もと居た所」イコール家。

松山の人が、職場よりも家を大事にしている? それは別として、

自分の本拠が家であると強く認識している証左かもしれない。


こんなことを考えていると、愛媛の各地で「いぬる」という方言を使っていたことを思い出した。

「いぬ」じゃなくて「いぬる」である。

動詞としての「いぬる」。これ日本国語大辞典にも出ていない。

出ているの「いぬる」は、「いぬ」の連体形である。動詞ではない。

と思っていたら、『日葡辞書』にこう書いてあった。

「Ini, uru, inda(イヌル)<訳>去る、または元に帰る」

『日葡辞書』が編纂されたのは西暦1603年。

このときのイヌルとか inda つまりインダは、愛媛でも頻繁に使われている方言である。

「いぬ」自体は、古事記、万葉集にも出てくる古語である。

これに、わざわざ「る」を付けて「いぬる」という動詞を作り上げられたのだろう。

ちなみに、いぬ、いんだの方言は、日本国語大辞典で紹介されているのは、

福井県遠敷郡の事例だけある。

愛媛にもあるが、全国さがせば、他の地域にもあるのだろう。

しかし、「いぬ」、「いぬる」の方言の分布、地域差は

もしかしたら、言語変化の時代差かもしれない。

古い「いぬ」、新しい「いぬる」、そしてそれが使われなくなる時代、そして地域。


松山の「いんでこうわい」や愛媛各地の「いぬる」という方言は、

日本語の変遷を考える上で、結構、面白い題材なのかもしれない

と思ってしまった。



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愛媛県における鹿踊の分布図

2012年09月12日 | 祭りと芸能
愛媛県歴史文化博物館で開催した平成12年度企画展『愛媛まつり紀行』の図録に掲載した愛媛県における鹿踊の分布図。

江戸時代初期に仙台伊達家から伊達政宗の長子である秀宗が宇和島に入部したことに起因して、東北地方の鹿踊が宇和島藩、吉田藩領内とそこに隣接する地域に伝播している。

松山藩や今治藩など中予、東予地方には全く見られない。

この分布図を見ていただければ、鹿踊が東北地方ルーツの南予文化であることがよくわかっていただけるかと思う。



【補足】宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が宇和島に来たのが慶長20年(元和元年、西暦1615年)。そして明暦3(1657)年に秀宗の子・宗純が分治されて吉田藩主となります。宇和島藩、吉田藩の範囲は、現在の伊方町、八幡浜市、大洲市の一部、西予市、宇和島市、鬼北町、松野町、愛南町、宿毛市の沖之島の一部です。ほぼ東西南北宇和郡といえます。

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正月の注連飾りの「かぶす」と「だいだい」

2012年09月12日 | 年中行事
愛媛県八幡浜市出身の自分。

お正月の注連飾りに付ける柑橘のことを「かぶす」と呼んでいた(いや呼んでいる)。

この「かぶす」。日本国語大辞典によると、「だいだい」の異名、と紹介されているものだから、

「かぶす」は橙のことだと無意識のうちにそう思っていた。

でも、よく考えると(考えなくてもそうだが)、色も形も大きさも橙とかぶすは違う。

それでも、かぶすは橙の一種もしくは類似種なのだろうと、

何も考えずに、そう理解していた。

でもやはり、橙とかぶすは違う。

ちなみに「かぼす」と「かぶす」が違うものであることも充分理解はしている(つもり)。

今一度、日本国語大辞典を見てみた。

かぶすは、次のように紹介されている。

「かぶち(臭橙)」の音変化した語か。
植物「だいだい(橙)」の異名。
文明本節用集「鬼柑子 カブス」
日葡辞書「Cabusu(かぶす)<訳>蜜柑、レモンの一種。その果実のなる木」
大和本草「橙<略>又一種かぶすあり。」

これでは、やはりかぶすは橙の一種であり、しかも文明本節用集や日葡辞書に出てくるのだから

かなり古い、室町時代には既に使われていた言葉だとわかる。

それでも、、、である。何か腑に落ちない。

正月の注連飾りのかぶすは橙とは、色も形も大きさも違う。

謎である。(いや謎でも何でもない。明らかに違うだけだ!)

先日、西予市明浜町高山にうかがった際にも、

昭和初期生まれの方々にお話をうかがったが、

かぶすはかぶすであって、決して橙ではない。

これは自分の実家、八幡浜でも同じ答えであった。

もしかして、正月に用いる柑橘は、家が代々栄えるようにと

どんな柑橘を使っていても「だいだい」と混同されるようになったのではないか。

よく年中行事の辞典は説明する。「だいだい」は代々に通じて縁起が良いと。

先に挙げたように、かぶすは室町時代には既に使用されていた言葉であり、

橙の異名がかぶすなのではなく、かぶすが正月に用いられているので、

「だいだい(代々)」と混同されるようになったのではないだろうか。

このような年中行事や人生儀礼において語呂合わせ的な説明がなされるようになるのは

概して江戸時代からである。

江戸時代の家庭年中行事としての正月行事、注連飾りが一般化して、

その在地で使われる、つまりその地域で採れる柑橘を

正月に「だいだい」と称してしまった場合があったのではないか。

かぶすはかぶすであり、例えば、愛媛でも越智郡島嶼部にては、注連飾りの柑橘はコミカンだと聞いた。

橙が入手できる場合にはそれで構わないのかもしれないが、

橙がなくても、知識として正月の柑橘が「代々家が栄える」という縁起知識が普及することで、

その他の柑橘が使われる場合に「だいだい」の呼称の混同、混乱が生じたのかもしれない。

結局、何も解決しないので、愛媛県のみかん研究所に問い合わせしてみた。

すると、的確な文献を教えていただいた。

(素早いご返答ありがとうございました!)


木村勝太郎・谷中登希男著『日本の酢みかん』 原田印刷出版、 1995年10月発行 である。

ここに紹介されていることを簡単にまとめると

カブス(臭橙)Kabusu

別名び代々(ダイダイ)臭橙(シュウトウ)があり、学名にもきちんとKabusuとある。
インド、ヒマラヤ地方の原産で、中国揚子江沿岸地帯並びに我国の各地に分布する。
我国には非常に古く渡来したもののようで、
醍醐帝の御代(つまり平安時代)に著された本草和名(日本最古の本草書とされる。深江輔仁著)には
橙と記されている。
日本全国に分布し、汁は酸味強く、生食には適せず、酢の代用として料理に使用される。
古来、正月の飾りに使われている。

以上のようになる。

ということは、かぶすは、学名のある確固たる品種であり、しかも平安時代に既にあったというのである。

ところが、謎は深まった。

この書の説明で、本草和名では「橙」と記されていると・・・。

自分の頭の推察で、江戸時代に混同したのかと思っていたのに、

既に平安時代に混同していた?

そうなると、そもそも橙(だいだい)って何?という話にもなる。

かぶすはかぶすで良い。

方言でもなく、学名のある柑橘として理解しておけばよい。

しかし、橙、だいだい、代々との混同の謎は、いまだ解けない。

結局、すっきりしない。

このブログ。橙(だいだい)についても歴史をきちんと調べて、提示すべきなのだろうが、

まあ、こんなすっきりしない、自分の頭の中の混乱を披露するのも、いいだろう。

だいだい、一番身近な、正月の柑橘の種類をきちんと説明できていないことに

歯がゆさを感じる。嗚呼、恥ずかしや。

まあ、早いうちに本草和名などの原典にあたってみよう。



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古い日本語の発音なのか? 佐田岬半島のタ行発音

2012年09月11日 | 口頭伝承
関西で同じ日時でやっていたかはわからないのだが、

2012年2月11日に愛媛で放送されたテレビ番組「探偵ナイトスクープ」。


ここで、愛媛県の佐田岬半島の与侈集落の方言(というより発音)が紹介された。

タ行が「タ・チ・トゥ・テ・ト」となるというのである。

ツがトゥになるので、

つくつくぼうーしは、とぅくとぅくぼーし。

つつじは、とぅとぅじ。

ずつうは、どぅとぅう。

このように発音されるということだった。


言語学に疎いので確たることは言えないのだが、

もともと古い日本語では、タ行は「タ・ティ・トゥ・テ・ト」だったらしい。

現代の日本語(共通語)ではティとトゥが 破擦音化したため、チ、ツと発音するようになったが、

地域によって古い発音のティやトゥがそのまま残っている場合があり、

佐田岬半島の与侈では、トゥが現在でも使われている。

つまり、これは古い日本語の発音が残されている事例だと考えることができるのである。


ちなみに、タ行。ローマ字で、単純に書いてみると(chiなどは無視)、
  
ta ti tu te to

普通に読めば、 タ・ティ・トゥ・テ・ト になる。

破裂音として、日本語のチやツの発音が、歴史とともに変化したことは十分に考えられる。

これが日本全国、それぞれの地域でどのような変化を遂げて、現在、どんな分布になっているのか。

知りたいものである。これは沖縄の音韻も含めての話である。


ナイトスクープで紹介されたこの愛媛県伊方町(佐田岬)の言語伝承。

非常に興味深い。

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清らかな砂 ウブガミとウブスナ

2012年09月09日 | 人生儀礼
先日、産土(ウブスナ)について少し書いたが、

このことは、宮田登『神の民俗誌』(岩波新書、1979年発行)の

第一章「誕生の民俗」に詳しく紹介されている。

出産に際して産屋に砂を敷く古い習わしの存在を指摘しているが、

この典拠は『神道名目類従抄』である。

柳田國男が、ウブ神とウブスナ神が本来は同一のものと推察しているが、

「氏神」と「産土(うぶすな)神」の違い、共通性、歴史性を

この本は触れている。

詳細は書かないが、生命の誕生と、地域での誕生、そして神社の存在と歴史性。

これらを「ウブ」の語彙を通して、再考察する必要もあるのかもしれない。

こんな風に、産小屋習俗や、宮田登の引用する近世文献を基礎とする議論、

そして柳田國男の言説を基本踏襲する姿勢。

すっきり解決しそうで、何か引っかかるものがある。

出生に際しての「清らかな砂」。

この民俗事例を、いま一度、集積して検討してみないと、

すっきりとはいかない。そんな気がする。





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大正時代の西条まつり古写真 だんじり、みこし、鬼頭

2012年09月07日 | 祭りと芸能
昭和2年3月に愛媛県学務部社寺兵事課が県内の神社における特殊神事をまとめて『愛媛県に於ける特殊神事及行事』を刊行している。写真図版も掲載されていて、当時の祭り、神事を知る上で貴重な資料だ。これを自分は以前、古書店で購入したが、著作権も切れていることもあり、その中の写真をここで数枚紹介したい。この本の刊行年が昭和2年。昭和元年が実際、12月25日からの数日間しか無かったわけで、この特殊神事は大正時代後半の様子を撮影したものである。

今回、紹介するのは伊曾乃神社の祭礼。西条まつりである。

まずは、伊曾乃神社での鬼頭の集合写真。



次に「みこし」。本には「神輿楽車」と表記されている。



次にだんじり2枚。「楽車」と表記されている。





アップしている画像はファイルサイズの関係で細部が見えにくいが、この『愛媛県に於ける特殊神事及行事』。愛媛県立図書館等で蔵書があり、そこで実見すると細部も確認できるかもしれない。

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亥の子のご祝儀の配分

2012年09月06日 | 年中行事
旧宇和町の広報誌『うわ』第6号、昭和29年10月31日にこんな記事があった。

「イノコにあった悪習慣を改める 多田地区のよい子」

秋の年中行事である「亥の子」のご祝儀について、「美談」として取り上げられているのだ。

記事を以下、引用しておこう。【 】内は大本補注。


毎年十月【現在では新暦10月の亥の日に行う。
十二支の亥の日なので、2回ある年、3回ある年がある。】
には子供達にとつて、たのしい亥の子祭がやつてくる。
「亥の子」には御祝儀をもらつて、子供達の手によつて配分し、
その配分の方法なども、小さい子供には少しの金を配当し
大きい子供は多くの金を取るという習慣が残っていたが、
【この慣習は今でも旧宇和町内各地に残る。】
今年多田地区の町組では頭取【子供大将もしくは亥の子大将とも
呼ぶ地区もあるがここでは頭取。年長者のことである。】
中学二年生牧野、岡田、二宮、福島の
四君が中心となり第一回は全員平等に配分し、
四君は組員より二十円少なくとり
残金は世話宿に世話料として差上げ、
第二回は全員平等に配分した。
このことは当然といえば当然ではあるがけれども
今までの悪い習慣を破つて新しい道を開いたことに対して
小さい子供をもつ父兄の人々は感心している。


以上が引用である。

亥の子が生活改善の一環で、廃れたという話をよく聞くが、
それに関連する話かもしれない。

ちょうどこの昭和29年には、文化庁により愛媛の年齢階梯制が
国選択無形民俗文化財となっている。
この年齢階梯制の中の大きな要素が子供組の活動、
そしてそこから成長しての青年集団(若衆組)の民俗であり、
「亥の子」も一種の文化財として意識された年であった。

地域の中で、年齢の階段を駆け上がるための地域教育の場であった亥の子。
亥の子組に入って、年少の頃は御祝儀の配分が少なくても、
年齢が上にいけば徐々に増えていく。
それを大将(頭取)といった亥の子組の年長者が配分していく。

子供組の中での金銭獲得、配分の経験の場であったのである。

これが「平等」に配分することになると、
亥の子組の中での年齢の階段、そして年長者の差配権限が希薄になってしまう。

亥の子のご祝儀の配分が、「悪習慣」という見方であるが、
必ずしもそうではないのではないか。

地域の教育力の場としての亥の子慣習を変容させ、崩すことにつながる可能性だってある。

そのように自分は思っている。



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昭和32年の新正月

2012年09月05日 | 年中行事
『広報宇和』第34号。昭和32年2月8日発行である。

「正月に賑やかな文化祭」

こんな見出しがあった。

これは旧宇和町の石城地区の岩木、郷内の両集落の話である。

岩木青年学級が生活改善を課題として研究を進め、その成果を披露したのが

昭和32年正月1日、2日。地区の文化祭を行ったのである。

この記事を見ると、昭和32年段階では旧正月はメインのお正月で、

現代のような新正月がいまだ定着していないことがわかって面白い。

その正月の文化祭の内容であるが、

第一部門 生活改善の調査の集計を展示して岩木の現在の改善の度合いを提示。

第二部門 各家庭の炊事場および風呂場の改善した写真を展示。

これが結構、目をひいたという。

第三部門 改善に関する図書と、改善に要した金額を展示。

第四部門 地区住民の手芸品を展示。

第五部門 地区の華道会の生け花を展示。

以上である。

これについて広報宇和の記事は

「ほんとうに正月らしい文化祭を開催しました。二日間の参観者の数は延人員千名をこえて盛況でした。」

とある。

「正月らしい文化祭」っていったい何なんだ???

隣の郷内集落でも大華道会を開催したとのこと。


この記事を読むと、生活改善で目指している新正月のイメージがよくわかならなくなる。

今とは違う。旧正月も徐々にこの頃から廃れていく。

この50年でニッポンのお正月は、激変したのがよくわかる。







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産土(うぶすな)

2012年09月03日 | 人生儀礼
伊予郡松前町徳丸にある高忍日売神社の境内。

「産土(うぶすな) 
 心願ある者はここの砂、
 または円満石をお守とするとよい。
 心願成就した時は、倍量にして返すこと」

このように看板に書かれている。

この神社、特にお産のご利益があることで有名。

看板にあるように「うぶすな」。

実際の砂を「うぶすな」と呼ぶ事例は、結構珍しいのかもしれない。

通常、「うぶすな」といえば、郷里の社のこと。

お産にまつわる砂を「うぶすな」と呼ぶことは、

瀬川清子的、もしくは谷川健一的だと思った次第。

※民俗学の大先達を「的」と表現してすいません。

産まれること、そこで育つこと、そしてそこの社。

これが「うぶすな」で繋がっていることに、

命と社と神の繋がりを感じる。





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宇和海沿岸の津波の伝承と記録ー伊方町の事例ー

2012年09月03日 | 災害の歴史・伝承
2012年1月1日付の愛媛新聞41面(正月特集号)に掲載されていた宇和海の津波に関する記事。

そこからの情報である。


伊方町河内地区。中心部の湊浦から少し内陸側に入った地区である。

ここには、津波で浸水した境界を指すとされる地名「一浪」、「二浪」、「三浪」が残る。

一、二、三と徐々に標高が上がっており、津波の第一波、第二波、第三波の到達地点ではないかと推察している。

「一浪」と「二浪」の境界は海抜15メートル程度。

ただし「三浪」の最高点は標高397メートル。堂堂山の中腹。

この周辺に「船頭ケ岳」という場所があり、

大津波で流された小舟を船頭が松の木につないだという伝承が残るという。

この伝承が、どこまで歴史的事実を伝えているのかは不明な部分が多いが、

この地名を完全に無視するわけにはいかない。

地元でも近年では知る人も少なくなっているという。

自分は現地を見てもいないのだが、気になる災害記憶の伝承だったので、紹介しておいた。



なお、伊方町には、中浦の高台にある法通寺に

江戸時代末期から明治時代初期に住職だった秀本上人が記した

「当山略由緒」(そのお寺さんの由緒書)がある。

そこに本尊不動明王像と、弁財天の二体が

地震による津波で運ばれてきたと書かれている。
(同日愛媛新聞記事に掲載された写真より)

「文明六年之頃日本大地震津浪」で、室崎あたり(室ノ鼻)に

高さ二丈(6.06メートル)の山のような波濤が来て、

白崎(湊浦と仁田之浜の境界付近)の浜の中から黒い物が夜に光って、

人々は奇怪なことだと思ったら、

翌朝仁田之浜に二体の仏像が立っていたという。

文明6年は、西暦1474年。

このような津波伝承や記録が伊方町に残っている。



参考文献:愛媛新聞2012年1月1付41面 森田康裕記者執筆記事

【9月6日追記】
この法通寺『当山略由緒』のについては、2011年3月発行の『伊方町町見郷土館研究紀要』第1号の武田和昭・高嶋賢二「佐田岬半島地域の彫刻調査」において上記関連箇所が既に活字化されています。あわせて紹介ておきます。




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勝軍地蔵ーこれもお地蔵さんー

2012年09月02日 | 信仰・宗教
写真整理していたら出てきた。南予地方の某所で2009年に撮っていた写真。勝軍地蔵の石仏。これもお地蔵さんの一種。案外珍しいものがあるもんだと思って記憶にはあった。場所はメモしているが、建立年など銘はメモしていないので、無銘だったと思う。

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この橋渡るべからずと言われて

2012年09月01日 | 日々雑記
京都府の京田辺市にある酬恩庵。一休寺とも呼ばれる。

一休宗純のお墓が境内にある。ちなみにお墓は宮内庁の管轄。

一休は後小松天皇の子どもだとも言われ、宮内庁が管理し、中に入ることはできない。



この酬恩庵。雰囲気がいい。枯山水の庭園もあり、心を落ち着かせるのにいい場所。

数年前に、心身疲れた際に、心を整えるために訪れてみた。



そこで出会った小さな橋。

「このはしわたるな」と書かれている。

アニメ一休さんの「このはしわたるべからず」のそれである。

古いものではなく、最近作られたっぽいけれど。



私、思いっきり、真ん中歩いて渡りました。

渡るなといわれようとも、渡ってしまえ真ん中を。

端でもなく、右でもなく、左でもなく。

まっすぐ進めばいい。



と、心のリフレッシュにおすすめのお寺さん。

橋はごくごく一部ですが。

お土産は強烈な一休納豆。

家族には、甚だしい反応がありました。

良いか、そうじゃないかは別として。


今日も、真ん中歩いて、進んでいこう!




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