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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八幡濱第一防空壕の古写真発見!

2001年02月26日 | 地域史
このところ、話題になっている八幡浜市幸町の「八幡濱第一防空壕」。
本日午後、私が別件で八幡浜の弘法大師伝説を聞き取りしようと、松柏の知人宅を訪れたところ、その近所に、この防空壕の昭和16年2月に撮影された古写真を持っている方がいることを教えてもらった。早速、拝見させてもらい、写真撮影もしてみた。
この写真は、所蔵者の父が戦前からのものを丁寧にアルバムに整理されていた中の一枚だった。現在残っている防空壕跡と同じく、丸形の内部屋根になっている。電球や椅子も確認できる。現状とさほどかわりのない写真だ。やはり、この防空壕の現在の保存状態は極めて良好と改めて確認できた。
さて、その写真の脇には付箋が貼られ、「昭和十六年二月竣工、愛媛縣八幡浜市幸町、四国最初之防空壕」と記されていた。事実か否か確認していないが、四国ではじめての防空壕という記述には驚かされた。また、竣工が昭和16年2月であり、未だ太平洋戦争も始まっていない頃である。何故に防空壕を作ったのか、その理由がよくわからない。当時の新聞記事を確認したり、地元幸町の古老からの聞き取りなどで調べてみる必要がありそうだ。

情報提供 大本 2001/02/26

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三崎町のカワウソ伝承

2001年02月26日 | 口頭伝承
西宇和郡三崎町三崎に住む山本義麿さん(大正4年生まれ)から、三崎のカワウソ伝承を聞くことができた。山本さんが少年時代に聞いた話なので、昭和時代初期以前のことになるだろうか。
話の内容は次の通りである。
三崎から高浦に通じる海岸沿いの道は、現在では舗装されて二車線になっているが、昔は小道であった。この小道沿いの海にカワウソが多数生息していた。三崎ではカワウソのことを「オソ」と呼んでいるが、夜遅く、高浦のある男が三崎から帰るため、この道を歩いていると、海の方から「こっち来い、こっち来い」というオソの声が聞こえてきた。男はその声につられて、浜辺に降りて、そのまま海の中にじゃぶじゃぶと入って行き、引き込まれそうになった。そこを通りがかった別の人が、男に何をしているのかと聞くと、「わしは道を歩きよる」と答えた。男は、オソに化かされそうになったことを、そこでハッと気付いたという。三崎では、宴会や葬式などで酒を飲んだ後に、ふらふらしている人がいると、「オソに化かされんなよ」とよく言っていた。実は、高浦への小道ではオソが化かすというので、供養しようということになり、カワウソを彫刻した地蔵を作り、海岸端に他の地蔵とともに祀った。そのカワウソの石像は現在、三崎八幡神社の境内に移されている。三崎方面では、化かしたり、祟ったりする動物を供養するため、カワウソ以外にも、猫地蔵や狸地蔵が作られている。猫地蔵は川本というところにあり、有名な三崎のアコウ樹の上の農道近くに祀られている。また、狸地蔵は、三崎の伝宗寺境内に祀られている。また、三崎にはオソゴエという地名が何カ所か残っている。これは湾の出鼻に小さく窪んだ峠があり、そこをカワウソが通るというので、その地名が付いた。現在でも高浦、正野に残っている。また、三崎町名取では、カワウソに化かされて亡くなった人もいると聞いたことがある。
以上のようなものである。
名取の件については、保内町の木村明人さんから、以前教えてもらった話だが、名取の岡の川にも昔カワウソにだまされて、タネに落ちて死んだ跡、といって地蔵が祀られているらしい。「昭和二年古川清七」という銘の入った石塔があるということだ。

2001年02月26日

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新刊紹介 伊東孝著『日本の近代化遺産』

2001年02月25日 | 日々雑記

昨年の10月に発行された岩波新書、伊東孝著『日本の近代化遺産-新しい文化財と地域の活性化-』を先日購入した。この本は、近年、文化財として注目されはじめた産業遺産を中心に、全国各地の近代化遺産を紹介し、それを地域の資産として、また、町づくりの材料として扱い、地域の活性化を試みている事例を取り上げているものである。著者は日本大学理工学部交通土木工学科教授で、愛媛県にもここ10年ほど毎年、足を運んでいるという。
この本の中で、保内町の鉱山遺跡が取り上げられている。市民運動として産業遺産の保存につとめようとする保内町の「ハイカラなまちづくり」が一事例として記述されているのだ。
愛媛県関係では他に、明浜町のかつての石灰産業や、「日本版マディソン郡の橋」河辺村の屋根付き橋が紹介されている。
比較的、書店で手に入れやすいこの岩波新書(700円)の一読をお奨めしたいと思います。

情報提供 大本 2001/02/25

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サザエさんと真穴の座敷雛

2001年02月25日 | 日々雑記
 
フジテレビ系列「サザエさん」のオープニングソングでは、全国各地の観光名所をサザエさんが訪れるという設定で流れるが、現在放映されている分は、愛媛県バージョンとなっている。もうご存じの方も多いと思うが、その中で八幡浜市真穴の座敷雛が登場しているのだ。
さぞかし、今年の4月2,3日の座敷雛の日は、例年になく観光客が増えて賑やかになることであろう。八幡浜市の観光協会もてんてこ舞いかもしれない。さて、この座敷雛について詳しくお知りになりたいときは、次の文献を参照してもらいたい。
まずは『八幡浜市誌』。これは全国の大きな図書館に行けば閲覧できると思う。第7編観光、第2章年中行事に座敷雛の概要が紹介されている。次に、もっと詳しく知りたい時は真穴小学校が刊行した『まあな』が参考になる。しかし、これを一般閲覧できるのは八幡浜市民図書館くらいなものであろう。まず入手できない地元向けの書籍だ。
さて、もともと真穴の座敷雛は、地元の純粋な民俗行事であったが、近年、マスコミに大きく取り上げられて以降、地元以外の観光客を意識した行事へと変化してしまった。この点を説明した書籍に、日本実業出版社が一昨年発行した新谷尚紀編著『民俗学がわかる事典』がある。マスコミと民俗行事の関係を説明する事例として、座敷雛が取り上げられている。(ちなみに、この執筆者は私・・・。)この本は、松山の大きな書店であれば販売されている。民俗学をわかりやすく説明した一般向けの書籍だ。
以上の三点の書籍を読めば、座敷雛の歴史と現状を把握することができるはずである。
情報提供 大本 2001/02/25


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学芸員の自己内省-民俗展示に思うこと-

2001年02月23日 | 衣食住
 古き良き時代のモノを展示して昔を懐かしむ。懐古主義や一種のロマン主義的に民俗を捉えようとする展示は少なくない。学芸員がそれを意識する、しないに関わらず観覧者はそういった立場で展示を見ることになる。これは民俗展示の一般的な観覧態度であり、民俗が時代とともに伝承されなくなり、消滅しつつあるという考え方に立った見方である。
 民俗展示がそういった側面だけではないことを、平成一一年四月二三日から六月一三日まで愛媛県歴史文化博物館で開催されたテーマ展「裂織りの美・技・こころ-佐田岬半島の仕事着-」の準備に関わることにより実感することができたので、今回、それを書き記しておきたい。その実感とは、民俗展示と地域文化の変容との関わりについてである。
 このテーマ展は、愛媛県歴史文化博物館が収集してきた、佐田岬半島で昭和四〇年代まで使用されていた裂織りの仕事着を中心に紹介した展示である(註1)。裂織りの仕事着は、愛媛では佐田岬半島以外ほとんど確認できない貴重な資料であるにも関わらず、地元佐田岬では、かつて当たり前に使用していたものであって、佐田岬以外には見られないものだという認識は地元の人々には全くなかった。当然、資料保存とか伝承活動を行うといった意識もなく、使用されなくなって捨てられるべき野良着として扱われていたのである。我々は、テーマ展を開催して、この裂織りが全国的にも珍しいものであることを、地元の方々に知っていただきたいと思い、展示を計画した。 展示準備にあたり、博物館館民俗研究科では佐田岬半島へ聞取り調査に頻繁に赴いたが、その際に、現地佐田岬では「裂織り」という言葉を聞くことはなかった。地元呼称としては存在しない言葉だったのである。展示タイトルを決定する際にも、展示担当者の間で、現地で聞くことのできない「裂織り」をタイトルに入れるのではなく、現地名である「ツヅレ」、「オリコ」を優先すべき等の議論があった。しかし、全国で一般的に知られている「裂織り」の方が、人を惹きつけることができると判断し、展示用ポスターにもツヅレの写真を掲載し、これを「裂織り」として広く宣伝したのである。
 案の定、展示閉幕後、地元佐田岬においても「裂織り」の呼称を聞くことができるようになった(特に公的機関の職員や、地元の地域おこしサークルの方々から)。また、佐田岬の先端にある三崎町内では、裂織りが地元文化のアイデンティティを表すものとして、裂織りのロビー展が開催されたとも聞いている。また、平成一二年九月には伊方町でも町見郷土館主催で「ツヅレの現在・過去・未来」という裂織りの展示が行われた。愛媛県歴史文化博物館での展示を契機として、現地の方々が「ツヅレ」を客体化して捉え、「裂織り」という現地名を誕生させたのと同時に、捨てられかけた野良着が一変して、地域文化を象徴するモノに変容することになったのである。展示前には、我々も意図していたとはいえ、その現実を目の当たりにすると、現実に対する責任を痛感することになった。
 民俗は消滅するだけではなく、変容しつつ存続していくという立場に立つのであれば、その変容・存続に、マスコミや観光客と並んで博物館の民俗展示も関与しているのである。展示することで、地元の方々が足元の民俗を見つめ直すきっかけとなるからである。そして消滅しつつある民俗は存続する可能性を持つが、存続と同時に変容を伴う。その変容に対しての責任も展示の際には自覚しておくことが必要なのだろう。
 呼称の新たなる定着は博物館活動による「裂織り」に限ったことではない。例えば常設展示室に展示してある「茶堂」(城川町周辺にある一間四方の茅葺きの小堂)を例に挙げると、「茶堂」という呼称はもともと地元では一般名称として用いられたものではなかったようで、その契機は昭和五三年に文化庁により「伊予の茶堂の習俗」として「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されたことであると言われている。「茶堂」の文化財選択を受けた城川町ではこれを町のシンボルとして町挙げての保存活動に取り組んでいる。「茶堂」が現在では地域文化の象徴として完全に定着しているのである。そして愛媛県歴史文化博物館でも常設展示室にてこれを「茶堂」として紹介している。文化財行政により保存されつつ変容していった例と言えよう。
 このように、博物館活動や文化財行政に限らず、民俗調査や研究を行う上では、民俗が動態的なものであることを認識すべきで、我々学芸員も民俗の変容の渦中にいる存在であるといった「自己の客体化」も必要なのかもしれない。この展示を通してそういったことを考えてみた。


(1)『資料目録第4集 佐田岬半島の仕事着(裂織り)』愛媛県歴史文化博物館、一九九九年
 今村賢司「愛媛県佐田岬半島の裂織りの仕事着」『月刊染織α』二二一、一九九九年

(補注)
上記は「季刊歴博だより」19号(愛媛県歴史文化博物館発行、1999年9月)に掲載した文章を一部改変したものである。

2001年02月23日


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花いちもんめ

2001年02月22日 | 八幡浜民俗誌
花いちもんめ

子供の有名な遊びに、花いちもんめがある。「勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、あの子がほしい、あの子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ」この文句は一般に知られているものであるが、私が学生時代、東京に居たときに、神奈川県湘南地方の友人の文句は「隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない」、「お布団被ってちょっと来ておくれ、お布団ビリビリ行かれない」、「お釜被ってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない」であったという。そして、愛媛県でも東予地方出身の人に聞くと「箪笥、長持どの子が欲しい」と言うらしい。地方によって花いちもんめの文句は異なっているのである。
 さて、八幡浜でもそのような事例があるかと探していたら、『八幡浜市誌』に花いちもんめの歌詞と思われるものが掲載されていた。これは穴井で伝承された文句のようだが、紹介しておく。
 「大川小川、どの子が欲しい、◯◯さんがほしい、連れていんで何食わす、たいや骨だかいか買うて食わす、そりゃ虫の大毒じゃ、天から落ちたかまぼこ三切、それでもいやよ、床の前座布団しいて、かげ膳すえて、手習いいたしましょ、そんならやりましょう」
 この文句に類似する例としては、東海地方の愛知県周辺に見られる「子を取ろ子取ろ」という遊びの文句に非常に似ている。この遊びは鬼ごっこの要素を持つもので、花いちもんめの原型ともいわれている(註:新谷尚紀『日本人の葬儀』)。この穴井の文句は花いちもんめというより、花いちもんめよりも古い形の遊びを残しているのかもしれない。
 さて、花いちもんめでは、「あの子がほしい」と言うときに、必ず足を前に蹴り出す仕草をする。これは相手の列の子供に向かって挑発的に蹴りを入れるというものではない。実は、先に述べたように神奈川の花いちもんめの文句に「お釜被ってちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない」というのがある。花いちもんめは子供が二列に並んで、交互に文句を掛け合うが、実はその列の間に「鬼」がいると解釈できるのである。鬼が真ん中にいるからこそ、「鬼が怖くて行かれない」ということになるのである。つまり、蹴り出すポースは、実は無意識のうちに二列の間にいる鬼を蹴散らそうとする行為と見ることができる。東予地方や近畿地方で聞くことのできる「箪笥・長持どの子がほしい」は、まさに結婚を意識した文句であり、鬼の存在が忘れられて、めでたい遊びへと変化したと考えることができる。これは愛知地方の「子取ろ子取り」の発展型ともいえる。
 つまり、穴井の文句は鬼は忘れられているものの、「子取ろ子取り」の初期の型を保っており、東予や近畿のような発展型ではないということで、古来的な遊びが地元に伝承されていたと言えるのである。

2001/02/22 南海日日新聞掲載


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「たまげる」の語源

2001年02月22日 | 口頭伝承
驚くことを、この辺では「たまげる」という。夏目漱石の『坊ちゃん』では「たまげる」を「魂消る」と表記している。日本国語大辞典によると、「げる」は「消える」の変化したものと注記した上で、「肝をつぶす、驚く、びっくりする」等と紹介している。江戸時代の方言の参考になる『物類称呼』によると「物に驚くことを、東国にてたまげると云(略)薩摩にては、たまがると云」とある。この方言は、愛媛だけでなく、全国的なもののようだ。
私は薩摩(九州)の「たまがる」に注目してみたい。私の大分県の友人も「たまがる」を使っているが、実は室町時代の日本語の辞書として有用な『日葡辞書』には「Tamagari」とあり、中世の日本でも「たまがる」を使っていたことがわかる。ただし『日葡辞書』は当時のポルトガル人宣教師が日本語を習得するために編纂されたものであり、長崎をはじめとする九州の言葉が採用された可能性があるから、「たまがる」が古くて、そして「たまげる」へ変化したとは言い切れない。しかし、中世に「たまげる」の用法が見あたらないようで、やはり「たまがる」の方が古いのだろう。
私が気になるのは日本国語大辞典や『坊ちゃん』で記された「魂消る」という説明である。「消える」とするには「たまがる」の「がる」が説明できない。これはもしかして、「魂離る」なのではないだろうか。古語で離れるを意味する「かる」である。
驚いて魂が消えて無くなってしまうというというより、驚いて魂が離れてしまいそうになった。こちらの方が感覚的にも合致するのではないだろうか。つまり、もともとは「魂離る」であったのが、変化して「たまげる」となり、「魂消る」という当字が江戸時代に派生したのだろう。私はそう推測してみたがどうだろうか。

(注記)2/23
「魂離る」についての補説
宮崎県民俗の会の渡辺一弘氏によると、宮崎県でも「たまがる」と同時「たまげる」も使い、過去形が「たまがった」「たまげた」となる。一般的には「ひったまがった」と強調させて頻繁に使うとのこと。渡辺氏の教えていただいたのだが、沖縄では驚いた後にあわてて手のひらで自分に風をあおぎ、飛び出たマブリ(魂)を集めるそうだ。30歳代の人でもついやっており、魂は複数、体の中にあって、そのうちのいくつかが驚いた瞬間に体から逃げてしまうというイメージのようです。

2001年02月22日

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差別と民俗学

2001年02月22日 | 民俗その他
南海日日新聞に連載中の「八幡浜地方の民俗誌」(2001年1月25日付け)に「姫塚とらい病」を執筆した。これは、地元のらい病(ハンセン病)に関する伝承を紹介する内容であったが、実はこの文章を執筆しようと思い立ったのは、1月13日付の毎日新聞の記事を読んで、憤慨したからであった。
記事の内容は、戦後間もなく、らい予防法による患者の隔離政策を継続するかどうか国が検討した際に、戦前段階には既に特効薬がアメリカで発明されていたにもかかわらず、らい病に関する権威である医師が、引き続き隔離政策の継続を求めた発言をし、そのまま1996年までその政策は続いてしまったといった内容である。差別も甚だしく、近年の薬害エイズ問題を彷彿とさせられた。(らい病の隔離政策については、三宅一志氏の『差別者のボクに捧げる』が詳しく、これはらい患者の苦難の人生をルポした内容である。)
らい患者に限らず、障害者や非差別の問題については民俗学では、従来取り扱うことが少なかった。近年は、近畿地方を中心に、被差別の民俗伝承が報告されているが、差別の根絶を目指す手段として、地元の民俗伝承の発掘と、その分析を行わなければいけないと思っている。
森首相の「日本は神の国」という発言に象徴されるように、日本はいまだ、近代に成立した国家神道的な思想が根強く、未だ「排他」「排除」の社会構造が残っている。
これを地域の伝承文化の論理構造の分析を通して、一度、近代的思想を突き崩し、21世紀にふさわしい、あらたな日本的社会構造を創造するべく、民俗学は貢献しなければいけないと思っている。

2001年02月22日

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新刊紹介『猿丸大夫は実在した!』

2001年02月21日 | 口頭伝承
先日、松山市の創風社出版から『猿丸大夫は実在した!』という本が刊行された。著者は南予地方の歴史や民俗に造詣の深い三好正文氏。三好氏の文体や論法は謎解きめいていて、読んでいて非常に面白く、惹き込まれるように読破してしまった。感想については、別途機会を設けて書いてみたいと思うが、一つ気付いたのが、「猿丸大夫」の記述方法である。三好正文氏著では「猿丸大夫」で統一されているが、最近刊行された『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)でひいてみると「猿丸太夫」となっている。『伝奇伝説大辞典』も同じである。「大」ではなく、「太」であった。『日本昔話事典』も「太」である。
ところが、『日本民俗大辞典』と同じ出版社(吉川)から出ている『国史大辞典』では「猿丸大夫」であった。
辞書に頼らず、原典を見てみようと思い、群書類従14「猿丸大夫集」(平安時代初期の成立)を見ると「大」となっている。
歴史系の辞書には「大」を使い、民俗系の辞書には「太」を用いる。これはどういったことなのだろうか。
古代の貴族の世界にあって五位以上を大夫(たいふ)と呼んでいるが、そうなると、猿丸大夫は「さるまるのたいふ」と呼ぶべきものなのだろうか。令外の官につける大夫は「だいぶ」と呼んでいるから、「たゆう」の呼び方はいつからでてくるのか勉強不足で私はよく知らない。よく、大夫は中世以降、太夫と区別されなくなり、神人・芸能集団も太夫(たゆう)を名乗るようになるが、そこで私が思ったこと。
猿丸大夫の伝説は中世以降に、俵藤太のムカデ退治と同様、各地に伝播していったが、中世以降は「大夫」も「太夫」も区別されず、猿丸は「太夫」とも称されるようになったのだろう。民俗系の事典類が「太夫」を採用しているのは、中世以降の伝説を中心に説明しているため、そうなったのではないか。かたや歴史系の事典は文献に忠実にあらねばならぬということで、「大夫」を採用したのだろう。
しかし、三好氏の『猿丸大夫は実在した!』は、南予地方の歴史に興味のある方には是非読んでもらいたいと思う。郷土の歴史に対する熱い思いが伝わってくるのだ。

2001年02月21日

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大正時代のフィルム

2001年02月20日 | 祭りと芸能
宇和島市立図書館に、大正14年11月に大和映画が製作した映画フィルムが保管されてある。平成11年に私は図書館を訪れ、このフィルムを実見することができた。このフィルムは、北白川宮大妃殿下が当時、宇和島に来られた時の記録で、宇和島の人々が妃殿下を迎えるために、様々な行事を行い、その様子が記録されている。鶴島公園にて南予名物を台覧される様子は祭礼資料として実に貴重なものだった。大正時代の牛鬼、四ツ太鼓、獅子舞、八ツ鹿踊りが映像として残っているのだ。戦前に廃れてしまった凱旋桃太郎まで映ってあった。八ツ鹿踊りの説明テロップでは「起源は遠き神代の神秘を伝えて優艶に情想は歌詞にあふれ、畏しくも東宮殿下台覧の栄を賜りたる郷土芸術の誇り」とある。現代の言説である、仙台からの伊達家の入部によって伝わったとは決して説明していない。
和霊土俵での闘牛のシーンも映っており、昭和4,5年の昭和恐慌で闘牛が一時衰退する以前の活気のある時代の姿が見ることができる。宇和島の民俗を考える上で、実に貴重なフィルムである。

2001年02月20日


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「地方」と「中央」、そして「地域」

2001年02月18日 | 地域史
今の私は、郷土を語る時に「地方」という言葉を極力使いたくない。(南海日日新聞に連載中の「八幡浜地方の民俗誌」では「地方」を使っているが・・・。)
「地方」というと、どうしても対比語として「中央」が思い浮かんでくる。八幡浜が「地方」だとすると「中央」は東京であろうか。私は学生時代を東京で過ごし、就職の縁あって地元に帰郷したわけだが、正直「都落ち」したという感覚があった。東京に居れば、情報・物・人など様々な面で「地方」よりは恵まれていると頭の中は凝り固まっていたのだ。
日本列島は、山の頂きのように東京という「中央」が高い所にあって、「地方」は低いところに位置する。情報も、高いところから順に降りてきて、「地方」に届くまでには時間がかかる、もしくは降りてこない。「中央」に対するコンプレックスに私の20代半ばは苛まれていた。
ところが、ここ数年、インターネットが普及して、「地方」にいても情報不足に悩むことはなくなりつつある。しかも、自らホームページを作成して、「地方」からの情報発信も可能となった。
高くそびえるように見えていた東京という「中央」の山が、少し低く見えるようになってきたのだ。
私は、そこで「地方」という言葉を捨ててみようと思った。「地方」ではなく、「地域」だ!と。
東京も一つの地域であり、ここ八幡浜も地域である。どちらも平等であり、それぞれの個性を持っている。
最近はそのように思えるようになった。
さらには、国家という枠組みにも疑問を持ってしまった。政治、軍事上は国家は必要だが、人の生活情報に国境はもはや関係ない(とまでは言い切れないが、将来はそうなるかもしれない。)私が個人のホームページで英語バージョンを作ってみたのも、そういった理由からである。(下手くそな英語ではあるが・・・。取りあえず海外からのレスポンスがあるから、それで良しとしている。)
「地方」からそれぞれ個性を持った「地域」へと発想を転換することで、郷土への眼差しが違ってくるような気がする。言葉は悪いが、井の中の蛙的な郷土史は、内からの眼だけの作業であった。「地域」を考え、内からだけではなく、外からの眼でも郷土を見つめることができれば、かつての自分のコンプレックスが解消するのだろう。濱知の会でも、無意識のうちに「中央」と対比させられる「地方」ではなく、個を抱いた「地域」として地元を見つめる作業ができればいいと考えている。

大本敬久 2001/02/18

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大法寺観音堂の青石細工

2001年02月18日 | 地域史
先日、八幡浜市大門にある大法寺を参拝した。境内にある市指定文化財のマリア像を拝むのが目的だったが、この寺の本堂といい、鐘楼、観音堂といい、彫刻に念の入った建築なので観察してきた。
大法寺の観音堂の名物?といえば、濱知の会参加者でもあるフリーライター岡崎直司氏が著した『歩キ目デスは見た!』(創風社出版、1997)の中で紹介しているところであるが、建物の基礎石に、瓢箪徳利と盃が刻まれているのだ。基礎石は、青石(緑泥片岩)を用いているが、観音堂左奥にさりげなくレリーフされている。建物を建造する際に石工が遊び心を働かせて、この意匠を残していったのだろうか。
同じような意匠(瓢箪徳利と盃)は、近くの八幡神社の石垣にもあると岡崎氏は紹介している。この造営時期は文政年間で、どうやら広島から石工が来たという話が伝わっているらしい。
さて、瓢箪徳利に盃とくれば、思い浮かべるのは酒を飲むことである。神社であれば、神事の際に神酒として酒を頂戴することがあるが、寺では基本的には禁酒である。寺の入り口によく「不許葷酒入山門」という石柱が立っているが、これは臭気の強い野菜や酒を口にした者は寺に入ってはいけないという立て看板である。酒は修行の妨げにあるといい、本来、寺には酒はタブーなのである。
ところが、大法寺観音堂基礎石には、隠れた位置ではあるが、酒にまつわる徳利、盃の意匠が施されている。
私はこれを建築時の石工の勇み足だと感じるのだが、どうだろうか。

大本敬久 2001/02/18

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山下宅治の詳細について

2001年02月17日 | 地域史
 
現在、八幡浜新聞において、今泉昌博氏が「波濤の彼方に夢を求めて」という山下宅治の生涯を綴った原稿を連載しています。
アメリカ移民研究の貴重な報告です。
興味のある方は八幡浜新聞をご参照下さい。
情報提供 大本 2001/02/17

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アメリカ移民の先駆者山下宅治

2001年02月17日 | 地域史
 
明治時代、アメリカ移民の先駆者として活躍した向灘出身の山下宅治。
先日、全国ニュースでも放映されましたが、彼はワシントン大学で学び、司法試験にパスしながら、排日運動の影響で弁護士資格を取得できなかったという苦難を乗り越え、実業家として成功した人物です。
さて、その彼が、100年ぶりにワシントン州の法曹界から名誉会員として認定されることになりました。時をこえて名誉回復が実現するのです。
その認定の式典が3月上旬にシアトルで行われ、ご子孫が招かれるようです。濱知の会では、その式典の帰国報告会を3月中~下旬に行うべく、調整しています。

情報提供 大本 2001/02/17

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八幡濱第一防空壕

2001年02月17日 | 地域史
 
2月10日前後の地元紙でも大きく取り上げられていたが、八幡浜市幸町に、戦争遺跡でもある大規模な防空壕の全容が明らかとなった。
この防空壕の入口には「八幡浜第一防空壕」というプレートが刻まれており、中は奥行10メートル、天井の高さは2メートル。内部はコンクリートで内装が施され、野堀りの防空壕のイメージとはほど遠い、まさにシェルターといった感じ。トイレや洗面所も完備され、戦争遺跡として非常に保存状態がよい。地元紙によると、この防空壕は朝鮮人労働者によって建設されたことや、建設に際して周囲の家屋を取り壊したという。
私も、見学に行ってみたのだが、地元の戦争(平和)学習に利用されるべきものと思う。保存の方向で話を進めてもらいたいものだ。

情報提供 大本 2001/02/17

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