愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

峠の歴史と文化

2006年07月22日 | 地域史
※松山のNHK文化センターの町並み現地見学で、宇和の峠について話をしてほしいとの依頼があり、その際に配布したレジュメの内容です。

峠の歴史と文化 18.7.22

1 峠(トウゲ)の語源
 「山の多和(タワ)より御船を引き越して」(古事記)・「タオ」(日葡辞書)
「トウ」徳島県美馬郡・愛媛県・高知県幡多郡・大分県の方言(日本国語大辞典)
語源説①「タムケ(手向け)」の変化。通行者がここで道祖神に手向をして旅路の安全を祈願
 語源説②「トウ越え」が約まったもの。

2 峠は境界か? 峠口の集落は行き止まりか?
 ①境界であると同時に、峠の両側の集落は生活上深く結びつく。
 ②境界的要素が強いのは、峠と坂(さか):語源は境(さかい)坂迎え:伊勢参宮・四国遍路・石鎚登拝から帰参する時に家族が村境まで出迎える風習。★峠地形ではなく坂地形なのに「大峠」。
 ③境界ゆえに怪異伝承が多い。法華津峠のウワバミと田野久(たのきゅう)

3 笠置峠(宇和‐八幡浜)の歴史
 ①古墳時代の笠置峠:四国西南地域では唯一の前方後円墳(笠置峠古墳)が山頂近くある。宇和からも八幡浜からも眺望できる。佐田岬半島からも見える。のちの石野郷の中心?
 ②古代~中世の笠置峠:石野郷(和名抄)・室町時代の安養寺大般若経の勧進範囲は現在の八幡浜・三瓶まで及ぶ。
 ③近世の笠置峠:宇和旧記記載の岩野郷の範囲は八幡浜・三瓶まで及ぶ。三瓶神社の石垣や絵馬奉納者名を見ると、宇和・三瓶・八幡浜・明浜の者が奉納。なお、九州から来た遍路の遍路道。
 ④近代の笠置峠:宇和町岩木の三瓶神社の氏子は、八幡浜側まで広がっていたが、明治20年代の町村制の影響で、八幡浜側が氏子抜けする。明治40年代に自動車道路が鳥越峠に開通し、通行者が減少。←峠の境界化・宇和と八幡浜の分断。

4 峠の近代化事例
 ①大洲市肱川町中津の峰峠(ミネントウ):内子の木蝋生産のハゼの実・五十崎の和紙原料のミツマタなどが運ばれる峠。旅館・飲食店・蹄鉄鍛冶・床屋・時計修理店・骨接ぎ・山伏等が居住。昭和初期に峠下に自動車道路が開通し、急速に衰退。
 ②西予市宇和町の文治ヶ駄馬:宇和島と野村を結ぶ主要街道。旧街道が今も残るも寂れた状態。
 ③西予市宇和町の大窪越え:大窪山の山頂にあった福楽寺が戦後まもなく、麓に移転。

5 峠を越えた郷(村落結合):宇和旧記より
 ①岩野郷:郷内・上岩木・下岩木・小原・清沢・馬木・杢所・田苗・真土・坂戸・伊崎・中村・平野・窪・常定寺・鴫・大江・東多田・河内・岡山・伊延・津布理・影之平・釜之倉・若山・中津川・布喜之川・河舞・国木・牛名・田浪・古薮・安土・朝立・有網代・有太刀・皆江・雁浜
 ②山田郷:山田・鞍貫浦
 ③永長郷:明間・下川・皆田・伊南坊・伊賀ノ上・鬼ヶ窪・明石・新城・松葉・下松葉・上松葉・神領・久枝・野田・小野田・永長・高山・法花津・俵津・深浦・渡江

(参考)
・「宇和」の初見:日本書紀持統天皇5年条:伊予国司田中朝臣法麻呂が宇和郡御間山の白銀を献上。
・平城宮出土木簡に「宇和評」あり
・「日本三代実録」貞観8(866)年:宇和郡を分割し宇和・喜多郡となる。
・和名抄の宇和郡:郡内に石野・石城・三間・立間の4郷あり。
(喜多郡は矢野・久米・新谷、宝徳元年(1449)室町幕府下地状「宇和北郡」)

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