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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

『弘法大師空海展』図録掲載「1200年前の空海」5

2014年06月19日 | 信仰・宗教
【註記】
(1)頼富本宏「空海・弘法大師と善通寺」(香川県歴史博物館編・発行『創建一二〇〇年空海誕生の地 善通寺』2006年、6頁)
(2)上山春平『朝日選書461 空海』朝日新聞社、1992年
(3)『平成23年度企画展「四国へんろの旅―絵図・案内記と道標」図録』愛媛県歴史文化博物館、2012年、44頁、今村賢司執筆
(4)早稲田大学文学部道空間研究会編、発行『現代社会と四国遍路道』、1994年、21頁、および『四国遍路のあゆみ(平成12年度遍路文化の学術整理報告書)』、愛媛県生涯学習センター、2001年、184~185頁
(5)森正人「『空前絶後!』四国八十八ケ所霊場出開帳―スペクタクルとしての巡礼と巡礼空間の生涯―」(『人文論叢(三重大学)』第22号、2005年、78~80頁)
(6)註5に同じ。
(7)註3に同じ。45頁
(8)註5に同じ。79頁
(9)拙稿「厄年の民俗―愛媛県の事例―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第8号、2003年)
(10)『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年、「厄年」の項、佐々木勝執筆
(11)小池淳一「厄年と陰陽道―儀礼史的理解をめざして―」(『儀礼文化』第25号、儀礼文化学会発行、1998年)
(12)註9に同じ。
(13)『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。なお、江戸時代における厄除け大師の信仰の歴史、変遷については川崎大師平間寺(神奈川県、真言宗智山派)の事例が参考となる。『川崎大師の寺宝と信仰展図録』(川崎市市民ミュージアム編、発行、2013年)によると、川崎大師において厄除け信仰が興隆したのは1700年代後半以降であり、そのきっかけは徳川御三卿の一つ田安宗武が宝暦6(1756)年に42歳の厄除け祈願に宝篋印塔を寄進し、その後、11代将軍徳川家斉が寛政8(1796)年に25歳の前厄に、次いで文化10(1813)年に42歳の前厄に厄除け祈願、参詣をしたことであった。この将軍の厄年参詣の開始が庶民への厄年慣習の広がりの契機となった可能性もあり、真言宗寺院において42歳厄年伝承の創出される素地が18世紀後半から19世紀前半に出来上がっていたと推察できる。
(14)註9に同じ。
(15)幼学の会編『口遊注解註』勉誠社、1997年
(16)『日本古典文学大系15源氏物語二』岩波書店、1959年
(17)『新訂増補故実叢書』第22巻、明治図書出版、1952年
(18)註9に同じ。
(19)拙著『触穢の成立―日本古代における「穢」観念について―』創風社出版、2013年
(20)岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』続群書類従完成会、1994年
(21)新谷尚紀「ケガレの構造」(『岩波講座日本の思想』第6巻、2013年)
(22)三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、2010年
(23)三橋正「神仏関係の位相―神道の形成と仏教・陰陽道―」(ルチア・ドルチェ、三橋正編『「神仏習合」再考』勉誠出版、2013年、29~61頁)
(24)註23に同じ。
(25)註23に同じ。
(26)武内孝善「空海は東寺を下賜されたか」(『日本歴史』第779号、2013年)
(27)註26に同じ。
(28)註26に同じ。



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『弘法大師空海展』図録掲載「1200年前の空海」4

2014年06月18日 | 信仰・宗教
4 空海の時代
 筆者は以前、「穢」という漢字を古代の史料から抽出、分析したことがある(19)。奈良時代には「穢シ(キタナシ)」や「穢ス(ケガス)」といった形容詞、動詞としてのみ使われており、「穢」が「ケガレ」という訓で一文字名詞として用いられることはないことを指摘し、古代において「穢」そのものにも歴史的変遷が見られることを強調し、「穢」の一文字名詞の初見が『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条であり、承和年間以降、名詞としての穢(ケガレ)は各種史料に頻出することになることを明らかにした。このような名詞化は一種の「ケガレ」の「概念化」であり、この時期に穢観念(穢に触れることを忌避する感覚)が強調されるようになったことを物語っている。空海が入定したのは承和2(835)年であり、その同時代に「穢」の歴史的変遷が見られたわけである。以下、「穢」自体の変遷の様子と、空海の生涯の活動が「穢」観念の変遷に与えた影響について考えておきたい。
まず、古代における「穢」を歴史的に見ていくと、触穢成立以前の奈良時代においては、「穢」は漠然とした概念ではあったが、そこにも時代的変遷があり、特に高野(孝謙、称徳)天皇期には朝廷に対する反逆心を意味するものとして「穢」が強調されることが多く、特に朝廷に対する反逆心として「穢シ(キタナシ)」が頻出する。例えば藤原仲麻呂の乱の際に仲麻呂に対して勅(天皇自身の言葉)として「穢キ奴(キタナキヤッコ)」と呼び、また宇佐神宮託宣事件の際には和気清麻呂が名前を清麻呂から「穢麻呂」と改称させられている。これを「ケガレマロ」と呼ぶのではなく、朝廷の正史である『続日本紀』には「キタナマロ」と訓が付けられている。これも「ケガレ」の名詞化、概念化が未だなされていなかった証拠の一つでもある。
「穢」の一文字名詞の初見は平安時代初期、承和3(836)年であるが、これには穢観念の変容をもたらす時代的背景があった。その一つが「律令祭祀制」から「平安祭祀制」への変化であったといえる(20)。律令祭祀制とは、大宝律令やその後の養老律令の中の神祇令を基礎とする神祇祭祀制度であり、律令の中に定められた神祇官による祈年祭、月次祭、新嘗祭等中心の祭祀の運営が行われた奈良時代の祭祀形態であった。全国官社への幣帛班給(班幣)制度を主としており、「班」とは「班田収受の法」の「班」ように「わかつ、わける」の意味である。この「わける」主体は朝廷であり、朝廷が神社に幣帛を与えるというように、朝廷が上、神社が下と認識される制度であった。それが、平安時代初期になると幣帛班給制度から京畿内を中心とする有力大社への奉幣制度へと変化していく。「班給」から「奉幣」、つまり朝廷側から幣帛を神社に「たてまつる」意識が強くなっていった。また、旧来の律令祭祀に規定された以外の臨時祭が重視されるようになり、天皇の神社行幸も盛んとなった。このような状況のもと古代律令制の解体に連動して、天皇が「神聖なる祭祀王」として純化していき、同時に政治の執行を担う摂関貴族が誕生し、西暦800年代に「天皇祭祀」と「摂関政治」の相互補完という平安祭祀制が形成されていったのである。それに伴って天皇や神社、そして朝廷そのものが「清浄性」と必要不可欠とする時代へとなっていき、「清浄性」が強調されると同時に、排除される対象として「穢」が意識され、それに触れることが忌避されるようになった(21)。
さて、一文字名詞化された「穢」つまり「触穢(しょくえ)」は承和年間以降、史料に頻出することになるが、貞観年間(859~877年)までに、「穢」は具体化、細分化していく。例えば『日本三代実録』の記述を見ると、単に「穢」ではなく、「人死穢」、「犬死穢」、「犬産穢」、「失火穢」など「○○穢」という用例が出現するようになる。これは穢の具体例の出現といえる。
このように、承和から貞観年間にかけて、ついには令や式(令の施行細則、弘仁11(820)年頃に『弘仁式』が編纂されている)による規定では対応できなくなり、『貞観式』(貞観13(871)年成立)において「穢」が明確に規定されることになった(22)。その規定により「穢」は一層固定概念化していき、この段階で、制度、認識の両次元において「触穢」が成立したといえる。
「穢」の時代的変遷や「触穢の成立」が天皇祭祀と神祇信仰の変容と密接に関わっていることを述べたが、変容の要因は当時の「神祇信仰の覚醒」というべきであり、その外的要因が仏教(密教)の宮中への浸透と天皇の「身体化」であったといえる。
その平安時代初期の仏教について三橋正氏は、仏教がこの時代、日本的な展開を遂げたとする(23)。つまり、従来の仏教史研究の中で空海や最澄が中国からもたらした「平安新仏教」が強調されてきたが、この時代で重要なことは、天皇自身が仏教への理解も深め、自らの来世を託すようになったことであるという。これは奈良時代の聖武天皇や高野(孝謙・称徳)天皇とは異なっており、天皇自身の仏教理解の深化というよりも、より正確にいえば「仏教の身体化」であった。それ以前、奈良時代の南都六宗(法相、三論、律、倶舎、成実、華厳宗)は、後の宗派とは異なり一寺一宗ではなく、一種の学派のようなものであったため、経典類の理解、解釈に重きが置かれていた。密教についても奈良時代の密教を「雑密」と表現するように、体系化されたものではなく、いまだ「仏教の身体化」がなされていない時代であったといえる。平安時代初期に「身体化」が進んだことを象徴する事例が「臨終出家」といわれる儀礼の定着であり、このことは三橋正氏により紹介されている(24)。この「臨終出家」は自らの死の直前に僧侶を招いて戒を受ける儀式のことで、その初めての例は承和7(840)年に崩御した淳和上皇であり、嘉祥3(850)年に崩御した仁明天皇も同様であった。この「臨終出家」は仏教経典類には記されていない日本独自の儀礼であるが、この時代に天皇(もしくは広く捉えれば貴族社会)において来世観の大転換があった。源信『往生要集』の成立と浄土信仰の隆盛はその100年以上先のことになるが、この西暦800年代前半に天皇の「死」を仏教に託すことになったのである。これは「死」を仏教に託して、「神道」(神祇信仰)から切り離すことになり、祭祀や神祇信仰の中で「死」を「穢」と明確にみなすようになる時期と重なっている(25)。(同時に「穢」を極端に忌避する神祇信仰へと変容していった。)
 この「臨終出家」を行ったのが淳和上皇であるが、淳和上皇は弘仁14(823)年4月から天長10(833)年2月の天皇在位の時期に空海を密教阿闍梨として厚遇していた(26)。
 一般に空海を厚遇したのは淳和天皇の前の嵯峨天皇であり、緊密な関係であったことはよく知られている。しかし、この点は武内孝善氏によると、緊密な関係とはいうものの、それは主として書、漢詩文を通してのことであって、新たに中国から伝えた真言密教を受持した「密教僧としての空海」を評価して厚遇していたかといえば、それほど重きを置いていなかった(27)。それは嵯峨天皇在位14年間で、空海と嵯峨天皇が密教を通して交流しているのは史料上では、弘仁2(811)年10月に乙訓寺別当に任じられたこと、弘仁7(816)年7月に高野山を賜ったこと、弘仁13(822)年2月に東大寺に戒壇道場を建立し、息災・増益法を修するように命じられたという以上の3例のみであったことからもわかる。そして、空海が国家的修法に関与してくるようになったのは淳和天皇が即位して以降のことであったことは、一次史料から明らかにされている(28)。
 以上のように、嵯峨天皇期の空海は書家や文学者としての天皇との関わりであったのが、淳和天皇期になって頻繁に国家的修法に関わり、宮中での密教修法の実践もなされていく。その結実が承和2(835)年正月の後七日御修法であり、天皇にとっては仏教(密教)を信仰し、自らの「死」を仏教に託す思想へと変容していったのである。生前は密教修法に身を託し、「死」をも仏教に託すことはまさに「身体化」といえるが、空海が実践した密教そのものが「身体化」をうながすものであったともいえる。密教の中で最も重要視される「大日如来」が真理をそのまま人格化した法身であったり、この身のままで仏になることのできる「即身成仏」の思想も「身体化」と繋がっている。つまり身体(身)、言葉(口)、心(意)を仏と一体化するといった「三密加持」が「即身成仏」を実現するための密教的な身体技法を体系化したものであったわけで、空海の思想、実践が様々な「身体化」を覚醒させる要素を持ち、その実践が宮中にまで及ぶことによって、それまでの神祇信仰をも覚醒させた。その過程で「触穢」を成立させ、それを排除することによって清浄性を保つようになることで、現在にまでいたるような神祇信仰へと変容する契機となったのである。つまり穢の概念の確立、固定化による「穢の忌避」は、天皇祭祀や神祇信仰側においても「身体化」が進んだとも言え、その基底に、空海の思想、実践の影響があったといえる。
このように、空海が唐から請来した経典類によって仏教の理解が深化し、空海による密教の弘法活動により「平安新仏教」が展開していったといえるが、本稿で述べてきたように、1200年前の空海の時代を理解するには、従来の仏教史的側面だけではなく、「穢」や神祇信仰の時代的変容と、貴族社会(天皇)における仏教の「身体化」といった視点でも歴史的展開を把握しておく必要がある。これを空海の生涯、事蹟と関連させて考えることで、後の時代(現代にいたるまで)の日本文化に対する空海の影響力を再認識することができる。そして今後、その研究が深化されることで、平安時代初期の仏教や神道をとりまく状況を起点とした新たな日本文化論が構築される可能性をも秘めているのである。


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企画展「えひめ災害の考古学」及び関連講座

2014年06月18日 | 災害の歴史・伝承

災害関連で注目している展示。

今週末6/21開幕。

愛媛県生涯学習センター・公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター共同企画展

「えひめ災害の考古学 -災害の過去と未来を結ぶ-」

会場は松山市上野町の愛媛県生涯学習センター。

私も7/27(日)にこの展示の関連講座で喋る予定です。「愛媛の地震・津波の歴史と伝承」。

詳細はこちら。

http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/fukyukeihatsu/kyosaiten/kyodokikauten/H26_kyodokikakuten/H26_kyodokikakuten.html


関連講座(会場は愛媛県生涯学習センター)

■第1回講座:6月28日(土) 13:30~15:30・大研修室
 「南予地方で記録された安政大地震」
  柚山俊夫氏(伊予高等学校)
■第2回講座:7月13日(日) 13:30~15:30・大研修室
 「発掘調査からわかる災害痕跡」
  藤本清志氏(公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター)
■第3回講座:7月27日(日) 13:30~15:30 ・大研修室
 「愛媛の地震・津波の歴史と伝承」
  大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)

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歴博フォーラム「日本各地の盆行事と葬送墓制の最近の変化」

2014年06月17日 | 日々雑記
今週末6/21(土)は東京新宿へ。歴博フォーラム「日本各地の盆行事と葬送墓制の最近の変化」に参加してきます。

※定員満了のため申し込みを締め切ったそうです。

日程 2014年6月21日(土)
時間 10時30分~17時00分
場所 新宿明治安田生命ホール
定員 320名(先着順) 
主催 国立歴史民俗博物館

開催趣旨
本フォーラムは、平成25年度制作の民俗研究映像「盆行事とその地域差」の上映を行ない、それをもとに現代の日本社会で起こっている葬儀や墓の民俗変化について考えてみるものです。第一に、伝統的な日本各地の盆行事の地域差とその意味についての解読を試みます。第二に、長いあいだ土葬であった近畿地方の農村部でも最近急速に火葬化が進んでいますが、その火葬化が何をもたらしているのか、その変化と意味についての解読を試みます。

この研究映像は、第1部「盆行事とその地域差-盆棚に注目して-」、第2部「土葬から火葬へ-両墓制の終焉-」からなっていますので、現在の日本各地の盆行事や墓の変化について、その実態を見ていただくことができます。

そして、講演と討論では、戦後の日本民俗学がやや等閑視してきた柳田國男が提唱した比較研究法の視点と方法について、その可能性を追跡し再確認して、民俗学の学問としての独自性、独創性を理解していただけるようにわかりやすく解説します。

プログラム
10:30~10:35
館長挨拶 久留島 浩(国立歴史民俗博物館長)
10:35~11:10
趣旨説明 関沢まゆみ(国立歴史民俗博物館)
「盆行事の民俗史/火葬化の現在史」
11:10~12:00
民俗研究映像(第1部)「盆行事とその地域差-盆棚に注目して-」
12:00~13:00
休憩
13:00~13:30
民俗研究映像(第2部)「土葬から火葬へ-両墓制の終焉-」
13:30~13:55
講演1・新谷尚紀(國學院大學)
「葬儀は誰がするのか、してきたのか?-血縁・地縁・無縁-」
13:55~14:20
講演2・大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)
「祖霊とみたまの歴史と民俗」
14:20~14:45
講演3・小田島建己(東北大学大学院)
「葬法と衛生観念-山形県内の事例を参考にみる移り変り-」
14:45~15:10
講演4・武井基晃(筑波大学)
「沖縄の祖先祭祀と自動車社会化」
15:10~15:30
休憩
15:30~15:50
コメント・小川直之(國學院大學)
15:50~16:50
総合討論
16:50~16:55
閉会挨拶
総合司会:内田順子(国立歴史民俗博物館)


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宇摩史談会記念講演会~1200年前の空海と四国~

2014年06月16日 | 日々雑記
今月末の6月29日、四国中央市で空海の話をします。歴博での弘法大師空海展も終了したあとなので、展示とは絡まず。ちょっとタイムリーというわけにはいきません。ただ、空海について話す機会は今後予定がないので、今回が最後だと思って、なんとかつとめあげるつもりです。


日時 6/29(日)10:30 ~ 12:00

会名 宇摩史談会記念講演会

演題 弘法大師空海の生涯~1200年前の空海と四国~

会場 ホテルグランフォーレ

問合せ先はこちらに載っています。

http://www.city.shikokuchuo.ehime.jp/shisei/kouhou/kouhoushietsuran/index.files/H26_6p26-27_event.pdf

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空海と藤原道長

2014年06月13日 | 日々雑記

先般8日に閉幕した空海展。お借りしていた展示資料返却の旅。広島から大阪、京都方面を行脚中です。

京都宇治。藤原道長が葬られた木幡の浄妙寺跡の近くを通って、思い浮かんだこと。

昨年から空海展の準備していて、空海の生涯は藤原道長の生涯と重なるなぁと思いつつ、単なる偶然なので無視していましたが、今の高野山が隆盛するきっかけが道長の参詣だったり、入定した空海に道長が対面するといった話の流布など、空海と道長の関係は結構面白い。

空海は15歳で阿刀大足に学び、18歳で大学に入り、31歳で唐に渡り、42歳で密教流布の活動を本格化し、54歳に内裏で祈雨法を修し大僧都になり、62歳3月21日に入定。

道長は15歳で従五位下に叙爵、18歳で侍従になって、21歳で父兼家が摂政になり急に出世、30歳で内覧、31歳で左大臣になる、42歳で金峯山詣、62歳で薨去、ちなみに道長は54歳で出家するが、その日が3月21日。空海の命日。

空海と道長。人生の転機となる年齢が似ている。けど、やはりこれ偶然。書いても仕方のない戯言。

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部落解放・人権研究所主催歴史研究会

2014年06月09日 | 日々雑記

先般6月7日(土)は14時〜17時、大阪人権博物館にてケガレ(穢)の歴史について話をしまてきました。解放・人権研究所主催の歴史研究会。

大学院時代に書いたことをベースに話すのですが、気がつけばもう20年も前に調べたこと。

研究会終了後は解放・人権研究所や大阪人権博物館の職員さんとの懇親。

得ることが多くて、実りのある一日でした。

20年間、放置していたテーマ「ケガレ」について、調査研究を少しは前に進めないといけないと強く思った一日でもありました。

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安政南海地震 愛南町の被害記録

2014年06月07日 | 災害の歴史・伝承
1854年の安政南海地震。愛媛県愛南町でも大きな被害が出ていたことを様々な地震記録から確認することができる。

『西海町誌』468頁に、以下のような史料が掲載されている。

「辰巳屋由来記」の地震記録

嘉永七年甲寅十一月五日、昼七ツ時より大地震い出し、其の上大津波御城下表、御城ならびに御家中、町内大潰家数軒有之候、怪我人も少々有之候、この大地震、しばらく震い治り、又昼夜少々あって、一時の間に三、四度も、ゆり出し、三ヶ年間程は、少なれども鎮不申追々静に相成申候。
右大地震は諸国に有之、隣国土州高知ならびに宿毛方、格別の大震、潰家数軒、其の上出火、猶津波に付、潰焼流れ大変の事と承り候。
其の内、当浦(※内泊と思われる。)にも津波候て、三四尺程上り道場(寺)の庭先まで浪先参り昼夜共二、三べん差込み候。
其の内御庄組在中にも格別の事無之候得共、貝塚村、新田に大潮にて一丈五六尺上り、流家も少々有之趣、無怪我人候、右様に大変なれ共、当地は西側の方石垣の方石少々くずれし事ばかりなり。
右大変の時は、流家は潰る事有之候故、茅にてかり屋致し、板などの処、十四五日も畑中、宮の社内之行候者有数人。
其の内、右宿も方承り、今様に成時候は火の用心、又肝要也。


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子ども向け?愛媛の妖怪、幽霊特集記事

2014年06月01日 | 口頭伝承
いまだかつてこんな強烈な紙面があっただらうか?

本日6月1日の愛媛新聞の「ジュニアえひめ新聞」は、愛媛の妖怪大特集。

肉付きの面(西条市)、飴買い幽霊図(今治市)、生首の旗印(宇和島市)、巨大天狗(松山市)。恐怖の写真の数々、そしてわたくしの笑顔写真のおまけ付き。

こりゃ、今朝は各ご家庭で、子どもたちが悲鳴、雄叫びをあげていることでしょう。

子どもたちよ、ちゃんと文章も読んでね。

しかし、これで、うちの娘たちは「やっぱ、あんたとこのお父さん、妖怪学芸員や」と、また学校でいわれるに違いない。

ただ、今日は妖怪どころではない。これからわたくしは空海の講演会なのだ。空海のことに集中、専念しないといけません。

でも、この記事を特集してくれた記者さん、ありがとう。流石です。子ども向けにうまくまとめてくれました。(でも、ちょっとだけ読者の反応がこわい。もっとマイルドな妖怪を推してもよかったか?)

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