愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

川名津柱松3-ショウジョウサマ-

2000年04月27日 | 八幡浜民俗誌

ショウジョウサマとは、川名津柱松神事の際に、天満神社前に立てられた柱松の頂上に取り付けられる藁人形のことである。これは、天満神社の祭神菅原道真(菅丞相)と言われ、藁で人形を作り、右手に扇、左手に御幣と銭十二枚(閏年には十三枚)を持たせて、赤色の着物を着せている。
 このショウジョウサマは、柱松が天満神社前に運び込まれて松に藁を巻き付けるなど装飾されている際に、宮司により作られ、松の頂上部に取り付けられる。柱松の最後の行事として松登りがあるが、松明を背負ったダイバン(鬼)が松に登り、松明と頂上に取り付けられた白木綿、漏斗、そして最後にショウジョウサマをそれぞれ東西南北の四方に振り、鎮火や柱松寄進者の身上安全を祈る。そして、これらを順に柱の上から地上に投じる。地上に落とされたショウジョウサマを家に持ち帰ると縁起が良いと言われ、住民が我先にと奪い合う。そして家の門口に飾られ、翌年の小正月に正月飾りとともに処分されるのである。ただし、昭和初期以前生まれの人達によると、かつては、これを拾うことを嫌っていたという。ショウジョウサマは厄のついたものだから拾うべきではないとか、厄を背負った不吉なものなので、本来は火の中に入れて焼くべきだと言う人もいる。このように、川名津ではショウジョウサマは、現在は縁起物として魔除けの役割を果たすが、元来、厄を背負った不吉なものというように両義的に認識されている。
 ショウジョウサマは赤の着物を着た藁人形であるが、六十歳の還暦(厄年)に赤い頭巾やチャンチャンコを送るのが一般的なように、厄に関する民俗にはしばしば「赤」が登場する。魔除けの呪術性を「赤」は持っているのである。また、藁人形についても、例えば東宇和郡城川町魚成の実盛送り(虫送り)では、稲の害虫を実盛という藁人形に託して、川に流す行事があったり、呪いの藁人形も、人形に思いが託されるわけで、ショウジョウサマについても、柱松神事が厄火祓いと厄年の者の厄祓いという性格上、祓われた厄は、このショウジョウサマに託されているのである。それゆえ、年輩の人はこれを拾うことを忌み嫌うのである。この心意を逆転させて、厄を背負ったもの故に、魔除けの縁起物に利用できると考える人は、これを積極的に獲得しようとするのである。
 数年前、松の頂上から投げ落とされたショウジョウサマを四十二歳の厄年の男性が拾ったことがある。これを見た地元の年輩の方はすかさず「厄年の者が拾うたらいけんやろが」と叫んだ。折角、柱松神事で厄年の厄を祓ったのに、祓われた厄を自らがまた拾ってしまったということである。このように、ショウジョウサマは柱松神事の厄祓いとしての性格を象徴するものと言えるのである。

2000年04月27日 南海日日新聞掲載

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川名津柱松2

2000年04月20日 | 八幡浜民俗誌

 祭り初日の土曜日午後一時頃になると、柱松川原において、川落としが行われる。これは厄年、青年連中、地区の役員らが松を引いてきた綱を用いてお互いを川に落としあうというものである。余興的要素が強く、地区中から観客も集まり、初日の昼間では最も賑やかな行事である。男達は半狂乱状態で川に突き落としあい、それを観客が見守るのである。
 この川落としが終わり、浜へ松を曳いていく。その途中に国道三七八号線があるが、この道を約二十分ほど松で遮断し、市バスなども足止めし、かなりの交通渋滞を引き起こす。川落としといい、道路遮断といい、祭りの盛り上がりでこの時、川名津は日常秩序の通用しない非日常的空間と化するのである。
 その後、浜に松を降ろして、松を海に浸ける。これは潮垢離やみそぎの意味があるのであろう。そして、松は陸上げされ、天満神社境内前に運ばれる。
 神社前に松が到着すると、松に稲藁を巻いて装飾する。そして、松の頂上にはショウジョウサマと呼ばれる藁人形が取り付けられる。
 松の装飾が終わり、夕方五時頃になると、松おこしが行われる。四方から綱を引きながら二十メートル以上ある松を立てるのである。そして、立てられた松の脇には神楽が舞われる「ハナヤ」という建物が建てられ、さらに脇には「サンポウコウジン」という笹竹が設けられる。これは一種のオハケ(神の依り代)である。
 夕方六時からは、ハナヤで地元の神楽団により、川名津神楽が奉納される。同時に、ハナヤの前では、五つ鹿踊りや唐獅子も奉納される。 神楽は夜中の十二時頃まで行われるが、その神楽の最後の演目に鎮火の舞があり、松明に火を燃やし、その後、クライマックスである御柱松登りが行われるのである。この行事をもって、初日は終了する。
 翌日の日曜日は、朝から神輿が出され、牛鬼、五つ鹿踊り、唐獅子とともに地区内の家々をまわり、午後五時頃、祭りの最後として柱の立った神社前で踊りが奉納される。そして、青年連中の担いだ牛鬼と、厄年の男の担いだ榊台という神輿の先導役が鉢合わせをし、その間に神輿が宮入りする。この鉢合わせは、八幡浜市内の祭りでは最も勇壮なものである。そして、松が倒されて二日間の祭りが終了するのである。
 川名津柱松は、一般には松登りのみが注目されているが、それ以外にも二日間にわたり賑やかで様々な行事が行われる。市内では比類を見ない規模の祭りであり、この祭り全体を一度注目してみてはどうだろうか。

2000年04月20日 南海日日新聞掲載

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川名津柱松1

2000年04月13日 | 八幡浜民俗誌

 民俗学的に見て、八幡浜市内で最も興味深い祭りは川名津の柱松神事である。この祭りは松を立てる行事だけではなく、神楽や牛鬼、五つ鹿踊り等、様々な民俗行事が混在しているからである。
 この祭りは毎年、天満神社の例祭として四月第三土曜日から日曜日にかけて行われる。祭日は、大正二年までは三月二十五、二十六日、昭和四十年代までは三月二十八、二十九日に行われていたが、八幡浜市内の春祭りの日程に統一したため、四月十八、十九日に行われるようになった。しかし、祭りが平日開催では参加者が少なくなるということで、平成七年からは現在の日程で開催されている。
 この行事の起源は、寛政六(一七九四)年、川名津にあいついで大火がおこり、火難を恐れた住民が地区全体の厄火祓いのために始めたといわれており、行事には厄年の者が積極的に関与し、個人の厄年の厄も祓うとされている。
 さて、川名津柱松といえば、天満神社前に十二間(約二十二メートル)の柱を立てて、その柱に松明を背負った男性(ダイバン役つまり鬼役)が登って、鎮火を祈願する行事が有名であり、新聞記事等ではその場面のみが取り上げられることが多いのであるが、二日間にわたる柱松の行事内容は実に多岐にわたっているので、ここで簡略に紹介しておきたい。
 まず、土曜日の早朝に天満神社で神事が行われた後、松を切り出すため、山に神主、四十二歳の厄年の男達、青年団が山に入り、柱松に用いる松切り神事が行われる。この松切りは女性は一切参加できないことになっている。なお、松の虫害のため、昭和五十七年からは松にかわって杉を用いている。その後、切った松を山から地区まで運び出す松出しが行われる。切った大木に綱をつけて厄年の男や青年連中が「ボーホンイエーイ」などの掛け声とともに曳いて山を降りるのである。松や、松を引く綱に関しても女性がまたぐことは禁忌とされ、幼い女の子にまで徹底されている。
 昼前になり、ようやく松が地区に到着すると、川上小学校脇の柱松川原という場所に松は安置され、祭り関係者は公民館で昼食をとる。この時の食事は、四十二歳の女性達が男が松を曳いて山から降ろしている時に準備したものである。ここで酒類も入り、祭りの緊張感は高まってくる。(次回につづく)

2000年04月13日 南海日日新聞掲載


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八幡浜の遍路道

2000年04月06日 | 八幡浜民俗誌

  「四国の春はお遍路の鈴の音からはじまる」というが、八幡浜地方には四国八十八ヶ所の霊場もなく、遍路道からも外れているため、普段、お遍路さんに出会うことは少ない。
 しかし、九州から来るお遍路さんにとっては、八幡浜は四国の玄関口である。バスや自家用車での遍路がほとんどとなった現在、八幡浜は単なる通過点に過ぎなくなってしまったが、かつて歩き遍路が多かった頃、つまり昭和二十年代以前には、八幡浜は遍路にとって重要な場所であった。 例えば、八幡浜の港では、九州から来た遍路のために、遍路衣装一式を揃えることのできる店があったり、町には遍路宿も数軒あった。『八幡浜市誌』に紹介されている幕末から明治時代初期の八幡浜各町の居住者を記した「八幡浜浦住民調べ」によると、船場通りに「三国屋へんろ宿」、「豊後屋へんろ宿」があったと記されており、港近くに遍路のための宿があったのである。
 また、遍路が大洲方面へ行くための道標もある。これは、現在、川之内に残っており、その道標には、指型と弘法大師坐像が刻まれ、「左 へんろ道」と記されている。安政四(一八五七)年建立のものである。川之内で聞いたところでは、この道標だけでなく、現在は消滅したものの、戦前には、遍路道沿いに木製の道標が何基か立てられていたという。そして、遍路に対しても接待が行われていた(註1)。また、川之内以外にも、かつては浜田橋付近に、嘉永七(一八五四)年建立の遍路道標があった(註2)。これらの事例は、戦前の八幡浜においては、遍路と交流が盛んだったことを物語っている。
 現在は、八十八ヶ所を結ぶ道が遍路道とされているが、かつては、それ以外にも、遍路道として機能していた道があったのである。最近、四国遍路道を「世界文化遺産」に登録しようという運動が行われているが、かつての八十八ヶ所を結ぶ道以外の遍路道を無視するのは遍路文化の一端しか見ないということになりかねない。遍路文化を「道」という線単位ではなく、四国全体という「面」単位でとらえることが大切なのではないだろうか。そういった意味で、八幡浜の遍路文化を掘り起こすことは、四国全体の遍路文化を見つめ直すきっかけになり得るのではないだろうか。
註1 「八幡浜市川之内地区民俗調査報告」『県歴博研究紀要』一号 一九九六年
註2 松田守「道標をたずねて」『八幡浜史談』七 一九七九年

2000年04月06日 南海日日新聞掲載


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