愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

戦時期の戦争関係祭祀と地域社会4

2009年02月23日 | 信仰・宗教
4 地域における戦争と神社
 ここでは、実際に神社で行われた戦争関係祭祀を見ていきたい。内務省令など国家により制定・施行されたものについては、長谷晴男編『神社祭祀関係法令規定類纂』(国書刊行会、1986年)が参考となる。昭和10~21年までの神社祭祀関係法令を抜き出すと以下のようになる。(ただし、神社関係法令集については、その他に『最新神社法令要覧』(神祇院総務局監輯)、『神社法令要覧追録 改正神社法令集』、『明治以降神社関係法令史料』(神社本庁)もあるが、未読である。)
昭和10年3月16日 内務省令第十五号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和12年2月3日  内務省令第四号「官幣大社氷川神社官幣大社熱田神宮官幣大社出雲大社官幣大社橿原神宮及官幣大社明治神宮例祭祭式及祝詞制定ノ件」
昭和13年4月12日 内務省令第十五号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和14年3月14日 勅令第五十八号「官国幣社以下神社祭祀令改正ノ件」
昭和14年3月15日 内務省令第十二号「招魂社ヲ護国神社ト改称スルノ件」
昭和14年3月15日 内務省令第十三号「護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞制定ノ件」
昭和15年11月15日 内務省令第三十五号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和15年11月15日 内務省令第三十六号「官幣大社氷川神社官幣大社熱田神宮官幣大社出雲大社官幣大社橿原神宮及官幣大社明治神宮例祭祭式及祝詞改正ノ件」
昭和16年12月13日 内務省令第三十五号「宣戦奉告ノ為官国幣社ニ於テ行ハルヘキ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」
昭和16年12月13日 内務省令第三十六号「宣戦奉告ノ為府県社以下神社ニ於テ行フ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」
昭和17年1月14日  内務省令第一号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和17年1月14日  内務省令第二号「官幣大社氷川神社官幣大社熱田神宮官幣大社出雲大社官幣大社橿原神宮及官幣大社明治神宮例祭祭式及祝詞改正ノ件」
昭和17年10月3日  内務省令第二十九号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和17年10月3日  内務省令第三十号「官幣大社氷川神社官幣大社熱田神宮官幣大社出雲大社官幣大社橿原神宮官幣大社明治神宮官幣大社香取神宮及官幣大社鹿島神宮例祭祭式及祝詞改正ノ件」
昭和17年10月3日  内務省令第三十一号「護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞改正ノ件」
昭和17年10月5日  内務省告示第六百八号「神社祭式行事作法改正ノ件」
昭和17年10月5日  神祇院十七発教第六十四号教務局長依命通牒「神社祭式行事作法改正ノ件」
昭和17年12月10日 神祇院十七発教第八十三号教務局長依命通牒「日拝、祈願、祈祷ニ当リ祭典執行ノ場合ニ於ケル作法ニ関スル件」
昭和17年12月15日 内務省令第三十八号「官国幣社以下神社祭式改正ノ件」
昭和18年3月26日  内務省令第十九号「護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞改正ノ件」
昭和20年5月12日  勅令第二百八十四号「寇敵撃攘必勝祈願ノ為官国幣社以下神社ニ於テ行フ祭祀ニ関スル件」
昭和20年5月12日  内務省令第十二号「寇敵撃攘必勝祈願ノ為官国幣社以下神社ニ於テ行フ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」
昭和20年9月15日  内務省令第二十二号「戦争終熄奉告ノ為官国幣社ニ於テ行ハルヘキ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」
昭和20年9月15日  内務省令第二十三号「戦争終熄奉告ノ為府県社以下神社ニ於テ行フ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」
 以上であるが、『官報』や『皇国時報』の中には上記以外の法令も確認できると思われるが、その確認作業は今後行う予定である。
 また、上記では、法令関係資料から戦争関係祭祀関連のものを抽出したが、これが一般の神社においてどのように実施されていたのかが問題となる。その事例紹介として、現在、愛媛県南予地方の某神社資料からその実施状況を分析作業中であるが、昭和12年度について、社務所日誌・受付文書綴・及び地元の尋常高等小学校日誌をもとにまとめたものがある。昭和12年における神社祭祀と地域との関係の変化を挙げると、まずは児童生徒の神社祭祀への参拝の機会の増加がある。なお、日中戦争関係の祈願祭に学校行事として児童が参列するのは昭和12年9月5日に行われた「国威宣揚祈願武運長久祈願祭」であり、それ以降、児童の参加が増加する。また、神社で行われる早天修養会への地域住民の参加者が増加しており、昭和12年を境に神社祭祀への参加人数の変化がわかる。その他、先の戦時祝詞でも紹介したように、「辞別」として戦争関係祈願の祝詞文が加えられているが、「恒例祭」つまり神社例祭や霜月祭、歳旦祭など、従来、戦争祭祀とは直接関係の無かった祭祀に、戦争祭祀が付加されていく状況も見てとれる。戦争関係祭祀は「臨時祭」としての位置付けだけでなく、次第に「恒例祭」にまで浸透していっている。これは、神社祭祀への地域住民(氏子、国民)の参加人数の増加と関連しており、また、国民の抱く神社観を変容させていく要因にもなったと思われる。以上、地域資料から見た戦争観を明らかにする上で、村々の神社資料は有用であり、その所在確認作業、調査、分析が行われる必要がある。

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戦時期の戦争関係祭祀と地域社会3

2009年02月21日 | 信仰・宗教
3 戦時祝詞に見る戦争観
ここで愛媛県南予地方の八幡神社資料に残る祝詞を紹介しておく。当時の戦争観が祝詞からもうかがえる。(なお、仮名文字も全角で表記している。)

資料1 内務省令第四十六号(昭和十六年十二月二十四日)
官国幣社以下神社ニ於テ昭和十七年ノ歳旦祭ノ祝詞ハ官国幣社以下神社祭式ニ定ムルモノニ左ノ辞別ヲ加ヘタルモノトス           内務大臣 東條英機
辞別伎氐白左久今度米国及英国登戦乎開給布爾依里氐先大前尓告奉里乞祈奉礼留乎大御軍波弥進美尓進美弥健毘尓健毘氐逸速久西尓東尓要害乃地登恃誇里敵乃根拠乎撃碎伎氐世界尓比無伎戦果乎挙宣奴留波大神等乃大伎厳志伎恩頼尓依留事登奈母辱美謝毘仕奉留状乎平介久安介久宇豆奈比聞食志氐縦比戦波如何尓長久久志久打続久登母国民諸緩怠留事無久力乎協世心乎一尓為氐苦志伎尓堪閉乏志伎乎忍毘各母負持都業尓務結里氐事美志久仕奉良志米給比別伎氐母天皇命乃大命乃随尓伊往向比氐奮戦閉留大御軍人乃上乎広久厚久守給比恵給比氐海尓陸尓空尓射向布敵乃悉討罰米撃滅志禍乱乃根源乎剪除加志米給比氐東亜乎始米氐天乃下乎修理固成志給布高伎尊伎大御業乎弥遠長尓護奉里幸奉里給閉登年乃始乃今日乃壽詞尓辞添閉氐恐美恐美母白須

資料2 愛媛県訓第三六九号、昭和十八年十一月二十日
大東亜戦争ノ戦局益々重大ナルモノアルニ付来ル十二月二日ヨリ同月八日迄国幣社以下神社ニ於テ左記次第及祝詞ニ依リ皇軍ノ武運長久並ニ国威ノ宣揚祈願ヲ行フベシ

 一、次第(中略)
 二、祝詞
  掛麻久母畏伎某神社乃大前爾宮司(社司、社掌)位勲功爵氏名恐美恐美母白左久大神等乃守給比助給布随爾大御軍波西爾東爾弥奮比北爾南爾弥健毘氐射向布敵等乎掃蕩比平定介大御光波大東亜乃圏内爾遍久伊照渡里氐遠都神代乃国生乃神業乎今乃現爾緬甸及比律賓乃国国乎修理固成志更爾年遍久敵乃虐政爾苦悩米留印度乃民乎母解放知諸乃国乎志氐各母各母自良乃姿爾立復里栄衣志米牟登須然波有礼杼母凶暴留敵波尚些加母悔改牟留心無伎乃美加却里氐国人乃衆爾物資乃豊奈留乎恃誇里氐兵員乃如何婆加里多久損波留留母顧美受艦艇乃相次岐氐撃沈米良留留母厭波受一向爾人登物登乃量乎尽志氐大洋乃島島乎次次爾侵寇奈比於保介奈久母皇大御国乎母窺波牟登為留波最杼重志久軽難伎極爾叙有里介留是乎以知氐此乃十二月二日与里七日乃間殊更爾斎麻波里清麻波里氐大前爾乞祈奉良久波今乃此乃間母醜乃御楯登海爾陸爾将空爾伊往向比氐雄雄志久勇志久奮戦布大御軍人乃上波白左久母更奈里国内挙里氐力乎協世心乎一爾志氐勤志美労伎仕奉留国民諸乎母夜乃守日乃守爾守給比恵給比氐米国及英国乎始米氐敵布国乃悉速爾撃滅志氐八紘乎掩比氐宇登為給布神随乃大御業乎守奉里幸奉里給比大御稜威乎天乃壁立都極国乃退立都限伊照輝加志米給閉登恐美恐美白須

資料3 昭和十九年歳旦祭祝詞ニ関スル件(愛媛県内政部長より、昭和十八年十二月二十八日)
大東亜戦争ハ大御稜威ノ下皇軍ノ善謀勇戦ハ良ク古今未曾有ノ大戦争ノ大戦果ヲ招来シ旁々大東亜共栄圏ノ確立モ亦著々進捗致居候次第ニ有之候モ最近ノ一例ニ於テモ「マキン」「タラワ」ノ尊キ玉砕等ノ如ク敵ノ反攻尚悔リ難キモノ有之国民愈々其ノ覚悟ヲ鞏固ニシ益々戦力ノ増強ニ邁進致スベキ秋ト被存候ニ就テハ昭和十九年ノ歳旦祭ニ際シテハ祝詞ニ左記辞別ヲ加ヘ戦果ヲ報告スルト共ニ愈々戦力ノ増強ト皇軍ノ武運長久並ニ国威ノ宣揚トヲ祈請相成度此段及通牒候也

辞別伎氐白左久大神等乃守給比助給布随爾大御軍人波善謀里勇志久戦比氐海爾陸爾間無久射向布虜兵乎次次爾打屠里西爾東爾北爾南爾繁爾寄来留敵艦乎疾疾爾撃沈米氐古今爾比無伎戦果乎挙宜大御稜威波遍久輝伎深久徹里氐大東亜乃国国島島各自処乎得氐歓毘喜志美心一爾力乎戮世氐聖戦乎完遂宜牟登努米氐在留波大神等乃廣伎厚伎恩頼爾依留事登奈母辱美謝毘仕奉留状乎平介久安介久聞食志氐戦局弥弥事繁久成行加牟年乎迎閉氐苦志伎爾堪閉乏志伎乎凌岐猛久雄雄志久奮戦布大御軍人乃上波白左久母更奈里戦場爾続伎氐海爾陸爾戦力乎増強牟留業爾一途爾労伎仕奉留国民乎始米氐同自心爾勤美仕奉留諸国乃民等乎母夜乃守日乃守爾守給比恵給比氐米国及英国乎始米氐敵布国乃悉速爾推伏世撃滅左志米給閉登年乃始乃今日乃壽詞爾辞添閉氐恐美恐美母白須

資料4 明治節祭祝詞辞別送付ノ件(東宇和郡神祇部会専務理事より、昭和十九年十一月一日)
 時局ニ鑑ミ来ル十一月三日官国幣社以下神社ニ於テ行フ明治節祭祝詞ハ別紙辞別ヲ加ヘタルモノト官報ニ公布ノ旨神祇院ヨリ所報有之本日県内政部長名ヲ以テ別紙至急配布方申越相成候ニ付キ此之段及送付候条可然奏上願上度
 (別紙)
 辞別伎氐白左久先爾屡母告奉里乞祈奉里志乎戦局波弥弥重志左乎加閉驕慢礼留敵波一向爾物乃量乎恃誇里氐荒毘尓荒毘大洋乃島島乎次次爾侵寇比遂爾於保介奈久母皇大御国乃国内爾逼里沖縄又台湾乎襲来奴留乎夙久与里□機乎待知氐在里志大御軍波海陸一爾力乎協世氐迎撃知立処爾□来礼留艦艇乃大方撃沈米撃祓比氐醜乃虜等諸共爾千尋乃海乃海底爾消失世志米奴此久母古今乃戦史爾比無伎大伎戦果乎挙宜奴留波大神等乃高伎尊伎思頼爾依留事[  ]謝奉留状乎平介久安介久宇豆奈比聞食志氐今母往[  ]海爾陸爾将空爾伊往戦布大御軍人乃上波白左久更奈里[  ]衛里戦力乎増強牟留業爾奮起知勤美仕奉留国民諸[  ]守日乃守爾守給比恵給比氐今乃此乃間母尚懲里受麻爾侵寇比射向比寄来留頑奈留敵乃軍乎悉爾撃摧伎米国及英[  ]乎速爾撃滅左志米給閉登恐美恐美母白須

資料5 寇敵撃攘必勝祈願臨時大祭祝詞送付ノ件(東宇和郡神職部会、昭和二十年五月十八日)
 五月十五日付ヲ以テ通牒致置キシ標記ノ臨時大祭祝詞案(神職奏上)今回県支部ヨリ送付相成候間各部会員ニ回送申上候ニ付万遺憾無キ様、并祭典執行日時其他ニ関シ近隣神職ト協議ノ上町村長ト打合□□被下度詳細ハ十二日付官報ヲ以テ法令公布相成候条御諒知賜度申添候

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戦時期の戦争関係祭祀と地域社会2

2009年02月19日 | 信仰・宗教
2 戦時祝詞から見た戦争関係祭祀の分類
 さて、国家・国民による神社観の変遷を明らかにする必要性を上記で述べたが、ここでは神社側の戦争への関わりを中心に見ていきたい。まずは、神社祭式に欠かすことのできない祝詞の問題を取り上げておきたい。
 祝詞とは、神祇をまつり、神祇に祈ったりする際に、神前でとなえる古体の文章のことである。文体は、体言・用言の語幹を漢字で大きく、用言の語尾や助詞などを万葉仮名で小さく書くという宣命書(宣命体)を用いており、その伝統は現在に継承されている。祝詞は神道の信仰・思想・言語を知るための根本史料であり、現代の神社においても祝詞を奏上することは最も重要な儀礼である。(『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年、三橋健執筆参照)祝詞は『延喜式』などの古典や、その時代に刊行されている例文集などを参考にして、神職により作文されるものであり、祝詞に記載からは、祈願の内容とともに時代性も推察することができる史料といえる。
 戦時下の神社では、戦勝祈願等の神事においても当然、祝詞は奏上されているわけで、戦争と神社祭祀に関する研究の上で、戦争祭祀に関する祝詞は重要なキーワードといえる。戦争祭祀に関する祝詞は、当時「戦時祝詞」と称され、その例文集もいくつか刊行されている。古くは明治37年12月に発行されている三崎民樹編『戦時祝詞集』(水穂会発行)があり、日露戦争関係の他、西南戦争、日清戦争等の戦時祝詞が収録されている。また、昭和15年10月に、武田政一編『新編戦時祝詞集成(上・下)』(明文社)が発行されており、現在、下巻のみ国立国会図書館に所蔵されている。(上巻は所在未確認。)また、昭和18年9月には、武田政一編『大東亜戦争祝詞集』(明文社)が発行されており、大東亜戦争開戦以来、約1年間に行われた戦争関係の祭祀の祝詞を編集したものとなっており、参考のために、支那事変等に関する祝詞も掲載されている。ただし、これらの戦時祝詞集は、国立国会図書館以外では、公的機関での所蔵は確認できないため、これまで調査対象としては取り上げられる機会がなかったのだろう。『神道論文総目録』・『続神道論文総目録』・『現代神道研究集成』所収の文献目録を眺めても、戦時祝詞に関する先行研究は見あたらない。
 なお、内務省令など国家によって制定された戦時祝詞については、長谷晴男編『神社祭祀関係法令規定類纂』(国書刊行会、1986年)に掲載されている。①昭和16年12月13日、内務省令第三十五号「宣戦奉告ノ為官国幣社ニ於テ行ハルヘキ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」、②昭和16年12月13日、内務省令第三十六号「宣戦奉告ノ為府県社以下神社ニ於テ行フ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」、③昭和20年5月12日、内務省令第十二号「寇敵撃攘必勝祈願ノ為官国幣社以下神社ニ於テ行フ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」、④昭和20年9月15日、内務省令第二十二号「戦争終熄奉告ノ為官国幣社ニ於テ行ハルヘキ祭祀ノ祭式及祝詞制定ノ件」などである。
 ただし、これら内務省により制定され祝詞は、戦争関係祭祀の全体からすればごく一部であり、祝詞は祭式ごとに神職自らが作文したものであることから、『官報』や『法規集』から抽出した祝詞の分析だけでは、戦争祭祀の全容を把握することにはならない。
 そもそも、神社における戦争関係祭祀とは何なのか、その種類、分類はこれまでの戦争と神社祭祀に関する研究においても為されていないと思われる。先に述べたとおり、祝詞の奏上は神社祭祀の中で最も重要な儀礼であり、どのような種類の戦時祝詞があったのかを把握することで、戦争関係祭祀の分類は可能である。上記の、現在、所在が確認できている戦時祝詞集には約200以上の例文が掲載されている。その祝詞を大まかに分類すると以下のようになる。

Ⅰ 奉告祭祝詞
1 宣戦奉告祭祝詞
   宣戦奉告祭・宣戦大詔渙発奉告祭・宣戦奉告武運長久祈願祭 等
 2 応召軍人奉告祭祝詞
    応召軍人奉告祭・入営奉告祭
 3 戦勝奉告祭祝詞
    香港攻略奉告祭・新嘉坡陥落奉告祭 等
 4 支那事変五周年奉告祭祝詞
 5 帰還軍人奉告祭祝詞
Ⅱ 祈願祭祝詞
 1 大詔奉戴日祈願祭祝詞
 2 戦勝祈願祭祝詞
    大東亜戦争戦勝祈願祭・対米英征戦完遂祈願祭 等
 3 武運長久祈願祭祝詞
    敵国降伏武運長久祈願祭・出征軍人武運長久祈願祭・月次武運長久祈願祭 等
 4 戦傷病軍人平癒祈願祭祝詞
 5 祈誓祭祝詞
    銃後奉公祈誓奉告祭・時難突破必勝祈誓祭 等
Ⅲ 報賽祭祝詞
 1 戦傷平癒報賽祭祝詞
 2 帰還軍人報賽祭祝詞
 3 一般報賽祭祝詞
    報賽額奉納祭 等
Ⅳ 戦時雑祭祝詞
 1 刀剣関係祭祝詞
    軍刀入魂祈願祭・刀剣奉納戦捷祈願祭 等
 2 航空機関係祭祝詞
    航空隊開隊式・飛行機航空安全祈願祭・航空記念日祭 等
 3 兵器命名献納式祝詞
 4 献納祭祝詞
    飛行機献納式・戦利品奉納奉告祭 等
 5 艦船関係祭祝詞
 6 軍馬祭祝詞
 7 海軍記念日祭祝詞
 8 産業関係祭祝詞
    鉄工所構内神祀奉鎮祭・産業報国祈願祭・満蒙開拓青少年義勇軍出発奉告祈願祭 等
 9 団体結成式祝詞
    大日本婦人会支部結成式・翼賛青年団結成奉告祭 等
10 団体旗祭祝詞
   会旗新製入魂祭・在郷軍人班旗新成奉告祭・青年団旗新製祈願祭 等
11 奉告祭祝詞
   戦死軍人叙勲奉告祭・慰問袋発送奉告祭・集団勤労奉仕終了奉告祭 等
12 雑祭祝詞
   靖国神社遥拝・戦死者遺族靖国神社神札奉鎮祭 等
Ⅴ 葬祭祝詞
 1 遺骨帰家祭詞
 2 移霊祭詞
 3 棺前祭詞・出棺祭詞
 4 葬場祭詞
 5 誄詞
 6 埋葬祭詞
 7 埋葬帰家祭詞
 8 霊祭詞
 9 墓所地鎮祭詞
 10 墓石建設祭詞
 11 雑祭祝詞
Ⅵ 慰霊祭祝詞
 戦死者慰霊祭・戦死者合同慰霊祭・戦死者家族慰霊祭 等
Ⅶ 招魂祭祝詞
Ⅷ 忠魂碑関係祭祝詞

以上、武田政一編『大東亜戦争祝詞集』明文社、昭和18年9月発行、および武田政一編『新編戦時祝詞集成(下)』明文社、昭和15年10月発行参照に分類したものである。『集成』は『大東亜戦争祝詞集』よりも例文が多く掲載されている。武田政一編『新編戦時祝詞集成(上)』を見れば、Ⅰ~Ⅳについてもさらに細分類が可能であるが、残念ながら現在のところ、所在確認ができていない。
 いずれにせよ、この戦時祝詞の分類は、即ち、戦争関係祭祀の分類といえる。神社が関わっていた祭祀のおおまかな概要はこれで提示できると言ってよいだろう。

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戦時期の戦争関係祭祀と地域社会1

2009年02月18日 | 信仰・宗教
1 戦争と神社祭祀
 宗教研究においては、教団・教義・儀礼・信者の諸要素の関連を見ていく必要があるが、戦前の神社神道においては、教団は国家と結びついた神社界であり、教義は神道教義であり、儀礼は神事・祭式であり、信者は氏子さらには国民と捉えた上で、それぞれの絡みを分析する必要がある。これまでの国家神道に関する研究では、制度史など国家からの視点での成果は多いが、実際に行われた戦争祭祀や、戦時中の氏子(国民)の生活との関連にまで踏み込んだものは少ない。
 まず、戦争と神社祭祀を考える上では、当時の神社観を把握しておく必要がある。これまでの多くの論考で紹介されている資料であるが、文部省発行の『国体の本義』(昭和12年5月)に記載された文章が、昭和12年当時の国家による神社観をうかがい知る上で参考となる。
 「神社に斎き祀る神は、皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖の命以下、皇運扶翼の大業に奉仕した神霊である。この神社の祭祀は、我が国民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。氏神の祭に於て報本反始の精神の発露があり、これに基づいて氏人の団欒があり、又御輿を担いで渡御に仕へる鎮守の祭礼に於て、氏子の和合、村々の平和がある。かくて神社は国民の郷土生活の中心ともなる。更に国家の祝祭日には国民の日の丸の国旗を掲揚して、国家的敬虔の心を一にする。而してすべての神社奉斎は、究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであって、ここに我が国の敬神の根本が存する」
 この『国体の本義』が著されたのが昭和12年5月であることは興味深く、この時期に「国民の郷土生活の中心」であり「我が国の敬神の根本」として神社が位置づけられ、強調されている。『国体の本義』が刊行される以前と以後では、国家による神社観が同一のものと扱うことは避けるべきで、当然、国民の神社観についても、この時期以降、変遷が見られる可能性がある。
 また、「氏子の和合、村々の平和」と記されているが、国民の神社観を把握する際に、氏子の問題についても時代的変遷が見られることも前提として考えておかねばならない。氏子制度については「明治2年5月に、公議所において『氏子改』の採用が議に上り、同年9月集議院においてその検討が進められ、翌年6月にはキリスト教徒の多いとされた九州諸藩に『氏子調仮規則』が施行され、翌4年には戸籍法と『氏子調規則』『郷社規則』が一斉に発布され、全国民あまねく氏子として戸長と神社とに届け出、『氏子札』と通称される守札を受けて所持すべきものと定められた。同時に神社に勤める神官は、氏子帳を神社に備えつけ、出生や氏子入りの届け出のたびにこれを登載し、毎年11月に管轄庁へ提出すべきものとされた。(中略)しかし社会体制の近代化に即応した戸籍制度を運用していく上で、この氏子改制度は妨げになる観を呈したため、明治6年5月には廃された。したがって氏子の制度を積極的に国民組織として運営することはやめたものの、政府は依然氏子の慣行を法制上認めて、風教上はこれを大いに助長して行く方策を採った。すなわち同15年に内務省が出した達にも、『各町村鎮座氏神ノ儀ハ、其土地ニ就キ従来一定ノ区域有之儀ニ付、各自信否ニ任セ猥ニ去就スベキモノニ無之』としている。氏子は江戸時代からひきつづき一定の地域のものとして扱われた。」(『国史大辞典』吉川弘文館より)と、以上のように説明される。歴史学や民俗学・神道学において近代、特に明治中期以降の氏子制度に触れた研究成果があるのか充分承知していないが、昭和10年代においては氏子制度に関する史料を散見することができる。まずは、『神道研究』第二巻第一号(昭和16年)の亀田信章「昭和十五年神道界総観」の記述である。亀田は次のように述べている。
 「神祇界五十年の懸案であつた神祇に関する特別官衙設置の問題も、内務省神社局を神祇院に昇格拡充する内務省案が第七十五議会を通過して(二月)、愈七月一日から開設されることになつた(中略)斯くて大政翼賛運動の構想も具体化し、国内新体制建設の力強き第一歩が一億臣民の協力によつて踏み出された時、同運動の基底ともなるべき隣組、部落常会をして神社中心のものたらしめねばならぬとの声が、單り斯界のみならず有識者の間に起つた この声は、氏子制度の確立こそ国内新体制組織に魂を与へるものであるとの叫びと関連して真摯に研究もされ具体化されもして、神社を中心に隣保組織を結束せしめ、神職が之を指導するといふことは神職の対時局策の重点として取上げられるに至つたのである。(中略)茲に於て隣保組織の根底を神社中心とするといふ必然性は新体制組織と睨め合せて先づ従来混沌としてゐた氏子制度の確立を以て喫緊の解答とする問題を提起するに至つた」
 亀田は、神祇院の設置とともに、大政翼賛運動の基底は神社を中心に隣組、部落常会とすべきことを主張し、国内新体制に魂を与える方策として「氏子制度の確立」を強調している。氏子制度は、明治初期から昭和15年段階には、国家制度としては「従来混沌としてゐた」ことがうかがえ、昭和15~16年にかけては氏子制度に関する論議が高まった時期といえる。神社を支える根底である氏子の制度についても、時代的変遷が見られ、国家・国民の神社観は、この時期に変化したと推察できる。なお、神祇院関係の資料目録である神社本庁調査部編『神祇院関係資料目録』(1978年、早稲田大学図書館蔵、昭和20年に神祇院考証官で、戦後神社本庁に勤めた岡田米男の資料目録)を眺めてみても、「氏子制度中改善整備ヲ要スル事項ニ対スル各都道府県意見(神社主務課長事務打合会)」(昭和16年)、「府県社以下神社ノ氏子制度ニ関スル問題」(昭和16年)、「氏子制度ニ関スル調査(全国神職会)」(昭和16年)、「氏子崇敬者ニ関スル法規」(昭和16年)など氏子制度に関する史料が見られ、昭和16年に神祇院の方針で国民が神社の氏子として把握・管理されようとしていたことがわかる。(実際に氏子制度・法規がどのように施行されていったのかは現在確認中。)
 戦争と神社に関する一般的な説明としては、「日中戦争が開始されると神社や神職は戦勝祈願や祈祷などの活動も行った。国民精神総動員運動が組織されると、神社への集団参拝の励行など国民の精神的統合のために神道・神社は以前にもまして重要な役割を果たすようになった。こうしたなかで、昭和15年、神社局を改組して神祇院が設立された。これまでの神社局が神社・神職の管掌を主たる業務としていたのに対して、神祇院は国体論を背景にした国民教化(敬神思想の普及)の役割も期待されて発足した。これに対応して全国神職会も統制と教化機能を強めた大日本神祇会に改組された。」(『日本小百科 神道』東京堂出版、2002年より)とされる。戦争の開始及び神社局から神祇院への改組が、国家・国民の神社観の変化の契機と説明されがちであるが、この点は昭和10年代において年次ごとに、国家・神社・教義・儀礼・氏子(国民)それぞれの関係を視野に入れた、さらなる詳細な分析が必要かと思われる。ここでは、昭和12年、昭和16年に国民の神社観が大きく変化する契機があったことを仮説として提示しておきたい。

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プロテスタンティズム

2009年02月12日 | 日々雑記
雑誌や書店に並ぶ書籍を見ていると、最近、新自由主義経済に対する批判が目に付く。強欲な資本主義が行き過ぎた側面はあったのだと思うが、それをすべて断罪するわけにもいかない。ここで想起したのは学生時代に読んだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。マックス・ウェーバーだ。19世紀のヨーロッパ経済の状況を分析したウェーバーは、資本主義経済を支えているのはプロテスタントであり、プロテスタンティズムの勤勉に働く精神の存在に注目する。これを読んだとき、日本社会においても勤勉性は盛んに言われてきたことであり、ウェーバーの理論に頷くことは多かった。今、経済学でウェーバーがどのような位置づけになっているのかは知らないが、この本の主旨は、「勤勉」の根源は利益・利潤最優先から来ているものではなく、神の救済を求めんがために禁欲的に労働に取り組む、それが資本主義の形成につながっている、ということだったと理解している。日本社会でウェーバーを当てはめるとすると、神を「公」と置き換えてもいいと考える。私が勤務している博物館も昨今の「官から民へ」の流れに沿って、指定管理者制度を導入することになっている。これまで、あまり経済と博物館の関係性を考えることは少なかったが、「公」の施設において指定管理者制度が成功するヒントはウェーバーにあると、勝手ながらに思ってしまった。

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