愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

五反田柱祭り①-大分県との比較から-

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 大分県においては、柱祭りは現在でも、大分市鴛野、寒田、中尾、杵築市出原、狭間町同尻の五ヶ所で行われている。いずれも八幡浜市の五反田柱祭りと同様に、盆に行われる火祭りである。
 昔から現在に至るまで継続して行われている例は、出原と同尻だけであり、大分市内の三ヶ所は、諸事情で戦後間もなくから途絶えていたものを、一種の地域おこしの行事として、昭和六〇年から平成二年にかけて復活させている。寒田では、子供会が中心となって行っており、当然、柱の高さも、八幡浜市五反田の約二〇メートルと比べて短めで、七から八メートルと子供用の高さとなっている。
 大分市内の柱祭りの特徴としては、マンドロ(万灯籠)の行事と一体となっていることが挙げられる。地区内の主要道路の端に四、五百本の小竹の上部にロウソクを立てて火を灯し、その火を以て、柱祭りで使用する火とするのである。マンドロは、言ってみれば、盆行事の終わりとして、各戸で麻木を焚いて精霊送りをするものを、地域全体の行事へと発展させたものと言えるが、このことを考えると、大分県の柱祭りは、まさに精霊送りのための行事であるといえる。
 一方、八幡浜市五反田では、それぞれの家々で麻木を焚いて、精霊送りをするが、八幡浜港近くで行われるような精霊流し等の地域全体での行事は見られない。
 このことからは、五反田柱祭りが、修験者金剛院の非業の死による祟りを慰めるという表向きの理由があるものの、実際には五反田地域全体としての精霊送りの性格も持っていると見ることができるのである。つまり、地域行事として盆の先祖送りのために火を用いる。これが、柱祭りの原型なのだろう。
 さて、柱を立てることに、何の意味があるのだろうか。
 これは、オハケの一種と考えれば納得がいく。現在でも、南宇和郡の秋祭りでは、神の依代として、神社境内や御旅所にオハケという柱を立てる。祭りを行うために、天上から降臨したり、祭りの最後に天に戻っていく神の通り道とするためである。同様に柱祭りの柱も、盆にこの世に戻っていた先祖が、それを通ってあの世に帰って行く為の装置といえるのではないだろうか。

1999年10月21日掲載


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「佐田岬半島」の名称

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 八幡浜市から豊後水道に突き出た約四〇㎞の、日本一細長いといわれる半島の名前は、当然「佐田岬半島」である。この名称は現在では定着しているが、昭和四〇年代までは、正式名称を「佐田岬半島」とするか「三崎半島」とするかで、役所や研究者の間で様々な議論があった。当時、愛媛県庁では企画部がこの半島の総合開発計画を立案していたが、計画書に出てくる半島名は「三崎半島」だった。県では、戦前から慣習として「三崎半島」を使用していたそうである。地元では「佐田岬半島」を用いることが多かったようだが、昭和四〇年の三崎町の町勢要覧をみると両方が記されており、その用法が混乱していたことがわかる。国土地理院作成の地図には「佐田岬半島」とあり、結局はこれに統一されていったという経緯があるbr>  さて、「佐田岬半島」は、全国で唯一、岬の名前をつけた半島名として珍しいものである。岬と半島は同様の意味なので、それを重ねることは稀なのだろう。それだけでなく、「佐田(サダ)」についても語源を調べてみると、佐田浦(現三崎町)から来ているものだが、柳田国男『石神問答』によると、もともとは岬を意味する言葉であると紹介されている(註1)。全国の岬の名称を見ても、鹿児島県佐多町に佐多岬という類似した名の岬があり、また、高知県の足摺岬についても、平安時代末期の史料に「蹉●御崎」とあり(註2)、古くは「サダミサキ」と呼ばれていたことがわかっている。
 つまり、「佐田岬半島」の「佐田」も「岬」も「半島」も、もともとは細長く海に突き出た地形をあらわす同じ意味の言葉であり、それが三重に重なっているのである。歴史と共に言葉が変わり、同じ意味の言葉が重なっていく。「佐田岬半島」の名称は、地名の変遷を重層的に体現していて面白い。
 なお、佐田岬に関しては、宝暦十三(一七六三)年に細田周英が描いた四国遍路の絵図である「四国 礼絵図」に「佐田ノ岬」とあり、江戸時代は「サダノミサキ」と呼ばれていたO崎町三崎の明治四〇年代生まれの老人に聞くと、戦前には「サダノミサキ」という呼称も残っていたらしい。
 「サダミサキハントウ」という呼び方は案外新しいものなのである。

註1 『定本柳田国男集』十二巻 筑摩書房刊
註2 『平安遺文』古文書編第七 三一八四

1999年10月21日掲載

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「チンチ」の謎-宮田登氏の訃報に寄せて-

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 ここ約三十年の間、日本の民俗学界の屋台骨を支えていた宮田登氏(筑波大学名誉教授)が二月十日に亡くなられた。六十三歳の若さである。私のみならず、民俗学に関わる多くの人達は、宮田氏から強い影響を受け、そして氏を意識しながら調査・研究をしていた。精神的支柱でもあり、先達でもあり、目標だったわけである。今回の訃報は無念としか言いようがない。
 私は宮田氏から直接教えを受けたわけではないが、大学院時代の指導教授が氏と懇意にしていた関係で、平成五年十二月に一度だけ会食したことがある。その時に南予地方の民俗が話題となり、氏から、南予地方で使われる方言「チンチ」の語源は何なのかと質問された。「チンチマンマ」、「チンチベベ」の「チンチ」である。私はその方言自体は知っていたが、語源についてまで考えたことがなかった。当然答えることができず、恥ずかしい思いをした記憶がある。その後、調べてみたものの、結局わからずじまいで現在に至っている。
 「チンチマンマ」とは児童語で御馳走のことであり、かつて米を食べる機会が少ない時代には白御飯をさしていた。日常食ではなく、祭日などの特別の食事である。また、「チンチベベ」はきれいな着物のことで、晴着をさしている。つまり、「チンチ」は、晴着や晴れ舞台などの「ハレ(晴)の」という意味なのである。これに類する方言は八幡浜地方だけでなく、『綜合日本民俗語彙』(平凡社刊)によれば宮崎県にもあるようで、豊後水道一帯で聞くことのできるもののようである。しかし語源はわからない。「珍貴」が訛って「チンチ」になったのだろうか。
 民俗学では、生活秩序を構成する要素には、非日常を表す「ハレ(晴、公)」と日常を表す「ケ(褻)」があり、それらが対立していると説明されるが、宮田氏は一九八〇年頃、これに「ケガレ(穢)」という概念を加えて、「ハレ・ケ・ケガレ」論を展開していた。邪推かもしれないが、宮田氏はこの「チンチ」を、「ハレ・ケ・ケガレ」論に援用する題材として、「ハレ」に関連させて考えていたのではないだろうか。祭りや年中行事、人生儀礼のいわゆる「ハレ」の日に「チンチ」は登場し、日常生活にリズムを与える役割を果たしている。人々の生活リズムを解き明かす鍵を握っている方言ととらえていたのだろう。
 今後、その用法と語源についてさらに追求し、「チンチ」の謎を解明してみたいものである。

1999年10月21日掲載

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ネズミ騒動

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 戦後間もない昭和二十年代前半に八幡浜市大島の南部に位置する地大島で、野ネズミが大発生したことがある。この頃、宇和海のいくつもの島々でネズミが大発生しているが、「ネズミ騒動」とも呼ばれるこの出来事は全国的にも有名である。一般的には昭和二四年の宇和島市戸島のトウモロコシ全滅がはじまりで、翌二五年には日振島で大発生し、三九年に下火になるまで続いたとされる。しかし地大島での発生は戸島とほぼ同時、もしくは少し前であった。地大島は大島の住民が畑を耕作しているものの無人島であり、人的被害が少なかったため、「ネズミ騒動」の震源地とはされなかったのだろう。
 なお、大島の古老によると、それ以前にも地大島ではネズミが大発生したことがあったらしい。その時に、漁師が魚だと思って網をひきあげると、大量のネズミが引っかかったという話がある。ネズミは大群で海を渡るとされ、現に昭和二十年代の地大島のネズミの大群も突如としていなくなったといわれ、他の島へ渡っていったという人もいる。また、ネズミが大群で海を渡るとき海面が褐色に染まったともいわれている。
 こういった話は、鎌倉時代初期成立の「古今著聞集」二十魚虫禽獣に記載されている宇和郡黒島(伊方町沖に浮かぶ無人島)の漁夫が海中から多くのネズミをひき上げたという説話に通じるところがある。
 「安貞の比、伊予矢野保のうちに黒嶋といふしまあり、人里より一里ばかりはなれたる所也、かしこにかづらはざまの大工といふあみ人有、魚をひかんとてうかゞひありきけるに、魚のある所よりひかりて見ゆるに、かの島のほとりの磯ごとにおひただ敷ひかりければ、悦びてあみをおろして引たりけるに、つやつやなくて、そこばくの鼠を引上げて侍りけり、その鼠引上られてみなちりぢりににげうせけり、大工あきれてぞありける、ふしぎの事也、すべてかの島には鼠みちみちて畠の物などをもみなくひうしなひて、当時までもうつくり侍らぬとかや、陸にこそあらめ、海のそこまで鼠のはべらん事まことにふしぎにこそ侍れ」
 これは今から八百年近く前の安貞年間の説話の中で紹介されたもので、話が誇張されていると見る向きもあるが、これと似た出来事がここ百年の内にも、近くの地大島で起こっているので、事実ととらえても良いだろう。
 戦後のネズミの大発生は宇和海の島々の開発が進んだことが原因ともいわれるが、開発以前にも起こっており、実は自然のサイクルで周期的に起こりうることなのかもしれない。

1999年10月21日掲載

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十日えびす

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 毎年旧暦の一月十日に、八幡浜市沖新田の魚市場では「十日えびす」という航海安全と豊漁を祈願する行事が行われる。木造のエビス像を海中に投げ入れ、それを拾い上げるのだが、この神像は天保年間(一八三〇~四四年)に八幡浜沖に浮かぶ佐島に流れ着いて、山伏が拾い上げ、堂を建てて奉納したといわれている。現在は、市内神宮前にある八幡浜大神宮内の恵美須神社に祀られているが、祭り当日、神社から魚市場に設けられた祭壇に移して神事を行った後、その日の朝一番早く帰港した漁船の船上へ持っていく。船員や市場関係者、見物人が見守る中、神官が船から像を海中に投げ込み、数名の若い船員が飛び込んで像を海水で清め、再び神社に奉納するのである。
 海中に人が飛び込んで拾うようになったのは昭和三七年からであり、比較的最近始まった行事ではあるが、海中からエビス神を拾い上げるという行為は九州をはじめ西日本各地の沿岸部の民俗行事に見られるものである。
 例えば、鹿児島県下甑島では、毎年漁期の口明けには、若者が新しい手拭いで目隠しをして海に飛び込み、海底の石を拾い上げてそれをエビス神として祀るという事例があるが、類似した例は、南九州から山口県沿岸部にかけて見られる(註1)。
 また、漂流死体のこともエビスという。長崎県壱岐では、漁師が航行中にエビス(水死体)に出会えば必ずこれを拾うが、拾わなければ不漁になるから、あるいは祟られるからやむを得ず拾うというのではなく、エビスを引き上げると豊漁に恵まれるからと言われる(註2)。
 以上の事例からは、海中から現れて人々に幸をもたらすというエビス神の性格を見てとることができる。エビスの語源も「夷(えみし)」つまり異国、異郷の人を意味するものであるから、異郷つまりは海の向こうから来る存在をエビスと呼ぶのである。
 このように見てみると、八幡浜の十日えびすは、もともと海の向こうから流れ着いたエビス像を用いて、毎年一度は海に帰して再び拾い上げることで、エビス神の漂着を儀礼的に演出し、継続的な海の幸を獲得しようとする漁業関係者の知恵から生まれたと言えるのではないだろうか。
(註1)『綜合日本民俗語彙』平凡社
(註2)波平恵美子『ケガレの構造』青土社

1999年10月21日掲載

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節分の豆まき

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 立春の前日が節分である。新暦(太陽暦)では二月三、四日頃であるが、旧暦では正月の近い日になるので、正月と節分の行事が重なることがある。たとえば、八幡浜市若山や大島では節分を大歳(オオトシ)という。大歳とは全国的には大晦日の除夜から元旦にかけての一年の境のことを指すのであるが、節分を大歳という事例は、古くは正月ではなく、節分を以て一年の境と考えていた名残りだと考えることができる。
 さて、節分の主行事は豆をまくことである。現在、八幡浜地方では「鬼は外、福は内」と叫んで家の内外に豆を投げるのが一般的だろうが、これは学校教育の影響でこのような全国的事例が普及したと私は考えている。もともと八幡浜地方の節分の豆の処理方法は次のとおりである。
 炒った大豆を年の数だけ小銭と一緒に紙に包んで、夜に家の近くの四辻に行き、豆の入った紙包みを体にこすりつけ、息を吹きかけてから後ろ向きで放り投げる。そして、後ろを振り向かないようにして急いで家に帰る、というものである。
 紙包みを体にこすりつけて息を吹きかけるしぐさは、夏越しの祓え(輪抜け)の際に形代の人形に行うのと同様で、それらに自分の身に付いた「厄」を託す行為である。つまり、捨てられる豆には「厄」が込められているのであり、節分は「厄」から逃れるための行事だと言える。
 また、「後ろを振り返ってはいけない」という禁忌については、せっかく「厄」を豆に託して捨てたのに、振り返って捨てた物を「見る」という行為で「厄」が戻ってきてしまうと考えたことからきたのだろう。厄落としの全国的な民俗事例を見ても「後ろを振り返ってはいけない」という例は多く、それらは落とした「厄」に再び遭わないようにするためだとされている。
 ところで、豆が捨てられる場所はなぜ四辻であるのかというと、四辻は道の交差するところで、空間的な境界とされる場所である。つまり誰の土地にも属していないので、「厄」の付着した豆を捨ててしまっても構わないということであろう。とはいうものの、捨てられた豆を後日片づけるのは近所の人たちである。自分の身のまわりからは厄介な物を排除してしまえばそれでよしとする態度も見え隠れするが、私はこの「厄」の捨て方を、つい現代のゴミ問題などの社会問題に重ね合わせてしまう。日本人の伝統的な排除意識が垣間見えるのではないだろうか。

1999年10月21日掲載

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八幡浜と民俗

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 これまで十数回にわたり、八幡浜地方の民俗を紹介してきたわけだが、テーマが地名、方言、芸能、宗教、年中行事、食習慣など他分野にわたっているため、読者から「民俗」とは何か、よくわからないので、その全体像を一度紹介してほしいとの感想を頂戴した。ここでその随所のみを記しておきたい。
 「民俗」とは普段は聞き慣れない言葉であるが、一言で説明すると「世代を越えて過去から現在に伝承されてきた文化」とでも言えようか。もっと簡単に言えば人々の生活習慣のことである。具体的には、表に掲げたとおりであるが、これは日本民俗学を確立した柳田国男が『郷土生活の研究法』で提示したもので、ほとんど人間の生活全般にわたっている。
 さて、私見ではあるが、八幡浜人はこれまでこの「民俗」という視点では、自分達の足元の文化をあまり評価してこなかったように思う。『八幡浜市誌』にも「民俗」の項目はあっても、生活全般を総論しているわけでもなく、郷土史や昔話を取り上げたものはあるが、八幡浜の民俗全般を紹介する出版物があるわけでもない。
 また、「八幡浜には歴史がない」という言葉をよく耳にするが、これは八幡浜の郷土の歴史や文化は学ぶに値しないと言っているようなものである。昭和十年に八幡浜の市制が施行された際、市政の指針ともいえる「八幡浜市是」が定められているが、その中に「旧藩政所在ノ地、所謂城下町等ト異リ、伝統的都市ノ品格ト民度ニ於テ漸ク遜色アルヲ免レズ」の文言があるが、既に昭和十年の頃には八幡浜人にそういった意識があったことを物語っている。
 ただし、これは宇和島や大洲などの城下町に比べて権力者の歴史がないというだけで、原始以来、八幡浜に人は暮らしてきており、その生活の歴史やそこで育まれた文化があり、それが現在まで伝承されていることも多い。
 私は大学時代に民俗学の講義を受講した時に、かなりの衝撃をうけた。亥の子や柱祭りといった年中行事、神楽や鹿踊といった芸能、そして方言など、自分が育った土地である八幡浜の何気ない習慣・文化が、全国的な事例として、大学の教壇で取り上げられていたからである。当たり前と思っていた事が実は当たり前ではなく、個性を持っていたことに気付かされたのである。同時に、郷土の民俗を知ることにより、八幡浜人が八幡浜人としてのアイデンティティや誇りを持つ手段となることも学んだ。
 思うに八幡浜地方は民俗の宝庫である。それを注目せず、学ぶことなく、記録もしないまま次世代を迎えると、八幡浜が八幡浜でなくなってしまうのではないか。そう憂慮しながら郷土の民俗に注目しているのである。

1999年10月21日掲載


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アワンボウとカイツリ

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 正月三が日を大正月というが、それに対して十五日中心の正月を小正月という。小正月のことを八幡浜地方では「オジュウゴンチ」といい、注連飾りを焼いて餅をあぶって食べる行事が主体となる。これ以外にも小正月の民俗行事は数多くあるが、今回は既に廃れてしまっている八幡浜地方の小正月行事を紹介しておきたい。
 『八幡浜市誌』によると、中津川で「アワンボウ」という習慣があったと記載されている。これは、正月十三日に、栗(クリ)の木の一端を十字に割った五〇センチの棒を神棚に供え、それで部屋の柱、人の頭をたたいて、豊作であるように、頭痛が起こらないように祈る、というものである。この行事は地元の明治四十年代生まれの人でも記憶していないというので、大正時代初期以前に行われていたものであろう。
 この「アワンボウ」は「粟穂」と書くが、米が日常食となる以前に常食とされていた粟(アワ)の豊作を祈願する行事であった。米を食べることが日常となり、次第に粟(アワ)も栽培しなくなってそれに関する民俗行事も廃れていったのだろう。
 この中津川の「アワンボウ」に類する事例が三瓶町鴫山にもあった。正月十三日になると、ヌルデ(ウルシ科の落葉小高木)の木と竹で、二又の粟の穂の形をつくって神棚に供え、その際に「カイツリ、カイツリ」と唱える。供えたヌルデの棒で、家の柱を叩いたり、人間の頭を叩いたりして、頭痛にならないよう祈願していたという。この行事は明治時代生まれの老人がかすかに記憶している程度で、昭和初期には廃れていたようである。
 この粟穂を供える際の唱え言である「カイツリ」については、その意味するところは不明である。しかし、南宇和郡や高知県では、小正月かその前に、子供や若者が家々を訪問して物をもらってまわることを「カイツリ」といい、伊予郡中山町でも十四日に子供らが幼児を背負って「オカイツリに参りました」と言ってゼニサシを持って家々をまわり、物をもらって歩くという風習があった。また、瀬戸町川之浜では、節分に子供らが粟穂に似た縁起物を作って親類に持参し、代わりに菓子や銭をもらうのだが、その縁起物を「カイツリ」といった(註)。
 このように「カイツリ」という唱え言は、かつてはこの地方にも小正月に地区の子供達が家々を廻り、物をもらうという行事があったことを示すと言える。それが廃れて、唱え言として残ったのではないだろうか。既に聞き取りすることはできないが、明治時代以前の小正月行事を彷彿させるものとして興味深い。

(註)『愛媛県史』民俗編下

1999年10月21日掲載

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正月のお年玉

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 子供にとって、正月の一番の楽しみは何と言っても、親や親戚からお年玉をもらうことである。このお年玉について全国的な民俗事例を見てみると、正月の神詣でや若水迎えの際に供える米や餅を「年玉」といったり、鹿児島県甑島では、正月神のトシドンが子供に配る丸餅を「年玉」といったりするが、お年玉の原型は必ずしも金銭ではなく、米や餅だったのである(註)。しかも単なる米、餅ではなく、一度、氏神や家の神様にお供えしたものを分配している。つまりは、年の初めに米や餅を人と神が共食することにより、その年の無事を祈願していたのである。現在でも、お年玉を、子供に渡す前に、鏡餅や年取りの干柿、蜜柑とともに神棚にお供えするという家は多いようである。このようにお年玉は、本来は神饌であるとともに、神から分配されるものであったが、この心意も忘れられつつある。
 さて、神様に供えた金銭や餅を子供に分配するという正月行事は、八幡浜地方の民俗事例にも数多く見ることができる。
 八幡浜市大島では、「乗初め」といって、正月二日の早朝に島内の船主が自分の船に乗り、船玉様に賽銭と供物を供え、その年の漁の安全を祈願し、同時に、近所の子供達が船に次々に飛び乗って、賽銭や供物を競って奪い合う。船主にとっては、供物を子供に持って行かれないと、その年は豊漁にならないという。これは戦後は廃れてしまったが、子供にとっては楽しい行事であった。同様の事例として、保内町雨井でも「船乗初め」といって、二日に船主がご馳走を作って、乗組員を呼んで船上で酒盛りをし、その後に、一升桝に小銭を入れ、親類や近所の子供達に銭を配っていた。
 また、大正時代以前の話だが、三瓶町鴫山では「鍬休め」といって、二日に農具に供えた鏡餅を菜園に隠し、地区の青年がこれを探しあい、これを探し当てて、共食していたという。八幡浜市中津川でも、二日の早朝に分限者が自分の畑に餅を隠し、子供達に探させる行事があった。
 これらはいずれも、漁業、農業の仕事始めの行事であるが、実際には仕事はやらないで、神を祀り、一年の豊漁、豊作を祈願し、その供物を地区内の子供達に分配している。かつては子供が地域の生業の繁栄祈願に密接に関わっていたことを示すと同時に、現代の子供に、親がお年玉をあげるという行為も、その年の家の繁栄、無事を祈ってのことであると言えるのである。

註 大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂

1999年10月21日掲載

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新と旧の正月

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 今から四〇年程前までは正月は二度あった。そういった話を各地で聞くことができる。新暦と旧暦の正月の両方を祝っていたのである。二度、正月を祝うことは、明治五年(一八七二)に政府によって、それまでの太陰太陽暦を太陽暦へと改暦したことで、年中行事の日程に旧暦、新暦の混乱が生じたことにより始まっている。国家が新暦を採用しても、庶民はそれまでの旧暦によって季節を感じ、農業、漁業を営んできたわけで、直ちに旧暦を捨てることはできなかったのである。
 さて、新と旧の正月の祝い方は同じだったわけではない。双岩地区で聞いたところでは、新暦の年末には、正月に食べる分だけの餅しかつかなかった。というのも新正月の時期は、芋の収穫や麦蒔きで忙しかったからである。正月休みも三ヶ日ではなく、一日だけだったという。ところが、旧正月の前になると、キビ、アワ、タカキビ、米の餅を大量につき、水餅にして、六月頃まで保存した。水餅にするには「寒の水」といって、大寒の時の水につけるのがよいとされたので、新暦の年末に水餅にするのは抵抗があった。旧正月は三日間が休日であり、親類など多くの来客があったという。昭和二〇年代までは旧正月のほうが盛んだったが、次第に廃れ、新暦へと移行している。
 また、川之内地区で聞いたところでは、戦前は、新正月には氏神へ初詣に行くくらいで、現在の正月のような雰囲気はなく、雑煮も旧正月に食べていた。旧正月には三ヶ日が終わるとすぐに大洲祇園神社の大祭があり、大勢で参拝に行くなど、新正月よりも旧正月の方が楽しみだったという。
 なお、正月の初詣は、江戸時代後半に流行した恵方参りという、良い方角にある寺社に参詣する習俗にはじまるもので、近代になり、年頭に氏神や有名寺社に行くようになったとされ、比較的新しい習俗で、初日の出も同様に近代に盛んになったものである。また、戦後になると大晦日に紅白歌合戦やゆく年くる年を見ることによって、年の変わり目を意識するなど、現在の新暦の正月の雰囲気は、ここ半世紀で形成されたものといえる。
 八幡浜地方において正月が旧から新へ完全に移行したのは昭和三〇年代に入ってからのことであり、明治改暦後、九〇年の月日を要している。これは旧暦によって営まれていた農業、漁業などの生業中心の生活慣習が高度経済成長を遂げ、都市の慣習へ移行したことを物語っている。同時に、マスメデイア等の影響により家庭・地域内の規範に基づいていた正月から、全国的な国民行事としての正月へと移り変わったともいえるだろう。

1999年10月21日掲載

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八幡浜の修験寺院

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 江戸時代に八幡浜が属していた宇和島藩の人口をまとめた史料が宇和島市立図書館に残っている。明治三年六月の藩内の宗教者人口を見てみると、興味深いことに、当時、神官(八一一人)や僧侶(四六一人)よりも、山伏(八八〇人)の人数の方が多いことがわかる(註1)。
 山伏(修験者)は、村や町の祀堂を管理し、日待、月待、庚申などの祭りの導師を勤めたり、加持祈祷などの呪術活動を行い、庶民の現世利益的な希求に答えていた宗教者で、江戸時代から明治時代初期にかけては、各地区に在住し、神主、僧侶とともに庶民の生活に密接に関わっていた。
 八幡浜地方の山伏の活動については、『八幡浜市誌』や「八幡浜史談」ではこれまでほとんど紹介されたことがない。今回は、まず、各地区にいた山伏の活動の拠点ともいえる修験寺院について、愛媛県立図書館所蔵の「神山県寺院明細帳」(明治五年)から八幡浜市関係のものを拾い上げ、列挙しておきたい(表1)。
 表中にある、川ノ内村の医王山善福寺は、現在でも川之内影浦に庵が残り、木造の薬師如来坐像が祀られているが、山伏ではなく、地元の人達によって管理されている。このように、堂庵は残り、山伏ではなく、地区の管理のもと祀られているものもあるが、五反田村の金剛山法善寺のように、全く消滅してしまったものもある。それは明治時代初期の修験道廃止令などの政策にともなうものである(註2)。
 なお、この五反田村の金剛山法善寺は、毎年八月十四日に行われる五反田柱祭りの起源伝承に出てくる「金剛院」に関係のある修験寺院と思われる。この点については、いずれ詳しく紹介してみたい。

註1 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』
註2 江戸時代、幕府は慶長十八年(一六一三)に修験道法度を定めて、全国の山伏(修験者)を京都の聖護院を本寺とする本山派と、醍醐三宝院を本寺とする当山派のいずれかに所属させている。明治時代になると、政府が明治元年(一八六八)に神仏分離令を出し、権現を祀る霊山を神社としたり、地域社会の山伏を神主に転向させようとした。さらに、明治五年(一八七二)九月に、修験道廃止令によって修験道は廃止され、本山派は天台宗、当山派は真言宗に所属し、仏教教団内で存続することになった。しかしこれらの政策により、廃寺となったり、山伏が帰農したりして、各地の修験寺院は大打撃を受けた。

1999年10月21日掲載


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郷土料理さつまの由来

1999年10月21日 | 衣食住
 「さつま」は八幡浜をはじめ、南予地方一帯の郷土料理として知られている。白身の焼き魚の身をほぐし、白味噌、麦味噌を好みに合わせてすり鉢ですり合わせ、これに線切りにしたこんにゃく等を加え、麦飯の上にかけて食べる料理である。
 この「さつま」は南予独特の料理かというと、実はそうではない。東予地方の海岸部つまり燧灘沿岸部にもあれば、山間部の上浮穴郡久万町にもある(註1)。ただし、久万町のさつまには海の魚ではなく、ウグイやアメノウオといった川魚を用いている。また、南予地方と豊後水道を隔てて位置する大分県南海部郡の米水津村にも、郷土料理としてさつまがある。私も、平成七年に米水津村に民俗調査に行った際、調査先でご馳走になったのであるが、名称、作り方、味ともに八幡浜のさつまと同じだったため驚いたことがある。案外、さつまの分布域は広いようである。
 さて、このさつまの名称の由来については、これまでの民俗学関係や郷土料理関係の研究を見ても紹介されていないようである。八幡浜でこれまで聞いたところでは、由来について諸説あるが、はっきりとしたことはわからない。
 ①薩摩国(鹿児島県)から伝わったからという説。
 ②さつまを御飯にかける際に、御飯を箸で十字に切っておくと、きれいにかけることができる。この、茶碗に十字の模様が、薩摩の島津家の家紋である「丸に十字」に似ていることからついたという説。
 ③夫が妻を助けて作る、つまり妻を補佐するという意味の「佐妻」からついたという説。
 残念ながら、①、②、③のいずれも客観的な裏付けはなく、信憑性は低い。薩摩国と関係があるのであれば、料理のさつまのことを「薩摩」と表記することがあってもよいのだろうが、そういった例は南予においても、南予以外においても確認することができない。また、発音のアクセントについても料理の「さつま」と国名の「薩摩」とでは異なっており、これらは無関係と考える方が適当である。②、③の説は、本来的なものではなく、後から考え出され説明手段であろう。このように、八幡浜地方の郷土料理さつまの由来は謎が多く、今後、さらに情報をあつめた上で判断しなければいけない問題といえよう。

註1 『聞き書 愛媛の食事』農山漁村文化協会 一九八八年

1999年10月21日掲載


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「西予」という地域名称

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 最近、「西予」という呼称が登場した。八幡浜、大洲市、西宇和、東宇和、喜多郡の二市十四町が構成する八幡浜・大洲地区広域市町村組合が、この地方の新呼称として採用したのである。
 「西予」の呼称は目新しいものだが、これまで全くなかったわけではなく、昭和十年に村田吉右衛門が著し、西宇和史談会が発行した『西予人物志』(宇和町立図書館蔵)のタイトルに使用されている。この本では、当時の西宇和郡(現在の八幡浜市、西宇和郡)内の国学者、歌人、俳人、画家等が紹介されている。内容からすると「西予」は八幡浜市、西宇和郡域つまり旧西宇和郡を指しているが、今回の「西予」は八幡浜、大洲圏域ということで、昭和初期の「西予」とは地域区分が異なっている。ちなみに、「西伊予」の名であれば、江戸時代中期に著わされた『南海通記』に「西伊予とは宇和・喜多二郡の事なり」とあり、現在の南予全体を指している。
 そもそも、現在ある「東予」・「中予」・「南予」も、明治時代以降に定着した新しい地域名である。現在、一般的には越智郡、周桑郡以東が東予、喜多郡以南が南予、その中間地域が中予とされているが、戦前においては現在と異なる区分であったので、紹介しておきたい。
 まず、「南予」については、江戸時代後期の伊予の代表的な俳書である『知名美久佐』に「南予吉田」の記述があるのが初見であるが、明治九年に宇和島に設立された南予変則中学校(現宇和島東高)の校名に用いられて以降、新聞名や企業名に頻繁に使用されるようになる。ところが、昭和六年に南予時事新聞が選定した景勝地「南予八景」には、北宇和、南宇和郡域のみが取り上げられており、喜多、西宇和、東宇和郡はこの中に含まれていない。「南予」は主に宇和島周辺地域を指していたのである。
 また、「東予」は明治十三年に設けられた西条中学校の前身を県立中学校東予分校と称したことが最初で、その後、企業名に「東予」を冠した名称が出てくる。
 「中予」は現在は松山周辺を指しているが、かつてはこの地域は「北予」と呼ばれていた。明治九年に松山の勝山学校内に設けられた変則中学校を後に北予学校と改名(後に松山中学校と改称)したのが、この「北予」の最初で、今日ではほとんど一般に用いられることはないが、県の地理的位置からすると松山市を中心とした地域はまさに北方にある。興味深いことに、現在は松山市周辺を指している「中予」については、大正三年に刊行された「中豫新聞」が内子町周辺の新聞であったり、昭和二年刊行の「中豫民報」は長浜町周辺の新聞という具合に、喜多郡地域が「中予」と認識されていたのである。
 このように、同じ地域名でも、時代とともに、指し示す場所が異なっている。しかも、東、中、南予やかつて用いられた北予はいずれも行政や学校、新聞社など公の性格を持つ機関が採用し、その後一般化したものであり、今回の「西予」もその流れを汲むものといえるだろう。

1999年10月21日掲載

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カワウソと人の交流誌

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 県獣であるカワウソは、動物では県内唯一の天然記念物である。このカワウソについては、戦前は宇和海を中心に各地で生息が確認されていたが、昭和四十年代以降、目撃例がごくわずかとなってしまった。カワウソの絶滅の危機は必ずしも自然現象とは言い切れず、戦前は毛皮にするため乱獲されたり、戦後、急激に環境が破壊されるなど人為的な要因も無視できない。そもそも、弥生時代後期の神奈川県猿島洞穴出土動物遺体の中にカワウソの骨が発見されるなど、人間とのつきあいは原始・古代に遡ることがわかっている。また、平安時代中期成立の『延喜式』巻三十七典薬寮によると、カワウソが薬として朝廷に献上され、また、室町時代には塩辛にされるカワウソの史料も残っている。近代になっても、毛皮のために乱獲されるだけでなく、結核や眼病の薬としても捕られていたようである。戦後、絶滅の危機に直面すると、天然記念物に指定され、目撃例があると一躍新聞紙面を賑わすなど、一転、稀少で、しかも愛敬のある動物、人間に親しみにある動物として祀りあげられた。原始以来の人間とカワウソとの交流の歴史を見ていくと、実に、人間に翻弄されるカワウソの姿が浮び上がるのである。
 人に翻弄されてきたカワウソであるが、八幡浜地方に伝わる数多くのカワウソに関する伝承を確認してみると、逆に人間の側が彼らに悪戯され、翻弄されている例が多いので面白い。この種の話は海岸部に住む戦前生まれの人であれば誰でも聞いた経験があるというくらい、枚挙にいとまがないが、数例挙げてみると次のような話がある。
 「漁師が沖で漁をしていると、カワウソがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がってしまい、難儀した。」
 「島の人がカワウソを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたカワウソの親が、毎晩、子供をかえせ、子供かえせと言いに来た。」
 「夜二時ごろ、海岸をあるいていると、防波堤の上にはちまきをして、子守をしている女性がいた。不気味に思ったがこれはカワウソが化けたものに違いないと思い、『お前はカワウソじゃろうが』と叫ぶと、消えてしまった。」(以上、大島)
 「カワウソに化かされて、一晩中、山中を歩かされた。」
 「カワウソが手招きして、風呂を沸かしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だった。」(以上、真穴)
 天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているカワウソ。生物としての絶滅危惧とともに、身近に伝承されてきたカワウソとの交流話も消えうせる可能性がある。八幡浜地方は愛媛県内でも遅くまでカワウソが生息していた地域として、この種の話も継承していく必要があるのではないだろうか。

1999年10月21日掲載


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家族や他人の呼び方

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 八幡浜市釜倉の昭和三年生れの老婦人に聞いた話だが、昭和十年頃までは父、母のことを「トット」、「カッカ」もしくは「オトッツアン」、「オッカサン」と呼び、兄は「アンチャン」もしくは「アンヤン」、姉は「ネエチャン」と呼んでいたという。私のイメージでは「オットウ」、「オッカア」なのかと思っていのだが、そうは呼んでなかったようで、「それは時代劇やまんが日本昔話の世界だ」と老婦人に言われてしまった。その次の世代、つまり昭和十年代以降には「トウチャン」、「カアチャン」が一般的となり、昭和四十年代から「オトウサン」「オカアサン」と呼ぶ家庭が徐々に増えはじめ、現在では、「パパ」、「ママ」が主流となっているようである。私事ではあるが、先日、娘が誕生した。娘に自分をどう呼ばせればよいか悩んだが、時代の流れに沿って「パパ」を採用しようかと思っている。
 このように、時代、世代とともに親族の呼称は変化している。『日本国語大辞典』(小学館)によると「ツマ(妻)」という言葉についても、古代には「夫」の漢字で「ツマ」といっていた例がある。「ツマ」は側にいる者という意味らしく、昔は招婿婚だったので、女性中心に夫を「ツマ」と呼んだのだろう。現在、普通一般に、妻という言葉を使用しているが、「夫の側にいる者」の意味で、男性中心の見方から来た呼び方なのである。 話はかわるが、人の呼び方に関して、八幡浜地方独特の方言に「ワレ」、「ワレラ」という言い方がある。標準語であれば、当然「自分」、「自分達」を意味するが、八幡浜ではそうではなく「お前」、「お前達」の意味である。日常的に使う言葉ではなく、少々喧嘩腰になったときに、相手に向かって発する言葉である。目下の者に対しても使用する言葉である。あまり上品な言い方ではない。
 この方言は実に不思議なものである。通常「ワレ(我)」は自分を表す一人称であるが、八幡浜では相手を表す二人称として使用されるからである。
 ところが、古い時代の文献を見ると、例えば鎌倉時代初期成立の説話集『宇治拾遺物語』十の十に「この僧に問ふ。我は京の人か。いづこへおはするぞと問えば」とあり、相手の僧侶に向かって「ワレ」を使用している。鎌倉時代には既に存在した用法であるが、これは中世以降、江戸時代までの文献に散見できる。
 このように見ると、八幡浜の「ワレ」という方言は、古い日本語(標準語)の名残りと見ることができる。しかし、今の若い世代はこの言葉はほとんど用いていない。いずれ消えゆく言葉なのかもしれない。

1999年10月21日掲載

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