愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛の祭礼山車の分類

2003年01月18日 | 祭りと芸能

 祭礼に際して、神輿とは別に、風流(装飾)を凝らして、担いだり、ひいたりする屋台のことを山車(ダシ)という。京都祇園祭の山鉾はその代表的なものであるが、ほかに、ダンジリ、曳山、山笠、太鼓台など、地域や時代によって名称や形態は様々である。愛媛県内では、新居浜市の太鼓台をはじめとして瀬戸内海沿岸地域や南予地方に「太鼓台」、「ダンジリ」、「四ツ太鼓」と呼ばれる布団太鼓が分布し、また、西条市周辺には、二、三層の彫刻を施したダンジリが有名である。それ以外にも、笹花で飾られた北条市のダンジリや、北宇和郡吉田町、西宇和郡伊方町、保内町の山車など、様々な種類の山車が登場する。
もともと、祭礼の主人公は神輿に乗って御旅所へ渡御する祭神であり、それに供奉するのが山車である。都市化が進行した現在では、伝統的な祭礼が急速に衰退、消滅しつつあるが、山車の登場する祭りは、多くの観衆を集めて活発に行なわれており、現代では神輿にかわって、祭りの中で最も注目される存在ともなっている。
 さて、愛媛県内で山車というと、六種類に分類できるかと思われる。
 第一には北条ダンジリのように木枠に笹竹を飾る単純な構造のものである。第二は、屋台形式で、二、三層にわたり精緻な彫刻を施したもの。つまり西条市などに見られるものである。第三に布団屋根の太鼓台である。これは新居浜太鼓台をはじめ、越智郡の「布団ダンジリ」、南予地方の四ツ太鼓もこれに含まれる。
 これらは、一八世紀に東予地方では屋台が見られ、その一世紀後に太鼓台が見られ、また、明治時代初期以前には北条にダンジリが登場するという歴史的過程がある。どのダンジリの形態が古くて源流であるとの系統立ては困難であるが、形態上からは、もともと北条ダンジリのように木枠のみの単純な構造であったものに、西条ダンジリのように高欄を巡らし彫刻を施して飾り付けて派手とするか、布団を屋根に乗せ、さらに周囲を刺繍で飾って派手にするかで発達の様式が決定したものと言えるだろう。
 第四に南予地方の山車が挙げられる。これは「ダンジリ」という呼称は地元では聞かれないが、人形屋台の一種で、中、東予には見られないものである。ただし、大阪の地車(ダンジリ)に共通する部分が多く、山車の一種に分類してみた。
 第五は数は少ないものの県下広範囲に見られる船型山車で、第六は南予地方の祭礼の花形である牛鬼である。牛鬼は神輿渡御の露祓いから発達したもので、もともと山車とは別種のものと思われるが、現在では大型化し、祭礼の中でも布団太鼓と鉢合わせをするなど、山車的な要素も強くなっているので加えてみた。
 なお、山車については、移動方法が「曳く」か「担ぐ」かがよく問題とされるが、『岩城村誌』(一九八六年)の中で、「三浦家永代記録」が紹介されており、明治十四年の「祭礼道具人別控」に各種の練物が記されている。そしてその中で「引壇尻」(西地区から出される)と「太鼓壇尻」(東地区から出される)とが並記されている。これは亀山八幡神社の秋祭りに登場したものであるが、「引壇尻」という語に注目しておきたい。なぜなら、現在は東西のダンジリとも「担ぎダンジリ」だからである。地元では、東西のダンジリともに明治二年の新調と言っているが、明治一四年の段階で「曳きダンジリ」が存在したと考える方が妥当であろう。
 愛媛においては、祭礼の中で「曳いて見せる」文化は、一九世紀(以前)的なものと言え、近年では山車を担ぐことによって、「見せる」要素が強くなったと考えている。現在の西のダンジリは、明治一四年以降に新調されたというよりも、改築されて、曳く形から担ぐ形に変化したのではなかろうか。
南予地方の牛鬼についても、一九世紀に描かれた絵巻を見ると、すべて担ぎ手は胴体の中に入っているものの、現在では外に体を出して担ぐのが一般的となっている。現在でも明浜町や三瓶町では人が中に入って担いでいるが、これは古風な担ぎ方を伝承している地域なのだろう。また、西条市のダンジリも現在は人間が外に出て担げるようになっているが、「伊曽乃神社祭礼絵巻」(伊曽乃神社蔵、江戸時代末期成立)を見ても、人は中に入って担いでいる。つまり、一九世紀には、担ぐ姿を「見せる」という祭りの雰囲気ではなく、装飾を見せるのが一義だったのではなかろうか。岩城村西のダンジリも、もとは曳く形だったのが、担いで見せることを意識し、曳きダンジリから担ぎダンジリへ変容させたのだろう。このように、山車の曳き方、担ぎ方の歴史をたどっていくと、一九世紀から二〇世紀にかけての祭礼における「見せる」要素の変遷がわかり、人々の祭礼に対する思いの変化も理解できるのではないか。

*本稿は拙稿「愛媛県の祭礼山車」(『四国民俗』35号、四国民俗学会、2002年)第2章第1節の文章である。

2003年01月18日

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旧正月を守る島

2003年01月17日 | 年中行事

1月2日に温泉郡中島町の二神島・津和地島へ行ってみた。目的は2つ。一つは二神島の宇佐八幡神社に奉納されている絵馬を見たかったこと、もう一つは、島の正月の雰囲気を確かめたかったことだ。絵馬に関しては、昨年末にお会いした松山東雲短期大学の森正康先生から、宇佐八幡神社に、愛媛県内では数少ない戦前の小絵馬が残っていることをうかがい、早速行って実見することができた。この絵馬については後日紹介したいと思っている。
さて、2日は、午前中に二神島をめぐり、午後に津和地島へ渡ったが、津和地島は正月にも関わらず賑やかな雰囲気であった。港近くの広場では10人近いお年寄り達がゲートボールを楽しんでいたし、ミカンの収穫・搬出をしている農家の方も多かった。個人商店も通常通り営業している。この島の人は正月2日から家の外に出て熱心に働くものだと、最初は感心した。
ところが、島内を歩いていると違和感を感じずにはいられなかった。正月の雰囲気をかもし出す家々の注連飾りがどこにもないのだ。この島には正月に注連飾りをしない風習でもあるのかと不思議に思い、地元の人に聞いてみると、「正月はまだ来てないよ」との返事。なんと、津和地島では正月行事を未だ旧暦で行っていて、新暦正月には日常の如く働くのだという。だから注連飾りは付けていなかったのだ。街中を歩いて家々を観察してみると、軒下に干し柿を吊るしているが、吊るし始めたばかりで実に瑞々しい柿である。旧暦正月(今年の場合2月1日)に間に合うように柿も干していた。
よく聞いてみると、昭和50年代には一度新暦正月に移行したのだが、この時期は島の主要作物であるミカンの収穫が最も忙しくてゆっくり休んでいられないので、島内の申し合わせで再び旧暦に戻したそうだ。旧暦だとミカンの収穫も終わって心安く正月が迎えられるらしい。旧暦正月が過ぎるとちょうど松山の椿祭り(旧暦正月7~9日)があるので、買い物を兼ねて船で松山に行く。これが島の人の楽しみだという。
年中行事は生業と密接に関連することはよくいわれることだが、正月に関して未だ旧暦を守っていることには少々驚かされた。

2003年01月17日

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民俗学から見た「宇和」

2003年01月13日 | 民俗その他

①「民俗」の現在・未来
「民俗」とは普段は聞き慣れない言葉であるが、一言で説明すると「世代を越えて過去から現在に伝承されてきた文化」とでも言えようか。もっと簡単に言えば人々の生活習慣のことである。そもそも「民俗」という言葉は近代になって普及した語で、はじめは明治政府が「民情風俗」という意味の政治性の強いものであったが、柳田国男が民俗学を提唱する中で、「民間伝承」の意味に変換されていった経緯がある。柳田以来の日本の民俗学は、この民間に伝承されている生活習慣、つまり生活の中の経済・社会・宗教・芸能などの諸側面における慣習(技術・知識・観念など)を研究対象としてきた。「郷土文化」を知る一つの「手段」として、また「視角」として民俗学は有効なのである。ただ、世代を越えて自分達が受け継いでいる文化は、「内的」に見ると自明のものであり、何ら珍しいものではない。「郷土文化」を知ろうとする動機の多くは、自分が居住する郷土の良さを発見し、誇りを持ち、自らその構成員であることを自覚することにあるが、郷土の範囲内だけの問題意識では、「民俗」の良さを知り、誇りを持つのは難しい。ところが、「外」との比較をする視点を持つと、自らが受け継いでいる文化が自明のものではないことを認識し、郷土を再評価する契機となる。私は大学時代に民俗学の講義を受講した時に、かなりの衝撃をうけた。八幡浜出身の私にとって、亥の子や柱祭りといった年中行事、神楽や鹿踊といった芸能、そして方言など、自分が育った土地の何気ない習慣・文化が、全国的な事例として、大学の教壇で取り上げられていたからである。当たり前と思っていた事が実は当たり前ではなく、個性を持っていたことに気付かされた。同時に、郷土の民俗を知ることにより、そこに居住する人間としてのアイデンティティや誇りを持つ手段となることも学んだ。柳田国男は郷土研究を「郷土人自身の自己内部の省察」と述べているが、そのことに気付いたのは、郷土においてではなく、郷土を離れた場所においてであった。同時に、物事を「内的」・「外的」の双方の視角で見つめる客観性が重要であることにも気付かされた。
ところが、郷土の中で世代を越えて伝承されてきた文化は、今、消滅の危機にある。伝承の母体となっていた地域社会は揺らぎ、血縁・地縁関係は希薄化しているし、都市から地方へと大量の情報がもたらされ、人々の価値観が均一化してきている。次世代に生活の中の技術や知識、観念を伝えるのは困難な状況にある現在、「民俗」を伝承している世代(端的に言うと老人世代)の記憶している文化は、数十年後には無になる可能性がある。例えば年中行事にしてみても、長い年月をかけて、それぞれの土地の風土に順応し、醸成されたものであり、その土地の顔となる文化でもあったはずが、現代、未来において大きく変容を遂げようとしている。もともと、血縁・地縁が結集するための儀礼であった年中行事の多くは、地域社会の揺らぎとともに衰退、消滅の危機にあるが、例えば城川町土居の「御田植祭(どろんこ祭)」や八幡浜市穴井の「座敷雛」などのように、観光客やマスコミといった他者からの「外からの眼差し」を受けることで、地元が再結集し、存続を可能としているものもある。現代においては、民俗を継承していく要素には「外的」視角が必要というべきか。すべての民俗が他者から注目されるわけではないため、郷土に住む者が自ら客観的に外からの眼差しを持って、郷土文化に注目し、そして学び、認識することによって、価値を判断することが求められる。それにより、文化の継承が可能になるといえるのである。

②民俗学と「宇和」
さて、民俗学界において「宇和」は良く知られた地域呼称である。和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』(吉川弘文館)という著名な民俗調査報告書が刊行されているからである。しかし、この報告書の「宇和地帯」の地域設定についてはいささか問題点がある。「宇和地帯」という言葉は、地元においては日常的に持ちいれられるものではなく『宇和地帯の民俗』の出版により、民俗学界のなかで一般化したものである。和歌森グループの用いた「宇和地帯」とは「愛媛県西南部を占める宇和島市、北宇和郡、南宇和郡の地を指す」とされている。この調査地設定の理由は、一、和歌森らが前年調査した国東半島と不即不離の位置にあること。二、鉄道の通らない陸の孤島であること。三、地域を宇和四郡に設定して調査を行うには広大であること。この三つが挙げられている。しかし、国東との不可分の関係を指摘しているが、実際、「宇和地帯」は文化圏としては同じ大分県でも、国東よりも大分県南部地方との関係が強く、「不即不離」とするのは強引であることや、和歌森が、地域設定の前提で述べたような国東との関係を具体的には述べてはいないこと(これは和歌森以後においても同様である。)、そして、和歌森グループによって『宇和地帯の民俗』が刊行されることによって、「宇和地帯」イコール南北宇和郡、宇和島市が定着し、その結果その他の宇和地域である東西宇和郡の総合民俗調査が遅れることとなったことなどが挙げられる。つまり「調査地域の設定」が結局のところ「文化圏の設定」と認識されてしまったのである。このように、民俗学界では、東宇和・西宇和地域は民俗調査の進まないエアポケット状態にあったといえる。その上、地元でも郷土文化を「民俗」という視角でとらえる意識が希薄だったため、「民俗」が評価されにくかった。
 思うに宇和町をはじめとする「宇和地帯」は、和歌森が注目したように、民俗の宝庫であることは間違いない。それを注目せず、学ぶことなく、記録もしないまま次世代を迎えると、郷土が郷土でなくなってしまうのではないか。そのような憂慮を持ちつつ、今、地元は「民俗」に注目することが求められているのではないだろうか。

*本文は2002年3月の宇和郷土文化保存会での講演録であり、2002年7月発行の本会誌『開明』に掲載されたものである。

2003年01月13日

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