愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

瀬戸田町史と巳正月

2000年08月31日 | 人生儀礼

先般注文しておいた『瀬戸田町史民俗編』が今日、郵送されてきた。平成10年に刊行されたものだが、この広島県瀬戸田町は芸予諸島で愛媛の上浦町や岩城村に接する位置にある。愛媛に隣接する地域の自治体史の中では民俗編が特に充実しているということを耳にし、購入した次第。
私が興味のあった民俗事象の一つは「巳正月」である。「巳正月」は愛媛全域・西讃・徳島県山間部・高知県の愛媛・徳島に隣接する地域に濃厚に分布している行事である。この巳正月の分布については、ここ数年、興味を持って調査してきたのであるが、広島県における巳正月の分布が少し気になっていた。瀬戸田町や因島市には巳正月があるが、三原市、尾道市などの本土側になると巳正月は見られないのである。真宗の影響もあるのだろうか。さて、『瀬戸田町史』の「巳正月」の記述は6頁にわたるが、「人の一生」の項目では次のように記されている。「十二月の巳午の日は巳午(ミイマ)といって、死者の正月といわれている。宗派によって異なるが、死者の出た家は正月を迎える前に亡き人とともに、その年の最終の食事をして、忌明け、新春に入るとされていた。巳午には、寺で巳午行事が行われるために、供え物として餅を搗き、二升の重餅を持参していた。港では、寺で巳午行事が終わった後、供え餅の上段を墓前で焼き、餅を引っ張り、ちぎり合って分ける式が行われる。また、家で搗いた餅を香典の中身に応じて分配していたので、配る餅数が異なっていた。沢では、供え餅の上段を持ち帰り、近親者と食べた。巳午の餅を食べると長生きするといわれていた。墓に左縄の注連縄を張る慣習が残されていたところもある。」
 芸予諸島で巳正月の話を聞き取りすると、一つの傾向が見えてくる。それは行事日の問題である。この瀬戸田では巳午の日に行うとされるが、巳午の日に行うのは上浦など、芸予諸島でも広島に近い島でのことで、それが今治に近い大島(宮窪、吉海)では辰巳の日に行うというのである。辰巳に行う地域は愛媛県東予地方に広がっており、大島はその影響であろうか。東予の影響の薄い芸予諸島北部になると巳午となるという地域分布が見られるのである。また、愛媛の中予、南予では主に巳午で行う。西讃でも巳午で行うことが多い。この現象からは、東予地方に辰巳の巳正月が、そしてその周辺地域に巳午があるという巳正月の行事日のおおまかな分布が見えてくる。
以上は行事日に限ったことであるが、『瀬戸田町史』の巳正月の報告にある行事内容から様々な側面からの比較できるので、非常にありがたいものであった。愛媛の側から見て、この町史は巳正月だけでなく、製塩、祭礼、初祈祷、大師信仰などまだまだ比較してみたい材料が数多く、素晴らしい町史が入手できたと思っている。

2000年08月31日


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宇和島・鹿踊りの始まり

2000年08月30日 | 祭りと芸能

平成5年2月11日付のうわじま新聞に宇和島の鹿踊に関する記事が掲載されている。これは当時の宇和島市立歴史資料館の山口喜多男館長が執筆したもの。その中で龍光沙門伝照(龍光院第六世院主、宝暦四年、66歳没)の旧記なるものが紹介されている。「宝永三年(一七〇六)、星霜五十七回を経て鹿頭悉く破損。時の町会長・今蔵屋與三右衛門隆久(旧裡町三丁目、長瀧氏)、紺屋忠大夫(旧裡町四丁目、山崎氏)、町内の有志に諮って修理。鹿頭等十体。不朽に後裔に貽す」以上がその内容である。1706年の段階で、すでに57年前、つまり、宇和島の一宮祭礼の始まった慶安2年(1649)に鹿踊が登場していたことを証明する史料ということになる。私は先日発表した南予鹿踊に関する論文「南予地方の鹿踊の伝播と変容」(『愛媛まつり紀行』、愛媛県歴史文化博物館、2000)では、この史料を取り上げることができなかった。というのも、原典が確認できなかったのである。山口氏は故人となり、直接お話をうかがえなかったため、直接、龍光院に問い合わせてみたものの、この史料自体、昭和11年に焼失しており、寺側でも史料の内容がわからないらしい。どこかに写本があるのだろうと思って、方々探してみたが見つからない。果ては宇和島の近世史料に最も精通している松山大学の先生にも聞いてみたが、写本の存在はご存じなかった。このようなわけで、内容的には興味深いが、一次史料としては使えず、論文では取り上げることができなかったのである。論文では、18世紀半ばの宝暦年間には宇和島藩領内各地に鹿踊が伝播しているので、18世紀前半以前に鹿踊が仙台から取り入れられたと結論付け、17世紀半ばの慶安年間に宇和島に鹿踊が存在した記録は確認できないと記した。龍光沙門伝照の旧記が写本でもよいので、確認することができれば、結論は変わってくる。さて、この史料の内容から推測できるのは、慶安2年の一宮祭礼の始まりとともに鹿踊が登場していたこと、さらには「鹿頭等十体」とあることから、鹿の頭数を考えるヒントになると思われる。十体とは、裡町三丁目と四丁目の各五体の合計とも考えられるし、八つ鹿の8体プラスその他の頭2体ということも考えられる。実際、現在の鹿踊でも、子供の扮する兎が出る所もある(瀬戸町三机の事例)。ただし、宇和島の鹿踊は江戸時代末期以前の記録から、五ツ鹿であったことが証明されているし、八ツ鹿になったのも大正11年と近代になってからであることから、やはり5体の2セットの計10体と考えるのが妥当だろう。確証はないが・・・。以上、原典が確認できないものの、興味深い内容の史料からわかることを、ここで紹介してみた。原典、写本が確認でき次第、史料紹介もしくは論文に仕上げてみようと思うが、どなたかが見つけてくれれば、先般発表した鹿踊の拙稿をたたき台に、論文を書いてもらえれば、私の研究の進展にもつながると思う。

2000年08月30日

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大洲の闘牛大会

2000年08月26日 | 年中行事
南予地方では闘牛が盛んで、現在でも宇和島、南宇和で闘牛大会が定期的に開催されている。昭和初期以前は、宇和町、野村町、城川町、吉田町を北限として、それより南の地域で「牛のツキアイ」といって村内の娯楽として闘牛を行っていた。この牛のツキアイの分布がなぜ西宇和郡や大洲、喜多地方にまで及ぶことがないのか、その点は今後考察の対象となるだろう。大正時代初期生まれの古老に聞き取りをすると、東宇和以南の方からはツキアイの話がすぐに出てくるが、西宇和、大洲の古老に聞いてみると、ツキアイ?闘牛?そんなものはないよ。の一言で終わってしまう。ところが、大正時代の新聞記事を見ていると、大洲で闘牛大会が開催されていた記事を見つけた。『海南新聞』大正3年10月4日付、喜多郡大洲の大祭の2日目に闘牛大会があったというのだ。大洲には闘牛は無かったと固定観念を持っていたため、この記事には少し驚かされた。ただし、その闘牛大会の中身がよくわからない。東宇和以南から牛を呼んで開催したのか、大洲にも実はツキアイ牛がいて、その大会だったのか、その辺は不明である。今後、調査をしてみたいと思っている。

2000年08月26日

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八ツ鹿踊の誕生

2000年08月25日 | 祭りと芸能
南予地方の民俗芸能である鹿踊の中でも、最も伝統的な鹿踊は、宇和島市の八ツ鹿踊であると一般には認識されている。「鹿踊りは、『しし踊り』『デンデコ』『鹿の子』とも呼ばれ、南予地方に伝わる民俗芸能です。これは、伊達秀宗の宇和島入部にともない、仙台からもたらされたもので、その原形は今でも東北地方に分布しています。伝えられた当時は、『八つ鹿』でしたが、各地にひろがるうちに鹿の数が減り、今では『五つ鹿』が一般的になっています。」(愛媛県歴史文化博物館常設展示の解説ラベルより)このように、もとは八ツ鹿で、それが各地に伝えられるうちに頭数が減らされていったというのである。しかし、これは俗説であり、史実では無い。『愛媛県に於ける特殊神事及行事』(昭和2年)によると、「近年五ツ鹿ト称シ五人ノ少年鹿ノ仮面ヲ被リ舞踊セシヲ大正十二年十一月 皇太子殿下行啓アラセラルルニ際シ古式ニ則リ三頭増シテ八ツ鹿トナシ台覧ニ供シタリ」とあり、もともと宇和島の八ツ鹿も五頭立てであったのである。宇和島市立伊達博物館所蔵の宇和津彦神社祭礼絵巻(江戸時代後期の祭礼の様子を描いた絵巻)にも五ツ鹿で描かれている。八ツ鹿へと変貌したのは、大正11年11月の四国(宇和島)への摂政宮行啓が契機であり、『海南新聞』大正11年11月27日によると、「東宮殿下の御台覧に供した南予名物『鹿の子踊り』」、「鹿の子の由来 紀元不明伊達家旧藩時代より祭りのネリ物として用いたり」と紹介され、また、『奉迎日記 輝く南海』(城戸暁風著、大正13年)によると、「天赫園では御慰め物を台覧あらせられたが中にも『唐獅子』を御覧に相成つて『之は各地方で見たが今回のは却々風が変つて面白い』との有難き御言葉を賜はり、又『鹿の子は優美で面白かつた』との御言葉を賜つた。」とある。皇太子に見せるために古式に則り、八ツ鹿にしたというが、その「古式」の根拠は不明である。もとが八ツ鹿だったという根拠は歴史資料、伝承からも確認できない。宇和島に残る安政年間製作の鹿古面も五つしか無いのである。さて、鹿踊を担当する地元宇和島市裡町一丁目の当時の対応であるが、それまで五ツ鹿だけであったが、大正11年に東宮殿下台覧のため、新たに八頭分の鹿面・衣装を新調し、町で当時の金で1300円をも調達し、衣装や頭を製作したと伝えられている。この八ツ鹿は、宇和津彦神社秋祭(10月29日)に演じられるが、昭和42年に「宇和島市裡町八ツ鹿踊り保存会」発足し、昭和40年代後半、後継者不足に悩み、一時五ツ鹿で奉納した時期もあった。これに危機感を抱いたのか、宇和島市は昭和49年に「八ツ鹿」として市指定無形民俗文化財に指定したのである。大正時代に大きく変貌した鹿踊がここで「文化財」となった。このように八ツ鹿の歴史的事実を確認すると、案外「伝統」というものは、近代になって創出されていったものであることに気付いてしまう。

2000年08月25日

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県外流出の太鼓台

2000年08月24日 | 祭りと芸能
香川県教育委員会から刊行された『香川県の民俗芸能』を見て驚いた。
香川の太鼓台(ちょうさ)について、各市町村ごとに紹介されているのだが、各ちょうさの由来、起源を見てみれば、愛媛から移ってきたものの多いこと、多いこと・・・。この報告書とこれまで『新居浜太鼓台』に紹介されている愛媛から香川、広島に渡った太鼓台の情報を把握している限り、以下紹介しておく。
ちなみにここでは戦前のみで、戦後渡ったものは省いています。
東予地方から県外へ渡った太鼓台(戦前)
香川県 丸亀市 上分の太鼓 昭和初期頃に川之江の上分より
香川県 丸亀市 二軒茶屋の太鼓 昭和初年に川之江より
香川県 坂出市 新浜太鼓台 昭和3年に新居浜田之上より
香川県 坂出市 浜西太鼓台 昭和5年に新居浜中須賀より
香川県 坂出市 新開太鼓台 大正10年代に新居浜より
香川県 観音寺市 西下太鼓台 明治時代後期に新居浜より
香川県 観音寺市 西上太鼓台 大正時代末期に新居浜より
香川県 観音寺市 明下太鼓台 明治32年頃に川之江方面から
香川県 観音寺市 新田太鼓台 明治時代中期に愛媛県から
香川県 観音寺市 室本太鼓台 明治時代中期に新居浜より
香川県 観音寺市 出作北太鼓台 明治28年頃に愛媛県より
香川県 観音寺市 出作南太鼓台 昭和12年頃に東予より
香川県 観音寺市 丸西太鼓台 昭和6年頃に西条より
香川県 観音寺市 丸中太鼓台 昭和11年に新居浜より
香川県 観音寺市 信末太鼓台 大正時代末期に伊予三島より
香川県 観音寺市 奥谷太鼓台 明治20年頃に土居より
香川県 観音寺市 常次太鼓台 明治10年代に愛媛県より
香川県 観音寺市 下野太鼓台 明治時代初期に伊予三島より
香川県 観音寺市 下出太鼓台 大正3年頃に新居浜より
香川県 観音寺市 山田太鼓台 明治18年頃に西条市飯岡より
香川県 満濃町 木の崎太鼓台 明治15年頃に伊予三島方面より
香川県 満濃町 杉の上太鼓台 明治30年頃に愛媛県より
香川県 山本町 下河内太鼓台 愛媛県から購入。年代不詳。
香川県 山本町 山本西太鼓台 昭和初期に新居浜久保田より
香川県 大野原町 本村太鼓台 大正5年に川之江川滝より
香川県 大野原町 中林太鼓台 昭和10年頃に東予より
香川県 財田町 大野地太鼓台 明治時代中期に伊予三島より
広島県 三原市 能地だんじり 明治時代に新居浜大江より大長を経る
広島県 豊町 大長櫓 明治20年頃に新居浜より

2000年08月24日

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