不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

しまなみ海道太鼓

2011年07月30日 | 祭りと芸能
8月7日12:00~17:00に「しまなみ海道太鼓」というかなり大掛かりな和太鼓の演奏があります。今治の夏祭り「おんまく」の行事の一つです。会場は今治商店街。しまなみ海道の和太鼓が一堂に会する、和太鼓のコンサート。 参加予定は今治西高郷土芸能部、伊豫之國松山水軍太鼓 鼓響クラブ、新町荒神太鼓、道前太鼓 LA・BANTA、今治寿太鼓保存会、能島水軍太鼓保存会、太鼓集団「島衆」「島鼓美」、来島水軍狼火太鼓、城北流愛媛太鼓保存会、朝倉合氣太鼓、菊間太鼓保存会「鼓菊連」、和楽 桜鳴座、上浦海道夢太鼓、島本陣岩城太鼓、備後かわち太鼓、喜多浦八幡太鼓「育悠会」。合同演奏もあるそうです。

県高文祭で常連の今西郷土芸能部も出場するので、これは是非行ってみたいと思ったのですが、その日、その時間、私は「ふるさと怪談トークライブin愛媛」で登壇中。どうしても抜け出すことができません。残念。またそれぞれの機会に見に行きたいと思っています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マスメディア時代」終焉-アナログ放送の停波-

2011年07月25日 | 日々雑記
昨日2011年7月24日でテレビのアナログ放送が停波した。停波後一日目。今日に限って朝からテレビを見ないことにした。自宅には地デジ対応のテレビが一台あるが、あえて見るべきではない、そんな日なのかなと思った。というのも、テレビのアナログ放送は昭和30年代に普及し、いわば日本の高度経済成長とともに歩んできた歴史があり、それが停波するということは、高度経済成長以降の一つの時代の終焉を意味している。そんな大きな時代の変わり目を、心静かに落ち着いて味わうためには、地デジ放送は今日に限っては見ない方がいいと考えたのである。実際、テレビがなくても生活の上で極端に支障があるわけではない。我が家の場合、これまでもチャンネル争いで負けた娘はワンセグで見るなり、ビデオに録画するなりしているし、また、テレビはつけたままでリビングの机の上ではノートパソコンを広げてネットを見ることも多い。主役は自在に自分の得たい情報を得る事のできるパソコン・ネットであり、つけっぱなしのテレビ番組で面白いシーンがあれば顔をテレビに向ける、という感じである。地デジになってデータ放送が見られるようになったが、ここでの情報はネットですぐに得られるし、しかもデータ放送よりはるかに詳しい。私個人の場合、普段見ているテレビ番組はニュース、スポーツであり、基本的にドラマはリアルタイムでは見ない。気が向いたらお笑い番組は見る。特にBS放送にいたっては地震、台風などの非常時を除けば、通常はほとんど見ない。BS-TBSの吉田類「酒場放浪記」、BSフジのプライムニュースくらいなものである。今日、アナログ停波後の一日目の感想だが、正直、テレビはなくても不自由はない。不自由を感じるのは、先日の「なでしこジャパン」の生中継など、リアルタイムでライブ中継されてしかもきれいな映像で見ることのできるコンテンツくらいではないか。あとは、パソコン、スマートフォン上で見るネットで十分のような気がする。テレビのようなマスメディアは、これからの時代、どれだけの需要があるのだろうかと、ふと思ってしまう。経済活動がまわるために広告費、制作費をとり、それで番組を制作し、流し、そして家庭ではつけっぱなしのテレビから流れてくるものを享受する。そんな流れは今後も続くとは思えない。テレビを囲む「団欒」ライフスタイルというのも、いわば高度経済成長期以降のものであり、そのスタイルは既に自明のものではない。テレビの天気予報でも全国の予報はマスを前提としたものであり、ネットでの天気情報の方が細かくて信頼ができる。これからマスメディア、マスコミの需要がゼロになることはないが、今年あたりを境に徐々にミニメディア、ミニコミ(用語が適当でないかもしれないが)もしくはローカルメディアに移行していき、しかもそれがテレビのような一方向の情報の流れではなく、ソーシャルメディアのような双方向、多方向の情報の流れになっていくのだろう。マスコミの主体は、情報を流す側(テレビ局等)だが、ソーシャルメディア時代になると、各自が情報を流すことになるので、それぞれが主体者になる。私が住んでいる愛媛県南予地方にはネット上で宇和島本舗、八幡浜本舗、大洲本舗、西予本舗があり、その地域のブログの更新情報が逐一確認できるようになっているが、ブログ等の情報発信者がこの地域だけで1000人~2000人を越え、それぞれがfacebookやtwitterで繋がれば、これこそ新時代の大きなメディアの形となり、社会のコミュニケーションの基盤となる。そのような状況はもう目の前に来ていると、日々の暮らしの中のいろんな場面で感じている。マスコミを経由しない情報によるコミュニケーションが増えてきているのは確実である。ともかく、昭和30年代以降続いてきた「テレビの時代」は昨日が一つの区切りとなって、新時代に入ったといえるのではないか。いずれテレビ自体もスマートテレビとなって、持ち歩きもできる大きなiPadのような存在になるのかもしれない。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香川元太郎さんの最新刊『宇宙の迷路』

2011年07月25日 | 日々雑記
愛媛出身の香川元太郎さんの最新刊『宇宙の迷路』が7月20日に発売され、

私も昨日、手にする事ができました。

『宇宙の迷路ー太陽系をめぐって銀河のかなたへ!ー』PHP研究所発行。

なお、初版には、春夏、秋冬の星座特大迷路が付録で付いています。

この本、なんといっても絵がきれい。

本の中に土星のリングの迷路があるのですが、これ原画を直接見たい!

徐々に書店で並び始めています。楽しいですよ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇和島「十万石の夜景」

2011年07月24日 | 日々雑記
日付が変わりましたが、さきほど、うわじま牛鬼まつりに行ってきました。宇和島城の夜間開放で城山に登るためです。懐中電灯を手にしながら、城山を守る会の方々の誘導や案内で天守まで行きました。そして花火大会。城山から花火はよく見えました。花火よりも感動したのは、天守から覗いた宇和島市街地の夜景。江戸時代、宇和島藩は十万石だったので、思わず「十万石の夜景哉!」と叫んでしまいたくなりました。この夜間開放は今年が初めてということでしたが、かなり多くの市民が城山に登っていました。この企画•運営にはかなり多くの方々が携わっており、準備も運営も大変だったのではないかと思いました。宇和島城 城山を守る会の企画力と行動力はスゴい!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感謝!「ブクブク交換in愛媛」開催終了報告

2011年07月23日 | 日々雑記
先日7月16日(土)に西予市宇和町卯之町の「よんでん和み館」にて、「ブクブク交換in愛媛」が開催されました。11名のご参加。運営に協力していただいたスタッフ含めて15名の集まりでした。四国では初開催ということで、地元新聞社さんの取材も入りました。このブクブク交換、私の高校時代の同級生が東京での開催時によく参加しており、facebookで情報交換しているうちにトントン拍子で愛媛・卯之町での開催が決まりました。開催にあたってはブクブク交換の発案者でもあるテリー植田さんにも許諾をいただき、私の同級生にもわざわざ東京から帰省してもらって、当日の司会・進行をしていただきました。また、会場となった「和み館(なごみかん)」は、四国電力さんが築140年以上の古民家をリフォームして公開している古建築モデルハウスです。この建物が国重要伝統的建造物群保存地区(平たく言えば国の文化財に選定されている町並み)の中にあります。日本の古建築のすばらしい雰囲気の中で、しかも室内は涼しく快適。こんな会場での開催でした。ブクブク交換のテリー植田さん、私の同級生!、そして会場使用を快諾していただいたきました四国電力宇和島支店のみなさま、ありがとうございました。あと、ブクブク交換ではケーキとコーヒーを味わいながら会を進めましたが、ケーキ、ゼリーは地元卯之町のイベント「卯のほたる」実行委員会のお姉様(いつもお世話になってます!)のボランティア手作り。腕前、味はプロ級。とても美味しかったです。このような具合に、多くの方々のご協力があっての開催でした。重ね重ね感謝です。そして当日ご参加いただいたのは、地元西予市だけでなく松山市からわざわざ来ていただいた方もいました。遠くからのご参加ありがとうございました。みなさんで持参した本は約40冊。これが1冊残らず交換され、それぞれの手に渡りました。私も4冊を交換していただきました。今ちょうど読んでいる最中です。何せこのブクブク交換は、それぞれ本を持参した人が直接、本の魅力をプレゼンしてくれるところが楽しい。このような集まりが定期的に身近で開催されていたらどんなに楽しいだろうと思いました。この交流の形は地縁でもない社縁でもない「新縁」「自発縁」であり、それがfacebook、twitterなどを社会基盤として成り立っているところも面白く、都市部でもない卯之町でこのような集まり、繋がりが可能になっていることは、新しい時代が到来していることを実感させてくれます。伝統的な町並みの古民家を会場に、新しい繋がりが可能となる。すごく魅力的で心が洗われる一日でした。感謝!






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ぬし(主)」という言葉

2011年07月16日 | 口頭伝承
「ぬし」という言葉が頭を離れない。先日、旧知の県内某企業の社長さんから「日本の伝統的なリーダー論を教えてほしい。ついては若い職員をそちらに派遣するので30分でもいいので話をしてやってほしい。」という電話をいただき、「リーダー論なんて無理!無理!」と答えつつ、押しの強さに負けて若い職員さんがやってきた。電話の翌日のことである。まったく準備もしていない私であったが、雑談程度に30分ほど会話をした。会話の内容は、地域社会での年齢階梯制についてが主であった。いかにムラ社会の中で一人前になっていくのかという話と、隠居、定年といった話で、リーダー論とはほど遠い内容だった。ご期待には到底沿えないもので、世間話の類いになってしまった。

そのときに、ふと日本語の「リーダー」にあたる言葉を思い浮かべて並べてみた。「おさ」、「あるじ」、「ぬし」などなど。話をしているうちに、これは面白いとも思えるようになってきた。漢字では「長」とか「主」と表記できるが、それぞれの語源はいかなるものか気になった。たとえば、村の「おさ」と村の「ぬし」であれば、意味が違う。「おさ」は直接の権力執行のリーダーであり、「ぬし」は権力執行というよりも権威の象徴の意味合いを帯びてくる。例えばある会社で「この職場のおさ(長)」と「この職場のぬし(主)」とであれば、これが同じ人物を指すとは限らない。「ぬし」には単なるリーダーではない「何か」が込められている。「神主」というが「神長」とはいわない。「持ち主」というように所有物の主体者を指す。この主体性がキーポイントかもしれないと思いつつ、そういえば「天之御中主神」も「ぬし」がついていると思って、この神が神々の中の「おさ(長)」ではなく「ぬし(主)」であることが象徴的だとも思った次第。さらには「おさ」は組織のリーダーであって、「ぬし」は構造上のリーダー(というよりも中心存在)なのかもしれないと思い始めると、いろんな事例に飛び火しそうで、ここ数日、「ぬし」の語源やら用例が頭を離れない。(だけど、まだ何も調べてはいない。)






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本と名刺の交換会「ブクブク交換」明日開催!

2011年07月15日 | 日々雑記
本と名刺の交換会「ブクブク交換」。

西予市宇和町の和み館で明日16日開催されます。

事前申し込み制ですが、あと数名は受け付けできます。

参加ご希望の方は、詳しくはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/23b77bd7478c3759cdf5e12d210aed4f




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

がんばれ内子高校! 全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門

2011年07月14日 | 災害の歴史・伝承
今日、高校野球の愛媛大会が開幕しましたが、まもなく「郷土芸能の甲子園」とでもいうべき「全国高等学校総合文化祭」が開催されます。愛媛県代表は内子高校郷土芸能部(和太鼓)。昨年11月にひめぎんホールで行われた愛媛県高校総合文化祭での最優秀校です。

今年の全国高等学校総合文化祭の郷土芸能部門は7月27~29日に岩手県盛岡市で行われます。内子高校は29日の最終日に登場します。

実はこの全国総文祭、今年度の開催県は福島県です。しかし震災、原発事故のために開催にかなりの影響が出ています。郷土芸能部門は南相馬市で行われる予定でしたが、現地が被災で開催できる状況にないため、5月中旬に残念なことに中止の決定がなされました。延期でもなく、開催地変更でもなく「中止」という決定でした。この通知を聞かされた出場予定の生徒や学校関係者は非常に落胆したと聞いています。内子高校は全国総文祭出場の常連校ですが、近年の連続出場で、次の県の大会では規定によりオブザーバー参加。つまり来年は全国出場できないという状況です。今年の「全国」に対する意気込みはかなり強いものがあることは想像に難くありません。私も知らせを聞いたときには被災地の状況から中止もやむなしと思いつつ、それに照準をあわせて学校生活を送ってきた部員の心境を考えると複雑な気持ちでした。

それから10日ほど経った頃だったと思います。郷土芸能部門の中止を撤回するという情報が入ってきました。中止決定を聞いた他県の関係者が自分の県で代替開催を申し出たというのです。そして岩手県盛岡市で開催が決まりました。

当初は8月上旬開催の予定が7月27~29日に変更となりましたが、素早い開催復活の対応、努力。関係者の方々には感謝しなければいけません。岩手県も被災地なのです。この決定にも驚かされました。

この全国高等学校総合文化祭郷土芸能部門ですが、上位4校に入ると東京の国立劇場で行われる全国高校総文祭優秀校東京公演に推薦され、舞台に立つことができます。実は愛媛県代表はこれまで国立劇場の舞台に立ったことはありません。内子高校は和太鼓部門で上位進出を狙うことのできる実力を持っています。内子高校郷土芸能部の健闘を祈りたいと思います。ガンバレ内子!めざせ国立!

なお、全国高等学校総合文化祭ですが、郷土芸能部門はなんとか代替地開催することができましたが、吹奏楽やマーチングバンド部門は中止が正式に決まっています。その他、日程や会場変更をした部門も多いようです。震災からの復興支援の意味でも郷土芸能部門参加校には各地の芸能を元気に披露して、東北にエールを送ってもらいたいものです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡浜市五反田柱祭りの由来

2011年07月13日 | 年中行事
昨日の柱祭り講演会で紹介した「愛媛県指定民俗資料五反田柱祭由来考」(伊住恵徳先生『五反田むら物語』神山地区公民館発行、昭和50年)の一部をここで引用して記しておきます。

八幡浜市五反田の柱祭りの由来、歴史が端的にまとめられており、非常に参考になります。


A【正月の年始の礼で白馬登城】
「その頃五反田村の鯨谷に金剛院円海法印といふ修験者(山伏)が住んでおられた。元城主親安公の碁友であって客将の待遇であったとも伝へられておる。或る年の正月、円海法印は城主に年始の礼のため白馬に乗って登城中、白馬には神経過敏になっておる(註:長宗我部は白馬に乗って来るとの流言のため)五反田の村人は長曽(ママ)我部の進攻と勘違いして村役の指図により弓で射殺したのである」
 
B【九州修行、松明入城射殺説は昭和以降】
「又一説によれば其の頃、円海法印は長崎に修業中であり、元城の風雲急なるを知り、急遽五反田村にかへり夜となり松明(たいまつ)つけて元城に入城する時、城兵に敵と間違えられて射殺されたといふ説であるが、この説は昭和の初め頃より流布された説であって古くからの口碑にはなく、麻がらの松明を行事に使用するために松明説が生じたのではないかともいわれておる。」
 
C【柱祭は江戸時代に神官の発意ではじまる】
「其の後五反田村に悪疫の大流行があって村人は塗炭の苦しみにあったのであるが、それは戦国時代に長曽(ママ)我部と間違えられて射殺され悲惨な最期を遂げられた金剛院円海法印の祟りであると喧伝されるようになり、神官の発意により日本国中に類例をみない行事をして御霊を御慰め申上げる事によって円海法印の御霊よ静まり給へと祈願して五反田村の悪疫の大流行より救われたと伝へられておる。これが口碑による五反田柱祭行事の由来である。」
 
D【口碑と矛盾の多い金剛院の石塔】
「五反田村の鯨谷に奉祀してある金剛社の祠の中には南無妙法蓮華経金剛院円海法印、文禄二年癸巳七月二十四日と刻まれた卵形型の石塔が安置されており、」
←文禄2(1593)年は、金剛院の没年。ただ、元城落城は天正12(1584)年。元城落城後も金剛院は生きていたことになる矛盾。文禄以降に造立された可能性が高い。
←命日の7月24日は、地蔵盆・施餓鬼が行われる日。つまり祀り手のない祟りをおこす霊を慰める日の典型日。よって、後の時代にこの日が設定された可能性がある。
 
E【柱祭を始めるには金剛院の位牌を迎えていた。】
「又鯨谷には金剛院円海法印の子孫と伝えられる家があって、その家には円海法印の位牌があって柱祭行事の祭にはその位牌を行事の場所にお迎へせなければ行事が始められなかった。(中略)円海法印の子孫は大正の頃より他郷にゆかれ、又円海法印の位牌のその後は判然としておらないようである。」
 
F【柱祭の創始者は江戸時代後期の菊池淡路か?】
「五反田村の社家菊池淡路(註:嘉永4(1851)年没)の住所も、又金剛院円海法印の位牌のあった家も、円海法印の霊を祀る金剛院社も皆五反田村の鯨谷にあることは柱祭行事の発祥に何かを示唆したものがあり、行事の創始者は五反田村の社家菊池淡路とする説の根拠の一つでもある。」
 
G【柱祭費用は誤殺した村役の家が負担していた】
「この柱祭の行事は五反田の行事であり一切の費用は五反田部落費によって運営されてるが、戦国時代の五反田村の村役と伝へられる某家があり、その誤殺した罪状滅却のため某家の本家、分家で行事一切費用を明治中期まで負担しておった事は多くの古老の話に残されておるが、その某家も祖先の逆源は古くはなく五反田村の社家と同年代位である事は、これにも柱祭行事の発祥近世説の手がかりがあるようである。」
 
H【伊住恵徳先生の結論】(八幡浜史談会長故福井太郎先生もこの説を継承)
「(江戸時代に)悪疫の大流行に苦しむ五反田村の村人は社家菊池淡路の御祈祷を懇願した事が考えられ、次々と病魔にたをれる村人の不安と焦燥、心の動揺の安定を考慮された社家菊池淡路は、鯨谷にあった修験者の家の金剛院円海法印の位牌を示されて、戦国の昔この円海法印は白馬に乗って元城に年始の礼に登城中、長曽(ママ)我部と間違えられて射殺されたが、その円海法印の慰霊の行事がなく、五反田村の悪病の流行はその祟りであって類例のない行事をして円海法印を慰霊する事によって五反田村の悪病の流行より救われる事が神の託宣として村人の心の動揺の安定を考へられたと推測する事は筆者の勝手な解明であろうか。」
 
I【柱祭を中止すると・・・】
「この行事は火を取扱ふため危険な行事として明治後に警察より差止められた事があったが偶々その年に伝染病の大流行があり、それは柱祭の中止によるものであると村人がさわいだので一年の中止で復活しておる。」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五反田柱祭り講演会

2011年07月13日 | 年中行事
先ほど終了。八幡浜市五反田柱祭り講演会。

私の生まれ故郷の神山地区公民館での講演。

当初、柱祭り保存会会員対象で話す予定が、

結局、地元の回覧板、地区内のマイク放送で、

開催の情報が流れ、

50人を越える参加者がありました。

五反田だけでこの人数。驚きました。

それだけ、柱祭りに対する地元の方の思いが

強いということでしょう。

それにしても生まれ故郷だけに、

参加者は、実家の近所の人、小中学校の同級生の親、

父、伯母、大叔母、小さい時の育ての親代わりの恩人、

などなど、幼少期、少年期にお世話になった方々ばかり。

通常の講演より、三倍は緊張しました。

私の民俗学の原点は柱祭り。小学生の時に柱祭りの由来を

学校に出す日記に日々綴っていました。

地元に感謝!いまの自分があるのは五反田の皆さんが

柱祭りを継承している姿勢、努力を見てきたことにあります。

近所のおっちゃん、おばちゃん、ありがとう。

また、いろいろ祭りのことを逆に教えてください。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講演会 八幡浜市五反田柱祭りあれこれ

2011年07月05日 | 年中行事
柱祭り講演会、急遽、本日決定!来週7月12日(火)19:00~私、大本が喋ります。「全国の柱祭りと五反田柱祭りー民俗文化財の継承と課題ー」八幡浜•神山地区公民館にて。柱祭り保存会主催。特に事前申込みなしで保存会以外の一般参加もオーケーです。

一週間前という直前の講演依頼ですが、故郷五反田からの依頼は有難し。さてさて、夜な夜な準備しませう。全国各地の柱祭りと同様のお祭りを紹介したいと思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする