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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

竹の繁殖力

2008年04月30日 | 自然と文化
去年の5月末に撮影した写真。
場所は私の家の裏山。
竹が繁殖しているがわかるかと思う。
(手前に見えるのはJR四国のアンパンマン列車。)
30年前の同じ場所の写真を見てみると、
そこは竹ではなく、畑だった。
毎年、竹の占有面積が広がっている。
今日も、職場からの帰り道、
道端に、モウソウチクの竹の子が
50センチ近く伸びていた。
すかさず、処理をしたが、
ほっておくと、すぐに伸びてしまう。
雑草よりも、竹の繁殖力の凄まじさを
この時期は実感する。
というわけで、このブログのデザインも
当分、竹でいきます。

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雑草との闘い

2008年04月29日 | 日々雑記
夕方は庭の雑草退治。この時期は日々土の中から生えてくるので、出勤前や帰宅直後に庭を見て、「また、生えとるんか」といつも雑草の生命力の強さに感心しつつ、抜いている。

今日、ふと気づくと、庭の梅の木、小ぶりながら、多数の実をつけているではないか。5月中旬から下旬には、梅の収穫が楽しみ。

しかし、足元では、雑草が、また出てくるなあ・・・。と思ったら、虫も日々増えているような気がする。

快適な庭いじりの季節は終了。これからは、雑草、そして虫との闘いのはじまりだ。

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春は訪れたのか?

2008年04月28日 | 日々雑記
今日は、仕事が休み。病院に行って薬をもらう。体調はいまだ全快ではなくて、体に力が入らない。少しずつ、回復してきている自覚はあるが、日によっては、調子が悪い。とはいっても、仕事は減るわけでもなく、いかに仕事のペースを無理なく配分するか、日々、考えている。

体調は悪いとはいっても、エミフルMASAKIのオープニングには顔を出した。家では、10年以上使って調子の悪いテレビをどうしようか悩んでいたが、決心して、液晶テレビを購入した。

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大型シュッピングモール

2008年04月26日 | 日々雑記
エミフルMASAKIのオープニング。その様子をデジカメで撮影。

松前町の景観は一気に変貌したが、このショッピングモールによって、

近隣の商店などにも影響は必至。町並み自体もいずれ変容する。

伊予郡・伊予市だけでなく、南予方面の人々の消費行動も変化する。

そんな画期であるエミフルのオープン。

その様子を少し醒めた目でみていた。

ただ、家電の安さにおどろき、つい、私も消費行動に出てしまった。

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愛媛歴史民俗100モノ語り

2008年04月25日 | 日々雑記

愛媛新聞社から、新刊書。

『愛媛 歴史民俗100モノ語り』

四六判 144頁 1800円

愛媛県内書店で既に発売中。

宇和で買った人もいるし、大洲で買ったという人もいる。

県歴博の収蔵品を中心に、愛媛の歴史・民俗に関する

100項目のトピックを紹介している。

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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―⑥

2008年04月21日 | 年中行事
愛媛県内の八朔習俗事例集

事例1 別子山村史847頁
「八月一日は八朔を祝うたのも節句であるが格別の行事は行われていない。」
事例2 別子山村瓜生野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・タノモノ節句」
事例3 新居浜市誌885頁
「民間では米粉を練り団子とし人形・動植物の塑像を造り一家楽しみ合う。」
事例4 新居浜市大島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモノ節句 タノモノダンゴで、オタノモ人形・おどりこ人形・作物・家族のうまれ年にちなんだ十二支などを作り、翌日これを食べて成長を祝い、新穀成熟を祈念する。」
事例5 西條市誌1020頁
「八朔(たのも、たのみ) 稲のみのりを祈り祝ったことにはじまるという。昔は田実の節句といって農家の大切な行事の一つであった。旧暦八月朔日頃は稲の開花期である。この頃はシケの多い頃なので、これを免れる祈願でもあろう。米の粉の団子で一〇センチばかりの人形を沢山作る。これを「つまみだのもはん」という。その他に、なす、かぼちゃ、十二支の形などを作ってならべて祭りをする。この団子細工を食うことを「かたぐ」という。」
事例6 小松町誌1559頁
「たのもさん 旧暦八月一日の行事で、たのも節句ともいい、この日たのもさんを祭る。稲の豊作を祈願する行事ともいわれる。たのもさんは、米の粉で作るしん粉細工で、宵節句(七月三一日夜)に踊り子を象ったつまみだのもさんや果物、野菜、鶴亀、海老などを作って盆に並べ、床の間に飾る。子供たちは近所のでき具合を見て回る。翌日これを焼いて食べると暑気あたりの薬になるといわれ、糸に通して天井につるしておく家もあった。」
事例7 丹原町誌1192頁
「たのも節句 旧暦八月一日に豊作を祈る行事である。今は幼稚園・愛護班で計画されたりするくらいで、一般家庭ではほとんど行われなくなった。節句の前日の夕方、米の粉をねってゆで、赤や黄や青の色の染め、膳や盆の周りに家族中が集まって、人形や動植物や器物などいろいろなものを作りながら団らんの一刻を過ごす。つまみだのもさんを膳の周りに並べ、その輪の中に鶴亀やうさぎの餅つき等を並べて床の間に飾る。翌日は近所の家を回って出来ばえを見せてもらったものである。」
事例8 丹原町明河保井野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・タノモ節句 だんごでいろいろな動物や野菜・器物・人形などを作って盆にならべる。」
事例9 東予市誌1381頁
「たのもさん 旧暦八月一日を八朔といい、この日に米の粉(糝粉)で作った「たのもさん」を祭る風習がある。たのもさんは八朔の前日に作る。材料は米の粉を練り、これを蒸して着色した何種類かの色団子である。一番たくさん作るのは、つまみたのもさんと呼ばれ、お膳のまわりに並べられる素朴な踊り子人形である。つまみたのもさんの輪の中には、長寿を祈る鶴亀や身近な動植物を象った人形を、家族の者が思い思いに作って並べる。翌日子供たちは、隣り近所のたのもさんを見てまわったものである。この行事は、昔のように家々で行うことはなくなったが、最近は子供会や愛護班、あるいは公民館が中心となって地域ぐるみのたのもさん作りが盛んになり、お年寄りと子供たちの楽しい交流の場となっている。」
事例10 玉川町誌1024頁
「九月一日 田の面の節供、餅粉でたのもさんを造る。」
事例11 大西町誌565頁
「たのも節句 八朔ともいい旧八月朔日のことである。今では一月おくれの新暦でするようになった。旧暦八朔は二百十日、二百二十日頃の台風襲来の時期にあたるので、天候の平穏と稲の穂の出を祈る祭りから始まったものである。白米の粉をねって色を着けて蒸し餅状にしたもので、小さいさまざまな踊り人形や動物、花などを作り、盆にならべ、床の間や神棚に飾って祭る。これをたのも(田の面)人形、あるいはたのみ(田の実・頼み)人形という。この慣習も次第にすたれつつある。」
事例12 菊間町誌1034頁
「八月一日 たのも節句 米粉で作った「たのもでこ」を祭り、五穀豊穣、風雨の平穏を祈る。」
事例13 吉海町誌723頁
「八朔の節句 旧暦八月一日は「たのも節句」である。米の粉を蒸して練り、色粉で色づけして人形をつくり、床前や神棚に飾った。五穀豊穣を祈る祭日である。また、この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている。」
事例14 吉海町椋名(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』90頁)
「八月一日は八朔。タノモサンを作る。米を粉にしてゆがいて犬・鶏などを作る。不作年には小さいものを、豊年には大きなものをつくった。」
事例15 宮窪町浜(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』107頁)
「八月一日、八朔の日、昔は仕事を休んでエベス神社で角力を取っていた。八朔までに角力の稽古をしていた。握飯をつくり角力取りに力飯といって与え、酒も飲んだ。総代二人が勧進元となって総ての世話をした。」
事例16 宮窪町余所国(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』109頁)
「八月一日、八朔。畑仕事を休み家でお団子をつくって神棚に供える。この日を忘れて仕事に出ると『たのもを知らにゃつかもうか』といってひやかされたという。たのも細工もする。」
事例17 伯方町北浦(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』102頁)
「八月一日 はっさく、たのも節供。米の粉で人形を作り祭る。たのもさんは子供が主に祭る。」
事例18 上浦町瀬戸(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』122頁)
「タノモ節供で、当屋が共同井戸の水で甘酒を作り村中にふるまう。」
事例19 愛媛県上浦町誌462頁
「八月一日 八朔、田の面節句、注連下し、芋地蔵下見吉十郎の命日。前夜一部の人は芋地蔵家の庭に行って踊り、後の踊り場に戻って一般に交じってこの年最後の盆踊りに夜を明かす。」
「この日の午前中に八幡社鳥居前の注連柱の大注連の新しいのと取り替えの神事が行われる。それで注連上げとでもいった方がよかりそうに思われるが、古来注連下しといいならわしている。この日当屋で甘酒の大振舞。原則としては客は一戸亭主一人ということらしいが、幼い子供を伴って行くことは大目に見られ、他村から芋地蔵へ詣って来る人達も相伴にあづかれるので、宮浦台方面からの客が横尾山の道を列をなして下っていたという。」
「この日生口島瀬戸田の漁師が瀬戸八幡社へ参拝、大鯛三枚小鯛四八枚を献上かたがた当屋で甘酒を相伴、土産にも甘酒を貰って帰る習慣があった。(中略由来伝承あり)」
事例20 上浦町盛(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』92頁)
「八月一日 よこじめ。氏神の大しめを新たに取りかえる。」
事例21 続岩城島の歴史530頁・岩城村誌1536頁
「たのもさん 旧暦八月一日の行事で八朔ともいわれた。(中略)昭和の初め頃までは前日に米の粉で簡単な踊り子をかたどった人形や動物の形のだんごを買って帰り、願い事をきいてくれるというので、夜は枕辺において寝ていた。一日にはこのだんごを海に流した。」
事例22 岩城村海原 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモサン だんごで人形を作り、それを奉り、皆仕事を休んで休養した。」
事例23 魚島民俗誌89頁
「八朔 旧暦八月一日はハッサクであった。米粉を蒸してニワトリ、ナスビ、カボチャなどの形のハッサクダンゴ(八朔団子)をつくっていた。」
事例24 魚島村魚島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 小さなヒナダンゴを作った。」
事例25 中島町誌915頁
「八朔(八月一日) 八朔節供で団子をつくる。八朔でこ(たのもでこ)をつくる風習もある。小浜ではオタノミ節供といい、嫁の親を招待する。親が娘を嫁家へ頼みに行くのだという。」
事例26 中島町二神 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモサン 米の粉でタノモデコ(お人形のだんご)をつくり、赤、青の短冊を粟・きびのしんにくくり、のぼりをつけてさし、これを野菜・果物・だんごとともにタノモサンに供える。餅をつく。」
事例27 忽那諸島の民俗40頁
「八朔節供(八月一日)団子をつくる。八朔でこ(たのもでこ)をつくる風もある。小浜ではオタノミゼックといい、嫁の親を招待する。親が娘を婚家に頼みに行くのだという。別名ヤブイリともいう。」
事例28 北条市誌932頁
「八朔 旧暦八月一日を八朔という。昔は国津比古命神社の秋祭りが旧暦八月十七・十八日だったので、八朔あけの三日から八反地のお供獅子が稽古をはじめたという。才之原では「五社参り」をし、中村は氏神様のお通夜といって青年団の田舎芝居がはずんだ。台風襲来の二百十日にあたる。」
事例29 松山市誌515頁
「たのもさん(九月一日) 旧八月一日をタノモサンといい、人形をつくって初穂を供えて祭る。翌日人形は海や川に流す。」
事例30 松山市土居町『わがふるさと土居町のあゆみ』209頁
「頼母まつり 八朔陰暦八月一日、現在は九月一日に「たのも節句」と称し、色紙で家族の数の人形や旗とボンデンを板の上に立てたものを神床に祭ったり、所によっては米の粉で「シンコ細工のタノモデコ」を作って祭った。」
「二百十日 (中略)藁葺きの屋根には、台風の被害を恐れて、呪いとして竹の先に草刈り鎌を結びつけ、刃が台風をよく吹く辰巳(南東)の方角に向けておくと、魔風を除けるといわれていた。」
事例31 久米郷土誌432頁
「たのもさん 「八朔」といい八月ついたちの行事。旧暦で行ったものであった。普通「たのもさん」「たのも節句」と呼んだ。「たのも」は「田の面」「頼母」などの字を当てた。太陽暦では九月の二百十日、二百二十日頃である。この日は父親は田圃へ出ることをせず、家で休んだ。この日が昼寝の終わりの日で、次の日から夜なべが始まる節目の休みと聞いたこともある。母親は幅一〇センチ、長さ二〇~三〇センチほどの板へ釘を並べて立てたものへ、色がみで頼母人形をこしらえて立てる。頼母人形は高さ一〇センチ弱で、高黍の殻や小笹を芯にしており、順々に並べて釘へ立てた。これをお床へ飾った。二百十日、二百二十日の台風シーズンなので、頼母人形は厄除けの意味があり、豊作を願う意味があったのであろう。子供達は母親が頼母さんをこしらえる手元をのぞき込んで見たりした。しかし一番の楽しみはお供えの団子や牡丹餅であった。」
事例32 小野村史306頁
「たのもの節句 意味はわからないが、紙で人形を作り、板の上に立て並べぼたもちなどを作って祭る。この人形をたのも人形といい、形代と異なり美しい人形で形は裃を着たように作られていたがいつのまにか男は筒袖、女は長袖の形となり、黍がらの芯にかぶせて頭に紙を四角に切った笠を貼り帯を結ぶ。この人形の間にぼんでんや幟(たのも祭り等とかく)や日の丸も立てる。」
事例33 久谷村史558頁
「たのもさん 旧八月一日 一年中の大潮であり、また台風襲来の時季で高潮の被害をこうむることがしばしばあり(中略)田の実の日として農家でも「たのも人形」を祀ることが行われていたが、今は忘れられたようである。」
事例34 重信町誌1192頁
「たのもさん 旧八月一日(新九月一日)でハッサク(八朔)という。きびがらに色紙で作った人形を着せこれを板の上に並べ立て、旗指し物や梵天を立てたものを床の間や神棚に飾った。人形の数は家族数とも寄数ともいわれる。お米を供えてまつり、翌年まで置いて川に流す。」
事例35 砥部町誌954頁
「五本松地区の彦七宮(大森彦七)にて、旧八月一日に「スズカグラ、花相撲。雨乞いをしていた。」
事例36 松前町誌1083頁
「たのも節句 九月一日に色紙で人形の型を切り抜き、その真中へとうきびの茎を切って差し込み人形を作る。それを庭へまつり家族の無病息災を祈り、夕方その人形を川へ流した。戦後はその行事もほとんど行われなくなった。」
事例37 広田村誌1005頁
「たのも節句 秋の豊穣を祝っての祭りが転じたもので、小じきわ日として残った。お寿司などをつけて食べた。」
「風祭り 風鎮めとも言い、講宿に寄り百万遍の念仏を唱えて風鎮めを行い、おこもりをした。風鎮めには、庭先に竹の先に古鎌をくくりつけて立て、この鎌で風を切るとの呪いから出たしきたりがあった。」
事例38 広田村高市 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八月一日 風祭り 組寄りをして祈念、おこもりをする。」
事例39 久万町誌163頁
「八朔祝い日 八月一日を八朔といい、神詣でをして稲作の豊穣を祈ることが行事として行われた。また、神社によっては奉納相撲が行われるところもあったが、大正にはいって自然にやめるところが多く、現在ではこの行事も行われていない。」
(参考:社日の焼米)「お社日は春秋二回ある。春(新暦三月二五日)のお社日には、恵比須さまに弁当をつくって野山に行っていただく。秋のお社日にそのお礼として「こんなによくできました」と恵比須さまに感謝する。これがお社日である。この日はまだ硬くならない穂を刈り、籾を煎って「ヤグラ」でつき焼き米をつくって供え食料にする。今でもぼつぼつ行われているところもある。」
事例40 柳谷村誌684頁
「八朔祝い 八月一日を八朔といい、この時期は稲作をはじめ農作業も一段落し、二百十日、二百二十日など、風の害が心配されるところである。このような大切な時期にあたって、豊作を祈るため、米を持ち寄ってお堂に集まり、かゆをたいてお地蔵さんに供え、念仏を上げてみんなで食べ八朔を祝うところもあった。」
事例41 五十崎町誌326頁
「宮相撲 宇都宮神社(九月七日)、岡森神社(九月八日)、八坂神社(九月九日)、妙見神社(九月十一日)で奉納相撲が催されていた。各地から力自慢の素人相撲が集まり、内子方と五十崎、天神方と対立して相競った。(中略)現在では各社とも子供相撲程度になった。」
事例42 八幡浜市誌995頁
「八朔相撲 旧暦八月一日、八朔の日に神社で相撲が奉納される。萩森神社などでは境内に特設土俵を築いて、若衆が世話をし、市内全域から力自慢の出場をたのみ、裸の勝負を競い合う。「三番げし」「五番げし」などがあり、照射には「ぼんでん(梵天)」や祝儀がおくられた。藩政のころから盛んに行われた娯楽の一つであったが、太平洋戦争を境に少なくなってしまった。」
事例43 八幡浜市中津川 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「田ノ実ノ節句・八朔 天災・地変が起こらないように餅をついて天神・地神を祭る。だんごをつくる。」
事例44 瀬戸町大久(『三崎半島地域民俗調査報告書』44頁)
「八朔 八月一日 この日は、昼は大がかりにしゃんしゃん踊りがある。夜は相撲が行われる。」
事例45 三崎町誌649頁
「八月一日 八朔 新芋を掘って食べる。」
事例46 三崎町正野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・八朔ノ入リ だんごをつくりよろこびをわかつ。」
事例47 三瓶町誌下巻482頁
「八朔 旧八月一日 餅をつき天神地祇を祭った。」
(参考:新芋堀り)「社日様 新芋を掘って蒸し、神に供えた。垣生地区では現在も続いている。」
事例48 三瓶町和泉 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 餅などで天神地祇をまつる。赤飯をたいて里へもってゆく。下女は出がわりする。」
事例49 明浜町誌950頁
「八朔 旧暦八月一日、天神地祇に感謝してお祭りが行われ、八朔相撲が奉納されていたが、現在はこの行事も消滅した。卯之町の王子神社に八朔子ども相撲が行われている。」
事例50 宇和町誌1094頁
「九月一日(旧八月一日)のハッサクは「田の実」の節供との呼称もあって、だんごなどを作って祝った。一方では二百十日、二百二十日の季節風を警戒する時分でもある。ハッサクは農家にとって大切な行事の一つでもあったが、今は気にとめる人もほとんどいなくなった。」
事例51 宇和町誌1094頁
「風除け 八月の終り、一同は神社に集まり、風除けの行事を行う。御百度参りといって、拝殿を往復して拝み、一回毎に木の葉(かたぎの葉など)を御供えし、一人百度に達すると終る。葉は割竹にはさんで来年の行事まで御供えして置き、後で直会を行って解散する。一般に風除けごもりと称して二百十日一週間前ころに行っていた。」
事例52 多田郷土誌300頁
「ハッサク 九月一日、旧暦の八月一日に当たる。田の実の節供との呼称もあって、農家ではだんごなどを作って祝う。丁度二百十日、二百二十日直前の時期で台風が襲来するころとなり、稲作にとって最も大切な時期である。」
事例53 野村郷土誌695頁
「たのも節句 ハッサクとも、たのもとも言う。南予地方にはこれと云った行事はないが、昔は八月一日には、やき米やだんご、おすし等を作って祝う位であった。今はよく見られない行事である。八月には草相撲が多く、山の神、八朔相撲等が昔から続けられている。」
事例54 渓筋郷土誌395頁
「八朔の節句 この日蔵村(松渓)の五輪様には八朔の大相撲が行われて、近郊の力自慢が集まり、盛大な催しであったけれども、大正に入ってから中止されている。」
事例55 貝吹村誌234頁
「八月一日 八朔で一般に休み、角力などを行う。」
事例56 惣川誌373頁
「九月一日 節句、節句札」
事例57 野村町小屋(惣川の民俗27頁)
「八月一日 嫁の里帰り。親元へ土産に米を持参する。現在は盆に帰るのでやらなくなった。」
事例58 野村町天神(惣川の民俗30頁)
「八月一日 節供。奉公人の出替り日。」
事例59 土居郷土誌497頁
「はっさく 旧暦八月一日の行事。餅をつき神に供え厄落しとした。」
事例60 高川郷土誌449頁
「旧暦八月一日を「ハッサク」節句といって、この日で夏の柴餅などもつくらなくなってまた搗きもちがはじまる風習となっている。」
事例61 宇和島市九島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「ハツセク・八朔 出かわりで年季奉公の男女は帰島し、五日はこれら女性のみのオナゴオコモリを氏神でする。女は十四歳の八朔からムスメグミにはいる。だんごをつくる。」
事例62 宇和島市日振島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 二月入りと同じく、厄年の家庭では紅白の餅を近隣知人・近親者に配り、厄落としの酒宴をはる。」
事例63 喜佐方村史327頁
「八月朔日は八朔なり、一般に業を休みて祝ふ。」
事例64 三間町誌396頁
「八月朔日 八朔といって一般にお祝いをし二月入りと同じ行事をするが餅はつかない。村では氏神様へ参り伊勢踊を踊って風、虫除けの祈祷を行う。またこの日は下女の出代り日でもあった。」
事例65 日吉村犬飼 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・八朔節句・ハツ節句 女中の入れかわりあり。」
事例66 広見町誌1311頁
「八月下旬 風除祭(中略)一般的には風の神でよく御祈祷は伊勢踊りの祈願を行った。」
事例67 松野町誌610頁
「はっさく 八月一日、餅をつき神に供えて厄落しとした。上家地では朝戸を開け「鳥追い歌」を歌った。」
事例68 津島町誌755頁
「八朔 旧暦八月一日をハッサクといい、農休み日でおなごしの出替わり日とされている。」
(参考)「二月入り 二月朔日は「年のはじまり」といって各家では餅をついて祝い、農休日での集会が行われたりした。またこの日はオナゴシの出かわりの日で、オトコシが荷物を持って送りむかえをした。」
事例69津島町上槇 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 だんごをつくる。」
事例70 津島町(『県境の民俗―東宇和郡城川町北宇和郡津島町民俗調査報告書―』104頁)
「八月一日 八朔。餅を搗かねばならぬとされて、八朔餅という。奉公人の出替りである。一日休んで御馳走をつくって食べる。」
事例71 内海村(『南予漁村地域民俗資料調査報告書』31頁)
「八月一日 八朔。たのも節句である。此の日は団子(たのもだんご)を作って神仏に供え、嫁は酒一升を持って親里へ礼に行く。此の日はさつまいもの初物をいただく風習がある。」
事例72 御荘町誌548頁
「八朔 旧暦八月一日を「ハッサク」といい、農休日で、おなごし(下女)の出替り日とされた。」
事例73 ふるさと菊川349頁
「八朔(八月一日)(中略)この日はお赤飯を蒸し、新嫁はお赤飯を持って里帰りをしていた。女の奉公人が入れ替わる日だったが、男の奉公人の入れ替えもあった。雨の少ない年には雨乞いもしていた。雨乞いをする時は、集落中の人が蓑と笠を持って竜王様に集まり、鐘と太鼓で祈祷をした。その日は洗濯物は外に干されなかった。」
事例74 一本松町誌1146頁
「ハッサク(八朔)旧八月一日 この日は古くは女の奉公人の出がわり日とされたが、やはり男の奉公人の出がわりもあった。性格は大体「ニンガツ入り」と似ている。広見の弓張ではこの日を「コタノミ」(子頼みの意か?)の節句と言って親の方から子の方へ祝儀を持って行くこともあった。また畑から新芋を掘ってきて蒸して神に供え、家中で食べる日でもあった。(中略)この日、本町内、郡内で八朔相撲、八朔ツキヤイ(闘牛)などの娯楽的行事がさかんに行われた。」
(参考)「二月入り 旧二月一日 この日は奉公人の出がわりの日とされ、餅を作ったり白飯をたいたりして仕事を休む。昔は男しはこの日だけ年一回、女ごしは八朔と合せて年二回出がわるものとされた。」
事例75 一本松町正木 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔入り シバ餅をつくる。夏季の代表的な餅である。」
事例76 一本松町(『南宇和地域民俗資料調査報告書』61頁)
「八朔 八月一日 八朔の休み。女の奉公人の出かわりの日。」


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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―⑤

2008年04月20日 | 年中行事
4 愛媛県内の八朔習俗
愛媛県内の八朔行事については、既に森正史氏が『愛媛の民俗―年中行事編―』(松菊堂、昭和三七年、一〇〇~一〇六頁)にて「たのもさんの話―八朔の習俗―」として県内の状況を非常に詳しく、かつ簡潔にまとめており、『愛媛県史民俗編下』の記述もそれを基礎として執筆されている。それらの内容を以下、引用・紹介しておく。
昭和二年九月に松山を訪れた釈超空・折口信夫の歌がある。「旅を来て 心つつまし 秋の雛 買へと乞ふ子の 顔を見にけり」この「秋の雛」は八朔人形のタノモサンのことで、松山地方ではタカキビ殻の五色の色紙の着物を作って着せ、ボンデンや旗を作ってそれらを板の上に並べ立て、床の間や神棚に祭る。また正岡子規の「病床六尺」(明治三五年八月四日条)には「此頃病床の慰みにと人々より贈られたるものの中に(中略)義郎が贈つたといふよりも実際に目の前でこしらへて見せた田面の人形といふのがある。これは義郎の故郷でする田面の儀式をして見せたのである。それは糝粉で二~三寸許りの粗末な人形を沢山作つて盆のぐるりに並べる。其中央には矢張り糝粉の作り物を何でも思ひ思ひにこしらへて置くのぢやそうな。余の幼き時に僅かに記憶して居るのは、これと少し違って黍殻に赤紙の着物などを着せて人形として、それを板の上に沢山並べるのであった。この田面祭りといふのは百姓が五穀を祭る意味であるが、国々の田舎に依つて多少の違ふた儀式が残つて居るのであらふと思う。併し人形の行列を作つたのは何の意味であるかよくわからぬ。」とある。文中の「義郎」は周桑郡小松出身の森田義郎のことで、子規は周桑郡の糝粉細工が松山地方の紙人形とは異なるとしている。
 米粉団子による糝粉人形を作るのは越智郡、周桑郡、新居浜市、温泉郡の島嶼部で、越智郡一帯でタノモサンという。玉川町高野では米粉でオドリコをはじめ、犬、鳥等の動物模型をつくり、これを着色して餅、果物などを供えてまつり、菊間町ではタノメゼックといって、この日、五色に彩った餅人形をつくって祭れば心願がかなうといっている。今治地方でもこの系統のタノモサマをつくって祭り、五穀の豊作を感謝する日だと伝えている。周桑郡丹原町付近では「たのも節供」という。節供当日、タノモサンを子供らが次から次へと家を訪ねて見てまわる。なお、米粉団子と決まっているのは、もともと初穂(田の実)を贈答した本来の姿に尾を引いているものと考えられる。
新居郡地方では、作ったものを近所の子供らがやってきて貰って歩く風であった。『新居郡誌』によれば、それをダンゴヲカタグという。温泉郡の島々でも、中島町二神・怒和島ではタノモデコと呼ぶ。これを子供らが親類へ配ってまわる。あるいはこの日嫁の里の親を招待して饗応する所もある。それで中島町小浜ではオタノミ節供といったりもする。またヤブイリともいうようである。同じ風習は伊予郡中山町(米粉団子を持っていく)や南予でも見られ、嫁が里へ節供礼で休みに行くのでオヤヅトメという土地(野村町惣川、城川町)もある。
 南予地方では、東予や中予のように人形は作らないが、一般に仕事を休み、嫁が節供礼の贈答に行くのが特色である。三瓶町の山村ではオタノミ節供といって、餅をついて嫁の里や仲人へ肴を贈る。伊方町でもタノモサマには餅、団子、すしを神にまつる。宇和島市祝森では嫁の里の親や仲人に酒一升と乾物の贈り物をする。一本松村ではこの日をコタノムといい(註、コタノムについては、福島県いわき市鹿島町でも「この日は『親頼み・子頼み』と称して嫁が里帰りをする。重箱に入れた赤飯を御土産として持参する。日帰りをするのが通例だった。」(『いわき鹿島地方の民俗』福島県教育委員会、一九六八年刊)とあり、呼称・行事内容が共通している。この事例について田中久夫氏「八朔考」では中世貴族の間で行われた、目上の者に対して贈物する「憑」と似通っていると指摘している。以上大本。)、親から子へ祝儀を持っていき、宇和島市古味ノ川では嫁や養子が実家に帰る日でこれをリアゲという。津島町北灘や下灘でもカカノリアゲといって、嫁が里帰りし、夫婦同伴で酒一升と蒸飯を作って実家に贈る。リアゲ・カカノリアゲは妻(カカ)をもらった労働力の返済(利上げ)の意味であろう。
 また、南予では、この日を奉公人の出替り日とするところが多い。下女、下男の出替り日にはご馳走を作って食べさせ帰らせたそうであり、所によっては下女はこの日で、下男は十二月二五日が出替り日という土地もある。
 以上のように愛媛県内の八朔習俗は、馬や人形や鶴亀などの糝粉細工を作って近隣知親に贈ったり、その他の贈答品を嫁の里や世話になった人々に贈ったりする贈答の慣習がある。そして中・東予では稲の実りを祈願する作頼みの意味の「たのみ」の性格が強く、南予では日頃お世話になった人などに「頼む」性格が強い。
なお、松山地方の八朔習俗は三月節供の雛人形を連想させる面がある。タノモ人形はあとで必ず海や川に流すが、それも一年間祭って翌年の八朔に新しいものを作った時に流す家が多いようである。八朔のいわれについては、松山市湯山では(「湯山誌稿」昭和三四年)に「昔、洪水があって、五人の人の働きで作物が救われた」といい、それで五人をかたどって祭るのだという。なお、長浜町青島では子供の身代わりに流すのだといい、雛節供同様の信仰思想を伝えている。
 また、八朔には「鳥追い」や「風祭り」(風鎮際)を行う地域がある。鳥追いの資料は極めて少ないが、三間町上家地では、八朔の早朝に戸を開けて「干石穂はこっちとったぞ、ボーイ、ボーイ」といって鳥追いをしたということである(註『宇和地帯の民俗』)。風祭りについては、久万町直瀬では八月入りに城山と呼ぶ山上にて組の者が集まって風祭りをした。また松山市窪野では、八朔に正八幡神社と同社の別当寺であった「宮坊」とで風鎮祭を執行している。神社と寺で同時に祈祷を開始するのである。また、重信町下林の定力組でも八朔に風祭りのオツヤがある。(註、八朔ではないが、その前後の時期に風祭りを行う事例は多い。『県史民俗編下』によると、久万町は田川では旧七月一日にの寺や辻堂で大数珠を繰り、百万遍念仏を唱えている。旧七月中に風除け祈願をするのは大三島の大山祇神社をはじめ三島系の神社にしばしば見られる。貞治三(一三六四)年の大山祇神社文書に七月七日に風鎮際実施の記録があり、面河村中村の三社神社でも七月七日に風鎮際を執行する。また、菊間町種の真名井神社は風の神として近郷(和気郡、風早郡、野間郡)から信仰を集めていた。二百十日の七日前から作祈祷と風祈祷を開始し、中日をナカエコウと称して盛大な祭典を行う、などの事例が紹介されている。また、愛媛県下の風祭りとして著名なものに伊予三島市の豊受山の風鎮際がある。『伊予三島市誌』上巻(一一一〇頁)によれば、「風鎮祭 当地方では春秋に法皇山脈から吹き下ろす突風のことをヤマジ風という。特に豊受山の麓地方で農作物の被害が起こるので、雨乞歌に、「といこさんのお山い雲かけた、雨降るとも風吹くな、エー風吹くな」豊受山(一、二四七メートル)のことを当地方では「オトイコサン」と尊称している。この山には風穴があり、ここがヤマジ風の突出口と伝承されている。この風穴をふさがないと春と秋に法皇山脈から吹き下ろすヤマジ風の被害が起こると言い伝えられる。旧六月と九月の十三日が祭りで当家制によって毎年風鎮祭が行われている。この祭りには嶺南地方と嶺北地方の氏子たちが、七苛片荷(しちかんかたに)のホガイと称する箱に夏は小麦団子、秋は米団子を入れて豊受神社に担ぎ上げ、これを社殿に供えて神主を先頭に風鎮祭を行う。この後、団子三六五個を風穴に入れて塞ぎ、風鎮の祈願の行事を行っている。」と紹介されている。以上大本。)
 八朔には相撲を奉納するという事例も南予地方に多い。「八朔相撲」というのであるが、必ずしも八朔ではなく、旧八月中に行う相撲であれば八朔相撲と呼ぶ場合が多い。内子町内子の三島神社、八幡神社、五十崎町平岡の岡森神社、宇和町卯之町の王子神社、野村町栗木の三所神社、八幡浜市大平の萩森八王神社、広見町沢松の三島神社などである。なお、八朔相撲とは言っていないが、宮窪町では八朔には仕事を休み、恵比寿神社の祭りを行い、相撲を奉納する。
 以上が森正史『愛媛の民俗―年中行事編―』及び『愛媛県史民俗編下』の内容を紹介したもので、愛媛県内の八朔習俗の多様性、地域差を把握することができる。
 なお、江戸時代から明治時代初期の八朔習俗の様子がわかる史料も若干ある。まずは南予地方の旧宇和島藩領内の八朔についてである。宇和島藩士桜田某が文政年間に記述した随筆(「桜田随筆」と仮称する。出典は『宇和島吉田両藩誌』、『愛媛県史民俗編上』にも所収)によると「八朔・田実朔 田の実の朔といふ事に就て農人の家々に稲の溝苅をして、其籾を煎りて平米にしてお伊勢様をはじめ氏神様へ備へると申す事、昔も今に替る事なし。此の起りを聞くに、此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、則新嘗会の心なるべく、いと貴き心地す」とあり、名称は「タノミノツイタチ」であり、焼き米(「平米」)を神に供えていたことがわかる。その神の中でも氏神よりもお伊勢様が先に記述されているが、この行事が伊勢信仰と関わることが推察できる。旧宇和島藩領内においては、藩が「神明社」の建立を奨励しており、この地域は伊勢信仰が盛んであった(註『県史民俗編上』六〇〇頁)。なお、近年でも八朔に伊勢踊りを奉納するというところが三間町や広見町にある。『日本民俗大辞典』の「八朔」の項に「神社の八朔祭も各地で行われているが、伊勢神宮でも八朔参宮といって、この日に初穂を神前に供えている」という記述があるが、『年中行事辞典』(六四〇頁)にも「八朔参宮 八朔の節供の早朝に伊勢神宮に参拝すること。米・粟などの初穂を抜いて神前に供え、五穀成就を祈る」とある。この八朔参宮の歴史的推移については未だ調べていないが、南予地方、特に旧宇和島藩領内の八朔行事は、伊勢神宮での八朔参宮に影響を受けた可能性があるのではないか。
次に東予地方の今治藩領内関係の史料を紹介しておく。今治藩士戸塚政興が文政六(一八二三)年頃までに完成したといわれ、今治藩の文化年間頃までの諸雑記を集録した『今治夜話』(『伊予史談会双書第二集今治夜話・小松邑志』六一頁)には「田実、此地八朔之祝事也。世以八朔曰頼母之節、或曰田之実節者、共祝秋熟之儀、所以求親睦之和者乎。此物、方今三都及余国更無所聞者也矣。蓋田実者以新穀為団子造人物及鳥獣之形。大一寸五分、其彩乎以丹砂・緑青点之耳。其様古雅也。女児集之遊賞、或贈答之、似桃節雛遊。蓋伝古風者焉。(図挿入)女児呼之曰頼母、鬻者云之田実也兮田実也。一物二名、是亦一奇事也。」とある。この記述からは文化年間においては八朔の祝いの名称が「タノミ」であり、「頼母」・「田実」に漢字をあてていたが、どちらかに確定はしていないことや、当時の江戸・京・大坂の三都や他の国でも聞くことのできない行事であることが認識され
ていたことがわかる。また、新穀で人や鳥獣の形をした団子を作り、それを女児が鑑賞する点は三月の雛遊びに類似するとしている。
なお、今治藩における八朔行事に関する史料は、明治時代中期に国分村の旧庄屋であった加藤友太郎が編纂した「国府叢書」巻二十三(『今治郷土史 国府叢書 資料編近世二』一〇一五頁)にも見られる。この「国府叢書」巻二十三は正月から節句、盆、大晦日までの年中行事、農作業暦、衣食住などを詳述しており、時代としては江戸時代末期から明治時代初期にかけての今治地域の民俗事例が把握できる史料である。ここに八朔について「田ノ実節句(八朔ト云) 八月朔日なり、此日ハ団子ニテ人形其他種々之物ヲ拵ヘテ、之レヲ祭リ、尚家内ノ諸神ヘモ、餅抔ヲ拵ヘ献スルモノ也、其他の供物ハ、御酒、飯等ニシテ、夜間ハ前夜及此夜ニ、燈火ヲ点スルモノ也、此月ハ海水田ノ実汐トテ、例年高ク満ツルト云、如何ニ也」とあり、団子で種々の人形を作って、家の中の諸神とともに餅、酒、飯などを供え、前夜と当夜は火を燈していたことがわかる。なお、この時期の大潮を「田ノ実汐」と呼ぶことは、吉海町誌に「この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている」とあるように、近年でも使用されている。
 なお、愛媛県内の八朔における民俗芸能であるが、代表的なものに瀬戸町大久の「しゃんしゃん踊り」がある。これについては『三崎半島地域民俗調査報告書』二五頁に詳しいので、それを引用しておく。「大久地区のハッサク踊りで、旧八月一日に大幾世(おきよ)大明神前の広場で踊る奉納踊りである。歌の文句に「いやシャンシャン」とあることからシャンシャン踊りといっている。言い伝えによると、昔大久浦に女の水死体が漂着した。その後のこと、疫病、災害が相ついだ。この女のたたりかもしれないと、大幾世大明神と祭って、その霊をなぐさめた。さらに九州の五島列島から習って帰ったシャンシャン踊りを始めた。それ以来たたりはおさまった。これを踊らないとたたりがあるというので、二百五十年間踊り伝えてきた。」踊りには①たんじゃく踊、②おせど踊、③吉野踊、④ふない踊、⑤正月踊、⑥雪踊、⑦しわく踊、⑧こいの踊、⑨天じく踊、⑩五島踊、⑪豊後踊、⑫長崎踊、⑬三味線踊の十三種類だが、もとは四十八庭あったといい、現在は十庭以下の奉納となっている。
また、四国中央市新宮には、旧八月一日に「鐘踊り」が行われる。現在、祭日は八月最終日曜(平成五年は八月二九日)であるが、かつては旧暦八月一日であった。場所は、旧新宮村西庄の大西神社(西庄小学校内)。由来は、『愛媛の文化財』によるとこの踊りは、天正五年七月(一五七七)、土佐の長宗我部元親と戦って自刃した轟城主(阿波白地城主)大西備中守元武の霊を慰めるための踊りである。新宮村西庄の大西神社の祭礼(旧暦八月一日)に奉納される念仏踊りで、神社の前庭に笹を立ててしめ縄を円形に張り巡らして、その中で踊る。構成は、猿田彦一名、棒振り一名、はつり(まさかり)四名、薙刀四名(女性)、裃姿の鉦十名、締太鼓二名の二十二名が乱舞する。内容は、まず討ち入りといって、薙刀とまさかりが交互に切り結びながら、全員が踊り場で陣形をつくる。神官の御祓いを受け、棒使いの口上がある。ここより踊りに入り、「よせ」、「七つ」、「三つ」、「九つ」と踊る。これを一庭と言い約四〇分かかる。昔は夜を徹して、三十三庭踊っていたが、今は三庭で、最後に扇子を持って「やれとう」を踊って終わる。この踊りは、西之庄地区の倉六、内野、大窪の者で奉納されるもので、古風を良く伝承した県下の代表的な念仏踊りである。
 以上の、しゃんしゃん踊りは盆踊りとの関連、鐘踊りは念仏踊りとの関連があり、八朔特有の民俗芸能とはいえないが、八朔と盆の関連を考える上では、貴重な事例といえる。
 最後に、愛媛県内の市町村誌や民俗調査報告書等に報告された八朔の事例について参考までに列挙しておきたい。

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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―④

2008年04月18日 | 年中行事
③タノミ・タノムについて
次に八朔を「タノミ」「タノム」「タノモ」という場合が民俗事例に数多いことから、この「タノミ」等についての文献を見ていくこととする。頼み・憑・田実・田面などと表記される。この表記については、伊勢貞丈が天明四(一七八四)年までに著した『貞丈雑記』(平凡社東洋文庫)には、元来は田の実といって米穀の成就を祝うことがあって後、頼むの縁語を用いることにより各々お互いに頼む人へ物を贈り、例えば君臣が和合し、睦まじくする祝い、として今世では式日の日なったとしている。そして「正礼にもあらず、堅固世俗の風儀也」とあり、八朔は民間に発した公的な由緒のない行事であるとしている。タノミには「田の実」・「頼み」の二義があることは江戸期にはいわれている。
ところがタノミの解釈は既に南北朝期に見られ、『空華日工集』応安三(一三七〇)年八月一日条に「古人以田実初収相餉、謂之恃怙、和語相近云々」とあり、初穂を贈りあうことから「たのみ」と称すると説明されている。同時に「和語相近」と「恃(たの)む」つまり物品を贈って親近する意味と推察できる解釈もしており、南北朝期にはすでに「田の実」・「頼み」の説明がなされているのである。同時に「八朔」の呼称が登場する以前の南北朝期に「タノミ」と称されていたこと自体も興味深い。つまり文献の上では鎌倉期の「八月一日贈事」、南北朝期の「タノミ」、室町時代(十五世紀半ば)の「八朔」という呼称の時代的変遷があったことを指摘できるのである。
実は室町幕府においては、職制として「御憑総奉行(おたのもそうぶぎょう)」が設けられていた。和田英松著・所功校訂『官職要解』(三二三頁、講談社、一九八三年)によると、御憑総奉行とは「八月朔日、頼(たのも)の祝という幕府に贈遺献納のことがあったので、それを掌る。また御憑使があって、遺物(おくりもの)の使者を勤めたのである」とあり、同書に紹介された鎌倉幕府の職制にはこの御憑総奉行は見られない。鎌倉幕府では先に挙げた『吾妻鏡』や「関東新制条々」の記事にあったように、八月一日の贈物慣習は禁止されており、幕府の職制に組み込まれることはなかった。しかし室町幕府では積極的に八月一日の贈物慣習を取り入れ、それを掌る職制を新たに設けたのである。このことは二木謙一氏が「室町幕府八朔」(『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、一九八五年)において、詳細に述べられており、鎌倉幕府においては公式行事として認められていなかったこの儀式が、室町幕府では定例の行事として定着していて、公家においてもこの慣習を盛んに取り入れていたことを指摘している。また、山田邦明「鎌倉府の八朔」(『日本歴史』六三〇号、二〇〇〇年)では、室町時代には、関東の鎌倉府から古河公方や北条氏へと八朔儀礼が継承されていることを明らかにしており、武家や公家の社会でかなりの広がりを見せていたのである。
この流れを見ると、八月一日の贈物慣習は室町幕府において定例化し、職制として定着することに起因して「八朔」という呼称が成立していったと考えられる。そして先に挙げた『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条では「八朔礼の事」とあり、また、関東を直轄した鎌倉府の年中行事等を記した儀礼書で、享徳五(一四五六)年成立の「鎌倉年中行事」では「八朔御祝トカウス(号す)」とあり、具体的には「八朔礼」や「八朔御祝」と称されていた。
 さらには、『親元日記』文明十二(一四八〇)年八月朔日条に「八朔総奉行東山殿御奉行伊勢守右筆」とあったり、『沢巽阿弥覚書』に「八朔奉行蜷川蔵人」とあるなど、十五世紀後半になると御憑総奉行を「八朔奉行」と称する史料が散見できる。これは「八朔」の呼称が定着したため、それまで憑(タノモ)奉行の別称として用いられたのではないだろうか。
 さて、「頼み」の意味は何なのであろうか。単に頼みごとをするということではないようで、その意味について考えてみたい。「たのみ」を『日本国語大辞典』で見てみると、第一には、竹取物語の「さりともつひに男あはせざらんやはと思ひて、頼をかけたり」とあるように、力になるものとして、たよりに思うことの意味がある。第二に、物を買うときの手付金。また、結婚のしるしとして送るものという意味がある。『日葡辞書』に「Tanomi(タノミ)<訳>職人に前もって渡す手付金。また結婚のしるしとして送るもの」とあり、それが後に「結納」や「言入」を表す言葉になる。『貞丈雑記』一には「いひいれを古はたのみとも云ひし也。是は舅とたのみ、妻とたのみ、聟とたのみ、夫とたのむの祝儀なる故、たのみと云。たのみは聟より舅へ祝儀物を送り、舅よりも聟へ祝儀物を送り、両方より取かはして、互にたのむ儀なり、是古法なり」とあったり、浮世草子・本朝桜陰比事-三・六に「十五に成るむすめと縁組取持頼みの祝儀おくらせ相済しける」とあるように、「たのみ」は結納を意味している。また、「たのむ」は日葡辞書に「Tanomuno(タノムノ)ツイタチ<訳>八月一日」、文明本節用集「憑 タノム 倭俗云八月朔日也」とあり、当然、八月一日をあらわす言葉としても登場する。
また、平安時代初期の訓に関する史料である「大唐三蔵玄奘法師表啓平安初期点」には「虞(おもひはか)り无きに皇霊を憑(たの)みて以て遠きを往き」とあり、たよりにする、あてにするの意味で用いられている。つまり、たよるものとして身をゆだねるということである。また更級日記に「たのむ人の喜びのほどを心もとなく待ち歎かるるに」とあるように、それが帰依する、信仰するの意味にもなる。これと同様の用例は、源氏物語―明石にも見られ、「住吉の神のたのみはじめたてまつりて、この十八年になり侍りぬ」とある。
次にタノミ・タノムの漢字である「憑」と「頼」を比較してみたい。『大漢和』巻四、一一八一頁によると、「憑」は①たよる。たのむ。(〔集韻〕「憑、依也」)、②つく。のりうつる。(〔唐書、葉法善傳〕「此為魅所憑」)、③よせる。託する。(〔注〕「綜曰、憑、依託也」)などの意味が紹介されている。『日本国語』でも「憑」は、①たのみにすること、よろどころとすること、②霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。などと出ている。「頼」については『大漢和』巻十、七九二頁によると、①たのむ。(〔広雅、釈詁三〕「頼、恃也」)、②かうむる。(〔注〕「頼、蒙也」)、③利便とする。(〔注〕「頼、利也」)などの意味があり、たよったり、たのんだりするとしても、たのむ側の「利」を前提に考えるたのみ方といえる。「憑」には「つく」、「よせる」とあるように、たのむと同時によりかかり、一体化するという意味があるといえる。これが「頼」と「憑」の大きな違いである。
ちなみに、仏教用語で「依憑(えひょう)」という言葉があるが、これは『日本国語』では「人によりかかり、頼みとすること。」ある。ただし日蓮遺文の立正観抄には「伝教大師云、依憑仏説、莫信口伝」とある。「依憑」はよく使われる言葉で、最澄『依憑天台集』や日蓮の『依憑集』と著作名にも使用されている。
以上のように見てみると、「たのむ」には、依憑と、依頼との二つの側面があり、依頼は、我執を捨てることなくたのむことで、我執を捨てて、対象(相手)によりかかりたのむことが「依憑」である。つまり、中世のタノミが「頼」ではなく「憑」が多く用いられることは、贈答関係による一体化を前提としているのだろう。つまりは「関係を構築して一体化する」ことが「たのむ」の原義といえる。

④呼称からの推察―八朔習俗の上昇・下降―
 以上、「朔」、「ツイタチ」、「八朔」、「タノミ・タノモ」の用例について文献史料を基礎として、それらの語義や時代的変遷を見てきたが、問題は武家・公家社会と民間との影響関係である。この点については和歌森太郎が「八朔考」(昭和十七年、のち『日本民俗論』所収)にて現代の伝承を中世の諸文献上の八朔にまで遡らせて比較し、それが農村に基盤を持つ武家の主従間の贈答に源を発すると述べており、また、平山敏次郎が「八朔習俗」(昭和二四年、のち『歳時習俗考』法政大学出版局、昭和五九年所収)で、行事の沈下・上昇を論じ、年中行事のみならず、民俗文化の性格を考える上でも大きな問題を提供している。これを受けて田中宣一『年中行事の研究』(五五頁)では「近代の八朔行事の内容には、もともとから農村に伝承されていたと思われるものと、いったん宮廷行事の影響を受けたのちに民間へ下降していったかと思われるものが混在し、各地で多彩なものとなっている」と述べている。
この「上昇・沈下」についてであるが、この点は田中久夫「八朔考」に詳しい。先に挙げた『花園天皇宸記』に「近代之流例也」とあるように贈答の慣習が新しいと述べ、また元亨二(一三二二)年八月一日条では「諸人進物如例、蓋是近古以来風俗也、於人無益、於国非要、尤可止事歟、然而強又非費、自然行来歟、猶不可然事也」と新しく流行してきた贈答の風を批判している。この花園天皇の記事からは八朔の贈答行事が従来の貴族社会に見られなかったのであり、鎌倉時代に新しく生まれたものであることを示している。また、先に挙げた『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条も「八朔礼の事(中略)鎌倉より事起るの由語り伝うる所也」とあり、八朔にあたり物の贈答を行う風習は鎌倉時代頃に鎌倉から新たにやってきたものであることを強調している。そして、中世貴族の「憑」には農作を祈るという側面がない点が農村の「憑」とは内容が大きく異なっており、結局、中世の「憑」は農村の八月一日頃に行われていた「作神祭」の供物の贈答が、儀礼化、形式化したものであると結論づけている。
 ただし呼称の面では、文献史料で見る限り、「八朔」という呼称は室町時代に武家・公家社会で定着したものであり、もし民間でも「八朔」の呼称が一般的であれば、鎌倉期から南北朝期かけて使用されたのであろうが、その類の史料は見られない。現在の「八朔」の呼称は室町期の武家・公家社会を端に広がっていったと考えるべきだろう。
 さて、「八朔」呼称の民間への広がりを示すものとして、明治初期の祝祭日(田中『年中行事の研究』二一九頁にも紹介されている。)の変遷が興味深い。所功『日本の祝祭日』(PHP研究所、昭和六一年)によると、明治三年四月二七日布告によって祝日は、大正月(正月元日)・小正月(一月十五日)・上巳の節句(三月三日)・端午の節句(五月五日)・七夕の節句(七月七日)・八朔田実の節句(八月朔日)・重陽の節句(九月九日)・天長節(九月二二日)と決められ、この中に八朔が含まれている。「八朔田実」とあるように、この呼称は一般的なものであった。そして太陽暦導入にあたり、改暦直後の明治六年一月四日太政官布告では、「今般改暦ニ付、人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ 神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」とあり、五節句が廃止されている。ここで八朔田実の節句も廃止となったのか不明であるが、明治六年十月十四日布告で祝祭日の再規定がなされ、元始祭(一月三日)・新年宴会(一月五日)・孝明天皇祭(一月三十日)・紀元節(二月十一日)・神武天皇祭(四月三日)・神嘗祭(十月十七日)・天長節(十一月三日)・新嘗祭(十一月二三日)となっており、そこでは八朔田実の節句は除外されている。
 これは明治三年のものは前代の江戸時代における祝祭日を基礎として制定したもので、江戸期には八朔田実が節句として認められていた。それが明治六年の布告ではそれまでの節句は公式には省かれ、天皇家関係や神嘗、新嘗祭など宮廷行事に基づいた構成へと再編されている。裏返せば江戸時代から明治五年までは八朔田実は祝祭日として公式に認められており、民間でも定着していた。しかも「八朔」呼称が使用されており、結局のところ、江戸時代に民間では八朔は祝日として認知され、室町時代に武家・公家発端の「八朔」呼称が民間に「沈下」(ただし、この言葉自体が適当かどうか再検討を要するが。)していったのであろう。


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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―③

2008年04月17日 | 年中行事
3 八朔の原義―呼称からの検討―
①「朔」・「ツイタチ」について
八朔習俗を考える場合、その呼称を今一度再検討しておく必要があると思われる。民俗語彙としての検討は当然のことであるが、そもそもの「八朔」の語義や、「朔」、その訓である「ツイタチ」などは、これまでの八朔関連の研究では触れられることのなかったこともあり、ここで考察してみたい。
まずは「朔」についてである。『大漢和辞典』(巻五、一〇四五頁)には「朔」の様々な意味を紹介しているが、筆頭には「ついたち。陰暦で月の第一日」とある。そこでの引用文献として〔説文〕に「朔、月一日始蘇也」、〔疏〕に「月之始日、謂之朔」とあり、確かに月初めの日を「朔」としている。ただ、〔釈名、釈天〕に「朔、蘇也、月死復蘇生也、朔、月初之名也」とある。「朔」はもともと蘇生の意味があり、天体の月が蘇生する月初めを指すが、ここでは厳密に「一日」を指しているわけではない。『大漢和』での他の意味には、「はじまる。生まれる。」(〔注〕「朔、生也」)、「はじめ。」(〔注〕「朔、亦初也」)とあり、また、「あさ。夜明け。」(〔釈文〕「朔、旦也」)とある。その他にも「きた。北方。」(〔釈文〕「朔、北也」)とあり、方角での「はじめ」の意味から「北方」を指す言葉としても使用されている。つまり、八朔の「朔」の原義は「はじめ」「生まれる」であり、月で考えた場合に「月(天体)が蘇生する月(時間)のはじめ」となって、二次的に「月の第一日」として定着したものと考えられる。
この「朔」=「月の第一日」が日本に伝来したのは、飛鳥時代の暦法の導入期もしくはそれ以前といえるが、「朔日」の記述は『日本書紀』の中でも一般的に用いられており、また「告朔(こうさく)」(毎月朔日に諸司の進奏する百官の勤怠、上番日数を記した文を天皇が閲覧した儀式。天武天皇五(六七六)年九月初見。)という儀礼があったように、日本古代では朔日を儀礼日としていた。ただし、告朔はのちには正月・四月・七月・十月の月初めにのみ行われ、次いで廃れていくが、ここでは八月朔日は含まれないのである。(ちなみに『大漢和辞典』にも「八朔」について中国の文献は引用されず、日本中世の『看門御記』の記事が紹介されている。)六国史や律令等を見る限り、日本古代においては公には八月朔日は重要な節日として扱われていなかったといえる。
なお、『日本書紀』等に見られる「告朔」の訓は「ついたちもうし」であるが、これが古代において一般的であったかは未調査である。中世以降の紀の解釈の中で読まれた訓である可能性もあり、天武天皇期から「告朔」=「ついたちもうし」であった確証はない。
 次に「ツイタチ」の意味であるが、『日本民俗学大系』七(平凡社、一九七六年)所収の和田正洲「暦と年中行事」(三三頁)には、「ツイタチは月立ちで月の出現、ツゴモリは月ごもりで月のかくれることを意味するといわれている」、「日本のツイタチは古典では三日月なのか半月なのか、満月なのかわからないが、とにかく正朔を月初として重んずる暦法が輸入されて、暦法の月初に合わせ、月のみえない朔を月初として重んずるようになったのであろう。」と指摘している。『日本国語大辞典』によると、①月の初め頃、月の上旬、初旬(「ついたちころ」源氏・落窪にあり、月初めの十日間ほどを指している)、②月の第一日、以上の二つの意味がある。必ずしも「ツイタチ」=「月の第一日」ではなく、源氏物語や落窪物語での用例を見ると、月の初旬の約十日間を指す場合もある。やはり和田正洲が指摘するように、「ツイタチ」の語源は「月立ち」であり、暦法導入以後に、「朔(月(天体)が蘇生する月(時間)のはじめ)」を「ツイタチ」と呼ぶようになったのだろう。
 このように見てくると、「朔」も「ツイタチ」も原初的には月の始まりの頃であって、必ずしも月の第一日目というわけではなかったと言えるのではないか。実は、これについての疑問の発端は愛媛県内に見られる八朔習俗に関する呼称を調べていて抱くようになったものである。すなわち、愛媛県三崎町正野や、一本松町正木では「八朔ノ入り」や「八朔入り」という言い方をするが(文化庁編『日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)』四二五頁)、これは、三崎町や一本松町などの南予地方に広く見られる二月一日の呼称である「二月入り」と対応してのものであろうが、ここでの「八朔入り」の「八朔」は、「入り」と使われるように「八月一日」の一日間を指すというより、もう少し長い期間を指すのではないかと考えたのである。「二月入り」に対応するとすれば、八月一ヶ月間となるが、これでは「朔」=「はじめ」の語義から考えて適当ではない。上記で見てきた「朔」・「ツイタチ(月立ち)」の用例からして、八月上旬を指すのが適当と言えるのではないだろうか。
これに関連するものとして、「ハッサクノツイタチ(八朔一日)」という呼称がある。『日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)』から行事名称を拾ってみると、岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・新潟県に広く見られ、茨城県多賀郡十王町や、神奈川県・富山県・石川県にも一部見られる。また、九州の佐賀県杵島郡大町では「八朔チータチ」と呼んでいる。一般的に考えれば、「八朔」にすでに一日(ツイタチ)の意味が込められているのに、これらの呼称は、なぜあえて八朔一日とするのか疑問である。やはり、愛媛県南予地方の「八朔入り」から推察したのと同様に、八朔は八月上旬を指しており、その一日目として「八朔一日」と呼んだのではないか。
八朔行事には、全国各地で種々の行事内容があり、盆や二百十日、十五夜、社日などと類似・交錯しているが、「八朔」がもともとは一日ではなく、約十日間という、より期間であったと仮定すれば、これらの類似・交錯が現れるのは当然といえる。(ただし、この点は実証性が薄いし、問題点も多い。まず日本で「朔」=月の上旬とする事例があるのかどうか調べる必要がある。また、八朔が一日間ではないと実証できる民俗事例も提示しないといけない。)

②「八朔」について
次の問題は、なぜ「八朔(ハッサク)」という呼称が存在するのかということである。八月一日が行事日であるから「八月朔日」を縮めて「八朔」としたのであれば、「正朔」や「二朔」、「六朔」などの名称があってもよさそうなものであるが、そのような事例は見聞できない。八月一日だけ月数と「朔」が合わさった呼称となっているのか疑問といえる。ただし、月初めの一日が行事日で「朔日(ツイタチ)」の呼称が付く事例は多く、二月一日の初朔日(ハツツイタチ)や太郎朔日(タロウツイタチ)、四月一日は数少ないが岩手県で「山見の朔日」(『日本民俗学大系』七、二四二頁)という。五月一日も数少ないが鳥取県で「豆炒りの朔日」という事例がある。六月一日は「氷の朔日」・「鬼朔日」、七月一日は「釜蓋朔日」、十二月一日の「乙子の朔日」など、二月、六月、十二月一日は、広く多岐にわたった行事が行われるので「○○ノツイタチ」の呼称が多くある。八月一日には「ハッサクノツイタチ」・「タノミノツイタチ」・「タノモノツイタチ」という例があり、二、六、八、十二月の共通性が見られるといえるが、「二朔」「六朔」「十二朔」という呼称はない。これは何を意味するのだろうか。
ちなみに、江戸時代には「三朔日(さんついたち)」といって、三つの朔日を指してこのように呼んでいた。その三つとは正月元日、六月朔日、八月朔日の式日である。「三朔(さんさく)」とも言われ、元日は新年の賀儀、六月は氷室の節供、八月は八朔の御祝儀があり、それを総称していたのである。なお、東北地方など民間においても二月、六月、八月の朔日を三朔日と呼ぶところがあるという(以上、『国史大辞典』第六巻、五八三頁、中村義雄執筆、吉川弘文館、一九八五年を参照)。
 いずれにせよ「八朔(ハッサク)」の用例について、文献史料を基に考えてみる必要がありそうである。文献史料における「八朔」の初見は、管見の限りでは、『看聞御記』応永二五(一四一八)年八月一日条の「八朔風俗、千秋嘉兆、幸甚々々。仙洞御憑、付永基進之。」に見える「八朔風俗」である。また、『康富記』文安五(一四四七)年八月一日条で、「八朔礼の事、何比より之有る事哉の由、尋ね申し候の処、後鳥羽院の末つ方より出来歟。但し見る所慥なることを得ず。所詮先代より沙汰初歟。鎌倉より事起るの由語り伝うる所也」云々とあり、ここでは「八朔礼」と出てくる。十五世紀前半以降の史料には「八朔」は頻出するのである。
ただし、『吾妻鏡』宝治元(一二四七)年八月一日条には「恒例贈物の事、停止す可きの由触れらる」云々とあり、鎌倉幕府において、この日に将軍に対して贈物することが禁止されている。『弁内侍日記』の同年八月一日の記事には「中宮の御方より参りし御たき物、世の常ならず匂美しう侍りしかば」云々とあり、この日に宮中において天皇に対しても物を献上する慣習があったことが推察できる。また、鎌倉時代末期の正和三(一三一三)年の『花園天皇宸記』に当日「自所々種々物等進之、是近代之流例也」とあるように、この八月一日の贈物習俗は、鎌倉時代中期から末期にかけて流行したものといえる。(なお、八朔に関する中世の文献史料については、田中久夫「八朔考―年中行事に占める位置について―」や西角井正慶編『年中行事辞典』六三八頁に詳しく、それを参照にした。)ただし、この時期の史料には「八朔」とは見えず、その用例は十五世紀にまで下るのである。弘長元(一二六一)年の「関東新制条々」の中に「八月一日贈事々」とあり「近年有此事、早可停止」と武家において十三世紀半ばに流行していたが、幕府によって停止が命じられている(註 本郷恵子「八朔の経済効果」(『日本歴史』六三〇号)より)。ここでの呼称は「八月一日贈事」であり、「八朔」とされていないことは興味深い。鎌倉時代から、贈答の習慣は八月一日に一般的に行われていたが、当時はこれを「八朔」とは呼ぶことはなく、行事がさらに定着する室町時代に入ってから「八朔」という一般呼称が成立していったのではないかと推測できるのである。
参考までに、室町幕府の八朔の具体的な儀礼内容については、二木謙一『中世武家儀礼の研究』に詳しい。その内容を引用・紹介しておく。明応年間頃(一四九二~一五〇一年)に伊勢氏によって書かれた『年中定例記』などの記録から、次のようにまとめている。「八朔の贈答が幕府の公式行事として定着化した義満期から義教期の頃までは、朔日、二日、三日の三箇日間にわたって、同じ対象同士両三度、三回もの贈答がくり返されるのが例であった。が、それ以前と、嘉吉以降は朔日だけ一回の贈答であった。七月中に幕府から沙汰が出され、公家衆、武家衆等は七月末日には贈答の品々をとり揃える。晦日の午後のうちに届けられることもあったが、多くは八月一日の午前中に届けられた。幕府は伝奏を通して天皇、上皇に献じ、内裏や仙洞からも返礼がなされる。幕府から朝廷に献じられる品は、はじめは種々様々であったが、義政期頃から太刀と馬に定まったようである。幕府へは摂家、門跡、公家衆、大名、外様、御供衆、惣番衆、奉行等もことごとく進上し、そのほか地下衆、職人、牛飼、、の者までが、それぞれ似合の物を献じた。毎月一回は公家衆、武家衆等の幕府への参賀、いわゆる朔日出仕の儀が行われるのが例だが、八朔当日は、憑進上の人々で混雑するので、朔日出仕の儀は止められることもあった。幕府では御憑総奉行伊勢守の指図のもと、奉行人が応待にあたり、右筆が献上品をチェックする。当日料理を掌る大草家からは、将軍家に粥に黒焼にした薄を入れた尾花粥が供せられ、出仕の人々には殿中で祝酒が振舞われる。将軍からの返礼の品は、地下や下級の人々には、進上品を持参した使者、あるいは当人に対して即時に奉行人から渡される。摂家や上流公家衆には奉行人、大名には同朋衆が使者となり、二日以降八月中旬頃までに、八月朔日を日付とした折紙の礼状を添えて返されるのが例であった。返礼は過分に行われるのが常で、返礼の品は奉行が調える。その際、形式的であるが、将軍がこれに目を通す儀があり、これを「御はからい」と称した。こうして八朔の贈答が完了すると、残った品々を、奉行、右筆、同朋衆や女中衆など、この行事に尽力した者達が鬮によって配分し、この年の八朔行事は終りとなる。」この説明により室町幕府の八朔の概況がわかるが、儀礼は八月一日を主体であるが、贈答完了は中旬頃であり、一日間のみの行事ではなかった。また、粥を供せられることも興味深い。また、馬節供に関連すると思われる馬の贈答は、義政期に定まったもので、それ以前は必ずしも一般的ではなかった。以上が二木著の内容である。


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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―②

2008年04月16日 | 年中行事
2 八朔習俗の研究史
八朔習俗の研究については、正月や盆、他の節供に比べると極めて少ないが、その中でも主要な先学の成果をここで紹介しておきたい。まず八朔習俗の全体像を考察したのは和歌森太郎である。和歌森は「八朔考」(昭和十七年、のち『日本民俗論』千代田書房、一九四七年所収)にて、現代の八朔習俗を中世の諸文献上の八朔にまで遡らせて比較し、それが農村に基盤を持つ武家の主従間の贈答に源を発すると述べている。和歌森は「八朔考」にて、八朔行事は様々であるが、大きく三つの型に分類している。
①虫送り・作頼み
信州天龍峡では当日、村人が「稲虫退散」の旗を持ち大太鼓を叩き乍ら村内をねり歩き、田の畔で「オンカラ虫ヲ送レ」と繰り返しはやしつつ、旗で稲穂を撫でて行き、終って旗を川に投じて帰る。虫送りの日となっている。斯く、旧暦八月一日に稲作の害をはらうという気分は、現行八朔行事にひろく見られる型である。歳時習俗語彙にも、この月には稲作の労働一わたり終って静かに秋収を念ずる季節ゆえ、是に因みある伝承が多い。殊に西日本に多いと示されている。伯耆の農村での八朔の鳥追いも亦同じ意味の行事であろう。九州に多い作の神頼み、作頼みの俗も同じ気分に根ざした八朔の行事らしい。
②馬節供
八朔を馬供節と称したりして、馬や人その他鶴亀などの形のしんこ細工を作り近隣知親に贈る風も多い。初児の祝い事として宅内に飾り立てる。恰も雛や端午の節供の如き催しをなすところが四国、中国地方に多い。
③八朔贈答
八朔といえばただ節日、休息日として何か贈答を交換する。そして頼み、「憑み」の節供となす風である。主従、婚家実家間に殊によく行われ、中元と歳暮と相並ぶ如く、正月の贈答と並んで八朔贈答は重きをおかれるようで、それが行われる間柄の協同扶助の精神を強調するに與つている。
以上の三つの型について和歌森は中世の文献をもとに歴史的秩序付けを試みている。
 なお、八朔に関する研究史は、既に田中宣一『年中行事の研究』(二六頁、桜楓社、一九九二年)にて詳細に紹介されているが、平山敏次郎「八朔習俗」(昭和二四年、のち『歳時習俗考』法政大学出版局、昭和五九年所収)についても紹介し、田中宣一は「行事の沈下・上昇が論じられ、年中行事のみならず、民俗文化の性格を考える上でも大きな問題を提供」していると指摘している。
その田中宣一『年中行事の研究』五五頁では、「八月一日 この日は八朔で、新暦では九月一日に祝われることが多い。八朔には秋の刈入れを前にしての穂掛儀礼などが行なわれ、稲作農業上重要な日であったらしい。かつて農民から身を起こした武士達によってその際行われていた贈答の風が、室町時代に宮中や貴族の行事として取り入れられて定着し、それが再び民間に影響をおよぼしたものであろうと言われている(註 平山敏次郎「八朔習俗」)。そのため、近代の八朔行事の内容には、もともとから農村に伝承されていたと思われるものと、いったん宮廷行事の影響を受けたのちに民間へ下降していったかと思われるものが混在し、各地で多彩なものとなっている。」と述べている。
ただ、八朔の起源が農村の稲作儀礼に由来するといわれるが、いかにして公家や武家社会に導入され、年中行事までなっていったかについては、具体的な説明がなされることはなかった、その点は二木謙一が「足利政権と室町文化―室町幕府八朔をめぐって―」(『国史学』九八号、一九七六年、のち『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、一九八五年所収)にて明らかにしている。すなわち、武家や公家社会への伝播や、後世の八朔を考える時、室町武家、とりわけ足利政権の果たした役割は大きいことを強調している。二木氏は「収穫を前にした予祝儀礼、あるいはユイ(結い)という農村の協同労働組織におけるタノミ(頼み)としての贈答の風が、やがて鎌倉末期から南北朝期における農村出身の地方武士の広域な流動の中に、目上、長上に対するタノミとして八朔憑の贈遺がなされるようになったのであろう。鎌倉幕府ではこれがいまだ儀礼として成立し得なかったが、足利政権の成立とともに儀礼化がなされたのであった。そしてこのことこそが足利武家のはたした大きな役割だったといえよう。この室町幕府による儀礼化があったからこそ、公家社会にも入り、後世、江戸幕府八朔につながるものが育てられた」と述べている。
 また、八朔の馬については、室町期以降における武家社会の太刀、馬贈答が民間へ伝播することによって生まれたと推測している。この点は武家、公家社会からの「下降」と考えている。(この点については田中久夫氏も讃岐の馬の贈答習俗は馬を贈答品として贈ることが最大の好意のあらわれであるという考え方が流布したときに、それを受け入れたものではないかと指摘している。)
 この二木氏の考察を出発点として、近年、中世史では八朔に関する論考が数点提出されている。本郷恵子氏が「八朔の経済効果」(『日本歴史』六三〇号)、山田邦明「鎌倉府の八朔」(『日本歴史』六三〇号、二〇〇〇年)である。二木氏は、公式儀礼としての江戸幕府の八朔儀礼は、徳川家康が室町幕府や公家社会の伝統を取り入れたものであると指摘したが、山田氏は室町時代には、関東の鎌倉府から古河公方や北条氏へと八朔儀礼が継承されていることを明らかにし、家康は単に室町幕府や公家社会から受け入れたのではなく、関東を支配する大名であったことから、その時に既に受け入れていた可能性を指摘している。
さて、年中行事の中での八朔の位置づけについては、田中久夫氏「八朔考―年中行事に占める位置について―」(『柴田實先生古稀記念 日本文化史論叢』昭和五一年、のち『祖先祭祀の研究』弘文堂、一九七八年所収)に詳しい。田中久夫氏は、中世の文献史料と民俗事例を比較し、中世貴族の「憑」には農作を祈るという側面がない点が農村の「憑」とは内容が大きく異なっており、結局、中世の「憑」は農村の八月一日頃に行われていた「作神祭」の供物の贈答が、儀礼化、形式化したものであると結論づけている。そして、八朔の問題点として、近畿地方一帯では八朔習俗は少なく、憑の贈答も行われていないが、和歌森の言うように八朔の原型が苅穂、苅初めの祝日で、穂出し祈願であるとすれば近畿からそれが抜け出しているのは不思議だとし、しかも稲の苅初めは月でいえば旧暦の九月に入ってからと思われ、八月一日では時期的に少し早すぎ、穂掛は八朔行事の本来的なものとしては除外してもよいのではないかと指摘している。そして穂掛けではなく、鳥取の鳥追い等の事例をもとに、本来は穂出しを促進する行法ではなかったかと述べている。
また、田中久夫氏は八朔と盆行事との関係を考察し、八朔が「稲の祭り」としてかつて重要な位置を占めていたとうかがわれるが「仮に、盂蘭盆、先祖まつり、先祖の田廻りが日本で発生し、固有のものであるとするとき、私たちは、なぜ我々の祖先が旧暦の七月十五日という時期を選んだのか、これを考える必要があろう。稲作の作業過程にあっても、草取は旧暦七月の上旬に終り、今しばらくは水の心配をするだけであった。何も手のかかる仕事がない。このようなときに神祭りをおこなう必要があったのであろうか。むしろ稲の祭りからいえば、稲の穂が出るとき、そのときこそ、収穫のために田の神を祭祀し、出穂の祈願をする必要があった。「稲の穂がよく出るように」、「そのとき風が吹かないように」、これが農民の最大の願いであった。あとは祈ることのみが残されている。」とし、十五日程前にあたる盂蘭盆が中世以来、農民の間に定着していき、稲作の仕事も一段落ついたこともあり、八朔と状況があまりかわらぬという理由もあって、人々は盂蘭盆に次第に関心を集め、八朔の行事を行わぬようになり、また盆行事に稲の祭りが見られる理由もそこにあると指摘している。八朔の行事が中世以来だんだんと旧暦七月十五日の盂蘭盆会にひっぱられたものの、農作業にあっては重要な祭りの日であるという感覚は失われずに残り、この日に餅を搗くなどしている。
 以上のように、八朔行事に関しては、中世の武家・公家社会への浸透、定着にともなう民俗の上昇・下降という議論が、歴史学での研究が進展したこともあり、再度行う必要性があると思われる。また、田中久夫氏が指摘する八朔と盆との関係についても議論を深めていく必要があろうし、その他の年中行事との関係についても考察しなければいけない。八朔についての研究はまだまだ課題は多い。

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八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―①

2008年04月15日 | 年中行事
本稿「八朔の歴史と民俗―付・愛媛の八朔習俗―」は、雑誌『四国民俗』にて掲載した原稿である。

1 はじめに―八朔とは―
八朔とは一般的には「旧暦八月一日をいい、八朔節供ともいわれる。古くはこの日をたのむの祝いといい、宮中に米などを献上する例があったようであるが、民間習俗が取り入れられたものらしい。(中略)民間では概して稲の実りの前の豊穣祈願習俗と、さまざまな贈答習俗がみられた。中国・九州地方では作頼みが行われ、たのみの節供・たのもの節供などといって頼み・田実・田面などの字をあてている。鳥取県では田の畔で大声をあげ、『ホウタイマエ(穂賜え)』などと唱えて作頼みをする。熊本県では稲穂一束を神に供える所がある。(中略)八朔は本来民間の農耕儀礼で、それが宮中・武家社会にも取り入れられていったようである。」(『日本民俗大辞典』下三七二頁、長沢利明執筆、吉川弘文館、二〇〇〇年)と説明される。
 具体的な行事例を数点挙げてみると、①「瀬戸内地方では牛馬の労をねぎらって馬節供の祝いをし、餅を搗く。張り子の馬を飾ったり、糝粉細工の馬を贈ったりもする。西日本では八朔雛・八朔に人形の贈答習俗も広く見られ、嫁を里帰りさせたり」、②「八朔踊りをしたり、八朔盆といって盆の終わりの日としたりする例も多い。」、③「神社の八朔祭も各地で行われているが、伊勢神宮でも八朔参宮といって、この日に初穂を神前に供えている。」、④「このころは農作業の区切り目でもあり、いよいよ野良仕事も忙しくなるので鬼節供・嫁の泣き節供といったり、麦饅頭の食いじまいの日としたり、その饅頭を泣き饅頭と呼んだりする。」、⑤「岡山県ではサトイモの堀り始めで、初物のサトイモを神社に供える。」、⑥「関東地方では二百十日も近いので、八朔に風祭をするところが多く、農休みの祝宴をしたり、風除け札を神社から受けてきたりするが、風の神送りの習俗もよく見られる。」(以上、『日本民俗大辞典』下三七二頁より)と以上のおおまかに分けて六点、すなわち①贈答慣習、②盆との関連、③神社祭礼、④農作業の区切り目、⑤サトイモの掘り始め、⑥風祭り等にわけられる。
この八朔行事の地域差については、文化庁編『日本民俗地図Ⅰ(年中行事1)』(四一一頁、国土地理協会、一九六九年)に概略がまとめられている。①呼称について「タノミ・タノモなどと呼ぶのは、中国地方から瀬戸内周辺、北九州に多いが、関東地方から東北地方にかけても点在している。」、②全国的に点在するものとして、ホガケ・アワゼックなどと呼び、刈り初めの穂掛けをしたり、初穂で焼き米を作ったり、粟の強飯をこしらえたりする。③作ほめ:北九州などでは、七夕の笹飾りに似たものを立てて作頼みをするところや、タホメ・サクホメなどといって、田に出て「よくできました」などと自分でほめてまわる。④広島県にはタノモ船をつくり紙人形などを乗せて流す。⑤香川・広島などの瀬戸内周辺には、馬ゼック・シシコマ・ヒナイワイなどと呼んで、人形やシンコの馬などをつくり、飾ったり、子どもに与えたりする。⑥鳥取県では、トリオイと呼び小正月に似た鳥追いをする。また、厄よけのために桃を食べるというのも鳥取県周辺のみである。⑦タノミを頼み・頼むと解釈して相互扶助関係増強のために贈答をする事例として、香川県では嫁の里などからシンコ細工の馬を贈る。また生児の初めての馬節供を初馬と呼んでいる。⑧埼玉・群馬などでは、この日嫁の里帰りをさせ、その贈り物にしょうがをつけてやる。ショウガゼックという名称もついている。などと、地域によって種々にわたる行事が見られる。


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もう一つの座敷雛

2008年04月03日 | 年中行事
座敷雛といえば、八幡浜の真穴地区。実は広見(鬼北町)にも座敷雛がある。写真は2007年4月3日撮影。広見の座敷雛は地域行事ではないが、昭和20年代には地域行事としての座敷雛が残っていたという。今の広見座敷雛は、八幡浜の真穴の棟梁に話を聞いて、参考にしているとのこと。

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