愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

古代の南海地震 仁和南海地震

2015年08月28日 | 災害の歴史・伝承

先に天武天皇13(684)年の白鳳南海地震について紹介したが、そのあとの南海地震は白鳳南海地震から203年後。仁和3(887)年7月30日に発生している。仁和南海地震と呼ばれ、その原典となる記録は『日本三代実録』巻第五十である(『新訂増補国史大系 日本三代実録後篇』、吉川弘文館、昭和27年発行、637頁)。

「卅日辛丑。申時地大震動。経歴数尅。震猶不止。天皇出仁寿殿。御紫宸殿南庭。命大蔵省。立七丈幄二。為御在所。諸司倉屋及東西京廬舎。往往顛覆。圧殺者衆。或有失神頓死者。亥時亦震三度。五畿内七道諸国同日大震。官舎多損。海潮漲陸。溺死者不可勝計。其中摂津国尤甚。」

7月30日の申時(午後4時頃)に発生し、「数尅」(数時間)、揺れが止むことがなかった。つまり直後の余震、誘発地震が多く発生していたことがわかる。そして京都において、天皇は仁寿殿を出て、紫宸殿の南庭に「幄」(テントのような仮小屋)を建てて御在所とした。平安京では諸役所、庶民の家々が数多く倒壊し、圧死する者も出たり、失神して亡くなる者もいた。発生して約6時間後の亥時(午後10時頃)に三回の地震があった。この日は京都だけではなく、五畿七道諸国つまり日本列島の広い範囲で大きな地震を感じた。地方の役所の建物も被害が多く、そして「海潮」が陸上に漲(みなぎ)った。これは大きな津波が襲来したことを示している。溺死した者は数えることができないほどであった。その中でも摂津国の被害が甚大であった。

以上が『日本三代実録』からわかることである。列島の広い範囲で揺れを感じ、京都では大きな揺れによる被害があり、津波で多くの死者が出て、特に摂津国(大阪府北部から兵庫県南東部)での被害は甚大だったというのである。広い範囲で揺れていることと、津波が大阪湾にまで来ていることから、震源は紀伊半島沖、四国沖と推定され、この地震が仁和南海地震と呼ばれているのである。

この地震に関する愛媛県はじめ四国に関する文献史料(一次史料)は確認されていない。『愛媛県編年史』第一を確認しても仁和3(887)年の伊予国関連の史料は載っていない。しかし五畿七道諸国でも被害があったとされ、伊予国でも被害を生じるほどの揺れを感じた可能性は高い。また、大阪湾に津波が襲来していることから四国の太平洋沿岸だけではなく、瀬戸内海沿岸部にも津波が到達したことも考えられる。

この仁和南海地震が最近注目されているのは、地震発生の仁和3年の18年前、貞観11(869)年5月26日に「陸奧國地大震動」(『日本三代実録』)つまり陸奥国沖で発生した大地震との関連である。この貞観地震は2011年3月11日の東日本大震災が「千年に一度の大地震」といわれているが、その千年前の地震にあたる。東北地方での貞観地震が発生した18年後に西日本において仁和地震が発生している。貞観地震が仁和地震を誘発したと短絡的に断定できるわけではないが、平安時代、9世紀後半に東北地方、そして西日本で大きな地震による被害の記録が残っているのは事実である。

もう一つ、注目すべきは白鳳地震から仁和地震まで203年の間隔が空いていることである。江戸時代以降の宝永、安政、昭和南海地震は100~150年周期で発生しているが、白鳳と仁和では200年と間隔が広い。この間に未知の南海地震があった可能性も否定はできない。これは諸説あるので、別に紹介してみたい。


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