愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

2024年辰年 愛媛県内に残る竜伝説

2024年01月01日 | 口頭伝承
元旦。あけましておめでとうございます。2024年もどうかよろしくおねがいいたします。

さて、本日1月1日付愛媛新聞の1面と5面に、愛媛県内に残る竜伝説の特集記事が載りました。八幡浜市大島の龍王池、西予市野村町石久保の竜王様、大洲市森山の拝竜権現、西条市禎瑞の竜神社、今治市波止浜、波方町の龍神社などが紹介されています。


写真は西予市野村町石久保の竜王様


私もこの記事、取材に協力しましたが、あらためて愛媛県内の竜関連の文化、事例を整理する機会となりました。精力的に現地取材され、執筆された森記者、ありがとうございました。

記事では触れられませんでしたが、これらの他にも、新居浜市立川の龍河神社、新居浜市などの祭りの太鼓台の布団締めや幕の龍デザイン、松山市奥道後の竜姫宮、東温市音田の大崩壊物語の龍神様、大洲市の臥龍渕、西予市野村町大野が原の龍王神社などの竜にまつわる文化も各所、さまざまに残されています。

愛媛県内での竜の伝説は、川、海近くの水害被災地や被災リスクの高い場所に多く残されています。記事にもコメントしましたが、「竜は現代人にとってはキャラクター化されたファンタジーな存在だが、水害とともに生きた先人の伝言に耳を傾けてほしい。」

地域に継承された伝説は、いまの私たちのくらしを、安心、安寧なものにしていく可能性を有しています。地域の伝説に注目する、いままで受け継がれ、残された意味を考える、そして後世につなげることが大切だと思っています。

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高校生進学情報サイトで「愛媛の河童」特集

2016年10月02日 | 口頭伝承

西予市明浜町の河童の狛犬


高校生向けの進学情報サイト マイナビ進学U17 に、愛媛県の河童文化が取り上げられました。

タイトルは「石像がある!? 愛媛県にはカッパが“うようよ”いるらしい!」


今治市伯方町のえんこ石


これまで愛媛県の河童がクローズアップされたことはあったのだろうか?


八幡浜市穴井のえんこ祭り


「愛媛県はカッパにまつわるスポットやイベントが多くある地域として、一部で注目を集めています。」とのこと。ホントに注目されているのかな・・・?


「一部で注目」って、まだまだ注目されていない、と同義かも。


気になった点がひとつ。記事の最後に、「地域社会学」と紹介されているけれど、実際には「民俗学」の方が適当かも、と思います。





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久万高原町の牛鬼淵

2015年08月25日 | 口頭伝承
美川村教育委員会編『美川の民話と伝説』(平成7年8月発行、154頁)に、牛鬼淵に関する伝説が紹介されている。美川村は合併して現在は久万高原町となっている。久万高原町には旧面河村にも牛鬼淵伝説があるが、ここでは旧美川村の事例を記しておく。

そもそも牛鬼淵伝説は、宇和島市の高光地区、西予市の旧城川町、大洲市の旧河辺村などに類似する話が伝えられており、その点は以前『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第4号掲載の拙稿「牛鬼論」にて紹介したことがある。愛媛県山間部に広く見られるもので、その伝説地は神社祭礼の練り物である「牛鬼」の分布と重なる部分もあるが、牛鬼淵伝説の方が山間部に広く分布しており、しかも祭礼の牛鬼の起源伝承と牛鬼淵伝説が直接関わっている事例は確認できず、同じ「牛鬼」でも祭礼の練り物牛鬼と、淵の伝説、伝承の関係性はシンプルに解説できるものではない。拙稿の「牛鬼論」で紹介できなかった牛鬼淵伝説の事例をもう少し集積して、その上で祭礼の牛鬼との関係を考えてみたいと思っているところである。

美川村の牛鬼淵伝説は、以下のとおりである。

「大川木地の奥に牛鬼淵(うしおにぶち)という淵があり、牛鬼様をまつってある。むかし、豊久(ほうきゅう)の或る家のはずれに牛を埋めたところ、その牛が真夜中に泣きながら淵まで通ったという。」

「堂山の奥御殿の牛鬼淵という淵がある。むかし、お庄屋さんの牛が死んだとき、お庄屋さんが牛の鼻木を抜かずに埋めたので、丑三ツ刻に毎夜、村の中を鳴いて通るようになった。そこで、お庄屋さんはこれはうちの牛だと分かり、淵に行って、牛鬼さんとしてまつったところ、牛は出なくなったという。(豊久)」

この2つの事例とも、美川村大川の豊久での話である。いまだ現地の「牛鬼様」うかがったことはないが、大川には何度もお邪魔した事がある。ここ数年、足を運んでいないが、この『美川の民話と伝説』を読みながら、久しぶりに行ってみたくなった。











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「おもてなし」の語源

2014年09月10日 | 口頭伝承

2020年の東京オリンピックの開催決定からはや一年が経ちます。滝川クリステルさんのプレゼンで放たれた「お・も・て・な・し」の言葉。「おもてなし」って四国遍路のお接待とかでよく使われていたので、四国の人間として、四国遍路道沿いに住む人間として、東京にやられたぜ!と勝手に思ったわけですが、「おもてなし」や「お接待」が四国独自のものではなく、日本文化の中に深く刻まれた行為であり、贈与、交換に関する人間関係や社会関係の中で普遍化しながら考えるべき問題であり、「おもてなし」は四国のものだ!これぞ四国へんろ道文化の世界遺産化の重要要素の一つだと決めつけて、他(プレゼンの「お・も・て・な・し」)を排除する気持ち(一種のジェラシーですね)が心の隅にあったことに、ちょっと反省したのでありました。

さて、その「おもてなし」。漢字で書いたらどうなるん?

まずは「表無し」説。これじゃあ、表のない裏ばかりの行為で、何か怪しげ・・・。表は繕った姿であり、裏(中身、本質)を見せてあげよう!という意味に取れなくもないが、やはりこれは語源や表記としては違うよなあ。「表無し」=「裏有り」ですからね。

「もてなし」「もてなす」ということは饗応することだから、飲食物、ごちそうを「持って為す」でおもてなし。これはちょっと一理ありそうだ。

ところがどっこい。『和訓栞』をみてみると「持成の義」とあるではないか。『日本国語大辞典』もそれを踏襲している。つまり、「おもてなし」を漢字で書けば「お持て成し」ということになる。

ただ、『日本国語大辞典』では「もてなす」にはいろんな意味があることが紹介されている。

第一に、意図的に、ある態度をとってみせる。わが身を処するという意味。これは他者に対して何か饗応するというわけではなくて、自分自身の態度、行為の問題。他者の存在、関係性が前提ではない使い方。これは蜻蛉日記とか源氏物語が引用されているので、平安時代にはこの用例があったわけである。

第二に、見せかけの態度をとる。みせかけるという意味。第一の意味に似ているが、「見せかけ」というのが引っ掛かる。流行語になった「おもてなし」は決して「みせかけ」ではない。そうであってほしい。無欲で私欲のない他者に対する行為なのだから(と思いたい)。この第二の意味には邪心、私心を感じてしまいます。これは今昔物語集が引用されているから、平安時代末期の用例として出て来る。

第三に、何とか処置する。対応してとりさばく、の意味。これも源氏物語に出ている用例。何か自分を取り繕うような意味で、違和感がある。これも他者との関係ではなくて、自分個人の行為で完結している用例。古語としての「もてなす」は個人完結で、取り繕うというちょっとネガティブな雰囲気が漂う。

さて、第四の意味。ここから他者との関係性の中で用いられる用例だ。意味としては、相手を取り扱う、待遇する、あしらう、とある。「あしらう」ってまたネガティブな意味じゃないか。源氏物語や落窪物語の用例が紹介されている。これはやばいですね。あまり「お・も・て・な・し」の語源、起源、歴史を解明しようとすると、待遇しつつ、あしらう。したたかでもあり、自分本意。第二の意味の「見せかけ」に通じるところがある。「もてなし」って結構自分勝手な意味で用いられていたのか?

次に第五の意味。大切に扱う、大事にする。この意味が出てきてよかった。ようやくプラス思考になってきた。これは枕草子が引用されている。じゃあ平安時代にも「見せかけ」「あしらう」と「大事にする」っていうのが併存していたということか。

第六の意味。手厚く歓待する。饗応する。ご馳走する。この意味が現代の「おもてなし」に近いであろう。用例は平家物語が引用されている。

第七の意味。取り上げて問題にする。もてはやす。これは他者との関係でいけば行き過ぎの感もある。「もてはやす」ことと「もてなす」ことは異なると思うのだが、古語ではそうはいかない。徒然草にそう書いてあるのだ。鎌倉の海の鰹が珍しいからもてはやす。これを「もてなす」と表現している。他者との人間関係ではなくて、何か珍しい「もの」や「こと」を、「持って成す」つまり俎上にあげるというニュアンスもあるだろう。

以上、『日本国語大辞典』の「もてなす」を眺めてみたら、私心なく、邪心なく、他者を饗応するという意味がもともとではなかったようだ。「持って成す」ということで、良き方にも悪き方にも、「自己の行為」とでもいうべきだろうか。行為という言葉も「行って為す」の意味だから、良き行為もあれば、悪い行為もある。どちらでも使われる言葉。「持って成す」も自己の行為のあらわれ方であり、「見せかけたり」「あしらったり」「もてはやしたり」「大事にしたり」と多義で用いられるのだ。

そうなると、「もてなす」の語源に何か深い哲学のようなものが含まれているかというとそうでもないようだ。他者との関係の上で語られる際に「他者に対する態度の一つの現れ方」とでも言っていいのではないか。

「お・も・て・な・し」は、心のこもったお接待だと定義したいが、古代からの用例を見て行くと、他者の存在、そして前提としての私心、邪心の無さ、これが条件となる。この条件は「もてなし」の言葉自体や語源からは導き出せない。

類義語を挙げるとすれば「とりなし(執り成し)」だろうか。「取り繕う」のような意味が垣間見えて、ちょっとマイナスイメージではあるが。

という具合に、「おもてなし」の古い用例から、お接待の文化なども含めていろいろ考えてみたいと思ったが、すっきりしない結果になってしまったのでありました。





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子ども向け?愛媛の妖怪、幽霊特集記事

2014年06月01日 | 口頭伝承
いまだかつてこんな強烈な紙面があっただらうか?

本日6月1日の愛媛新聞の「ジュニアえひめ新聞」は、愛媛の妖怪大特集。

肉付きの面(西条市)、飴買い幽霊図(今治市)、生首の旗印(宇和島市)、巨大天狗(松山市)。恐怖の写真の数々、そしてわたくしの笑顔写真のおまけ付き。

こりゃ、今朝は各ご家庭で、子どもたちが悲鳴、雄叫びをあげていることでしょう。

子どもたちよ、ちゃんと文章も読んでね。

しかし、これで、うちの娘たちは「やっぱ、あんたとこのお父さん、妖怪学芸員や」と、また学校でいわれるに違いない。

ただ、今日は妖怪どころではない。これからわたくしは空海の講演会なのだ。空海のことに集中、専念しないといけません。

でも、この記事を特集してくれた記者さん、ありがとう。流石です。子ども向けにうまくまとめてくれました。(でも、ちょっとだけ読者の反応がこわい。もっとマイルドな妖怪を推してもよかったか?)

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続「ののさん」の語源

2013年03月31日 | 口頭伝承
寛文11(1671)年成立の『堀河百首題狂歌集』に「みどり子のののとゆびさし見る月や教へのままの仏成らん」という秋の歌がある。「のの」が仏や月の意味で使われるが、仏と月の関係性は全く見当がつかないと思っていたので、この歌の存在には驚いた。幼い子供が指さした月を「のの」と呼び、これが仏であるという。この歌を起源に「のの」が広まったと言いたいのではなく、江戸時代17世紀後半には既に「のの」の言葉が月や仏という多様な意味を持って広く分布していた可能性があるということである。つまり江戸時代中期、後期以降に生まれて広まった言葉というよりは、江戸時代初期以前成立の言葉であるということだ。

この「のの」の上古性については、2012年9月29日付福井新聞「越山若水」に次のような文章があったので、引用しておく。

なぜ月や仏を「ののさま」と呼ぶのか、万葉学者、中西進さんの「美しい日本語の風景」(淡交社)から教わった。説明が少し長くなるが、引用すると…。まず基本にあるのが「のんさま」だという。これを幼い子どもたちが「のんのんさま」と繰り返し、さらに「ののさま」と短縮した。では「のんさま」とは何だろう。かつて律令制度の下、法律を管理する役所・式部省を「法(のり)の司(つかさ)」といい、人々は「のんのつかさ」と発音していた。つまり「のんさま」は「法さま」起源の言葉というわけだ。さらに8世紀ごろ、比叡山では中秋の名月の前後、月に向かってお経を上げていた。仏法でいう無明の闇を照らし人々を救い出す「法の月」から、月を「法さま」と呼んだ。

この中西進説もいまいちすっきりするわけではないのだが、上古性を指摘していることと、月と仏の双方を「のの」とする理由が明示されていて興味深い。

私は「のの」が先で、それが訛って「のんの」や「のんのん」になったと勝手に思っていたが、全国の「のの」方言をネット上で見てみると、単に「ののさん」というより「のんのん」と呼ぶ地域が結構多い事に気づかされる。水木しげるが幼い頃に世話になった「のんのんばあ」も鳥取県境港あたりで神仏に仕える人を「のんのん」と呼んでいたことに由来するようだ。中西進説は「のんのん」が短縮されて「のの」となったとするが、その可能性は否定はできない。

あと、今朝、ツイッター上でご教示いただいた説がある。「信仰の場で使われる金属楽器の残響が語源」というもので、仏壇のおリンの音が「のんのん」と聞こえることに由来するというものだ。なるほど、その可能性もある。

宝暦4(1754)年、大坂竹本座初演の歌舞伎演目「小野道風青柳硯」に「弁(わきま)へ知らぬ稚子が、鉦(かんかん)が鳴る、仏(のの)参ろ、と仏(ほとけ)頼むも」という台詞があるように、神仏に関する金属音楽の音の幼児語表現は多い。「のの」「のんのん」を残響音と捉えた場合、印象に残りやすく、この言葉が広く普及した要因と考えてもいいのではないかと思う。

というわけで、「のの」については先に挙げた説以外に、「法さま」語源、残響音語源があって、ますます混迷してきたのでありました。

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「ののさん」の語源

2013年03月31日 | 口頭伝承
仏さま、ご先祖さまを「ののさん」って呼ぶけれど、この語源は何なのだろう?

いつものごとく『日本国語大辞典』を開いてみると、「のの」の項目があって、これは幼児語であり、神、仏や日、月などすべて尊ぶべきものをいう語であると解説されている。仏さまを指すだけではなかった。ホント、いろんな意味がある。老僧(秋田県、千葉県)を指したり、曾祖父母(千葉県)、祖父(福井県)、老年の父親(宮崎県)、父(徳島県)、兄(三重県)、曾祖母(千葉県)、祖母(千葉県)などを指したり、地域によってさまざまである。

この語源を特定するのはなかなか難しい。『日本国語大辞典』では、(1)鳴神(なるかみ)の音をいうノノメクから出た語(久保田の落穂)、(2)如来の意の如如の転か(物類称呼)、(3)ノム(祈る)の転か(嬉喜笑覧)、(4)南々の義。南は南無阿弥陀仏の南(燕石雑誌)。以上の4つの説が紹介されている。幼児語ということは日常に用いられる言葉が転訛したと見るべきで、そうなれば(4)の南無阿弥陀仏の南々が適当かと思われるが、確証はない。

長野県北部や新潟県では月のことを「ののさま」というようだが、南無阿弥陀仏の転訛での「のの」とすれば、なぜ日、月の意味も出てくるのか。よくわからない。

そもそも祖父など存命の老齢の者を「のの」と呼ぶ事例も多いが、私は仏さま、死者を意味する言葉だという感覚が強いので、元気なおじいちゃんを「ののさん」といったら不謹慎だと思ってしまう。生きているおじいちゃんに対して南無阿弥陀仏なんて言わないし、やはり南々説もちょっと無理がある。

ただ、僧侶や老齢者が死者を祀る際に「南無阿弥陀仏」もしくは「南無妙法蓮華経」もしくは「南無大師遍昭金剛」を唱えることはあるので、そこから来た言葉と解釈すれば理解できなくもない。祀られる仏、祀る僧侶や老齢者。どちらの側というのは関係なく、その関係性を有する両者を、幼い者の立場では「南々」としたのかもしれない。

すっきりしないが、まあ、今後の課題としておこう。






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【帰る】の愛媛方言「いんでこうわい」「いぬる」

2012年09月14日 | 口頭伝承
愛媛県とくに松山市周辺では、「帰ります」を「いんでこうわい」という。

同僚が仕事を終えて、先に帰るときに「いんでこうわい」。

はて?帰ってくる?家に帰るのか、はたまた休憩して再度職場に戻ってくるのか?

「いんでこうわい」と言われた側は、また職場に戻るのだろうかと思って、

逆に帰りづらくなる。職場を施錠して帰ろうにも、

「いんでこうわい」と言った同僚はなかなか帰ってこない。

結局、家に帰ってしまっているのである。これが恐怖の松山言葉「いんでこうわい」。


「いんでこうわい」。これは「いぬ」つまり去る、帰るの意味。

日本国語大辞典では「ある場所から立ち去って、他の場所へ行く。また、もと居た所へ帰る」とある。

この辞典の説明も2つの意味がごちゃまぜになっている。

AからBに行く。これだけではなく「もと居た所へ帰る」

この「もと居た所」ってどこ?? Aなのか、それともBなのか。

Aを職場、Bを家に例えると、

「もと居た」はAでもBでも構わないように受け取ることができる。

でも、松山言葉「いんでこうわい」の帰る先はBの家である。

つまり「もと居た所」イコール家。

松山の人が、職場よりも家を大事にしている? それは別として、

自分の本拠が家であると強く認識している証左かもしれない。


こんなことを考えていると、愛媛の各地で「いぬる」という方言を使っていたことを思い出した。

「いぬ」じゃなくて「いぬる」である。

動詞としての「いぬる」。これ日本国語大辞典にも出ていない。

出ているの「いぬる」は、「いぬ」の連体形である。動詞ではない。

と思っていたら、『日葡辞書』にこう書いてあった。

「Ini, uru, inda(イヌル)<訳>去る、または元に帰る」

『日葡辞書』が編纂されたのは西暦1603年。

このときのイヌルとか inda つまりインダは、愛媛でも頻繁に使われている方言である。

「いぬ」自体は、古事記、万葉集にも出てくる古語である。

これに、わざわざ「る」を付けて「いぬる」という動詞を作り上げられたのだろう。

ちなみに、いぬ、いんだの方言は、日本国語大辞典で紹介されているのは、

福井県遠敷郡の事例だけある。

愛媛にもあるが、全国さがせば、他の地域にもあるのだろう。

しかし、「いぬ」、「いぬる」の方言の分布、地域差は

もしかしたら、言語変化の時代差かもしれない。

古い「いぬ」、新しい「いぬる」、そしてそれが使われなくなる時代、そして地域。


松山の「いんでこうわい」や愛媛各地の「いぬる」という方言は、

日本語の変遷を考える上で、結構、面白い題材なのかもしれない

と思ってしまった。



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古い日本語の発音なのか? 佐田岬半島のタ行発音

2012年09月11日 | 口頭伝承
関西で同じ日時でやっていたかはわからないのだが、

2012年2月11日に愛媛で放送されたテレビ番組「探偵ナイトスクープ」。


ここで、愛媛県の佐田岬半島の与侈集落の方言(というより発音)が紹介された。

タ行が「タ・チ・トゥ・テ・ト」となるというのである。

ツがトゥになるので、

つくつくぼうーしは、とぅくとぅくぼーし。

つつじは、とぅとぅじ。

ずつうは、どぅとぅう。

このように発音されるということだった。


言語学に疎いので確たることは言えないのだが、

もともと古い日本語では、タ行は「タ・ティ・トゥ・テ・ト」だったらしい。

現代の日本語(共通語)ではティとトゥが 破擦音化したため、チ、ツと発音するようになったが、

地域によって古い発音のティやトゥがそのまま残っている場合があり、

佐田岬半島の与侈では、トゥが現在でも使われている。

つまり、これは古い日本語の発音が残されている事例だと考えることができるのである。


ちなみに、タ行。ローマ字で、単純に書いてみると(chiなどは無視)、
  
ta ti tu te to

普通に読めば、 タ・ティ・トゥ・テ・ト になる。

破裂音として、日本語のチやツの発音が、歴史とともに変化したことは十分に考えられる。

これが日本全国、それぞれの地域でどのような変化を遂げて、現在、どんな分布になっているのか。

知りたいものである。これは沖縄の音韻も含めての話である。


ナイトスクープで紹介されたこの愛媛県伊方町(佐田岬)の言語伝承。

非常に興味深い。

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【再掲】カワウソと人の交流誌

2012年08月30日 | 口頭伝承
「カワウソと人の交流誌」というコラムを1999年10月21日付の南海日日新聞で書いたことがある。その後、この文章は拙著『民俗の知恵』にも入れ込んだ思い入れのあるエッセイだ。昨日のニュースでカワウソは絶滅種だということになったが、心情的にはまだ宇和海のどこかにいることを願っている。完全に絶滅したと自身で受け入れるにも心の準備ができていない。

そのエッセイをここに再掲しておく。


 県獣であるカワウソは、動物では県内唯一の天然記念物である。このカワウソについては、戦前は宇和海を中心に各地で生息が確認されていたが、昭和四十年代以降、目撃例がごくわずかとなってしまった。カワウソの絶滅の危機は必ずしも自然現象とは言い切れず、戦前は毛皮にするため乱獲されたり、戦後、急激に環境が破壊されるなど人為的な要因も無視できない。そもそも、弥生時代後期の神奈川県猿島洞穴出土動物遺体の中にカワウソの骨が発見されるなど、人間とのつきあいは原始・古代に遡ることがわかっている。また、平安時代中期成立の『延喜式』巻三十七典薬寮によると、カワウソが薬として朝廷に献上され、また、室町時代には塩辛にされるカワウソの史料も残っている。近代になっても、毛皮のために乱獲されるだけでなく、結核や眼病の薬としても捕られていたようである。戦後、絶滅の危機に直面すると、天然記念物に指定され、目撃例があると一躍新聞紙面を賑わすなど、一転、稀少で、しかも愛敬のある動物、人間に親しみにある動物として祀りあげられた。原始以来の人間とカワウソとの交流の歴史を見ていくと、実に、人間に翻弄されるカワウソの姿が浮び上がるのである。
 人に翻弄されてきたカワウソであるが、八幡浜地方に伝わる数多くのカワウソに関する伝承を確認してみると、逆に人間の側が彼らに悪戯され、翻弄されている例が多いので面白い。この種の話は海岸部に住む戦前生まれの人であれば誰でも聞いた経験があるというくらい、枚挙にいとまがないが、数例挙げてみると次のような話がある。
 「漁師が沖で漁をしていると、カワウソがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がってしまい、難儀した。」
 「島の人がカワウソを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたカワウソの親が、毎晩、子供をかえせ、子供かえせと言いに来た。」
 「夜二時ごろ、海岸をあるいていると、防波堤の上にはちまきをして、子守をしている女性がいた。不気味に思ったがこれはカワウソが化けたものに違いないと思い、『お前はカワウソじゃろうが』と叫ぶと、消えてしまった。」(以上、大島)
 「カワウソに化かされて、一晩中、山中を歩かされた。」
 「カワウソが手招きして、風呂を沸かしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だった。」(以上、真穴)
 天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているカワウソ。生物としての絶滅危惧とともに、身近に伝承されてきたカワウソとの交流話も消えうせる可能性がある。八幡浜地方は愛媛県内でも遅くまでカワウソが生息していた地域として、この種の話も継承していく必要があるのではないだろうか。


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定規を「さし」と呼ぶ事

2011年08月24日 | 口頭伝承
小学生の娘が面白いことを教えてくれた。「学校で先生は定規のことをサシって言うんで~」と。

そうである。小学生は既に使わないかもしれないが、「さし」は方言である。共通語ではない。先生が気づいていないだけだ。その指摘は正しい。

君が大きくなって東京に行ったときに定規を「さし」といっても通じるとは限らない。これは父の私がハタチの頃に東京で身をもって体験したことである。

愛媛の中高年以上は、定規のことをわざわざ「定規」とはいわない。「ものさし」も4文字で長過ぎる。「さし」で充分通用する。

ただ、これは愛媛独特の方言ではない。『日本国語大辞典』によると、ものさしの方言で「さし」を使うのは次のとおりである。

青森県上北郡、秋田県鹿角郡、滋賀県蒲生郡、京都、大阪、兵庫県明石郡、和歌山、島根県那賀郡、徳島県、愛媛県、高知県

主に近畿から中四国の西日本であるが、一部東北地方にも見られる。関東、中部、九州には見られないという傾向が『日本国語大辞典』から読み取れる。

実際には、ここで挙げた地域以外にも「さし」方言は分布している可能性が高いが、これが大まかな使用分布域である。

では、なぜ「さし」なのか?

江戸時代中期の国語辞書である『和訓栞』には「さし 度をいふは指渡る義。物さしともいへり」とあり、これが非常に興味深い。つまり、定規で度(寸法、長さ)を指し渡して測ることに由来すると解釈できる。「定規をあてる」という行為が「さす(指す)」であり、これが名詞化して「さし」になったのだ。

となれば、「ものさし」が先か、「さし」が先かという問題が出てくる。現在、一般的には、共通語が「ものさし」であり、その方言として「さし」が出てくると考える向きもあるが、逆ではないのだろうか。

「物にあてて(さす)度を測る」から「ものさし」というのだろうが、わざわざ「もの」を接頭しなくても通じる意味であるのだから、「さし」ありきでいいのではないか。これが江戸時代に江戸を中心に「さし」が通じにくく「もの」を頭につけるようになったと考えた方が自然だと思う。それが明治時代以降に東京方言として「ものさし」が学校教育等を通じて全国に広まって共通語のようになったのではないか。

ただし、江戸時代以前に関東方面で「ものさし」以前の「さし」に対応する古い呼び方はあるのか、そこは疑問として残る。

以上は、推論の類であって、きちんと文献収集しての結論ではない。ただ、手元の辞書やら文献を眺めてみて、「ものさし」の語は『節用集』には「裁尺 モノサシ」とあるものの、江戸時代以前の文献には「さし」に比べて多く出てくることはない。「ものさし」は比較的新しい言葉のような印象があるのだ。



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「ぬし(主)」という言葉

2011年07月16日 | 口頭伝承
「ぬし」という言葉が頭を離れない。先日、旧知の県内某企業の社長さんから「日本の伝統的なリーダー論を教えてほしい。ついては若い職員をそちらに派遣するので30分でもいいので話をしてやってほしい。」という電話をいただき、「リーダー論なんて無理!無理!」と答えつつ、押しの強さに負けて若い職員さんがやってきた。電話の翌日のことである。まったく準備もしていない私であったが、雑談程度に30分ほど会話をした。会話の内容は、地域社会での年齢階梯制についてが主であった。いかにムラ社会の中で一人前になっていくのかという話と、隠居、定年といった話で、リーダー論とはほど遠い内容だった。ご期待には到底沿えないもので、世間話の類いになってしまった。

そのときに、ふと日本語の「リーダー」にあたる言葉を思い浮かべて並べてみた。「おさ」、「あるじ」、「ぬし」などなど。話をしているうちに、これは面白いとも思えるようになってきた。漢字では「長」とか「主」と表記できるが、それぞれの語源はいかなるものか気になった。たとえば、村の「おさ」と村の「ぬし」であれば、意味が違う。「おさ」は直接の権力執行のリーダーであり、「ぬし」は権力執行というよりも権威の象徴の意味合いを帯びてくる。例えばある会社で「この職場のおさ(長)」と「この職場のぬし(主)」とであれば、これが同じ人物を指すとは限らない。「ぬし」には単なるリーダーではない「何か」が込められている。「神主」というが「神長」とはいわない。「持ち主」というように所有物の主体者を指す。この主体性がキーポイントかもしれないと思いつつ、そういえば「天之御中主神」も「ぬし」がついていると思って、この神が神々の中の「おさ(長)」ではなく「ぬし(主)」であることが象徴的だとも思った次第。さらには「おさ」は組織のリーダーであって、「ぬし」は構造上のリーダー(というよりも中心存在)なのかもしれないと思い始めると、いろんな事例に飛び火しそうで、ここ数日、「ぬし」の語源やら用例が頭を離れない。(だけど、まだ何も調べてはいない。)






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伝説「五色浜の石」

2010年12月27日 | 口頭伝承
毎年3月第4日曜日に行われている五色姫復活祭。伊予市商業協同組合・五色姫復活祭実行委員会の主催で平成元年から行われている。この五色姫、源氏に敗れた平家の姫たちが伊予市の五色浜に住みつくも、悲劇の末、入水してしまい、五色の海岸の小石になったという地元の伝説が基になって、復活祭が実施されるようになったものである。『松山百点』265号(2009年)に「愛媛に伝わる姫物語」という特集が組まれており、私もインタビューを受けて、愛媛の姫物語の特徴などを紹介したが、この中で伊予市の五色姫についても少し触れたことがある。また、五色浜の伝説は『伊予市誌』にも紹介されている。しかし、この伝説は地元伊予市でも知られているようで案外知らない人も多い。それは内容があまりにも残酷で悲劇的だからである。姫の復活という華やかなイメージとは程遠い話であり、多くの人が目にする広報媒体には、もとの伝説が触れられることが少ないようである。

ここでは、あえて『伊予市誌』に掲載されている伝説「五色浜の石」を、そのまま紹介しておきたい。それはこの伝説が「五人の貴人の姉妹(兄弟)の争い」という骨子で成り立っており、この五人の争いは「陰陽五行」の「五行」に関する伝説に関わってくるなど、日本の思想史や宗教文化論の題材として貴重といえるからである。例えば、愛媛県内をはじめ全国各地の民俗芸能の「神楽」でも五人の王子が争って、春夏秋冬の四季に土用を加えることで時を五等分したという話があるなど、この五色姫に類する伝説は近世以前の中古・上代的要素が強いのではないかと推察している。



「五色浜の石」(『伊予市誌』1076〜1078頁、1986年)

寿永の昔のことである。「おごる平家久しからず」のことばそのままに、さしも栄えに栄えた平家が運つきて遂に源氏のため、はかなく西海の藻屑と消えてから間もない頃であった。ついぞこの辺りには見かけない五人の美しい姫たちがどこからともなく流れて来て、この砂浜にささやかな住居を作って暮らしていた。付近の人々は「あのお姫さんは皆お顔がよく似ている。御姉妹かもしれない」「羽衣をなくして飛ぶことを忘れた天人ではあるまいか」「いや、さき頃壇の浦で亡んだ平家のお姫さんたちに違いない」などといろいろうわさをしていたが、姫たちは五人とも決して村人と口をきかないので、それを確かめることはできなかった。

ある日、一匹のかにが濡れた背を赤く光らせながら浜辺をはっていた。ふとそれを見た一番年上の姫は、「まあきれいなかにだこと・・・。お前は平家のかにでしょう。平家の赤い御旗が夕日を浴びて、お前のように真赤に輝いている間は・・・。それにつけても憎いのは源氏です。お父様もお兄様も、あの荒荒しい源氏のためにあわれな御最期を遂げられたのです。赤い平家のかにがいるからには、きっと白い源氏のかにもいるにちがいない。ああ源氏のかにはどこにいるのでしょう。あの白い源氏のかには・・・」と、はるか海のかなたを見つめて気が狂ったかのように叫びつづけた。そして、驚いてかけ寄った四人の妹を見るなり、赤く血走った眼をそそぎながら鋭い声で「お前たちは早く源氏のかにを探しておいで。わたしはそのにくい源氏のかにを踏みつぶしてやるから」といいつづけた

四人はいいつけられたとおり一日中探したが見つかるのは赤いかにばかりで、白いかには一匹も姿を見せなかった。あくる日もその次の日も朝から晩まで四人は浜へ出て砂を掘ったり石をおこしたりして一生懸命探したが駄目であった。七日目の夕方、もどかしそうに妹たちの帰りを待っていた姉姫は、疲れきってしおしお帰って来た妹たちを見て「四人がかりで一匹のかにが探せないのはどうしたのですか。恐らく一日中遊んでいたのでしょう。さあ、もっと探しておいで・・・」と、言葉厳しく叱った。

夏の夜の海は潮がいっぱいなぎさに満ち、月がぼんやり波間を照らしていた。姫たちは夜どおし白いかにを探してまわったが、やっぱり見つけることはできなかった。四人はそのまま帰ることもできないので、相談の結果、赤いかにに白粉をつけて持ち帰ることにした。「お姉様、お喜びくださいませ。源氏のかにが見つかりました。」そういって差し出した白いかにをじっと見つめていた姉姫はやがて気味悪い笑みを浮かべ、あたりを見回して手をさし延べ、かにをつかむのが早いか庭の手水鉢へ投げ込んだ。するとかにの白粉はたちまちとけてもとの赤いかにになってしまった。それを見た姫はそばにあった刀をとると一番末の姫に切りつけた。この恐ろしい有様に三人の妹姫は「あれ・・・」と叫んで外へ走り出た。そして「お姉様どういたしましょう。もう帰ることはできないし・・・」「三人いっしょにこの海に沈んで、お父さまやお兄さまのお側へ行きましょう。」と中で一番年上の姫が目に涙をいっぱいためて言った。そこで三人はしっかりと抱き合って暗い波の底へ沈んでしまった

その夜一人残った姉姫は、殺した妹の死がいを抱いて「憎い源氏を討った」と叫びながら浜辺をかけ回っていたが、やがてとある岩の上に立って「ああ、あそこに妹たちがいる。」といってそのまま海へ飛び込んだ。月は早くも西に落ちてあとにはただなぎさを洗う波の音だけが暗闇やみの中にしていた。

こうして亡くなった五人の姫たちが、それぞれ赤・緑・黄・黒・白と五色の小石に化したのであるという。五色浜には今も美しい五色の小石がある。


以上が『伊予市誌』に掲載された文章である。

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ヤンヨー!

2010年12月23日 | 口頭伝承
昨日は八幡浜市内で元気プロジェクトの忘年会に参加。気づいてみれば午前さま。いろんな人といろんなお話ができて、楽しい時間が過ごせました。

さて、八幡浜でかつては使われていた掛け声「ヤンヨー」。「万歳」とか「やった!」と称賛するときに使う言葉である。この話題が昨日の忘年会でも出た。年配の方々はよく知っているが、若い人は全く聞いたことがないという絶滅危惧種の方言。

この「ヤンヨー」は語源はよくわからないが、おそらく「ヤンヤ」の変化形だと思う。江戸時代の『浮世風呂』三・下に「女房が五大刀の爪弾を聴居るもヤンヤな沙汰ぢゃアねへ」とあるように、称賛に価するという意味で使われている。

方言としても、高知県や熊本県で称賛するときにいう言葉として「ヤンヤ」が使われている。(『日本国語大辞典』参照)

この「ヤンヨー」という掛け声。英語で言えば Good job! 若しくは We did it!

『八幡浜市誌』の方言編にも出ていないので、備忘のために記しておく。



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愛媛の方言「がいな」

2010年12月12日 | 口頭伝承
NHKのドラマ「坂の上の雲」を視聴して、子規や秋山兄弟が話す愛媛方言に興味を持ったということで、昨年もそうであったが、私のところに電話やメールがよく来る。先日は「がいな」についてどう調べても明確な答えが帰ってこないというので、NHK松山さんや松山市役所さんからもこちらに問い合わせが回ってきた。この際、「がいな」については明らかにしておこう。来年もドラマは続くし、この種の質問は絶えそうにない。
「がいな」については明確な語源説があるわけではないが、「我意」もしくは「雅意」に関係するのではないかといわれている。これは既に『日本国語大辞典』にも紹介されており「『我意』の意から変化した語と思われるが明らかでない」とし、その他にも「異(け)」あるいは「実(げ)」の変化したものという説も記載されている。
 この「我意」、「雅意」とは①「自分の考えを押し通そうとする心。気ままな心。またそのようなさま。勝手きまま。わがまま。」の意味と②「程度が標準よりぬきでているさま。良い意味にも悪い意味にも用いる。けたはずれなさま。」の2つの意味がある。①については平安時代末期の辞書『色葉字類抄』に「雅意 ガイ」とあるし、文明6(1474)年成立の『節用集(文明本)』にも「雅意 ガイ 随意義。我意也」とある。『日葡辞書』にも「Gaina」とあり、わがままな人と訳されている。この「わがまま」という意味の我意が①である。一方、②の用例については室町時代中期の『史記抄』に「項羽はがいなものぞ」とあったり、江戸時代初期の『雑兵物語』に「がいに働いて、息が切べいならば」という記事がある。室町時代には既に「ぬきでている」、「はなはだしい」という意味の「がいな」はあったことが間違いない。これが①の「我意」が変化して②になったのかどうかは明確にはできない。むしろ別の言葉と考えた方が理解はしやすい。ともかく、方言「がいな」は室町時代には中央(都)では使われていた言葉であったことは確かであり、それが全国に伝播していったものと思われる。
 その「がいな」の分布であるが、当然、愛媛に限ったことではない。山陰でもよく使われる言葉であるが、案外この分布は広い。『日本国語大辞典』から拾うと、青森県三戸郡、岩手県、宮城県登米郡、秋田県、山形県村山、栃木県那須郡、静岡県、名古屋市、三重県、但馬、淡路、和歌山県、広島県豊田郡、出雲、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、大分県南海部郡。以上の地域では「はなはだしく」という意味で「がいな」が使われる。また、これに類する「ひどく」、「おびただしく」、「乱暴に」という意味で「がいな」が使われる地域は以下のとおりである。青森県、愛知県碧海郡、三重県志摩郡、京都府竹野郡、和歌山県、島根県那賀郡、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、大分県、対馬(以上は「ひどい」・「乱暴な」という悪い意味で使う)。岩手県遠野、宮城県牡鹿郡、富山県、三重県志摩郡、和歌山県、鳥取県西伯郡、島根県、愛媛県、高知県、大分県(以上は「たいした」、「大きな」という意味)。富山県、但馬、奈良県、和歌山県、島根県、岡山県、広島県比婆郡、徳島県祖谷、香川県、愛媛県(以上は「強い」、「丈夫な」という意味)。埼玉県入間郡、新潟県刈羽郡、大阪府泉北郡、和歌山県(以上は「ひどく」、「強く」の意味)。福島県、千葉県君津郡、伊豆大島、山梨県、愛知県知多郡、三重県、和歌山県、鳥取県、島根県、愛媛県(以上は「おびただしく」、「たくさん」の意味)。以上のようになる。これを見ると、大分県を除く九州と北海道以外はほぼ全国を網羅することになる。ただし、色濃く出てくるのは、やはり山陰と四国、そして三重、和歌山である。このように、愛媛のみで伝わっている方言というわけではなく、分布は全国に見られ、おそらく室町時代以降、全国各地に伝播したものと思われる。
 なお、「がいに」を「はなはだしい」という意味ではなく、「それほど」とか「全く」といった真逆の意味で使っている地域もある。それは岩手県釜石、福島県、群馬県吾妻郡、静岡県榛原郡、石川県、福井県である。この地域も含めてみれば、「がいな」という方言が伝わっていない都道府県は、北海道、茨城、東京(伊豆大島を除く)、神奈川、新潟、長野、岐阜、滋賀、福井、奈良、山口、そして大分を除く九州・沖縄のみとなる。以上がおおまかな方言「がいな」の概要である。

 ちなみに、この「がいな」。今でも八幡浜など愛媛県南予地方では若い人でも使う。この私も「今日はがいにひやいな~」(とってもさむいですねの意味)という具合に使っている。生きた方言である。


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