愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「チョウサ」というかけ声

2000年10月10日 | 祭りと芸能
10月8日に行われた今治市の大浜八幡神社の祭りを見物した。この祭りでは、ヤグラと呼ばれる太鼓台(布団屋根どころか、屋根自体がない。北条、菊間に見られるダンジリの系統と思われる。)、奴行列、獅子、櫂伝馬を見ることができ、今治、波方から芸予諸島にかけての祭りの典型と言える。ヤグラには化粧をした子供が4人乗り込んで、「アレワイナー、コレワイナー、アーヨーイートセ」と伊勢音頭にあわせて太鼓を叩くが、伊勢音頭の他に「チョーシャ、チョーシャ」というかけ声もある。地元の人に「チョーシャ」の意味は何かと訪ねると、単にかけ声であって特に意味はないという。この「チョーシャ」は、香川県西讃地方の布団太鼓の名称にもなっている「チョーサ(ちょうさ)」が原型だろう。大浜八幡神社のヤグラの歴史は嘉永年間以前に遡るが、このヤグラが瀬戸内海の海上交通によって伝播してきた際に、ともに伝わったかけ声なのかもしれないと、その時は考えた。
ところが、10月8日は、午後、宮窪町宮窪に移動し、尾形八幡神社の船渡御などを見物したのだが、ここでは神輿を担ぐ際に「チョウサ、チョウサ」と言っているのである。宮窪にも破風屋根のヤグラがあるが、ヤグラではなく、神輿のかけ声として「チョウサ」が使われていることに少し驚かされた。「チョウサ」は太鼓台やヤグラの伝播とともに伝わったかけ声という単純なものではないようだ。
さらに、4,5年前に、西宇和郡瀬戸町三机の八幡神社の祭りを見た際、お練りがはじまる前に子供たちが牛鬼の首を持って、家々をまわっては、首を屋敷内に突っ込んで祝儀をもらっていたが、この時のかけ声が「チョーヤサ、チョーヤサ、フーンエーイ」であったことを思い出した。これも「チョウサ」の変化型であろうか。「フーンエーイ」というのは、西宇和、八幡浜地方でよく聞くことのできるかけ声である。「チョーヤサ」については、その時、「チョウサ」と関係があるとは考えなかったが、三机は宇和島藩の参勤交代の寄港地でもあり、佐田岬半島の中では、瀬戸内海上交通の拠点でもあった場所であるため、いずれかの時代に、瀬戸内各地で聞くことのできる「チョウサ」のかけ声を導入したのかもしれない。
「チョウサ」イコール太鼓台と思いがちだが、そのかけ声の使用例は、太鼓台に限ることなく広がっていたようである。

2000年10月10日


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大山祇神社の創祀地

2000年10月09日 | 信仰・宗教

大山祇神社のある大三島は、現在、大三島町と上浦町にわかれる。大三島町には、大山祇神社をはじめ、多くの三島信仰に関わる社寺、史跡が残るが、上浦町側にも三島信仰に関わる史跡を確認することができる。特に、横殿社とよばれる上浦町瀬戸にある社は、大三島で最初に大山祇神社が祀られた場所として、地元の人から篤く信仰されている。『三島宮御鎮座本縁』によれば、「三十三代<崇峻天皇事>己酉二年依神託、大山積皇大神、従播磨国、伊予国小千郡鼻繰瀬戸嶋遷之小千益躬崇祭之、但木枝鏡掛令祭之云々、三十四代豊御食炊屋姫天皇<推古御事>端政二甲寅年、依勅命、初而三島瀬戸浜、大山積御社造立給横殿宮申則今此旧跡存、四十二代文武天皇御宇大宝元辛丑年、小千玉澄、奉勅命、横殿宮同嶋乾方遷辺礒浜、此所悪神在為災、依之玉澄五龍王南山頂鎮座、此時礒辺大蛇有万物惑呑人、此蛇乾方飛去所蛇嶋云」とあり、大山積神(大山祇神社では祭神を大山「積」神と表記している。)は、まず崇峻天皇の時代に大三島の南西部に位置する上浦町瀬戸に祀られて、大宝元年に辺礒の浜(現在の大三島町宮浦)に遷宮したとされている。これが歴史的事実がどうかは不明である。実際、大山祇神社が発行している『大山祇神社略誌』では、神社はもともと神体山である鷲ヶ頭山(かつて「神野山」とも呼ばれていた。)を磐座として拝していたのであり、この山を望むことのできない瀬戸を大山祇神社の創祀地とするのは、『三島宮御鎮座本縁』の記述に無理があるのではないかと記している。現在、神社の祭である産須奈祭と瀬戸の横殿宮は関係していないなど、大山祇神社祭祀とは切り離されている。しかし、瀬戸の地元の人達は、横殿社を「もとみや」と呼び、神社創祀の地として信じて疑わない。瀬戸には、横殿社の他に「みたらしの井戸」といって、大山祇神社の神饌水として使用されていた井戸も残っている。大山祇神社の創祀の歴史については、いまだ不明な点が多いが、この上浦町瀬戸の伝承は無視できないものと思うのである。

2000年10月09日

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喜多浦八幡神社の芝居小屋

2000年10月08日 | 祭りと芸能

越智郡伯方町北浦にある喜多浦八幡神社の境内に芝居小屋が残っており、現在でも使用されている。この建物は嘉永3(1850)年に建造されたといわれるもので、老朽化したため、近年一部修復されたが、梁、桁をはじめとする構造は建造当時のままである。正面左側には花道も付き、舞台奥には楽屋空間もある。舞台幅は約9メートルである。この芝居小屋は「春市」と呼ばれる毎年第4土日曜日に行われる神社の例大祭の際に、芝居を招いて、現在でも上演している。ここ40年程は広島市安佐北区の新国座を招いているとのこと。土曜日の午後7時から、日曜日の午後1時から始まることになっている。明治時代中期以前は、地元の者も芝居をしていたのだが、それ以降はいわゆる「買芝居」になっている。村人が演じていた時でも盛況だったようで、地元の若者が扮する女形に惑わされた他地区の若者が、その役者が男とわかるまで後につきまたったという話まで残されている。また、かつては例大祭の日が旧暦3月20日であり、芝居奉納も20~22日にかけて行っていた。旧暦3月21日といえば、お大師参りの時期であるが、伯方島島四国の巡拝者も拝順を変更して、芝居を見物していたという。
なお、伯方町では木浦にも地芝居があったようで、この芝居は他の島にも出向いて興行するほどだったらしい。また、有津の奥坂神社の境内にも大正時代初期まで芝居小屋があったという。現在、地芝居の芝居小屋が残っている例は、県内では川之江市の大西神社、魚島村の亀居八幡神社のものがある。上浮穴地方にも探せばありそうだが、私はいまだ把握していない。
喜多浦八幡神社の芝居は、これまで一度も上演しなかった年はなく、戦時中も中断せずに行った。これは大正時代に一度、芝居ではなく別の出し物を上演した年があったのだが、その際、流行病や悪いことがおこり、それからは必ず芝居を上演(奉納)するようになったらしい。芝居小屋は神社境内にあるが、芝居上演の意味は、例大祭の時に、普段ご加護をいただいている神さまを慰めるという。まさに神賑わいの行事である。村人も楽しむが、神さまに楽しんでもらうために芝居を奉納する。祭りの中でこの形態がとれたことこそ、芝居が現在まで継続できたといえるだろう。地芝居は、民俗行事とリンクしなければ、戦中から現在まで継続するのは困難である。一時的に地元のパトロンが金を寄付して芝居興行が成立しても、それだけでは長くは続かない。この喜多浦八幡神社の例は、地芝居が戦後各地で消滅した要因を考える上で極めて示唆的である。

喜多浦八幡神社には、弓祈祷(2月11日)、八幡船・石船(和船の雛形模型:文政13年奉納)、狛犬(町誌では鎌倉時代のものと説明されているが・・・。)など、興味深い民俗資料が数多く伝えられている。また、社叢のアコウ樹も何とも言えない雰囲気で心を落ち着かせてくれる。先日、私は唐突にお邪魔したにもかかわらず、宮司の馬越さんには懇切に説明をいただきました。ありがとうございました。

2000年10月08日

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塩の道・千国街道

2000年10月07日 | 生産生業

9月30日に訪れた流鏑馬資料館は、大町市の塩の道博物館に隣接するものであった。この塩の道博物館では、新潟県糸魚川から長野県大町にかけての千国街道、別名塩の道に関する展示をしていた。展示物で眼をひかれたのは、裂織りの炬燵布団であった。2年前に千葉県佐倉市の歴博で行われた企画展「布のちから・布のわざ」にて、展示されていたのを見たことがあり、裂織り炬燵布団を見るのは二度目だが、なかなかの感動ものである。愛媛では裂織りは仕事着、帯以外には使用されている例を見たことがなく、炬燵布団のように大量の布を利用したものを見ると、手仕事の素晴らしさを実感してしまう。裂織りは日本海側に多く見られるが、この大町も千国街道を経由して日本海側から裂織り文化が流入しているのであろう。かつては、塩の道は塩だけではなく、大量の物資も運搬されていたはずで、北前船によって大量の木綿布が糸魚川にもたらされ、千国街道を通って運搬されたはずである。
塩も当然、北前船によって運ばれていた。博物館で写真展示してあった資料によると、寛政4(1792)年に大町の人が糸魚川で買い入れた竹原塩(広島県竹原市のことであろう)を運ぶために、番所を通過させてほしいとの願書が残っているらしい。瀬戸内の塩が日本海を経由して長野にまで流通していたことも興味深く感じた。

2000年10月07日

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山梨県勝沼町のぶどう薬師

2000年10月07日 | 信仰・宗教

10月2日には、山梨県東山梨郡勝沼町に行ってみた。ここは葡萄とワインで有名な町。一面、葡萄畑の光景は圧巻で、私も葡萄、ワインを思う存分食してみた。月曜日だというのに、ワイナリーは人がごったがえしており、東京近郊の観光地として成功しているようだ。
この勝沼で有名なのは「ぶどう寺」とも言われる大善寺。養老2(718)年に行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基はその夢を喜び、早速、薬師如来像を刻んで安置したのが寺のはじまりといわれるところ。現在でも、国宝薬師如来像の左手には葡萄が乗せられている。仏像に果物を供えるという例は普通一般であるが、仏像が果物を直接持つというのには驚かされた。山梨の葡萄文化の発祥が奈良時代にまでさかのぼって語られているとは・・・。
ひるがえって、愛媛の特産品ミカンのことも考えてみた。ミカンもかつては一種の薬であり、薬師如来が持っている例があってもおかしくはないのだが、そのような仏像は聞いたことがない。愛媛のミカン栽培は近代以降に盛んになったのだろうが、ミカンが愛媛の風土に根ざした文化なのであれば、その起源伝承が生成されていてもいいはず。
愛媛のミカンに比べ、山梨の葡萄の方が風土に根ざしているように思えた。

2000年10月07日


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野村町の阿下歌舞伎

2000年10月07日 | 祭りと芸能

9月26日に、野村町シルク博物館にて所蔵されている阿下歌舞伎の資料を調査した。衣裳類はこれまでに展示で見ているため、今回は帳簿類を閲覧させていただいた。
野村町の阿下歌舞伎は、江戸時代末期から昭和28年まで活動した野村周辺では最も人気を博した地芝居であり、衣裳も150点ほどが状態の良好のまま保存されている。
帳簿類の中には、衣装・引幕台帳があり非常に参考になった。台帳には、引幕14点、衣装147点が記載されている。年代は明治2年~昭和11年5月までのもの。衣装の名称、数量、寄進者を列挙。台帳記載の衣装は現在もほとんど残存していているらしい。現存衣装には、台帳に記載された番号が縫いつけられており、対照することができるとのことで、資料群として活用しやすいし、調査もしやすいものだ。台帳によると、衣装の新調は、明治2、3年、明治20~40年代、昭和3年、昭和11年に多い。寄進者(ヒイキ)の傾向は、地元阿下の他に、野村、前石、蔵良、平野、鎌田、釜川、岡成、大西、大暮(以上野村町)、田穂(城川町)、狩江(明浜町)の者と阿下のみならず、広範囲にわたっている。明治25年の「阿下芝居花取帳」によると、寄付者は野村町の者他、田穂(城川町)、布喜川(河野又吉)、若山(井上若太郎)(以上八幡浜市)の者も見える。阿下歌舞伎が、野村のみならず、広く知られていた存在であったことをものがたっているだろう。
また、昭和10年の請求書綴りから衣装が大阪桜橋の八幡家演藝百貨店から購入したことがわかったし、昭和3年以降の現金収支計算簿から、阿下が各地の地芝居等に衣装を貸与していたことがわかった。その貸出先も野村のみならず、城川、宇和、大洲など広範囲であった。
昭和8年5月27日   野村町へ、カツラ
昭和9年12月26日  釜川へ、衣装
昭和10年3月6日   大西青年芝居へ、衣装
昭和12年3月11日  中筋平野青年芝居へ、衣装
昭和16年旧7月4日  喜多郡蔵川村、衣装
昭和17年11月21日 釜川青年、幕
昭和17年12月9日  魚成村今田、衣装
昭和19年10月20日 魚成村今田、衣装
昭和21年1月6日   宇和田之筋地方の芝居(森岡只平)、衣装

この阿下歌舞伎は、衣裳道具類が残存しているだけではなく、帳簿類がしっかりと残っており、歌舞伎の経営の実態を知る上では、好材料が揃っている。ただし、野村町誌をはじめ、各種の地元の文化関係誌には阿下歌舞伎のことは全くといって取り上げられていない。今後、シルク博物館が予算を計上して、歌舞伎の図録などを刊行してくれることを切望しているのだが・・・。

2000年10月07日

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穴井歌舞伎の手附

2000年10月07日 | 祭りと芸能

八幡浜市穴井にて戦前に行われていた地芝居では、手附(振り附け)や三味線は余所から呼んでいたのであるが、「芸題録」(土田衛「資料紹介:愛媛県八幡浜市の穴井歌舞伎について」『芸能史研究』24)によると、次のような人達が穴井を訪れている。
手附(振付け)
八幡浜,鶴吉,明治19
宇和島旧城下,瀬川寿幸,明治20~21
広島市,坂東周調,明治22~29
別府稲荷町,嵐梅香,明治34
土佐,嵐三津十郎,明治35
宇和島戎町,坂東和吉,明治35(顔師)
楠浜(川之石),斉藤百太郎,明治35~大正12
大洲町中村,市川海老治,明治36~38
別府町塗師町,実川玉太郎,明治39
西国東郡真玉村,市川雀三郎,明治40~45

三味線(弾語)
八幡浜カ,鶴沢市松,慶応3~明治3
八幡浜,鶴沢勝七,明治4~29
川之石,野沢勝七,明治27~30
川之石,野沢勝平,明治28~31
川之石,野沢勝之助,明治31~大正12年
御荘,竹本花牒,明治45
昭和初期から昭和20年すぎまでは、九州から「雀さん」という人が手附で来ていたということを穴井の初老の人は覚えている。この「雀さん」とは、上表に見える大分県西国東郡真玉村の市川雀三郎のことであろうか。未だ、九州の歌舞伎や役者村については現地調査していないが、穴井歌舞伎に影響を与えたこれらの地域の歌舞伎の実態を調査する必要があると思っている。

2000年10月07日

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長野の舞台と南予の山車

2000年10月06日 | 祭りと芸能

9月30日~10月1日、日本民俗学会年会が信州大学で行われたので、私も参加がてら長野、山梨に行ってみた。9月30日はなんとか時間を見繕って、今年8月に開館した流鏑馬資料館を見学する目的で大町市にまで足を運んだ。毎年7月28,29日に行われる大町市の若一王子神社の祭礼では、小学生が流鏑馬を行う全国的にも珍しい行事が目玉であるが、流鏑馬だけではなく、「舞台」と呼ばれる人形屋台(山車)も登場するため、資料館ではそれらの展示が見られると楽しみにしていた。残念ながら舞台の実物展示はなかったが、全部で6台ある舞台の写真が見ることのできたのは収穫であった。また、流鏑馬や長野の有名な七夕人形については、実物資料が列品されており、充実したものであった。舞台は車輪の付いた基壇部が格子戸になっており、中に囃子が乗り込み、屋根付きの台上には人形を乗せるといった形状。これは愛媛県南予の祭礼に見られる山車に類似しており、以前から興味を持っていた。直接南予と長野との関係があるとは考えていないが、一時期、このような人形屋台が全国的に流行し、その名残によって類似しているのかと推測をしている。『大町市史民俗編』によると、舞台は大黒町、九日町、六日町、高見町、八日町、五日町の計6台あり、製作年代は、古い物で江戸時代後期のようである。大黒町は明治5年に松本市本町二丁目から購入したもので、文政年間に諏訪の立川和四郎當昌の作。六日町は嘉永年間の修理銘があり、それ以前の物。高見町も天保年間以前という。おそらく、いずれも松本周辺で製作されたと考えられるが、その松本の代表的な祭りである天神祭りに登場する舞台の製作年代は『松本市史』によると江戸時代後期から昭和初期にかけてである。戦後の製作は見られないようだ。愛媛県南予地方の山車も同様の傾向が見られる。この戦後に製作されていないという事実は、戦前(特に明治時代以前)には流行し、庶民に受け入れられていた人形屋台が、戦後はさほど人気が上がらなかったことを示しているのではないか。愛媛県西宇和郡伊方町九町では、江戸末期に製作された人形屋台を使用していたが、昭和30年頃に若者が「担ぎたいから」という理由で、曳きの屋台をとりやめ、担ぎの四ツ太鼓に変更したという話もある。19世紀から20世紀初頭にかけては、祭りの担い手が人形屋台の派手さ、豪華さで満足できていたのであろうが、戦後は、「担いで」、「勇んで」を要求するようになって、人形屋台の人気が薄れていったといえるのではないか。飛騨地方のように、単に人形を屋台に乗せるだけでなく、からくりを取り入れるといった工夫がなされれば、人形屋台も存続するのだろうが、南予の山車や松本周辺の舞台は言ってみれば、19世紀の祭礼文化を引き継いだものであり、時代の流行の波にさらされると、変容する可能性の高いものなのではないだろうか(松本周辺の祭礼を実見していないので断定はできないが)。

2000年10月06日

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