愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

清らかな砂 ウブガミとウブスナ

2012年09月09日 | 人生儀礼
先日、産土(ウブスナ)について少し書いたが、

このことは、宮田登『神の民俗誌』(岩波新書、1979年発行)の

第一章「誕生の民俗」に詳しく紹介されている。

出産に際して産屋に砂を敷く古い習わしの存在を指摘しているが、

この典拠は『神道名目類従抄』である。

柳田國男が、ウブ神とウブスナ神が本来は同一のものと推察しているが、

「氏神」と「産土(うぶすな)神」の違い、共通性、歴史性を

この本は触れている。

詳細は書かないが、生命の誕生と、地域での誕生、そして神社の存在と歴史性。

これらを「ウブ」の語彙を通して、再考察する必要もあるのかもしれない。

こんな風に、産小屋習俗や、宮田登の引用する近世文献を基礎とする議論、

そして柳田國男の言説を基本踏襲する姿勢。

すっきり解決しそうで、何か引っかかるものがある。

出生に際しての「清らかな砂」。

この民俗事例を、いま一度、集積して検討してみないと、

すっきりとはいかない。そんな気がする。





産土(うぶすな)

2012年09月03日 | 人生儀礼
伊予郡松前町徳丸にある高忍日売神社の境内。

「産土(うぶすな) 
 心願ある者はここの砂、
 または円満石をお守とするとよい。
 心願成就した時は、倍量にして返すこと」

このように看板に書かれている。

この神社、特にお産のご利益があることで有名。

看板にあるように「うぶすな」。

実際の砂を「うぶすな」と呼ぶ事例は、結構珍しいのかもしれない。

通常、「うぶすな」といえば、郷里の社のこと。

お産にまつわる砂を「うぶすな」と呼ぶことは、

瀬川清子的、もしくは谷川健一的だと思った次第。

※民俗学の大先達を「的」と表現してすいません。

産まれること、そこで育つこと、そしてそこの社。

これが「うぶすな」で繋がっていることに、

命と社と神の繋がりを感じる。





2010年「無縁社会」

2010年12月26日 | 人生儀礼
本日も忘年会。少し飲み食いが過ぎた。キーボードがブレて見える。

今年もあともう一息で終わり。ようやく迎えた年末。今年も何とか辿り着きました。しかし、この年末年始、原稿〆切を抱えていない。何年ぶりであろうか。ここ数年は毎回、年末年始の休みに〆切に追われ、1月4日朝に入稿・・・ということが続いていた。今回は神経磨り減り度合いが全く違う。今、少しだけ幸福を感じている。追われていない生活は素晴らしい。

とはいっても、明日はラジオ出演が待っている。昨日出演依頼があって、急遽、生放送の電話出演することになった。

12月27日(月)14:30頃 
南海放送ラジオ 番組名「本気(まじ)?ラジ!」

この番組は南海放送ラジオで平日の13:35~16:50に生放送されている地域情報番組。今回、この番組において「2010年を振り返る」コーナーで、今年の流行語「無縁社会」をテーマとして、愛媛県内の状況を紹介するとのことで、私に、県内の伝統的な慣習(民俗)を調査する立場から、葬儀・墓の歴史と現状など「無縁社会」に関するコメントをお願いしたいとのことだった。特に台本もなく、詳しい事前打ち合わせもしないままの生出演でのコメント。本番は緊張するかもしれないが、何か準備をするわけでもなく、電話で会話をするだけ。どんな話になるやら、自分でも楽しみ。


死人を呼ぶ~「魂呼び」に関するメモ~

2010年01月25日 | 人生儀礼

西予市宇和町の多田地区のことを記した水野薫著『わが多田村に於ける明治の思い出』(多田白寿会、1974年)に、「死人を呼ぶ」という項目があり、愛媛県内各地で行われていた「魂呼び」の事例が紹介されている。著者の水野薫は明治30年生まれ。明治時代まで行われ、その後に消滅していることがわかり、魂呼びの時代変遷を知ることができる。

「昔は、大切な働き盛りの人が、大病にかかって危篤状態に なると、五・六人の人がその家の屋根の上にあがって、その人の名を呼び、戻れよと声を限りに叫んだ。その悲痛なさけび声が、病人のたましいをゆり起し、そして神にも届けと願ってのことであったろう。そのとき赤い布切れをふり、箕でぱたりぱたりとあおぐのである。おそらく天地の神を招くために風を起し、神さまが赤い布切れに気付いてもらおうというのであったろう。私はまだ小さいときこんな情景を見て、母からあそこの人が死にかけているのだときき、こわくなったことを覚えている。こんな風習も明治時代が終ると消えてしまった。しかしそんな病人が出ると、の人たちがとるものもとりあえず、神社にお参りして祈祷をしてもらい、快癒の祈願をしたものだが、こんな美しい風習はまだ残っているかもしれない。さて、屋根にのぼって死人を呼びもどす、との話題を書き終って家内に話したら、大洲地方にもあったこと、幼い時に自分も見たことを覚えている、ということだから、これは多田のみならず、この地方一帯に広く行われていたものであろう。因に家内は明治三十四年生れ。」

愛媛県内の魂呼びの事例をまとめてみると以下のとおりとなる。
 
<表1>「魂呼び」事例一覧表(『愛媛県史民俗編下』より作成)
番号/伝承地/呼称/誰が/どこで/使用物/死の種類 
1/新宮村馬立///屋根上/一升桝の底を叩く
2/伯方町北浦////弓の弦を鳴らす/非業の死
3/弓削町/////難産、急病人
4/吉海町椋名/ヨビカエシ
5/宮窪町/ヨビカエシ
6/重信町上村///屋根上/箕を逆さ
7/中山町中山///屋根上/箕/難産、急病人
8/柳谷村西谷////箕、一升枡
9/柳谷村柳井川///屋根上/一升桝の底を叩く
10/小田町臼杵//身内//水を口に含み顔にかける
11/肱川町大谷/////瀕死の場合
12/肱川町予子林////菅笠を煽ぐ
13/大洲市長谷/////子供、若者
14/大洲市蔵川//近所の男/屋根上//子供、若者、急死人
14-2/大洲市蔵川//親類/枕元
15/八幡浜市若山////箕を扇ぐ
16/宇和町田野中/ヨビモドシ//屋根上/大団扇を煽ぐ
17/野村町惣川/ヨビカエシ///一升桝を伏せる
18/城川町高野子///屋根上
19/宇和島市薬師谷////箕を伏せる
20/広見町清水//近所の人/屋根上/箕を振る
21/日吉村犬飼/ムネヨビ
22/一本松町増田/ヨビモドシ/夫/屋根上/菅笠で煽ぐ/難病

これらを見ると、分布は県内全域にわたり特定の地域に偏っているわけではないこと。使用される道具には箕、桝、菅笠が多いこと。屋根の上にのぼる例が多いこと。子供や若者の急死、難産死の時に行われることが多いこと。呼称には「魂呼び(タマヨビ)」はなく、「ヨビカエシ」・「ヨビモドシ」が多いことなどがわかる。

ちなみに「魂呼び」の習俗であるが、愛媛に限ることなく江戸時代以前の文献を見てみると、古代~近世、そして近代まで行われていたことがわかる。

<史料1>
『中荒井與三十二箇村風俗帳』(17世紀後半)
「地下人頓死候節、家之上へ登り、升の下を叩き其者之名を声を尽て呼ハ蘇と云」

<史料2>
『塵添土蓋嚢抄』
「死人喚名蘇事 死ニタルモノ、名ヲ喚ベバ生カヘルト云事、如何(中略)是ハ権者達の御振舞ナレバ、心マカセテ生帰リ給フ。左様ノ事ヲ聞伝ヘテ、帰ルマジキ者ヲ喚ブ事ハマコトニ愚癡ノイタリ也。仏名ノ一遍ヲモ唱ヘテ聞セタラバ、後世ノタスカリトモナリナン者ヲトゾ覚ユル」
  →これが著された天文元(1532)年には、仏教儀礼とは関わらず、民間習俗として魂呼びが存在した。
  →仏教的立場からすると往生優先であり、魂呼びは批判の対象となっていた。
  →方法は不詳。

<史料3>
『小右記』万寿2(1025)年8月7日条
「昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛門尉惟孝、昇東対上<尚侍住所>、魂呼、近代不聞事也」
  →魂呼びを行ったのは陰陽師である。
  →「近代不聞事」つまり、貴族社会において通例化している習俗ではない。

<史料4>
『日本書紀』巻十一「仁徳紀」
「(オオサザキ尊が)髪を解き(ウジノワキノイラツコ)屍に跨りて、三たび呼びて曰はく、『我が弟の皇子』とのたまふ。乃ち応時(たちまち)にして活(いき)てたまひぬ。自ら起きて居します。」
  →魂呼びの方法は、死体の上に跨って、三回名前を呼ぶ。

※なお、参考までに、類似の行為はお産の際にも行われていた。(『愛媛県史』民俗編下参照)
・産気づくと、身内が屋根に上って笠や箕を振りながら産婦の名前を呼ぶ。(西海町)
・産気づくと、屋根の瓦二、三枚をはいで産婦の名を呼び、次に井戸をのぞきながら、また名を呼ぶ。(宇和島市日振島)

メオイの民俗

2009年10月12日 | 人生儀礼
メオイという言葉がある。金品を持ち寄って飲食をすることで、中国、四国地方の方言でもある。この言葉に注目したのは、森正史先生である。森先生は、『北条市の人文・自然』の中で「めおい」だけで1項目割いて、解説をしている。「村の若者たちの娯楽として、農作業が一段落ついたあととか、雨天で仕事を休んだりしたときは『雨祝い』と言ったりして、めいめいが米を出し合って五目飯を炊いたりして会食をしたのをメオイといった。」

瀬戸田町史と巳正月

2000年08月31日 | 人生儀礼

先般注文しておいた『瀬戸田町史民俗編』が今日、郵送されてきた。平成10年に刊行されたものだが、この広島県瀬戸田町は芸予諸島で愛媛の上浦町や岩城村に接する位置にある。愛媛に隣接する地域の自治体史の中では民俗編が特に充実しているということを耳にし、購入した次第。
私が興味のあった民俗事象の一つは「巳正月」である。「巳正月」は愛媛全域・西讃・徳島県山間部・高知県の愛媛・徳島に隣接する地域に濃厚に分布している行事である。この巳正月の分布については、ここ数年、興味を持って調査してきたのであるが、広島県における巳正月の分布が少し気になっていた。瀬戸田町や因島市には巳正月があるが、三原市、尾道市などの本土側になると巳正月は見られないのである。真宗の影響もあるのだろうか。さて、『瀬戸田町史』の「巳正月」の記述は6頁にわたるが、「人の一生」の項目では次のように記されている。「十二月の巳午の日は巳午(ミイマ)といって、死者の正月といわれている。宗派によって異なるが、死者の出た家は正月を迎える前に亡き人とともに、その年の最終の食事をして、忌明け、新春に入るとされていた。巳午には、寺で巳午行事が行われるために、供え物として餅を搗き、二升の重餅を持参していた。港では、寺で巳午行事が終わった後、供え餅の上段を墓前で焼き、餅を引っ張り、ちぎり合って分ける式が行われる。また、家で搗いた餅を香典の中身に応じて分配していたので、配る餅数が異なっていた。沢では、供え餅の上段を持ち帰り、近親者と食べた。巳午の餅を食べると長生きするといわれていた。墓に左縄の注連縄を張る慣習が残されていたところもある。」
 芸予諸島で巳正月の話を聞き取りすると、一つの傾向が見えてくる。それは行事日の問題である。この瀬戸田では巳午の日に行うとされるが、巳午の日に行うのは上浦など、芸予諸島でも広島に近い島でのことで、それが今治に近い大島(宮窪、吉海)では辰巳の日に行うというのである。辰巳に行う地域は愛媛県東予地方に広がっており、大島はその影響であろうか。東予の影響の薄い芸予諸島北部になると巳午となるという地域分布が見られるのである。また、愛媛の中予、南予では主に巳午で行う。西讃でも巳午で行うことが多い。この現象からは、東予地方に辰巳の巳正月が、そしてその周辺地域に巳午があるという巳正月の行事日のおおまかな分布が見えてくる。
以上は行事日に限ったことであるが、『瀬戸田町史』の巳正月の報告にある行事内容から様々な側面からの比較できるので、非常にありがたいものであった。愛媛の側から見て、この町史は巳正月だけでなく、製塩、祭礼、初祈祷、大師信仰などまだまだ比較してみたい材料が数多く、素晴らしい町史が入手できたと思っている。

2000年08月31日