愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八幡浜の石鎚信仰(1)-川之内のお山踊り-

2000年06月29日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜の石鎚信仰(1)-川之内のお山踊り-

 毎年七月一日には霊峰石鎚山のお山開きが行われるが、石鎚山に対する信仰圏は西日本各地に広がっている。八幡浜からもお山開きに参加する者は多く、向灘、中津川、川之内など各所に石鎚が勧請され、祀られているなど、当地方の石鎚信仰は盛んである。
 今回は、八幡浜の石鎚信仰の一事例として、川之内のお山踊りを紹介してみたい。
 川之内の石鎚信仰は江戸時代にまでさかのぼる。『愛媛縣社寺一覧表』によると、天明年間(一七八一~八九年)に地区内に悪病が流行したとき、村内の申し合わせで石鎚山より権現を勧請し、川之内村碁盤ヶ峠に鎮座させたといわれている。現在は古藪の白王神社の境内社として石鎚神社があり、また夜昼峠の脇にある千賀居森神社にも石鎚が祀られている。
 川之内では、石鎚山のお山開きとほぼ同じ時期の毎年旧暦六月九日に近い日曜日に、地区の中心地でもある大元神社脇の敷地で「お山踊り」という石鎚信仰に基づく芸能が行われる。「石鎚権現踊り」、「シデ踊り」とも呼ばれるが、この種の芸能は大洲市高山や野村町惣川など南予地方の各所に見られるものである。
 お山踊りには派手さはなく、単調であるが、会場では四隅に竹を立て、注連縄を張り巡らし、その中で踊り手が浴衣に下駄履きで両手に女竹の先に五色の御幣を付けたシデを片手で二本ずつ合計四本持ち、太鼓に合わせて踊る。御詠歌調に念仏を唱え、時計回りに静かにまわり、途中何度か足を踏みならしながら「ナンマイダ」と唱える。踊りが終了すると、注連縄が切られ、世話役により切られた注連縄を結んだシデが各家々に配られる。これを玄関、納屋、村境などの飾って悪病除けとするのである。なお、現在では行われていないが、戦前にはお山踊りの当日早朝には大元神社で全身水をかぶって水垢離を行っていたという。
 このお山踊りの始まりについては不明であるが、川之内には踊りの台本として、慶応二(一八六六)年の石鎚の御詠歌を記した写本が残っている。この中には石鎚山参拝による御利益、特に悪事災難除けの御利益があると唄われており、また「家内安全悪ヲ除ク御祈祷」と記されている。西海賢二著『石鎚山と修験道』によると、南予地方のお山踊りは明治二、三〇年代に石鎚神社の先達により各地に伝えられたとされているが、慶応年間の台本が川之内に残っていることから、踊りの始まりは江戸時代末期であり、しかも川之内の踊りは南予でも古い部類に入ると推測できるのである。

2000/06/29 南海日日新聞掲載







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企画展「愛媛まつり紀行」の開催

2000年06月27日 | 祭りと芸能

私の勤務する愛媛県歴史文化博物館で、7月11日~9月3日まで企画展「愛媛まつり紀行」が開催される。私も展示担当者なのだが、只今、印刷物の校正や列品作業などで大忙し!無事開催に漕ぎ着ければ良いのだが・・・。
展示内容は、愛媛県内の祭礼風流を主に取り上げる。展示の目玉としては、南予地方の牛鬼の頭を約40カ所から借用し、一堂に公開する。牛鬼の地域差が明瞭になり、南予地方の方々には是非見てもらいたい。また、南予の祭りのもう一つの花形である鹿踊。これは江戸時代初期に東北仙台から伝播したといわれるものだが、東北と南予の鹿踊の比較展示を行う。東北の鹿踊の原型とでもいうべき形状が南予に残っていると思われ、そこを強調した展示となる。また、江戸時代末期に製作された鹿踊の古面も展示する。
さて、愛媛の祭りで忘れてはいけないのは太鼓台とだんじりである。
太鼓台については、現在、新居浜市や伊予三島市などに豪華な飾り幕をつけたものが多いが、今回の展示では、古い飾り幕に注目してみた。注目資料は広島県三原市の能地だんじり。これは明治時代まで新居浜で使用されていたといわれる太鼓台で、現在の新居浜太鼓台と比較すると実に小振り。飾り幕も保存状態はさほど良くはないが、太鼓台の発達の歴史を実感させてくれる。また、大正時代まで新居浜で使用され、その後、香川県坂出に流出した飾り幕も展示する。これらはいわば何十年ぶりかの愛媛里帰りとなる。太鼓台関係資料としては他に、名縫師山下茂太郎、八郎の作品も展示する。
西条だんじりに関しては、東光だんじりの彫刻とその下絵を展示する。幕末から明治時代初期にかけて活躍した魚屋町萬吉の作品。
また、愛媛では各地に船型山車が登場するが、その代表として越智郡大西町紺原の船御輿を実物展示する。この全長6メートルの船を展示室中央に設置する。また、北宇和郡吉田町の魚棚3丁目の山車や越智郡大三島町台のダンジリも実物展示する。いずれも彫刻や人形に嗜好をこらした好資料。
展示総点数は190点で、入館料は大人500円となっています。
この展示期間中の催しとしては、展示解説会が7月22日、8月19日の13:30~あり、私が案内いたします。また、企画展関連講座として、8月6日13:30~「愛媛の祭りと風土」(講師:森正康)、8月27日13:30~「西条だんじりと新居浜太鼓台」(講師:佐藤秀之)、7月30日13:30~「牛鬼と鹿踊-南予地方の祭礼-」(講師は私。)があります。

また、企画展にあわせて展示解説図録も販売します。180頁、カラー写真220点で、愛媛の祭り全般を紹介しています。購入を希望されるなら、博物館友の会(0894-62-6222)までお問いあわせ下さい。以上。

2000年06月27日

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八幡浜市の穴井歌舞伎

2000年06月18日 | 祭りと芸能
6月18日に八幡浜市の穴井公民館で、地区の有志により、戦前、盛況であった穴井歌舞伎の衣装や小道具の整理作業が行われた。穴井歌舞伎は、江戸時代後期から、県指定無形民俗文化財「長命講伊勢踊り」の和気踊(ワキ、脇の意味)として行われていた地芝居で、近郷にも出向いて興行する人気のあるものであった。戦後は老人クラブの余興として演じられることもあったが、次第に廃れ、衣装や道具類は穴井公民館に保管されたままになっていた。戦前は、穴井歌舞伎が上演される時には、大島、三瓶、双岩、合田あたりから観衆が集まって、その数は2000人に達したとも言われているが、現在、八幡浜市内ではこの歌舞伎の存在さえも忘れられかけている状態。衣装や道具も眠ったまま。このような状況を地元穴井の方々が憂慮し、今一度、穴井歌舞伎を再評価させようと立ち上がり、今回の整理作業に至ったのである。
この作業については、私も地元の区長さんや宮司さんから相談を受け、残っている衣装類の全体把握をするため、各衣装の内側に番号布を縫いつけ、番号順に写真撮影するとともに、その衣装の色、模様、使用された演目、使用した登場人物、寄進者、寄進年月日を一点一点確認し、一覧表に記入することにした。当日、私は主に写真撮影を行うのみで、婦人会の方が番号布の縫いつけをし、地元のお年寄りに聞き取りをしながら一覧表の記入を行ってくれた。地元の方が地元の民俗文化財を整理し、調査するというまさに理想的な作業展開。朝8時に始まった作業は、約30人の手によって午後4時には終了した。
さて、今回の作業では、明治時代から昭和初期に寄進された歌舞伎衣装を195点、舞台幕を17点確認することができた。これは一つの地芝居の資料として膨大なものと言える。愛媛県内では現在行われている地芝居は久万町の川瀬歌舞伎のみであるが、これは大正8年に始められたもので、明治時代の資料は残っていないと聞く。また、野村町の阿下で行われていた歌舞伎も衣装が残っているが、資料点数では穴井がうわまわる。穴井歌舞伎の衣装は地芝居資料として県下随一のものと言えるのではないだろうか。
今回確認した衣装は金糸で龍や唐獅子、鯉などを立体刺繍しているものがあったり、花鳥が鮮やかに描かれたものがあり、豪華で見栄えのするものが多かった。私が興味を惹いたのは、寄進者の年齢が33、42、61歳の厄年の者がほとんどであったことである。穴井歌舞伎は単なる芝居ではなく、厄祓いを祈願する民俗行事としての性格もあったのだろう。また、舞台幕では明治6年、明治12年寄進のものがあり、明治時代初期からの道具が残されていることも判明した。穴井歌舞伎は言い伝えでは天明年間に始まったとされ、また、道具箱に安政4年の墨書があるらしく(今回の作業では確認できなかった。)、江戸時代の衣装等が出てくるのを心待ちにしていたのだが、残念ながらそれは確認できなかった。衣装は昭和3、4年の寄進のものが多く、穴井歌舞伎は大正元年に一時中断され、大正時代後期から徐々に復活していったといわれているが、昭和初期に一気に衣装をリニューアルしたのかもしれない。もしかすると、その際に江戸時代の古い衣装は消却されたのかもしれない。
いずれにせよ、穴井歌舞伎の衣装類は、県内有数の地芝居資料である。今回の作業で資料一覧表を作ったことで資料の管理、活用が容易になったため、地元では何らかの機会に公開したいと考えているとのこと。
忘れられた歌舞伎衣装、再び脚光を浴びる日は近そうだ。

2000年06月18日

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「 大法寺マリヤ像と妙見信仰2」

2000年06月15日 | 八幡浜民俗誌
 市内大門にある大法寺マリヤ像は、像容や台座に刻まれた亀から考えると実はマリヤ像ではなく妙見菩薩像ではないかというのが私の見解であるが、ここでは、八幡浜地方の妙見信仰について紹介してみたい。 『愛媛県神社誌』を見てみると、県内に妙見を祀る神社は現在十三社あるが、八幡浜地方の神社には祀られていない。しかし、宝暦十(一七六〇)年にまとめられた「宇和島領神社記」(愛媛県立図書館蔵)を見てみると、宇和島藩領内には妙見社が全部で十二社あり、八西地方でも、日土村二田ノ藪の「妙剣牛頭神社」、同村足田の「明剣神社」、同村森山の「明剣神社」、布喜之川村の「妙剣神社」、伊方浦の「妙剣神社」が記されている。(妙見は持物として剣を持つことが多いことから「妙剣」、「明剣」とも表記される。) また、ミョウケンという地名を『角川地名辞典』で探してみると、各地に残っていることがわかる。八幡浜市日土町の「妙見」、高野地の「ミヨキンタ(妙見田か?)」、伊方町伊方越の「明見へし」などである。これ以外にも私の聞き取り調査で伊方町湊浦や瀬戸町三机などにミョウケンの地名を確認している。その他にも、市内国木の陣ヶ森にある一メートル程の祠には「八大龍王、金毘羅大権現、妙見菩薩」と刻まれており、江戸時代にはこの地方にも各地で妙見信仰が存在したことがわかる。妙見信仰は、日蓮宗において信仰されたものとよく言われるが、それ以外にも修験道で祀られたり、神社で祀られるなど、広く民間に浸透していた信仰であったが、八幡浜地方も例外ではなかったのである。 さて、大法寺マリヤ像は実はマリヤ像ではないのではないかという議論は前々からあったようである。以前、奈良国立博物館の技官がこれは道教の神像ではないかと言ったそうであるが、日本では特に修験道の中に道教思想の影響が顕著に見られるとされる。 このようなことから、大法寺マリヤ像はもともと、江戸時代の修験道の妙見信仰により造像されたものと思われるが、それが明治時代初期の修験道廃止や廃仏毀釈により、その信仰が途絶え、いつしかそれが何の像であるのかわからなくなったのではないか。それを戦後、平櫛田中らがこの像を隠れキリシタンのマリヤ像と認定し、その解釈を以て市の有形文化財に指定し、マリヤ像として現在に至っているのである。 この大法寺マリヤ像が妙見菩薩像であると断定するには、今後、愛媛県内の他の妙見菩薩像との比較が必要となるが、今回は一つの仮説として提示してみた次第である。

2000年06月15日 南海日日新聞掲載


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カワウソの造形

2000年06月13日 | 口頭伝承
愛媛県南予地方には、カワウソを象った造形物が何点か存在する。
その一つは、先日開館した宇和町民具館収蔵のカワウソの屋根瓦である。これはどの地区、どの家で用いられていた瓦かは不明とのことだが、カワウソが水に関する動物だということで、火災除けの意味を込めて造られたものだろう。写実的で一見してカワウソだとわかる。「水神」としてカワウソが捉えられているのだろう。
もう一つは、三崎町三崎の八幡神社にあるカワウソの石造物である。光背型の石塔にカワウソがレリーフされているもので、他に類例は見たことがない。製作年代や建造の理由は不明である。ただ、三崎には猫地蔵やら狸地蔵など、化けたりする動物の石造物がいたるところに見られる。おそらく、カワウソも化ける動物の一種として認識されており、それを供養する意味で製作されたものではなかろうか。南予地方には色濃くカワウソ伝承が残っているが、その関連資料として興味深いものである。

2000年06月13日

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鯛の山車の土製品

2000年06月12日 | 祭りと芸能
愛媛県埋蔵文化財調査センターが発行した『史跡「松山城跡」内県民館跡地-愛媛県美術館の建設に伴う埋蔵文化財調査報告書-』を見て、面白い遺物を見つけることができた。出土した土人形の中に鯛の曳山のミニチュアがあるのである。全長4センチほどの小さなものであるが、車の付いた土台に鯛が乗っている形状である。これは、全国の江戸時代の祭礼絵巻を散見すると、四日市祭礼図屏風(三重県個人蔵)や文政8年成立の江戸の神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻に似た形状の山車が描かれている。江戸時代に全国で流行した山車の一形態なのであろう。愛媛県内でも形状は異なるが、喜多郡長浜町の住吉神社祭礼に鯛の山車が現在でも出されている。
松山城跡からこの土製品が出土したことは何を物語るのだろうか。江戸時代の松山の祭礼に鯛の山車が登場していたのだろうか、それとも江戸の神田明神の祭礼に土産として買った物が出土したのだろうか、それは不明である。松山の祭礼は現在では神輿が中心で山車は一切出ないが、江戸期にはあったのかもしれない。史料上で確認したわけではないが、興味をそそられる出土品であるには違いはない。

2000年06月12日

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愛媛の祭礼と傘鉾

2000年06月09日 | 祭りと芸能
傘鉾とは祭礼の飾り物の一つである。一般には、大きなかさの上に、ほこ、なぎなた、造花などをとりつけたものであり、京都の祇園祭、東京の山王祭、神田祭のものは有名である。愛媛県内の祭礼を見渡してみても「傘鉾」に関する史料を散見することができる。ただし、それらは他の練物や山車に淘汰され、ほとんど現存していない。現在、「傘鉾」を祭りで用いるのは、伊方町の八幡神社の秋祭りくらいである。
 なお、祭礼とは異なるが越智郡朝倉村古谷の五月の祭りに「カサホコ祭り」なるものがある。古谷の多伎神社では、毎年5月11日にこの傘鉾祭を行うが、ここで言う傘鉾とは、四つ割竹で骨組みした人形に子供の着物を着せて、中央に笹を立てたもので、これを両手で踊らせながら祈祷をうける。一般に言われる傘鉾とは形態、用途が異なるが、実に原初的な祭であり、傘鉾の原初的な意味を垣間見ることができる。つまり、風流化する以前の神霊の依り来る依り代としての要素が見られるのである。
 そもそも、県内の祭礼では傘鉾は江戸時代初期中期以降の祭礼に登場していることが確認できる。宇和島藩の伊達家御歴代事記に「かさほた」に関する記事があったり、宇和島の一宮である宇和津彦祭礼絵巻(宇和津彦神社蔵)の中にも傘鉾が描かれている。ところが、この江戸時代後期成立の絵巻よりも新しい時代の記録を見ると、傘鉾は登場せず、山車や布団太鼓へと変貌している。また、佐藤秀之氏著『伊曽乃祭礼楽車考』133頁に、西条市石岡神社「宝暦七年 来る十五日、八幡祭礼の儀(石岡八幡宮と呼ばれていた)(中略)渡御一通り並、のぼり、屋台、笠鉾等云々」とあり、また伊曽乃神社についても、天保6年9月、磯野歳番諸事日記に、北川村から「傘鉾」が出されていたことが記されている。なお、北川村(現在の下喜多川村)は、西条祭絵巻によると江戸後期の天保頃になると、御輿楽車を奉納している。
 近年まで傘鉾が出ていたが野村町惣川の秋祭りである。これは森正史編『惣川の民俗』に写真入りで紹介されている。船戸森八幡神社の祭礼に出る傘鉾の写真で、女子2人がそれぞれ幕の垂れた傘を持っている。これも戦後は途絶えてしまった。そして今では県内で伊方町のみになっている。
 いずれにせよ、愛媛では傘鉾は祭礼のなかでは発達せず、東予ではだんじりや太鼓台、南予では牛鬼、四つ太鼓などの方が祭りの中で「見せる」要素が強いとされ、淘汰されて消えていったのである。

2000年06月09日

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「 大法寺マリヤ像と妙見信仰1」

2000年06月08日 | 八幡浜民俗誌

 八幡浜市有形文化財に指定されている石造物に大法寺マリヤ像がある。市内大門にある大法寺の山門をくぐって左側の小堂に安置されている坐像であるが、中央に袈裟を着した人物と、台座に亀が彫られている。 さて、このマリヤ像は、江戸時代に製作されたものと思われるが、戦前においては、これが何の像であるのか不明であったらしい。それを戦後、芸術院会員である平櫛田中、医師の谷泰吉らによって、隠れキリシタンのマリヤ像であると認定され、昭和三十六年に市の有形文化財に指定されたのである。 マリヤ像と認定した根拠は、像に刻まれた線香立てに十字の紋があることというが、私は、これを以て隠れキリシタンのマリヤ像と断定するのは早急ではないかと考えている。というのも、マリヤ像と断定するには、台座に彫られた亀について説明がつかないし、彫られた人物もマリヤとすれば女性ということになるが、像容は両足を大きく開いて座っており、とても女性とは思えない座り方だからである。 この像はマリヤ像ではなく、むしろ妙見菩薩と考えるのが適当ではないかというのが私の見解である。 妙見菩薩とは、もともとは北極星を神格化したもので、北辰菩薩とも言う。天台宗寺門派では、吉祥天と同体とされている。中世には武家により軍神として祀られ、のちに日蓮宗寺院で広く祀られるようになる。これは日蓮が伊勢の常明寺で北辰を感得したという由縁から、日蓮宗の守護仏として位置づけられ、その布教活動により、民衆に浸透していったのである。日蓮宗以外でも密教、修験道で祀られる、庶民の間で広く受容された信仰であった。 妙見菩薩の一般的な形は、右手に剣、左手に宝珠を持って亀に乗るものであるが、『望月仏教大辞典』によると、妙見は「蛇走青亀の背に立つ」とあり、日本で造像されたもので亀に乗っているもののほとんどは妙見であるとされている(参考『日本石仏図典』)。例えば、大分県西国東郡真玉町臼野には江戸時代に彫られた妙見菩薩の石像があるが、これは亀に乗っているものであり、また、群馬県邑楽郡板倉町石塚にある浅間神社にも妙見菩薩像があるが、これは衣紋の彫り方、姿勢、足の開き方が大法寺マリヤ像と似た形をしている。大法寺マリヤ像は剣や宝珠を持っているわけではないが、台座に彫られた亀から推察すると、これは妙見菩薩と考えられるのである。(つづく)

2000年06月08日 南海日日新聞掲載

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宇和町岩木の如意輪観音像

2000年06月07日 | 信仰・宗教
 以前、宇和町岩木の方から、私のところに仏像を鑑定してくれないかという依頼があった。しかし私は鑑定師ではない。仏像は好きではあるが、あくまで趣味の域を越えないのだ。ただ、話によると、その仏像は秘仏で見る機会は少ないという。「見てみたい」という衝動にかられて、ついつい、承諾してしまった。
 その時に見せていただいてまとめた文章をここで掲載しておく。

 宇和町岩木の河内地区には、観音像を祀る小堂がある。今回、地区の方々のご好意により、その観音像を拝見することができたので、ここで像に関する概要をまとめておきたいと思う。
 像の名称は「如意輪観音菩薩」である。この尊名の「如意」とは如意宝珠、「輪」とは法輪のことで、如意宝珠と法輪に象徴される功徳で宝財を施し、一切衆生の世間出世間にわたる心願を成就される働きがあるといわれる。この像が如意輪観音菩薩である根拠は以下の通りである。
 如意輪観音像は一般に一面六臂が多く、右の第一手を頬にあて、第二手を胸前に位置させ宝珠を掌上に持ち、第三手は念珠を持つ。左の第一手が台座を押え、第二手は蓮華を握って、第三手は宝輪を捧げている。足は右膝を立てて趺坐する。岩木の観音像は、まさにこの像容であり、典型的な如意輪観音であるといえる。
 如意輪観音の時代的変遷について確認しておきたい。奈良時代後期には『如意輪陀羅尼経』などに説かれる二臂像で、左手に如意宝珠、開蓮華を持ち、右手を説法印にする姿である。平安時代以後、『観自在菩薩如意輪瑜伽』に説く先述の六臂像が多くつくられる。これは胎蔵界曼陀羅蓮華部院にあらわされており、空海により日本に伝えられたものである。代表的な作例としては、大阪府観心寺の木造如意輪観音坐像(平安時代前期)、奈良国立博物館所蔵の木造如意輪観音坐像(9世紀末~10世紀初)、滋賀県園城寺の木造如意輪観音坐像(10世紀末~11世紀初)、京都随心院の木造如意輪観音坐像(13世紀前半)がある。愛媛県内では、城川町魚成の水野義久氏蔵の如意輪観音立像(城川町指定文化財)、津島町鵜の浜慈済寺の如意輪観音像(津島町指定文化財)がある。
 岩木の観音像の製作年代については、墨書銘を確認していないので、断定することはできないが、その形状と堂の棟札から推測してみたい。
 観音像を安置する堂が建築された際の棟札は厨子内に2枚残っている。元禄3(1690)年のものと、慶応3(1867)年のものである。元禄3年の棟札には、瀧石山龍聖寺が「補陀洛大士道場」であるという記述があり、「補陀洛」とは観音菩薩の住む場所であることから、この寺が観音菩薩を祀っていたことがわかる。同じく、「以七寶欲厳飾菩薩尊像」とあることから、堂を建てた際に観音菩薩像の装飾を施したことがわかる。このことから、この元禄三年時に観音像の台座、光背等を製作したと考えることができる。本像はそれ以前に製作されたものであろう。寺の創建については元禄3年段階で「不知」となっており、おそらく中世にまで遡ることができると思われる。このことから、本像の製作も中世ではないかと思われる。
 像の形状から時代を推測してみると、
1 足の指が写実的であり、室町時代頃のものであると思われる。
2 鼻、鼻の穴の形が鎌倉時代以降である。
3 耳たぶが反っており、鎌倉時代以降の様式である。
4 宝珠の蓮弁の反りがないので室町時代以前である。
5 足元の衣文の形が写実的で中世の製作と思われる。
 これらのことから総合すると、室町時代の製作ではなかろうか。ただし、鎌倉時代の様式を否定する要素も少ないため、鎌倉時代まで製作時期が遡る可能性もある。いずれにせよ、墨書銘の確認ができないことには断定はできないが、中世の製作と思われる。
 台座、光背は、形状からみても、やはり江戸時代のものと思われる。その根拠は蓮弁の反り返りがきついことである。台座、光背については、宇和町指定文化財の郷内の阿弥陀如来意坐像のものや、新居浜市高木町河内寺の木造薬師如来坐像(平安時代作)のもの、北条市八反地宗昌寺の木造文殊菩薩坐像(室町時代作)のものに類似している。これはともに江戸時代初期に製作されたものと推測されている。
 よって、岩木の観音像は、中世(室町時代か)に製作されたものを、元禄三年に修復して現在に至っているといえるのではないだろうか。
 最後に、このお堂についてまとめておく。「神山県寺院明細帳」(明治5年)によると、岩木村には「龍石山龍福寺」という天台宗山門派の寺院があったことが記されている。僧侶はなく、小野田村(宇和町)の極楽寺住職が兼務していたとあり、祈願檀家も0軒である。地元の言い伝えでは龍福寺は別の場所に存在したとのことであるが、山号が同じことから、このお堂(「龍石山龍聖寺」)も天台宗山門派(江戸時代には修験道本山派聖護院末)であったと推測できる。宇和地方では、この宗派の統括が源光山明石寺であった。当時、明石寺は本山派修験の年行事(全国に36寺ある中の一つ)であり、龍聖寺はその管轄下にあったものと思われる。
 結局、龍聖寺は、慶応年間には堂の改築が可能なほど経済的余裕があったのであるが、明治初期には既に僧侶、山伏のいない廃寺同然になり、河内地区管理へと移行したものと思われる。

2000年06月07日

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和霊大祭行事次第

2000年06月06日 | 祭りと芸能
四国も梅雨入りした。夏も間近である。
私の住む愛媛県南予地方の夏の風物詩といえば、なんといっても宇和島市の和霊大祭(うわじま牛鬼まつり)である。この和霊大祭は7月22~24日に行われる和霊神社の祭りで、和霊神社といえば山家清兵衛の祟りを慰めるために立てられた神社として全国的にも有名である。さて、この和霊大祭についてはその行事次第、行事内容を詳細にまとめたものがない。参考文献があまりに少ないのだ。昨年、同僚の谷脇氏と和霊大祭を見物してみたが、その見聞記録をまとめたので、ここで紹介しておきたい。(粗い見聞記録であるため、今後調査すべき事項が多々あるのであるが・・・。)

7月22日(木)
17:00から21:00 うわじまガイヤカーニバル
商店街にて行われる。参加団体は市役所や宇和島市内の企業や団体、舞踊のサークル等である。これは1980年代後半に始められた踊りである。それ以前は、祭りは23、24日だけであったが、ガイヤがはじまったことで、3日間の祭となった。2日間から3日間になったことによる変化について聞き取ることができたのは、最終日の走り込みにさきがけてダシが登場するが、これは地縁的なものではなく、社縁により出されるものである。このダシの数がガイヤが始まると減ってしまったということである。ダシもガイヤも企業等が出しており、両方出すのは金銭的にも体力的にも困難だということである。

7月23日(金)
和霊神社での行事
10:00から12:00 例大祭
 宇和島市内の政財界、各種団体の長が参詣し、神事が行われる。神事の後、参篭殿にて直会(現地での呼称は聞き取らず)。県議や警察署長等が参列者の中に確認できた。この神事は昔から行っているものか確認要。というのも、政経界のトップが主な参加者であり、これは観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」を運営を担う機関の長である。つまり、観光祭を無事遂行するための祈願とも考えられ、伝統的なものとは考えにくい。この点については、今後確認する必要がある。
12:00から 一般参詣者を対象とした神事。
 大漁祈願もしくは、新造船の安全祈願が主のようである。「吉田町第八忠栄丸」など、津島町や西海町など、宇和島市外からの参詣者が多く見られた。参詣者は約20人。ただしこれまでの和霊大祭の説明(県史など)では、この祭は大漁を祈願する漁民が西日本各地から参詣するといわれていたが、実際には人数も少なく、宇和島市周辺の漁民が参詣しているだけのような印象があった。この点は今後客観的なデータを調査する必要がある。
19:00から22:00 宵宮祭
 神事への参加者は神主10人程、地元有力者(午前中の例大祭にも参加)3人、総代10数人(茶色の法被を着ている)、一般参詣者7人(うち5人は漁業関係者と思われる。2名は松山市から来た中年女性。毎年来ているわけではなく、今年は特別に祈願にきたとのこと。祈願内容は不明)
浦安の舞の奉納。巫女は4名。地元の高校生がつとめている。
 午前中にも例大祭があり、ここでも宵祭の神事がある。一般の神社では、一度で済ませる神事を2回にわたって行っているということは、観光祭としての「うわじま牛鬼まつり」と神社大祭としての「和霊大祭」が重層していながらも、混在しているわけではなく、棲みわけがなされていることを象徴していると見ることができる。
20:00頃神事終了。一般参詣者が次々と来る。

宇和島市内での行事
子供牛鬼パレード
13:50 牛鬼ストリートにて、子供牛鬼パレード開幕式。
14:00 パレード開始。
 牛鬼ストリートを出発して、商店街を通り、農協で一時休憩の後、和霊神社前を通って、須賀川橋(要確認)にて終了。和霊神社には子供牛鬼は入ることはない。神社前の橋も渡らない。神事とは全く関係していないことは注目すべきか。和霊大祭の写真にはこれまで、神社の鳥居をくぐる牛鬼の場面がよく使われていたが、これは一考を要する。
・参加した子供牛鬼は次のとおりである。
  1 広小路・堀端愛護会  2 戸島保育園  3 保手3区愛護会  4 錦町愛護会  5 和霊中町愛護会  6 朝日町1丁目愛護会(2体)  7 袋町牛鬼保存会  8 ボーイスカウト宇和島小区  9 宇和島柔道会 10 坂下津2区愛護会 11 本町追手子供牛鬼 12 御殿町牛鬼会 13 朝日町3丁目愛護会 14 艶冶 15 明倫町愛護会 16 住吉町愛護会 17 野川児童愛護会 18 丸ノ内2、3、4丁目子供牛鬼会 19 恵美須町2丁目愛護会 20 薬師谷愛護会 21 高光校区愛護会 22 津島牛鬼会(津島町) 23 新町愛護会 24 大宮町愛護会 25 丸穂2、3、4丁目愛護会 26 丸穂1丁目子供牛鬼
 合計26団体、27体、大人364人、子供1120人、合計1484人が参加(商工会議所への届け出の数字)している。
18:00から 宇和島おどり大会
 商店街にて行われる。農協やNTT、舞踊のサークル等が参加。注目は、牛鬼鳴子の登場である。高知よさこい祭で使用されていた鳴子が、宇和島風にアレンジされて登場した。以前は宇和島おどりは何も持たず、踊っていたが、いつの頃からか団扇を使用するようになり、そして今年、鳴子が使用されるようになったのである。踊りの変容について興味深い事例である。なお、宇和島おどりは、八幡浜のてやてや音頭等とリズム、踊り方が類似しており、成立時期は同じ頃と思われる。全国的に何何踊りが商店街や商工会主体で採用されたか。平成元年前後に、宇崎龍堂による全国の祭りでの踊りの創造と同様の現象がかつてあったか。今後要調査。なお、うわじまガイヤも平成元年に宇崎によりアレンジされたものである。高知よさこいや八幡浜てやてやと同時期である。
20:10から 花火大会

7月24日(土)
13:00 稚児行列が始まる。
 街頭に出発する。この行列は子供神輿が渡御する。
13:50 親牛鬼パレード開幕式
14:00 パレード開始。
 牛鬼ストリートから袋町商店街を通って、国道56号線に出て、その後再び牛鬼ストリートに帰ってきて休憩する。その後、新橋商店街、恵美須町商店街を通り、駅前通りを経て、宇和青果にて休憩する。その後、和霊神社前まで来る。1番の丸穂牛鬼は橋を渡って、神門に頭を突っ込むが、境内には入らない。2番目の宇和島市役所牛鬼保存会の棕櫚の牛鬼は神門をくぐり、境内に入る。境内に入るのはこの牛鬼のみで、あとは橋を渡らず、川沿いに下り、須賀橋まで行ってパレードは終了する。境内に入った牛鬼も、神事を経ることなく、帰っていく。
・親牛鬼パレード参加の牛鬼は次のとおりである。
  1 丸穂牛鬼保存会  2 宇和島市役所牛鬼保存会(2体)  3 豊正園・フレンドまつの  4 宇和島中央ライオンズクラブ  5 (株)フジ  6 野村青年団  7 津島牛鬼会  8 松野町牛鬼会  9 日吉村牛鬼をかつぐ会 10 三間町青年団 11 大浦青年団 12 宇和島左官業組合牛鬼保存会 13 保田牛鬼
16:30 和霊神社にて神輿に御霊を遷す。神輿は3体。前神輿(神幸会)、中神輿(山頼会)、後神輿(九島会)である。なお、後神輿はかつては宇和島沖にある九島の氏子が出して担いでいた。現在では、形だけ九島から出していることになっている。なぜ九島から出されていたのかは要調査。神輿の他に、これの先払いをつとめる「四つ太鼓」がある。これは和霊青年団から出されるものである。10月16日の和霊神社境内社の三島神社秋祭りにも出される布団太鼓である。秋祭りには伊吹八幡神社の四つ太鼓も含めて、三体が出されるという。この四つ太鼓の寸法は高さ240、かき棒幅325、奥ゆき498、欄干幅170、欄干上部奥ゆき140、屋根幅185センチである。である。屋根は木枠に一枚の布団をのせる。周囲には小型提灯をめぐらしている。櫓の中央には太鼓をすえて、周囲を四人の小学生が乗って太鼓をたたく。子供たちは小学2、3年生である。かけ声は「センシュウラクサイ(太鼓をたたく)、マンザイラクサイ(太鼓をたたく)」である。太鼓のリズムはドンドコドンド、ドンドコドンドである。
16:50 神前に供えていた布を神輿をかく者「輿丁」らに配られる。
17:00 出御する。
 その順序は四つ太鼓、神主、総代、幡(和霊神社と墨書)、鼻高1人、錫杖2人、触れ太鼓、提灯12名、前神輿、中神輿、後神輿の順番である。ただし、神主、総代はタクシーに乗って御幸するため、先に神社を出たもので、実際町中では神主、総代は神輿の後を進む。
・御幸の通る道順および時間は、まず和霊神社を出て(17:30)、御幸橋をとおり、和霊公園を抜け、国道56号を東に進み、和霊東町と伊吹町の境まで行く。そこから折り返して和霊中町(線路裏)を進み、宇和青果農協のところをまがり、和霊神社に向かって再び56号に出て、恵美須町方面へ進む。(ここまでの御幸は和霊神社を氏神とする和霊町の端から端に進むという、氏子範囲の再確認のための御幸といえるか。)恵美須町2丁目商店街をとおり、駅前通りに出て、宇和島駅前まで進みそこで折り返す。錦町の岩崎書店の角をまがり、本町通りを進む。本町追手のミルキーリトルハウスの角を堀端町方面にまがり、商店街入り口まで進む。(ここまでの御幸は祭神清兵衛が殺害された場所つまり現在の御旅所まで進むという、祭神の由緒の再確認のための御幸といえるか。)そこから、神輿や四つ太鼓は56号の丸之内交差点に走り込む。そこに御神竹を立てて、神輿がそのまわりをまわる。その後、御旅所となる丸之内和霊神社に入る(18:40)。なお、四つ太鼓は境内に入ることなく、境内脇に置かれる。その後19:00から御旅所神事が行われ、19:30に御旅所を出発する。商店街をとおり、駅前通りに出て、そこから内港に進む。そこから海上渡御を行う(20:30)。(上陸地については未確認)須賀橋まできて、神輿、お供は須賀川に入り、川を登って和霊神社前まで進み走り込みを行う。なお、四つ太鼓と神主は川に入ることなく、神社に戻る。四つ太鼓は神輿が帰ってきたのを知らせるように、御幸橋の上で太鼓をたたく。21:00頃に3体の神輿が和霊神社前に到着し、須賀川の中に立てられた御神竹の廻りをまわり、竹の上部につけられた御幣を奪いあう。御幣がとられると、竹は倒され、神輿とともに、境内へ運ばれる(21:40)。神輿は、拝殿横に置かれ、竹は拝殿中に突っ込まれ、白木綿が敷かれた上を本殿まで運ばれる(民俗的解釈ではこれで還御したとみることができる)。この御神竹の葉(笹)については、輿丁がむしりとる。縁起物とするのであろうか。この後に、和霊神社の宮司により還御の御礼挨拶があり、輿丁たちが拝殿前にあつまり、ビールによる乾杯を行う(21:55)。その後、神輿が拝殿中に入れられ、御霊が本殿に遷される。(神道祭式の上での還御はこの時である。)そして祭は終了する。(22:30)
・なお、18:40からは、牛鬼ストリートにて、ダシのパレードが始まる。ダシは、企業等から出されたもので、鯛の作り物(漁業協同組合)、ロボコン、招き猫等様々な意匠をこらしたものである。走り込みの前に、和霊神社前に移動するが祭礼行列には組み込まれることはない。
・丸ノ内和霊神社(御旅所)での神事の奉幣者順序は次のとおりである。
 1 総代会会長 2 山家家代表(4人) 3 総代 4 前神輿代表 5 中神輿代表 6 後神輿代表 7 四つ太鼓代表 8 和霊会(お供)
・和霊神社横にある城北中学校の校庭には「入らずの森」という小高い丘がある。その頂上には小祠があり、和霊大神などが祀られている。明治24年の棟札がある。この丘は和霊神社の祭神である山家清兵衛が殺害された後、安置された場所であるとか、清兵衛の妻が祀られているなどと言われている。入ってはいけない場所とされ、校庭にありつつも子供たちは近付くことはないという。また、かつて校舎改築の際に、この丘を崩すか否かで議論があったという。愛媛県史によると、この丘は「向山」といわれ、和霊神社が一時期うつっていた場所とのことである。「向山」の名称の由来は、須賀川を隔てた宇和島城下からみると川の向こうに見える山だからついた名称か。つまり、清兵衛の祟りを伴った遺骸を城下から川向こうに除外し、祀った場所と解釈できるか。
・恵美須町商店街には、アーケードに恵美須神社の大漁旗が吊されている。ただし、これは和霊祭の時期に限ったことではなく、七夕頃から吊っているとのこと。
・御旅所となる丸ノ内和霊神社は、山家清兵衛の邸宅跡であり、一家が殺害された場所である。この場所は、江戸時代は藩の倉庫として使用されていたが、明治初年に丸之内和霊神社の小祠が設けられ、明治31年に伊達家が敷地を寄進し、明治41年に宇和島城内の日吉神社の本殿を移築し現在にいたるという。なお、本殿裏には古井戸がある。これは山家一家が殺害された時に、清兵衛の四男美濃が入水したといわれのあるもの。井戸の上に祠が設けられている。実に気味悪い一種異様な雰囲気のする空間である。
・和霊大祭には昭和20年代にはサーカスが来ていたとか、昭和50年頃にはおばけ屋敷があったとか、伊万里、唐津を売りに来ていたという。
・聞くところによると、和霊の御旅所行列には、日振島の庄屋清家が参加しているとのこと。調査すべし。私がかつて日振島にて聞取りしたところ、「和霊祭は日振の船がつかないとはじまらない」といっていた。それと関係あるのだろうか。今回はそこまでは気付かなかった。このことが判明したら非常に興味深い研究となる。神輿が九島から出されていることとも関連させて要調査。
・和霊神社前の須賀川は河川改修をしている。大正時代のことと思われるが、史料を確認する必要がある。この改修により、神田などが潰れ、旧河川の上が道路や和霊公園となっている。つまり、現在の走り込みと河川改修の前の走り込みは場所が異なっている。この時代的変遷をおさえる必要があるだろう。

・以上が昨年の見聞記録であるが、祭が大規模であるため、追加調査が必要な部分がある。今後、聞き取りなどの調査に再度うかがいたい。

2000年06月06日

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フカの湯晒し

2000年06月01日 | 八幡浜民俗誌

 八幡浜地方では鮫のことをフカと呼ぶが、このフカという方言は関西以南で用いられるものである。これを湯晒しにして食べるのだが、作り方は次の通りである。 ①二、三尺ほどのフカの頭に包丁を入れて落とす。②肛門のあたりから腹を切って内臓を抜き出す。③熱湯にくぐらせて、冷水で冷やす。④たわしでこすって表面のさめ肌を落とす。⑤三枚におろしてぶつ切りにする。そして寒天、きゅうり、こんにゃく、豆腐などを付け合わせて盛りつければ完成である。 八幡浜では当然のようにフカを湯晒しにして食べるが、鮫を食する地域は全国的に見ると実は少ない。気味の悪い魚、臭みのある魚として嫌われることが多いのである。私も大学時代、東京で鮫(フカ)を当然のように食べていたと友人に告げると、不気味がられたことがある。 鮫を食べる文化を持つ地域として有名なのは伊勢地方と広島県山間部、そして八幡浜を含む愛媛県南予地方である。 伊勢地方(三重県)では古代より現在に至るまで、鮫を干物にして、伊勢神宮に神饌として奉納している。鮫は安産で、生命力が強いことから神饌(神の食物)とされるのだろう。八幡浜地方でもフカの湯晒しは日常食ではなく、ハレの食事、つまり祭り、盆正月、冠婚葬祭などに食べるものである。鮫は日本古代神話では神格化されているが、現在でも神聖な魚として捉えられているため、ハレの食事となっているのだろうか。 また、八幡浜では、鮫の肉は独特の臭みがあるため、生では食べず、湯晒しにして、素味噌をつけて食べる。この臭さの正体はアンモニアである。これが含まれていることにより、防腐の効果があり、鮫肉は長持ちするといわれる。そのため、鮫は全国的に見ると、新鮮な魚を食べることのできない山間部で好まれる傾向がある。例えば、海に面していない広島県の山間部の江の川水系では、鮫をワニと呼び、その刺身が郷土料理となっている。 八幡浜地方は、新鮮な魚を食べることができる地域ではあるが、さらに全国的に食べられることの少ない、臭みのある鮫を湯晒しにして、素味噌を用いるという手段で食べようとする。魚に関する食文化が発達している証拠であろう。

2000年06月01日 南海日日新聞掲載

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