愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和島の八ツ鹿踊りの歴史

2012年10月24日 | 祭りと芸能
先日21日午前、宇和島市の宇和島結人プロジェクトで牛鬼、鹿踊について少しだけ話をしたが、牛鬼そして南予鹿踊に関する江戸時代の確実な史料はどのくらいあるのか紹介してみた。

慶安2(1649)年に今の宇和津彦神社祭礼が始まっているので、そこに八ツ鹿踊りや牛鬼が登場していたと考えてみたいものであるが、それを裏付ける史料は今のところ確認されていない。

牛鬼は天明年間より前の史料は確認できないため、推測であるが18世紀半ばに宇和島の祭礼に取り入れられたものではないかと私は考えている。

鹿踊については、2000年8月30日付で私は「宇和島・鹿踊りの始まり」という一文を「愛媛の伝承文化」に掲載しているので、そちらをご参照いただきたい。(ここに再掲しておきます)

「宇和島・鹿踊りの始まり」
平成5年2月11日付のうわじま新聞に宇和島の鹿踊に関する記事が掲載されている。これは当時の宇和島市立歴史資料館の山口喜多男館長が執筆したもの。その中で龍光沙門伝照(龍光院第六世院主、宝暦四年、66歳没)の旧記なるものが紹介されている。「宝永三年(一七〇六)、星霜五十七回を経て鹿頭悉く破損。時の町会長・今蔵屋與三右衛門隆久(旧裡町三丁目、長瀧氏)、紺屋忠大夫(旧裡町四丁目、山崎氏)、町内の有志に諮って修理。鹿頭等十体。不朽に後裔に貽す」以上がその内容である。1706年の段階で、すでに57年前、つまり、宇和島の一宮祭礼の始まった慶安2年(1649)に鹿踊が登場していたことを証明する史料ということになる。私は先日発表した南予鹿踊に関する論文「南予地方の鹿踊の伝播と変容」(『愛媛まつり紀行』、愛媛県歴史文化博物館、2000)では、この史料を取り上げることができなかった。というのも、原典が確認できなかったのである。山口氏は故人となり、直接お話をうかがえなかったため、直接、龍光院に問い合わせてみたものの、この史料自体、昭和11年に焼失しており、寺側でも史料の内容がわからないらしい。どこかに写本があるのだろうと思って、方々探してみたが見つからない。果ては宇和島の近世史料に最も精通している松山大学の先生にも聞いてみたが、写本の存在はご存じなかった。このようなわけで、内容的には興味深いが、一次史料としては使えず、論文では取り上げることができなかったのである。論文では、18世紀半ばの宝暦年間には宇和島藩領内各地に鹿踊が伝播しているので、18世紀前半以前に鹿踊が仙台から取り入れられたと結論付け、17世紀半ばの慶安年間に宇和島に鹿踊が存在した記録は確認できないと記した。龍光沙門伝照の旧記が写本でもよいので、確認することができれば、結論は変わってくる。さて、この史料の内容から推測できるのは、慶安2年の一宮祭礼の始まりとともに鹿踊が登場していたこと、さらには「鹿頭等十体」とあることから、鹿の頭数を考えるヒントになると思われる。十体とは、裡町三丁目と四丁目の各五体の合計とも考えられるし、八つ鹿の8体プラスその他の頭2体ということも考えられる。実際、現在の鹿踊でも、子供の扮する兎が出る所もある(瀬戸町三机の事例)。ただし、宇和島の鹿踊は江戸時代末期以前の記録から、五ツ鹿であったことが証明されているし、八ツ鹿になったのも大正11年と近代になってからであることから、やはり5体の2セットの計10体と考えるのが妥当だろう。以上、原典が確認できないものの、興味深い内容の史料からわかることを、ここで紹介してみた。

以上が再掲である。鹿踊は、実際に慶安2(1649)年に東北地方から宇和島に伝播して祭礼の練物として登場していた可能性がある。この文章を書いてから12年経ったが、この龍光沙門伝照の旧記に関しては、未だ何の進展もない。実に恥ずかしい限りである。

さて、この一文にも書いたように江戸時代後期には、絵巻を見ると宇和島の鹿踊は五頭立てで、いわゆる「五ツ鹿」であった。これが「八ツ鹿」になった経緯についてはこれまでも何度か紹介しているが、『愛媛県に於ける特殊神事及行事』(昭和2年)に「近年五ツ鹿ト称シ五人ノ少年鹿ノ仮面ヲ被リ舞踊セシヲ大正十二(ママ)年十一月 皇太子殿下行啓アラセラルルニ際シ古式ニ則リ三頭増シテ八ツ鹿トナシ台覧ニ供シタリ」とあり、もともと宇和島の八ツ鹿が五頭立てであったことがわかる。宇和島市立伊達博物館所蔵の宇和津彦神社祭礼絵巻(江戸時代後期の祭礼の様子を描いた絵巻)にも五ツ鹿で描かれている。また、現在、宇和島市指定有形民俗文化財となっている安政4年製作の鹿踊の頭(かしら)も5頭であって8頭分は無い。

ただし、木下博民先生が2009年に著した『八つ鹿踊りと牛鬼』(創風社出版)67頁に、昭和44年当時、八ツ鹿保存会の会長であった曽根政一郎さんの記したメモが紹介されている。

安政4(1857)年6月、それまで使われていた八つ鹿踊りの諸道具が大破したので、五ツ鹿として再調整したという。町民住民の経済的負担困難のため、五ツ鹿に縮減したと記されているらしい。

私は未だこの曽根さんのメモを実見していないのだが、非常に興味深い記述である。私は単純に江戸時代は絵巻に描かれているものも、残っている頭(カシラ)も5頭であり、大正時代、東宮(皇太子)が宇和島に来た際に、五ツ鹿から八ツ鹿に変えたとあるので、江戸時代は五ツ鹿であると考えていたが、そんな単純なものでもないようだ。この点も調べを進めないといけない。

ただし、江戸時代に宇和島から伝習した西予市宇和町小原のように五ツ鹿が宇和島周辺に広く一般に見られ、八ツ鹿は西予市城川町窪野のように江戸時代文政年間に八ツ鹿にしたという特別な事例とそこからの伝播した地区以外には八ツ鹿が皆無であることは気になる点である。江戸時代に宇和島が八ツ鹿であれば、周辺部にもっと八ツ鹿が残っていても不思議ではない。

さらに、今月、西条市総合文化会館から刊行された福原敏男先生『西条祭絵巻-近世伊予の祭礼風流-』に掲載された「宇和津彦神社祭礼絵巻(末広本)」には五ツ鹿で描かれている。この末広本は嘉永2(1849)年の制作で、曽根メモにあるように安政4(1857)年以前は八ツ鹿だったという内容と矛盾する。この江戸時代の頭数問題は、これからきちんと整理して考えないといけない課題である。

さて、『郷土趣味』という大正時代の雑誌があり、そこに宇和島八ツ鹿踊りのことが少し紹介されている(水島兎人「伊豫宇和島八ツ鹿踊」『郷土趣味』第4巻第3号大正12年3月発行)。

それを意訳すると、

例年京の春を飾る都踊が4月1日から催される。
昨年東宮殿下南豫行啓の時鶴島城下天赦園にて台覧に供した八ツ鹿踊を、
本年度東宮御成婚の祝賀にと上演することとなった。
二荒伯と吉田初三郎の尽力で
2月13日祇園歌舞練場に宇和島の人々を招き
識者都踊関係者に試演してみせることになった。
多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか
あの広い都踊の舞台で鶴島城を望んだ天赦園の秋色の背景は
実地を写された吉田氏(初三郎)の手にてできそうである。
南豫の一角に人に知れなかったこの八ツ鹿踊が、
都踊の呼ものとなり、
多くの人々に知らしめる事は宇和島の人々にとって
其の郷土の誇りでなければならぬ。


この『郷土趣味』からわかることがいろいろある。

まず、大正11年11月に東宮行啓で披露した八ツ鹿踊りは、もう早速翌年2月13日に京都祇園歌舞練場に行って試演しているのである。行啓が11月26日だったから実質2ヵ月半という早さである。

その試演に尽力したのが「二荒伯」と「吉田初三郎」。吉田初三郎はあの著名な鳥瞰図絵師。大正時代に宇和島の鳥瞰図も描いている。そして二荒伯というのが、伯爵の二荒芳徳(ふたらよしのり)である。二荒芳徳は宇和島行啓の前年の殿下欧州巡遊時に側近秘書官を務めた人物で、旧宇和島藩主の九代宗徳(むねえ)の九男でもある。彼らの尽力があって京都での試演となったのである。

そしてその直後の4月1日からの京都の都をどりで、八ツ鹿踊りが上演されることになったのである。大正12年のことである。

気になるのが、「多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか」という一文である。舞妓が八ツ鹿踊りを演ずることになるが、それは宇和島で踊られていたそのままの芸態ではなく、「多くの著名な踊の師匠達の手により」舞台用に改変させられているのである。この点は、この都をどりの舞台でのことだけであったのか。この舞台での改変に影響されて、それまでの八ツ鹿踊りの芸態に変化は無かったのか。それは気になる点である。実際、現在の宇和島八ツ鹿踊りは他の周辺地域の鹿踊と比べると、優美、繊細で芸術的な印象を受ける。この京都での踊りの師匠による影響は無かったのか。これについても明らかにすべき課題である。

以上のように、牛鬼や鹿踊については、わからないこと、明らかにすべきことが数多くある。宇和島結人プロジェクトが軌道に乗りつつあるので、地元の多くの方々にいろいろと調べていただいて、これらの課題が少しでも解決できることを願っている。



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広島県因島土生町の秋祭り

2012年10月22日 | 祭りと芸能
10月21日は、広島県因島土生町の秋祭りでした。何年も前から一度は見てみたい祭礼の一つでした。昼間の宇和島でのお仕事を終えて、急ぎ因島へ直行。夕方からが賑やかな行事なので、何とか間に合いました。神社は大山神社。団車(だんじり)と曵舟が勇壮な祭礼で、獅子舞も奉納されます。

団車(だんじり)は、三台登場します。破風屋根なので、一見、瀬戸内海島嶼部に多い破風屋根の曳き屋台のようですが、構造は布団太鼓屋台と似ています。屋根が重ね布団ではないのですが、四本柱の中央に太鼓を据えて、これを叩きながら、差し上げりたりする。車は近年のものであり、担ぎ屋台の一種です。

このような「担ぎ」を基本とする太鼓屋台は、ここ因島でも、だんじり(表記は因島では団車)と呼ぶのですが、隣の生名島や弓削島でもやはり「だんじり」と呼ばれる布団屋根の屋台があります。「だんじり」というと、愛媛では西条市のだんじりの印象が強烈ですが、これもだんじりなのです。新居浜、四国中央市の方からすれば「太鼓台と呼ぶべき?」とも思うかもしれませんが、瀬戸内海島嶼部では、これを「太鼓台」とは呼ばずに「だんじり」と言っています。

ちなみに神輿を担ぐ際には掛け声が「ちょうさ」でした。香川県の方からすれば「ちょうさ」といえば太鼓台。こちらは神輿の掛け声となっています。やはり「ちょうさ」は瀬戸内全般で、神輿、屋台等をかつぐ際の一般的な掛け声と見ていいのでしょう。



獅子舞も太鼓、笛、カネの囃子で、子どもの演じる「獅子止め」の役が見られます。因島からそう遠くはない大三島の獅子舞に似ていました。愛媛では大三島型というように分類していましたが、広島県側の獅子舞の分布も押さえた上で、大三島、因島型獅子舞の分布域を確認する必要を感じました。


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国指定重要文化財 日土小学校の見学についての注意

2012年10月20日 | 日々雑記
本日10月19日、国の文化審議会が八幡浜市立日土小学校の校舎を国の重要文化財に指定するように文部科学大臣に答申しました。

文部科学大臣といえば、田中眞紀子さんではないか。それも何か話題性があるなあ。

戦後の建築物としては4例目です。

一つ目は、丹下健三設計の広島平和記念資料館(広島市)

二つ目は、村野藤吾設計の世界平和聖堂(広島市)

三つ目は、ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館(東京都台東区)、

そして四つ目となるのが、大洲市出身で八幡浜市役所にも勤めていた建築家・松村正恒設計の日土小。

戦後木造建築では全国初。

そして現役の小学校校舎としても全国初となります。

この日土小学校の指定の理由については、文化庁からのプレスリリースが参考になるので、そちらをご覧ください。

また、日土小学校保存活動の経緯や最近の動向については、

「日土小学校を考えるネットワーク」が参考になります。


というわけで、国重文指定、めでたし、めでたし。おめでとう。と喜びたいところなのですが、

今後、危惧される点を一点だけ紹介しておきます。

それは、これだけ話題となった日土小学校。

この校舎を見学したいという方々が次々に来られる可能性があるということです。

現在、日土小学校は、一般には公開されていません。

それは現役の小学校だからです。

授業への影響があることから見学等を制限せざるを得ない状況なのです。

国の文化財となったものは、一般にすべて公開すべきだと思うかもしれませんが、

例えば、八幡浜市梅の堂の国指定、平安時代の仏像「阿弥陀三尊仏」も年1回の御開帳(公開)。

宇和島市伊達博物館に保管される国指定「豊臣秀吉像」も年約10日程度の公開が原則というように

有形文化財の仏像や、工芸品など、後世への保護、保存のために、文化財を常時公開しているわけではありません。

日土小学校には、現役小学校で、普通に学校に通って、そこで過ごしている小学生がいるわけです。

急に日土小学校に行って、見学したいといっても、学校での教育、運営がまずは第一であり、

そこに支障が出るような見学行為は、慎まなければいけません。

では、「公開」はどうなっているのかというと、

八幡浜市教育委員会では、平成21年から

学校が長期の休みとなる夏休み、冬休み、春休みに定期的に見学会を開催しています。

これが、今後は、文化財の公開日となると言ってもいいのかとも思います。

次回は、冬休み12月30日(日)午前9時~午後4時。

その次は、春休み3月31日(日)午前9時~午後4時。

その次は、来年の夏休み。

というように、他の国指定文化財に比べても、年3回の見学機会があるというように

比較的、公開性は配慮された状態といえます。


先日の「2012年ワールド・モニュメント財団 ノール モダニズム賞」受賞に続き、

全国的な話題となった日土小学校。

児童が、ここで日常の学校生活を営んで、そして成長することが設計者の松村正恒の思いでもあり、

それこそが、今回の文化財の指定、保護、保存の求められた意義だとも思います。


以上、今日のニュースを拝見して、「すぐに見に行きたい!」と思った方も多いかと思いますが、

現役小学校であることをご配慮いただき、

見学は、定期的な公開日を待ちましょう。



公開(見学会)については、こちらの八幡浜市役所ホームページをご参照ください。

http://www.city.yawatahama.ehime.jp/03jyouhou/syugaku/hiduti/hiduti.htm


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川之江の中所獅子舞

2012年10月17日 | 祭りと芸能
四国中央市川之江の秋祭り。川之江町長須のうち中所と呼ばれる地域で長らく伝承されている獅子舞です。もともとは香川県荘内半島の生里から伝播したという言い伝えがあるようですが、四国中央市や新居浜市、西条市のように太鼓台、だんじりが豪華絢爛に登場する祭礼では獅子舞は少ないのです。川之江の秋祭りではここ中所の獅子舞のみです。保存会の方々からお話をうかがっていると、太鼓台ではなく、獅子舞を継承する!長く継承している地元の方々の獅子舞への心意気を強く感じました。東予地方は太鼓台、だんじりが多くても、民俗芸能が少ない地域です。この中所の獅子舞が貴重な無形民俗文化財だと改めて感じさせられました。

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秋祭りのお多福 西予市野村町

2012年10月14日 | 祭りと芸能
本日行われた野村町野村の秋祭り。阿下地区からお多福と助夫。この面は張り子細工。和紙を張り重ねて作られています。いまから7、8年前に新調したが、それまで使用されていたものは江戸時代の製作で、宇和島城下の森田屋礒右衛門の作。現在、愛媛県歴史文化博物館にて保管しています。このお多福には特に芸態があるわけではありませんが、家々を回っては、福をもたらすといいます。ちなみに持っている棒は、陰、陽を表すとされています。愛媛でもお多福が神社祭礼の練りの一つに出るというところは類例がありません。江戸時代から行われている野村の祭りの伝統であり、特徴といえます。

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西予市野村町の牛鬼

2012年10月14日 | 祭りと芸能
野村町野村の牛鬼です。表情が宇和島地方の牛鬼とは異なります。野村町、城川町、肱川町周辺に似たような形相の牛鬼が分布しています。






※gooブログは、写真をアップロードすると320×240ピクセルにファイルサイズが自動圧縮されてしまいます。オリジナルサイズでアップする方法もあるのですが、今のデジカメで撮った写真、ファイルサイズが大きすぎて、オリジナルアップだと画面からはみ出てしまいます。ためしに、640×480ピクセルに加工してアップしてみました。それがこの写真です。写真が小さくて見づらいということでしたので、ちょっと試してみます。

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西予市野村町の四つ太鼓(太鼓台)

2012年10月14日 | 祭りと芸能
今日は西予市野村町野村の三島神社の秋祭りでもありました。こちらの祭りもにぎやかです。まずは四つ太鼓(いわゆる太鼓台)です。



※gooブログは、写真をアップロードすると320×240ピクセルにファイルサイズが自動圧縮されてしまいます。オリジナルサイズでアップする方法もあるのですが、今のデジカメで撮った写真、ファイルサイズが大きすぎて、オリジナルアップだと画面からはみ出てしまいます。ためしに、640×480ピクセルに加工してアップしてみました。画面上、横幅640ピクセルが最大のようです。これ以上となるとはみ出してしまいます。画像アップする際にその都度640ピクセルに加工するのは面倒だなあ。gooブログさん、なんとか写真アップのサイズ仕様を数種類選択できるようにしてもらえたら助かりますね。

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西予市三瓶町の牛鬼

2012年10月14日 | 祭りと芸能
明日10月15日は西予市三瓶町の秋祭りです。牛鬼に四つ太鼓などが勇壮に鉢合わせをする豪快なお祭りです。去年は雨がひどくて鉢合わせはありませんでした。祭りの責任者が危険と判断したためとうかがいました。危険を回避させる祭りの執行、運営ができていることに感心したものです。勇壮は鉢合わせが暴走しないための祭りの仕組みにも興味を持ちました。写真は、以前使用されていた牛鬼の頭(かしら)です。

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宇和島市の太鼓台「ヨイサ」

2012年10月14日 | 祭りと芸能
10月14日。午前中に宇和島市長堀の三島神社に参拝してきました。秋の例大祭。牛鬼やヨイサ(四つ太鼓、太鼓台)、唐獅子などを拝見することができました。唐獅子の囃子、そして囃子屋台が興味深く、愛媛の獅子舞についてもう少し歴史性や地域性をきちんと把握しないといけないと思いました。南宇和の獅子舞、西宇和の獅子舞との比較の必要性です。宇和島藩領内で江戸時代、明治時代と獅子舞がどのように伝播してったのか。写真は、ヨイサ。いわゆる太鼓台です。「千秋楽じゃ、万歳楽じゃ」と乗り子が言いながら太鼓を一所懸命に叩いていました。午後の神幸祭や夕方の走り込み(これも宇和島独特の神輿行事ですね)もありますが、所用で午前中で帰宅しました。

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豊前岩戸神楽

2012年10月14日 | 祭りと芸能
福岡県豊前市の豊前岩戸神楽。10月13日に現地にうかがってきました。この日は山内神楽講が地元山内地区の嘯吹(うそぶき)八幡神社で神楽を舞うとのことで、駈仙(みさき)や湯立が見られればいいかなと思い、深夜までの奉納には立ち会えませんでしたが、夕方まで拝見させていただきました。写真は、綱駈仙(つなみさき)。山内神楽講では綱御先と表記するようです。鬼面をつけた御先と幣方が舞いますが、幣方が藁製の蛇を扱い、御先と蛇のかけあいがユーモラスな演目でもあります。「みさき」という呼称にも非常に興味深いものがあります。中四国では神楽で鬼面をつけるのは「だいば」とか「だいばん」と呼ばれることが多いのですが、豊前地方では「みさき」。鬼イコール「みさき」。その解釈については諸説あるようですが、神楽の歴史を紐解く上では重要なキーワードです。あと、藁製の蛇についても、中四国の神楽との比較で興味深いものがあります。蛇といってもヤマタノオロチではありません。これも興味深いものです。あと、豊前岩戸神楽では湯立の際に10メートル程の竹を斎庭の中央に立てて、これに蜘蛛舞のごとく登るという場面もありました。柱松との関連を彷彿とさせます。愛媛の神楽と比較する上で、いろんな要素が対照しやすいという印象を持ちました。つまり、全く種別の違う神楽というより、一見、異なるように見えますが各所に類似性が多く見られるということです。愛媛の神楽を考える上では非常に参考になる豊前岩戸神楽でした。

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【新刊】特別展図録『佐田岬半島と西日本の裂織』

2012年10月12日 | 日々雑記
10月6日に開幕した愛媛県歴史文化博物館の裂織展。

その特別展図録が刊行されました。全国の裂織分布図や、裂織の分類、そして東北地方から、日本海、西日本、南日本各地の裂織をカラー図版で紹介しています。


【書名】
愛媛県歴史文化博物館編
『佐田岬半島と西日本の裂織』2012年10月発行
A4版、168頁

【目次】
日本裂織列島/日本海・丹後地方の裂織/四国・佐田岬半島の裂織
論考・資料
井之本泰「木綿再生-丹後地方の裂き織り-」
深堀習「21世紀の暮らしに拓く裂織」
今村賢司「愛媛県佐田岬半島と西日本の裂織」
付録 佐田岬半島の裂織に関する聞き書き
図版目録
主要参考文献

価格は2,000円です。

ご購入希望の方は、こちらのページをご覧ください。

http://www.i-rekihaku.jp/friend/sale.html



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日本民俗学会年会

2012年10月03日 | 日々雑記
庭のキンモクセイ。香りただよう10月になった。

10月6~7日に東京学芸大学で第64回日本民俗学会年会が開催される。

毎年10月上旬で松山秋祭りなどと重なるため、結構、参加がしづらい日程。

今年は何とか時間を調整して、10月6日のみ参加することにした。

7日に多くの研究発表があるので、そちらを優先したいのだが、7日は既に予定が入っている。

6日夕方には東京を離れないといけない。残念。

6日には既に何人かの先生方と直接お会いして打ち合わせする予定を入れているが、

ばたばたで会場を去ることになりそうだ。

日本民俗学会年会って、いつも服装に悩まされる。

上に羽織るものあっても暑かったり、

ワイシャツ一枚では寒かったり、中途半端。季節の変わり目。


明日4日からは、祭礼調査で遠出。

これも前々から予定を入れていた。

7日からの調査も前々からの予定。

中間日の6日は体を休める日として設定していたが、

諸々の打ち合わせもあって、年会に顔を出すことにした。


明日から遊牧民のように渡り歩く、

というか愛媛を出ては愛媛に帰っての連続。

自宅には帰るので、遊牧民ではないが、パソコン持参で電車の中でのお仕事が続きそう。

お天気の心配が無さそうなことだけが安心材料。


年会とキンモクセイで感じる秋本番。


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10月6日開幕 「佐田岬半島と西日本の裂織(さきおり) 」展

2012年10月02日 | 日々雑記
愛媛県歴史文化博物館の特別展。

「 佐田岬半島と西日本の裂織(さきおり) 」
まもなく開幕します。

詳しくはこちら。
http://www.i-rekihaku.jp/exhibition/index.html

全国の裂織、北は青森県から南は鹿児島県まで。特に京都府丹後の裂織(国指定有形民俗文化財)や、地元愛媛の佐田岬半島の裂織の仕事着を一堂に展示する滅多にない機会です。


開催期間 : 平成24年10月6日(土)~12月2日(日)

開館時間 : 午前9時~午後5時30分(入館は午後5時まで)

休館日 : 毎週月曜日(但し、10月8日[月]、11月5日[月]開館、10月9日[火]、11月6日[火]休館)

主 催 : 愛媛県歴史文化博物館

後 援 : 愛媛県市町教育委員会連合会・愛媛新聞社・NHK松山放送局・南海放送・テレビ愛媛・あいテレビ・愛媛朝日テレビ・愛媛CATV・FM愛媛

【展示趣旨】
古木綿などを裂き、新たな布を再生する手仕事の技・裂織(さきおり)。丈夫で暖かく、撥水性があり、色彩豊かな裂織の布地は、農・山・漁村の仕事着として生まれ変わり、厳しい労働から身体をやさしく護り、人々の生活を支えてきました。
裂織の衣服は、主に東北や日本海沿岸地方に伝わったものが知られてきました。日常的な生活用具である仕事着は、不用となると処分されるため残りにくく、各地でわずかに現存する裂織の衣服は、貴重な民俗文化財として、国や自治体の指定文化財となっているものもあります。
平成9~10年に実施した当館の調査により、四国の最西端に位置する愛媛県佐田岬半島では、長年、裂織による濃密な衣生活が営まれていたことがわかりました。以来、佐田岬半島の裂織は、西日本・四国地方に存在する貴重な事例として、全国的に注目されています。
本展では、当館の佐田岬半島の裂織コレクションとあわせて、青森の炬燵がけ、新潟のツヅレ、島根県隠岐諸島の珍しい貫頭衣式のクビヌキ、広島県山間部のツヅレ、鹿児島県下甑島のニンブなど、日本各地の様々な裂織を紹介します。なかでも、平成22年、国の重要有形民俗文化財に指定された「丹後の紡織用具及び製品」の中から、京都府丹後地方の裂織を特別に公開します。丹後地方宮津の廻船問屋で道行着として仕立てられたミチユキは、おしゃれで美しく、大変珍しいものです。
裂織は従来、東日本・日本海の衣文化として捉えられていましたが、本展で紹介する四国・佐田岬半島、近畿、中国、九州の各地方の裂織を通じて、西日本の裂織について考える機会となれば幸いです。
近年、趣味で裂織をする愛好家が増えています。最後まで布を捨てることなく活用した先人の布を慈しむ心。
次々に新たな用途へと甦らせていく創作的な手仕事の技。裂織には、使い捨て文化の生活を見直し、資源循環型社会づくりが課題とされている現代のわたしたちに大切なメッセージをなげかけています。

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