愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「人を神に祀る風習」

2000年11月30日 | 八幡浜民俗誌
「人を神に祀る風習」

 柳田国男は『人を神に祀る風習』において御霊信仰の様々な事例を紹介している。御霊とは、霊のうちでも特に怨みをもった霊魂、すなわち祟りをあらわす怨霊のことである。生前に怨みを残して死亡した人の霊魂が様々な災厄をもたらすと信じられ、その霊を鎮めるために、神として祀り上げる事例が愛媛県南予地方に多いことを柳田は指摘しているのである。例えば宇和島の和霊神社は江戸時代初期に殺害された宇和島藩家老の山家清兵衛が種々の祟りをなし、それを鎮撫するために建てられた神社である。非業の死を遂げた人が神に祀り上げられる例は、吉田町の安藤神社など類例は多く、八幡浜においても、五反田柱祭りの起源ともなっている修験者金剛院を祀った金剛院神社が五反田にある。戦国時代に元城に仕え、九州方面に修行に出ていた金剛院は、元城主摂津豊後守と萩森城主宇都宮房綱との戦の時に、城に帰着した際、敵に見間違われて射殺されたといわれ、その後にこの地方に悪病が流行し多数の死者が出た。人々はこれを金剛院の祟りと噂し、その霊を慰めるために金剛院を祠に祀るとともに、柱祭りを始めたと伝えられている。
 地元五反田では、金剛院のことを「金剛院さま」と呼んでいるが、南予地方の他の御霊信仰系の神も「和霊さま」、「新田さま」などと「さま」付けで呼ばれている。御霊信仰系以外の神も、八幡神社が「八幡さま」と呼ばれるように、「さま」をつけて呼び、「さん」付けで呼ぶことには抵抗がある。ところが松山地方では、伊予豆比古命神社(通称椿神社)のことを「椿さん」と呼ぶなど「さん」付けである。南予地方は御霊信仰が根強いなど、神が未だ荒ぶる存在として認識されており、馴れ馴れしく「さん」付けできず、「さま」と呼んで畏敬の念を抱いているとみることができるのである。
 神に対する感覚の違いは秋祭りの神輿の担ぎ方にも現れる。中予地方の祭りでは、神輿同士を激しく揺さぶったり、鉢合わせしたりするなど、勇壮に担ぐ。北条市国津比古命神社のように石段から神輿を投げ落とすという例まである。これは中予地方の神は神輿を激しく振ることによって神威が発動すると考えられているのであり、神は普段は寂然とした存在であることを示しているのであろう。
 しかし、南予地方の神は、人を祀り上げた御霊信仰を基盤としたものが多く、未だ若々しい不安定な存在であるという認識があるため、神輿は静かに厳かに担がれる。万が一、激しく神輿を振ったり、鉢合わせをしたりすると、祀り上げてようやく鎮めた祟りが再発しかねないという無意識の心意があるではないだろうか。


2000/11/30 南海日日新聞掲載


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「南瓜の方言」

2000年11月23日 | 八幡浜民俗誌
「南瓜の方言」

 八幡浜では一般に南瓜(かぼちゃ)のことをナンキンというが、この方言は近畿地方を中心に西日本各地に聞くことのできるものである。江戸時代中期の各地の方言をまとめた『物類称呼』によると、「南瓜 ぼうふら 西国にてぼうふら、備前にてさつまゆうがほ、津国にてなんきん、東上総にてとうぐはん、大坂にてなんきんうり、又ぼうふら、江戸にて先年はぼうふらといひ、今はかぼちやと云」とあり、全国的にみると南瓜の方言は様々であることがわかる。ナンキンは大坂で言われていた「なんきんうり(南京瓜)」の省略形であろう。つまり、中国の南京から伝わった瓜という意味である。
 そもそも、全国的な呼称であるカボチャも、カンボジア(産の野菜)が訛ったものであり、南瓜の方言には海外の地名が含まれることが多い。『綜合日本民俗語彙』(平凡社)によると、山形県荘内地方では、南瓜をロスンまたはルスンという。宮崎県東臼杵郡ではナンバン、高知県宿毛市沖之島ではチョウセンという。ロスン=ルソン(フィリピン)、ナンバン=南蛮、チョウセン=朝鮮と、いずれも海外の地名で呼ばれている。御荘町の大正初期生まれの方に聞くと、チョウセンという呼称は南宇和郡でも用いられており、カボチャやナンキンは近年になって使い始めた言葉だという。
 現在の南瓜の方言分布を示したのが図1である。関東地方で用いられるトーナスは「唐茄子」のことであり、中国の「唐」の名が用いられている。徳川宗賢編『日本の方言地図』(中公新書)によると、九州で使われるボブラは、南瓜のポルトガル語aboboraに由来する言葉で、戦国時代にポルトガル船によって九州に南瓜がもたらされ、定着した名残だと思われる。やはりこの方言は海外との結びつきが強い。
 なお、八幡浜にはもう一つの南瓜の方言がある。大正時代初期以前の生まれの人が使用していた言葉だが、「トウガン」と言う。トウガンといえば南瓜とは別の野菜で、瓜の一種である「冬瓜」を思いおこすが、八幡浜や広島県、高知県の一部では南瓜のことを「トウガン」と呼んでいた。これも外国名が付けられているとすれば、漢字で表記すると「唐瓜」になると思われる。この忘れられかけている方言「トウガン」も、日本の南瓜の方言を研究する上で、海外名を残しているものとして、貴重な存在といえるだろう。

2000/11/23 南海日日新聞掲載


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はまちの会第1回

2000年11月10日 | 地域史
第1回例会

日 時  2000年11月10日(金)

時 間  19:00~21:00

場 所  八幡浜市総合福祉文化センター 2階ホール

内 容  ①講演「八幡浜市民の歴史的関心について」
        講師 福井太郎氏(八幡浜市文化財保護委員長)
     ②参加者による小発表・情報交換


<福井氏講演趣旨>
福井氏は、長年八幡浜市の文化財保護委員長を務められ、八幡浜史談会でも活躍されている八幡浜の郷土史の第一人者。今回のテーマは「八幡浜市民の歴史的関心について」。
これは、最近、八代にあった菊池家庄屋屋敷や、旧五十二銀行が保存されることもなく取り壊されたり、中世城郭元城も山肌が削られ、元の姿を消してしまったという、地元の文化遺産が無くなりつつあるという傾向があり、それに警鐘を鳴らす意味で、講座タイトルは決められました。
お話の中では、まず、郷土史を実践する際には、歴史学的な手法に忠実であることを強調されました。とくに、文献を基本とし、伝承を史実と扱ってしまう傾向が郷土史には、まま見られるため、歴史学的な態度からすると、文献第一にスタートすべきであることを述べられました。
次に、本題にもなるのですが、八幡浜はかつて「伊予の大阪」といわれ、栄えた町であり、様々な歴史や文化があるにもかかわらず、当時の人々は経済の繁栄に眼がいってしまい、子供や孫に地元の文化を語り継いでいこうという姿勢が弱かったのではないか。
八幡浜は今は斜陽の時期にあるが、自らの文化を振り返ることをしなければ、市の発展はなく、また、それを子供に伝えて行くことが我々大人の使命なのではないかと主張されました。
また、消えゆく地元の文化遺産の保存については、行政に対して批判的になるのではなく、それはまずは市民の問題であり、市民の盛り上がりがあってこそ、行政との関係が派生するのであって、文化財保護が危機に直面した時には、市民がそれぞれ歴史的関心を抱くことが大切だと話し、まとめとされました。
福井氏の話を要約すると以上のようなものでした。

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