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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

ブログとtwitterの連携

2011年05月30日 | 日々雑記
このブログを更新すると数時間後には、自動的にtwitterに更新されたお知らせが流れるように設定しているが、gooブログパーツで、twitterでのつぶやき自体をブログ上に表示できる機能があることを知ったので、試しに使ってみます。本当は、サイドバーに表示したいのですが、そのやり方がわからない。今回のようにブログの一記事として表示すると、日々ブログの記事更新すれば、twitterパーツが下へ下へといってしまって、表示する意味がなくなってしまう。試行錯誤で、いろいろやってみます。このような設定はちょっと苦手。

あとは、ブログ、twitterとfacebookとの連携も模索しながら、いまだうまくいかず・・・。ただ、facebookとtwitterの同時投稿はなんとかできるようになった。

本当は、USTREAMの動画もこのブログ上で表示したい。そのブログパーツもあるのだが、いつもエラーが出てなぜか表示できない。

このように、ブログ、twitter、facebook、USTREAM。いろいろ使っているものの、ちょっと拡散している状態。これを統合したいと思ったが、将来的には、これがすべてfacebookベースになって統合されていくような気がする。



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西予市城川町の茅葺き「茶堂」

2011年05月28日 | 民俗その他
西予市城川町に残る茅葺きの文化遺産「茶堂」。
この文化的価値と、保存・継承について、twitterで紹介しました。
最近、問い合わせが多い「茶堂」の保存・継承の問題。
twitterで、簡単にまとめています。

http://twitter.com/#!/nanyotv



【追記】本日、某広報誌の編集者さんから「茶堂」に関する取材を受けました。少し前に、時間が経って、そのつぶやきが検索できないとのご指摘もありました。確かに3年以上経つと自分でも検索できせんでした・・・。バックアップしていたつぶやきの中から、2011年5月に「茶堂」関連のものを以下、列挙しておきます。(2014年10月21日)



110516 081009(←2011年5月16日8時10分09秒のつぶやきのことです。以下同じ。)
城川町に50箇所以上ある茶堂。年々、茅葺き屋根から瓦葺に改修され続けている。このままでは景観が崩れて、城川が城川でなくなってしまう。茅葺き技術継承ネットワークづくり急務。地元集落では技術がなくて瓦葺を選択している。西予市の貴重な地域遺産の危機的状態と城川を通るたびに感じる。

110516 081522
城川町の茶堂は昭和43年に緊急民俗調査で文化庁調査官田原久さんが全国的にも貴重だと評価し、「伊予の茶堂習俗」として昭和53年に国選択民俗文化財になっている。ただ、習俗だけが文化財になったと解釈し、その場・舞台である茅葺き茶堂は「文化財」ではないものとして使われてきた経緯がある。

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愛媛には茅葺き職人が少ないと言われる。でも、城川の隣の高知県梼原や東津野には茅葺きの改修経験のある技術者がいる。愛媛でも先日、東温市で茅葺きワークショップが行われている。材料もまだ茅グロが残っているように全くない訳ではない。技術も材料もあるかないかはネットワーク有無の問題だ。

110516 082210
平成15年に国の文化財「重要文化的景観」の導入にあたっての事前調査報告書があるが、その中に城川の茶堂景観も「重要地域」として掲載されている。周囲の棚田景観も含めて、茅葺き茶堂は、宇和島遊子水荷浦につづいて国の重要文化的景観に選定されるだけの価値がある。

110516 082642
茅場があったとしても、その刈り出しなどの労力は過疎化、高齢化の「限界集落」ではできないと嘆く。しかし、野村町惣川の土居家で茅葺き改修した際には、地元中学生が総出で手伝った。この経験は素晴らしい。昔ながらの「結」「出夫」の地縁を中心に、外にネットワークを構築すれば不可能ではない。

110516 090207
茅葺きの全国ネットワークといえば、全国茅葺き民家保存活用ネットワーク協議会。いま事務局は日本茅葺き文化協会。6月4日から鹿児島県で茅葺きフォーラムがある。 http://www.kayabun.or.jp/katsudou.html

110516 091833
西予市が合併して5年が過ぎたが、茅葺き茶堂などの城川独特の文化遺産が西予市内でも未だ市民に周知されていないのかもしれない。西予市内そして県内・全国へ向けて、その情報発信の機会は設けないといけない。

110516 091924
旧城川町民でも、今まで「当たり前」・「自明のもの」と思われてきた茅葺き茶堂。文化遺産の価値を再認識し、未来への保存・継承の契機とする取り組みは必要だ。城川の住民の「郷土意識」を今一度、強く抱く契機とし、新たな「地域おこし」の活性化を期待したい。

110516 092256
本音をいえば、茅葺き茶堂の記録会•保存に尽力してきた西岡圭造先生思いを継承し、文化財関係者の若返り(次世代の担い手育成)が必要だ。宇和や野村では史談会等の組織が充実しているが、城川でも地域づくりネットワークは充実しているから、社会基盤は充分。あとはビジョンとスキルだ。

110528 220721
愛媛・西予市の茶堂。一間四方の方形で屋根は茅ぶきまたは、瓦ぶき。三方を解放し、正面の奥一方のみが板張りでそこに石仏等が祀られる。まつられている石仏は大師、地蔵、庚申像などである。文化財(建造物)としても有形民俗文化財としても価値がある。

110528 220954
愛媛・西予市では、昔は旅商人、通行人が歩きつかれて「茶堂」で憩い、地区の人々から茶の接待を受けた。旧七月一日から月末まで毎日各戸輪番に出てお茶を沸かし、通行人や地区の子供たちに接待をした。これが茶堂の呼び名の由縁とである。   →文化財「国選択民俗文化財」としての価値

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愛媛・西予市の「茶堂」。「おこもり」と言って地区中の家族総出で茶堂に集まり、酒宴を開き話し、唄う懇親の場、情報交換の場であった。地域のコミュニティセンターとして機能していた。現在でも虫送りなど様々な年中行事が茶堂を舞台として行われており、国選択無形民俗文化財となっている。

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愛媛・西予市城川町や野村町に残る茅葺きの茶堂は、建造物としても民俗文化財としても文化的景観としても貴重な地域遺産。地元に住んでいるとこれが「当たり前」で価値に気づきにくい。この茶堂の保存や茶堂にまつわる文化の継承には、まず茶堂の存在価値を改めて見つめ直す作業が必要である。

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愛媛・西予市の茅葺き「茶堂」。地元に茅葺き職人がいない。材料がない。そこで瓦葺きに改築されているが、職人は隣町の高知県梼原町にもいるし、全国の茅葺きネットワークは構築されていて、その中に愛媛も入っていく必要がある。職人や材料の問題は、地元だけで解決できるものではない。

110528 223201
西予市茶堂整備事業補助金交付規程。「市内に所在する茶堂を修復するために実施する茶堂整備事業に要する経費に対し、市が補助金を交付することにより、永く後世に重要な民俗文化財を保存継承することを目的とする。」とある。この規程の「修復」「保存継承」の精神が遵守されることを願うのみ。



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水濡れ史料を救う「史料の救命士」 愛媛資料ネット会報18号

2011年05月20日 | 災害の歴史・伝承
愛媛資料ネット(芸予地震被災資料救出ネットワーク愛媛)の会報第18号(2011年5月17日付)が郵送されてきました。そこに掲載されている原稿は、河野未央氏「『水濡れ史料の吸水乾燥ワークショップ』の開催とその意義ー『史料の救命士』の輪を広げる-」でした。

河野未央氏は、史料ネットで水損史料の救出等の活動を行ってきた方で、編著『水損史料を救う』があります。

http://blogs.yahoo.co.jp/siryo_net/27567160.html

最近、古文書など被災史料を真空凍結乾燥機で処置していることをニュース等で取り上げられることがありますが、河野氏の文章をここで少しだけ、引用しておきます。

「史料ネットでは史料の救出活動に際して、機械(真空凍結乾燥機)による乾燥作業とともに、手作業での吸水乾燥作業を行ってきた。手作業での吸水乾燥作業は、修復の専門家が行う本格的な措置ではなく、いわば応急措置であり、それゆえ作業自体は、身の回りにある物品を利用した『いつでも・誰でも・どこでも』『安くて(ローコストで)・簡単に』行える作業である。」

そして、そのノウハウ・経験を伝えるためにワークショップを行っており、その内容が紹介されている。

「なぜ『応急処置』なのか。第一に水損史料へは迅な対応が求められること、第二に、災害時様々な事態が想定されるなかで大量の史料群に対して吸水乾燥措置をとらなければばらないことから、高度な専門性や物品、技術を要求されることはなく、『誰でも』できる作業こそが現実の災害への対応としては有効である」

「作業従事者に修復の経験が全く無くても、濡れた史料を『乾かす』こと自体はある程度可能だということがわかった。多くの人々が乾かすための知識を持っていれば、万一の際の災害が起こって被害に遭ってしまった民間所在史料でも、ギリギリのラインで滅失(『史料の死』)の危機から救うことができるのである。」

詳細の処置の方法については、松下正和・河野未央『水損史料を救うー風水害からの歴史資料保全ー』(岩田書院、2009年)に詳しいが、この愛媛資料ネット会報18号でも簡略に紹介されています。

愛媛資料ネットの概要はこちらです。

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~macchan/ehime_net.htm


テレビ等で史料レスキューが紹介されると、被災した古文書は、真空凍結乾燥機を使わないと処置できないと、逆に誤解を広めることにもなりかねないとも感じていたので、この『いつでも・誰でも・どこでも』『安くて(ローコストで)・簡単に』行える作業ということを広く伝えることも重要です。










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日本民具学会 震災関連情報

2011年05月18日 | 災害の歴史・伝承
日本民具学会のホームページに、東日本大震災関連情報が掲載されました。

被災民具のレスキューが徐々に進んでいるようですが、民具の扱い方については、

素材ごとに対応を変えていく必要があり、

まずは、文化庁の「文化財防災ウィール」が基本となると思いますが、

その先の対処、対応となりますと、日本民具学会等への相談も可能でしょう。

あとは、国立民族学博物館でもホームページ上で対応等の情報を掲載しています。


日本民具学会のホームページはこちらです。


http://wwwsoc.nii.ac.jp/nmg/shinsai.html




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愛媛のパワーフルーツ「クリスマスオレンジ」構想

2011年05月15日 | 生産生業

八幡浜をはじめ、愛媛の柑橘農業の振興につながるのではないかと考えた私案です。これは平成23年2月に思いついて、それから八幡浜や宇和島など南予地方の地域づくりに尽力している方々に雑談で話していることです。(今現在、約7~8人ほどにこの話をしています。)

思いつきの発端は、数年前から毎年気になっている4月14日の「オレンジデー」。愛媛ではバレンタインデー、ホワイトデーの翌月14日はオレンジデーと設定し、細々と紹介されているが、このオレンジデーの致命的欠点は、この4月には柑橘は収穫の最終時期でほぼ種類が限られているということ。柑橘を贈答しようにも、一番の旬の時期は外れている。これはいただけない。この違和感をずっと感じていた。やはり旬の時期、つまり12月前後が適期だろう。かといって、12月14日をオレンジデーに変更するのも今となってはできない話。

もう一つの思いつきの発端。これは今年正月にはじめて気づいたことだが、海外に愛媛の柑橘の販路を広げられるかということを考えていたら、アメリカでは温州みかんのことを「SATSUMA」と呼ぶと知ったことである。明治時代、温州みかんが日本からアメリカに導入される際に薩摩(鹿児島県)が関係していたため、この名称が定着しているのだ。愛媛の温州みかんを世界で販路拡大を考えるのにサツマっていうのも違和感がある。そう思いながら、北米での温州みかんの状況をネットでさらに調べていた。すると、興味深い記事に出会った。カナダでは、クリスマスの時期に温州みかんが出回るが、これを「クリスマスオレンジ」といっている、という記事であった。

この「クリスマスオレンジ」の情報は自分にとって衝撃的だった。日本ではクリスマスオレンジなんて商品はないようだし、先に書いた旬の問題でいえば、クリスマスは温州みかんにとって、一番いい時期なのだ。

よく考えてみると、さほど旬ではないイチゴがクリスマスには大量に生産されるが、時期的には無理をしながらの生産である。クリスマスの果物イコールケーキのイチゴというイメージが強いが、なぜに柑橘がここに絡んでこなかったのか。不思議でたまらない。クリスマス時期には多くの家庭でみかんを食べているではないか。

この柑橘・温州みかんをクリスマスの中で価値付けて定着させることができないか?いやできるのではないか?その思いで、数日は寝ることもできないほど頭の中が「クリスマスオレンジ」のことでいっぱいになった。

そもそも、バレンタインデーのチョコレートや、節分の恵方巻など、昔ながらの伝統的に見える年中行事も、実は戦後、もしくはごく近年に定着した慣習である。当然、クリスマスケーキ(いちご付き)も近代以降の創出文化である。

ならば、八幡浜や南予・愛媛の特産品「みかん」を国民の年中行事に組み込むことはできないか模索した結果、クリスマスシーズンに柑橘を贈答すると縁起がいいという物語を流行らせるのがいいのではないかと考えるようになった。

その物語とは、こうである。

「一年で最も日照時間の短い冬至・クリスマス時期に、太陽の象徴である『みかん』を贈答しあうことで、活力が付与され、新たな一年に向かって進むエネルギーを得ることができる。」

オレンジ色は、太陽の色である。太陽のエネルギーの減退するクリスマスに、みかんをもらうと、縁起がいい。こう考えるのだ。現代風にいえば、まさにパワースポットならぬ、パワーフルーツである。

「サンタさんもトナカイと寒い雪の中、プレゼントを配ってまわるのだったら、暖色系のオレンジを持ってもらうと、少しは温かく感じてもらえるのではないかな?」

高価なプレゼントを贈答するという慣習も悪くはないが、もっと素朴に、バレンタインデーの義理チョコのように、家族、親族、友人、知人、同僚、恋人に旬の愛媛の温州みかんを互いに贈り合うのもすばらしいと思った。

みかんを段ボール箱でそのまま渡すのもいいが、おしゃれではない。たとえば、贈答しあうのは、温州みかん等の柑橘1個でもいい。その柑橘をラッピングしてもよし。皮にペイントしてもよし。メッセージを書くもよし。加工してスイーツとするもよし。(みかんケーキ等)。極端には愛媛の温州はその時期は旬で美味いのでそのままでもよし。そしてクリスマスカードを添えてもよし。

結局、クリスマスシーズン、イチゴだけが繁昌するのではなくて、みかんもいけるのではないかと考えた訳である。

このクリスマスオレンジ、流行するにはまずは若い人からがいい。例えばの話、八幡浜高校商業研究部にお願いして、校内・自宅で、「クリスマスオレンジ」運動をおこす。また、生産団体・販売業者にお願いして、11月頃から、温州みかん1個をラッピングしたおしゃれな「クリスマスオレンジ」サンプルを製作・販売する。

クリスマスオレンジの旗を、農水省関連の助成金をもらって、クリスマスオレンジ宣伝用のものを仕立てる。

そして、12月のクリスマス商戦ころに、松山、大阪、東京(新橋の愛媛アンテナショップ前)に行って、クリスマスオレンジを、配って、テレビ局に取材してもらうもよし。

いずれは、ローソンかファミリーマートで大々的に販売してもらう。節分の恵方巻のように。

チラシ、ホームページ、ツイッター、フェイスブック等で「クリスマスオレンジ」をもらうと、パワー注入!縁起がいい!という説明を流行らせる。

以上、パワースポットならぬ、パワーフルーツとして、クリスマスオレンジはいい案だ!と思って、南予各方面の関係者に雑談で話している。

もしこれが定着して、1人がみかん5個を配るとして、300万人がクリスマスオレンジを配るような国民行事になったとする。これで1500万個の消費につながるのだ。

12月のシーズンに、いちごのように価格が上昇し、安定すれば、みかん農家の安定収入にもつながる。

果ては、八幡浜・南予・愛媛が「クリスマスオレンジ」の聖地(メッカ)になれば、観光振興のために、12月に恋人のための「温州みかんツアー」だってできる。

日本で流行したら、北米ではクリスマス時期の温州は好まれるらしいので、海外販売も推進し、アジアでも台湾や香港も消費地としてはいいかも。

こうして、八幡浜・南予・愛媛発の「クリスマスオレンジ」運動が展開し、愛媛の柑橘産業の振興に寄与しましたとさ。

以上が私、大本の妄想的「クリスマスオレンジ」構想。私はこういった構想(妄想)をつづるのみで、実際にその事業展開には直接的には関与するつもりはない。(無責任、ご容赦!)

さて、賛同者がいましたら、ぜひ事業を展開してみませんか?

新しい特産品を創作しながら一から生み出すのではない。八幡浜・南予・愛媛にもともとある、そして一番の強みの柑橘を、すこし手を加えるだけで、全国、そして世界に勝負できる素材だということに気づくこと。これってまさに「汝足元を掘れ、そこに泉湧く」ですよね。


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被害の大きい北関東の町並み 全国町並み保存連盟より

2011年05月14日 | 災害の歴史・伝承
本日(5月14日)の夕方、全国町並み保存連盟に加盟している「地域ネット研究会UWA」の会合があったので参加してきました。大洲市の澄田恭一先生の講演がメインで、演題は「足もとを掘れ、そこに泉湧く」。大洲の歴史や文学に関する話題をわかりやすく教えていただきました。澄田先生ありがとうございました。

さて、本日の会合で、全国町並み保存連盟「町並み・みに・かわら版」の号外(2011年4月18日付)が各会員の手元に配られました。2008年10月に愛媛県西予市を主会場に全国町並みゼミ卯之町大会の準備や開催・運営のお手伝いをした縁で、保存連盟に加盟している全国の団体や会員さんとのつながりがありますが、3月11日の東日本震災以来、具体的な被災情報が集約されてこなかったので心配していたところでした。

以下、その「かわら版」号外に掲載された内容をピックアップして紹介します。

昨年度、町並みゼミを開催した岩手県盛岡市(盛岡まち並み塾)。余震やライフラインの断絶、物資不足に悩まされたが、大きな被害はなく、ゼミ会場だった鉈屋町の旧番屋を拠点に、沿岸部の支援活動を行っているとのことです。

また、「美しい角館を守る会」(秋田県)、「恊働組合会津復古会」(福島県)、「大内宿保存会」(福島県)、「喜多方のれん会」(福島県)、「栃木蔵街暖簾会」(栃木県)、「NPO川越蔵の会」(埼玉県)、「NPO佐倉一里塚」(千葉県)からも大きな被害はないとの連絡があったそうです。

長野県、静岡県でも大きな地震がありましたが、「越後村上・城下町まちなみの会」(新潟県)、「妻籠を愛する会」(長野県)、「奈良井宿保存委員会」(長野県)からも被害がないとのことです。

被害の大きい町並みは北関東に多く、あと、町並み保存連盟でも、東北地方で状況把握のできていない地域もまだあるそうです。

「NPO共楽館を考えるつどい」(茨城県日立市)
共楽館は、耐震補強工事を終了しており、被害はない。

「NPO龍ヶ崎の価値ある建造物を保存する市民の会」(茨城県)
登録有形文化財の旧小野瀬家は修理済みで被害はなかったが、登録文化財の候補が数件被害を受けている。

「NPO小野川と佐原の町並みを考える会」(千葉県)
液状化が起こり、町並みの中でも、千葉県指定文化財の土蔵を中心に、瓦が落ちる、土壁が崩れるなどの被害がでている。伊能忠敬旧宅も大棟が落下。近年修理していた建物は被害が小さい。被害状況は、同会のホームページでも紹介されています。
http://www.sawara-machinami.com/


また、昨年、国の重伝建地区に選定された茨城県桜川市真壁では、石蔵、土蔵が倒壊、多数の家屋で瓦が落ちるなどの被害を受けています。

関東ブロックゼミを昨年開催した群馬県桐生市の本町一丁目、二丁目地区は、伝建地区指定に向けて準備を進めていましたが、瓦や棟が落下、多くの土蔵で漆喰や土壁が落ち、有隣館も被害を受けています。

連盟が数年前に景観調査をした茨城県つくば市では、登録文化財の宮本家住宅の屋根が崩落。つくば参道の町並みは、旧郵便局のポストの方向が変わり、石垣が崩れているなどの被害が出ています。

以上が全国町並み保存連盟からの情報です。

なお、全国町並み保存連盟のホームページはこちらです。
http://www1.odn.ne.jp/~cah24160/matinami.index.html



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二宮忠八と「幡詞」

2011年05月14日 | 地域史

八幡浜出身の二宮忠八。明治時代に飛行機原理を発見した人物としてよく知られているが、現在、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室では、二宮忠八の飛行機に関する業績だけではなく、彼の書いた掛軸や書簡が数多く紹介されている。

忠八の号は「幡山」。八幡浜の八幡神社の近くに生家があり、京都八幡に住んでいたことからこう称したのだが、「幡山」の詠む句を「幡詞」。それを掛軸に墨で書き、絵を描いたものが「幡画」とされる。

二宮忠八が「幡詞」、「幡画」の定義をまとめている。これは大阪製薬株式会社社長時代で、昭和4年に発行された『幡詞歌』の中で紹介されたものである。

<幡詞の文義>
 1 幡詞の文縁
  著者の故郷は、伊予八幡浜、京都八幡に廬をむすび、
  飛機の思い出、文にもらして、ここに創むる、新体幡詞。
 2 幡詞文味
  男山なる、岩根に湧きて、新にいづる、幡詞を汲めば、
  胸もすがすが、気もさわやかに、口すさびよき、味わひ知れず。
 3 幡詞文意
  幡詞の文が、時代に副へる、雅俗の葉、綾おる栞。
  作り難かる、平仄詩なり。読み書き判り、易く楽しむ。
 4 幡詞文例
  幡詞はすべて、七音口調、四句を単句に、八句を連句。
  詩は自然でふ、思ひの侭に、起承転尾に、綴る文芸。
 5 幡詞文格
  幡詞の文は、音訓自由、国語漢詩の調子を揃へ、
  作り楽しみ、奏でて共に、意気揚々と、歌ふ格なり。
 6 幡画筆意
  幡画の式は、景色世相を、想像実写、思ひの侭に、
  毛筆のみに、彩り作り、幡詞を題し、描く法則。
 7 幡詞筆致
  粗密撰ばず、巧拙問はず、筆致墨色、気韻を持たせ、
  趣味を豊かに、筆を揮ひて、雅号落款、そらふ芸術。
 8 著者の希望
  和歌や今様、俳句に続き、歩み出せる、幡詞の文が、
  世に愛でられつ、親しむならば、如何に行手の楽しかるらん。

以上は、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室で開催中の企画展「風をとらえた人々」の解説文および『二宮忠八展』(泰申会出版、平成23年発行)から引用し、新字体に改めたものである。

この幡詞。七言四句で思いのままに綴ってみるという決まりで、あとは特に縛りのないものである。二宮忠八はこの幡詞を数多く綴り、二宮幡山著『幡詞』などに著している。ただし、忠八亡き後、現在に到るまで七言四句の幡詞が詠まれているかどうか。地元八幡浜出身でもよく知らない。上記の定義からすれば、幡詞は忠八が定型化したものであり、後世の人、今の人、これからの世代が継承してもおかしくないものだと、今日、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室の展示を観覧してあらためて思った。




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日博協 震災緊急対策委員会

2011年05月13日 | 災害の歴史・伝承
財団法人日本博物館協会に「東日本大震災緊急対策委員会」が設けられました。博物館等の被災状況の把握や復興に向けた救援活動を行うとともに海外に向けての情報発信をしていくことを目的として設立されたものです。

東日本の会員館には被害状況の把握のため「東日本大震災による被害状況に関する調査について」そして全国の会員館に「文化財レスキュー事業への参加志望に関する調査について」が文書で送付されました。

http://www.j-muse.or.jp/home/katsudou.html


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【新刊紹介】曽我正堂著『ふる郷もの語』

2011年05月12日 | 民俗その他
「すごい本が世に出た。」手に取ったそう思った。曽我鍛さんの書いた文章をまとめた本が先月出版された。民俗学に関わる者として一読してみて、この本に書かれている話はもう聞き取りはできない。数十年前にタイムトリップした気分になった。正直、私が以前執筆した『民俗の知恵-愛媛八幡浜民俗誌-』が吹き飛ぶほどの内容の濃い八幡浜・西宇和の庶民生活史の記録だと思った。

書名は、曽我正堂著『ふる郷もの語』(曽我健編集・発行、平成23年4月15日刊)。

曽我鍛(正堂)が戦前に新聞に寄稿した文章を一冊の本にまとめたもので、明治時代から昭和にかけての八幡浜、西宇和地方の人々の生活の歴史を克明に記録・紹介している。

「ふる郷もの語」は編者の曽我健氏の祖父曽我鍛が、昭和11年から16年にかけて「愛媛日曜新聞」に掲載したものである。愛媛日曜新聞はあまり現存していない新聞で、愛媛県立図書館所蔵の新聞目録にも入っていない。現在ではなかなか閲覧することができない新聞に寄稿された貴重な文章が復刻・出版されたことは、八幡浜地方の歴史に興味のある者にとっては非常にありがたいことである。

曽我鍛(正堂)については、このブログでも以前紹介したが、八幡浜・西宇和をはじめ戦前愛媛の文化界で総合プロデューサーのような役割を果たした人物である。伊予史談会の雑誌『伊予史談』の編集に携わり、『松山叢談』『宇和旧記』の活字化・出版などプロデューサーとしての業績だけでなく、『双岩村誌』の執筆・編纂や『郷土伊予と伊予人』の著作など、多くの文章を書き残している。しかし、その当時書かれた文章がすべて出版化されていたわけではなく、今回のように新聞連載で書いたものはこれまで目にする機会がなかった。

「ふる郷もの語」は全部で187編の長期連載で、それが今回、活字化された。内容について簡略に紹介しておきたい。その目次から一部を抽出すると次のようになる。

<年中行事に関すること>
歳末風景
お日待ち
元旦
旧正月
思い出の雑煮
雛の節句
菖蒲の節句
虫送り
七夕さま
盂蘭盆会
燈籠あげ
おもうし
いの子

<社会生活・信仰・芸能に関すること>
若衆組
若衆宿
共同浴場
穴井芝居(歌舞伎)
山田薬師
兎狩り
はぜ採り唄
やき米
番茶
醤油

<口頭伝承に関すること>
猿の婿入り
狸の話
癩姫塚
保の木
方言の思い出
矯正すべき詞
一、二、三人称

<衣食住・生活の変遷に関すること>
おはぐろ
パッチと脚絆
筒っぽ筒袴
帽子のない時代
被りものの変遷
手織り木綿の話
木綿織の話
生活の革命
台所改善の必要
公会堂
アイスケーキ
贅沢になった食物

<地元の歴史に関すること>
左氏珠山
旧庄屋無役地事件を解剖す
最初の兵隊さん
寺子屋の話
飯野山城

これらは本書の目次からごく一部を拾ったものである。また、この「ふる郷もの語」に加えて本書には戦後に愛媛タイムスに掲載された「今昔習俗談義」、「双岩村分裂記」、そして雑誌『四国公論』に掲載された「三友興亡記(続ふる郷もの語)」も活字化され本書に収録されている。

本書は非売品であるが、八幡浜近隣の図書館に寄贈されており閲覧することができる。(八幡浜市民図書館や愛媛県歴史文化博物館図書室など)

明治時代から昭和初期にかけての愛媛の民俗を記録した貴重な本書を一人でも多くの人に閲覧してもらって、読んでほしいと思う。




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時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―展関連講座

2011年05月10日 | 日々雑記
愛媛県歴史文化博物館で現在開催中の

特別展「時の迷路―香川元太郎のフシギな世界―」の関連イベントのご案内です。


5月22日(日)13:30~小学生向けの講座があります。

タイトルは「香川元太郎さんの迷路に学ぶ日本の歴史」。


香川元太郎さんの歴史迷路をスライドショーで上映しながら、迷路を解いたり、かくし絵をさがしたりしながら、そこに描かれた時代について学芸員がわかりやすく解説します。


参加費は無料です。

当日受付も可能です。


問い合わせ先は、愛媛県歴史文化博物館(0894-62-6222)です。



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八幡浜アメリカ移民史の第一期-西井久八の渡米-

2011年05月09日 | 地域史
アメリカ移民の父といわれる現在の愛媛県八幡浜市出身の西井久八は安政3年に矢野崎村向灘に生まれた。明治10年には西南戦争の軍夫として働き、翌年には横浜で外国船のボーイとなって出国する。香港を経てヨーロッパに滞在し、そして渡米した。明治12~15年(西暦では1879~82年)にはワシントン州のベインブリッジ島ポート・ブレークリーの製材所で働いくこととなる。この頃のアメリカ移民は単身の男性が多く、定住指向は必ずしも強くなかった。久八も永住を決意しての渡米ではなかったと思われる。

西井久八が働いたベインブリッジ島はシアトルの対岸に位置する。この島は非常に林業が盛んで、日本移民者だけではなく、世界各国から労働者が集まっていた。林業の地で海に近いこともあり、当時世界一の生産量を誇った製材所もあった。ここで久八は24~27歳という時期を過ごすのである。そして28歳のとき(1883年)にシアトルにてレストランを開業する。これは日本人では初といわれる。このように職を転々としながら徐々に事業を定着させ、後に多くの八幡浜出身者が渡米しやすい環境を作ったといえる。実際、久八は1887年に一時帰国し、八幡浜周辺の若者に渡米を勧めたのである。1889年にはタコマの近くに農場を開いたが、結局その頃、ベイリングハムにレストラン2軒、タコマにレストラン3軒、クリーニング店1軒、ホテル1軒、シアトルにレストラン3軒などを経営するまでになり、渡米してきた若者もそこで働くことも多かったようである。

これは日本でいえば明治22年、23年頃の話である。その頃には西井久八のような成功体験が日本にも伝わり、明治20年代にはアメリカ渡航の案内書も出版・刊行されるまでになった。その渡航案内書などの資料が八幡浜市民ギャラリーにて数点展示されている。これらは渡米・移民を考えている若者には貴重な情報源であった。ただ、当初は日本人を歓迎し、渡航をうながす内容が多かったが、次第にアメリカ側の渡航制限が厳しくなるにつれ、内容は如何にスムーズに渡航、入国し、生活をはじめるのかという実情に即したものになっていった。いわば明治時代の移民史第一期(明治20年代まで)から、第二期へと移行する過程がこの渡航案内書などの史料から見て取れるのである。

そして、その後に山下宅治の渡航(1893年)や、1900年代になって「密航」という時代がやってくる。

ちなみに二宮忠八が丸亀練兵場で烏型模型飛行器の飛行実験に成功するのが、ほぼ同時期の1891年(明治24年)のこと。その時代、八幡浜出身の様々な人物が世界と対峙し、進取の気性を持ちながら生きていたのである。



※本文は、『アメリカに渡った日本人と戦争の時代』(国立歴史民俗博物館編)および八幡浜市民ギャラリーでの企画展「風をとらえた人々」パネル・キャプションを参考文献としている。

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さあ、八幡浜市民ギャラリーに行くべし!

2011年05月08日 | 地域史
現在、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室では八幡浜郷土史企画展「風をとらえた人々-二宮忠八・西井久八・山下宅治と渡航者たち-」が開催されている。会期は5月29日まで。二宮忠八と言えば、世界に誇る飛行機の父。西井久八はアメリカ移民の父。山下宅治はアメリカでの市民権運動の先駆者であり、いずれも明治から昭和にかけての八幡浜人の進取の精神を体現してきた人物である。この企画展の開催のきっかけは、昨年、千葉県の佐倉市にある国立歴史民俗博物館において「アメリカに渡った日本人と戦争の時代」という展示コーナーが設けられ、そこに八幡浜市内からも数多くの資料が出品されていたことにある。その展示が終了し、資料が地元に返却されるため、八幡浜市教育委員会が個々の所蔵者に返却する前に一度、地元でも披露する意味もあって開催することになったようだ。しかし、国立歴史民俗博物館での展示をそのまま移動展示しているわけではない。国立歴史民俗博物館では展示されていなかった新たな地元資料を数多く組み込み、再構成した内容となっている。移民史だけではなく二宮忠八に関する新資料も紹介している。その意味で、展示はバージョンアップした内容となっている。私も佐倉で展示されていた際には2度、八幡浜の移民資料を見たが「移民母村」のコーナーで密航とアメリカの風の紹介が中心で、排日運動や強制収容、送還、そして強制収容後の移民・日系社会などに関するコーナーでは他県の資料や事例が紹介されていた。今回の八幡浜の展示は、地元資料を新たに加えて再構成しており、まさに八幡浜のアメリカ移民史の集大成といえる。

私は以前にも紹介ことがあるが、八幡浜はある意味、国際都市であると主張している。というのも明治時代以降、渡米した人が非常に多く、今でもアメリカに親類が住んでいるという住民は非常に多く、現在、在米の八幡浜出身者は約1万人いるという八幡浜市誌の記述もある。現在の八幡浜の人口4万人に対しての1万人である。海岸部の向灘や川上、真穴などでは、その割合はさらに増す。八幡浜の近代の歴史を語る上では、アメリカ移民史は欠くことのできないテーマなのである。

今回の展示は、歴史的事実としての明治・大正・昭和の夢と希望と挫折と克服の物語である。史実としての重みは非常に大きい。ドラマではない。小説でもない。地元の事実としての歴史を感じることができるものだ。会期は5月29日までと短いが、八幡浜の人にはぜひ一度は足を運んでほしい。

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現代における「民俗」の活用法

2011年05月04日 | 衣食住
現代における「民俗」の活用法
-青年の自立支援プログラム「江戸時代生活体験」-

愛媛県大洲市にある国立大洲青少年交流の家では平成十六年度より久万高原町大川地区(旧美川村)において青年(大学生~概ね三十歳)を対象とした企画事業「江戸時代生活体験」を実施している(表一・平成十六年のプログラム参照)。この企画には私の勤務先である愛媛県歴史文化博物館も協力機関として参加し、事業の立ち上げ・運営・講師として私も関わってきた。本稿ではその企画事業の実施意図、内容について簡単ではあるが紹介しておきたい。

「江戸時代生活体験」は、社会の中で子どもから青年・大人へと成長していく諸段階で行われる通過儀礼(人生儀礼)が薄れつつある現代で、「大人とは何か」という問いを中心に、青年が大人になることの社会的意味合いを参加者自身に考えてもらうための自立支援プログラムとして出発した。この事業の立ち上げには、愛媛県内の大学研究者、社会教育関係者、新聞社、民間企業教育担当者等十名で構成された「大人を考えるシリーズ実行委員会」が組織され、その会議の中で、現代の青年についての課題を以下の四点に集約した。①現代の若者のコンサマトリー(今さえ良ければいいという考え方)化への対応、②若者がライフビジョン・ライフスキルを持つ必要性、③若者が人と関わりながら生きていく力の必要性、④若者が自分の自己存在を確認できる場の必要性。その結果をふまえて企画事業の一つとして、過去に戻り現代、そして自分自身について考える「時と文化を探るプロジェクト『江戸時代生活体験』」を実施することとなった。

実行委員会で提示された課題をもとに、天保十二(一八四一)年建築の久万高原町(旧美川村)大川地区旧大庄屋「土居家」の土居一成氏ご夫妻並びに丹波松清氏をはじめ大川地区の方々とご相談した結果、江戸時代からの建築・史料が残っており、衣・食・住に関する民俗(伝承文化)を再現するために多くの方々に協力していただくことが可能だったため、会場を土居家および大川地区とし、以下の四点の特色を盛り込む事業にすることとした。①江戸時代から昭和までの生活を民俗学から探る内容(愛媛県歴史文化博物館学芸員の大本敬久による昔のくらしの生活案内を行う。体験プログラムごとに愛媛並びに大川地区の伝承文化・民俗に関する解説を入れる。)、②大川地区で行われた旧正月を再現(旧正月に近い時期に事業を実施したため、大川地区で行われていた餅つき・おせち料理を再現し、旧暦時代の季節感を体感する。)、③夜警、獅子舞等、江戸時代から高度経済成長期まで若者組(青年団)等で若者・青年が担っていた役割を体験する。(大川地区で行われていた夜警コースを当時と同じ箇所を同じ方法で巡る内容。獅子舞は大川地区八柱神社奉納獅子として二百年前から始まったと言われる大川獅子舞を体験する。)、④現代社会について考えるふりかえり(プログラムの最後に、伝承文化体験と現代社会を比較する形で行い、主に「環境(自然に負荷をかけない生活スタイル)」・「文化の伝承」・「社会での若者の役割」・「町づくり・地域づくり」の四つのテーマとして、講師の大本が総括し、参加者とともに考える。)そして参加定員は二十名とし、実際に参加したのは愛媛県内外の大学生、高校生、二~三十代で、久万高原町内の参加者は少なく、都市部の若者が中心だった。

このように、名称自体は「江戸時代生活体験」であるが、久万高原町の江戸時代当時そのものの生活を再現するよりは、江戸時代から明治・大正・昭和(高度経済成長期)まで継続して地元で伝承されてきた生活文化を再現・体験するという内容として実施した。事業実施中は、現代の便利な生活をふりかえってもらうため、携帯電話は使用を禁止し、また冬の寒い時期ではあったが現代の電気・ガスの機器を使わず、火起こしは火打石で自分で行い、燃料となる薪も自分達で割るという生活を基本とした。

参加者の感想として代表的な意見をまとめると、以下のようになった。
自分の周りの環境がすごく恵まれていると感じた。また、残飯を肥料にしたり、藁で縄を作ったりするのを見て、物を大切にすることが大切だと感じた。何でもゴミを出してはいけないと思う。現代、外国の文化を受け入れる傾向があるが、今回体験した藁細工、餅つき、獅子舞もとても素敵な文化だと思う。こういった日本の文化を大切にしていきたい。社会での若者の役割は重要だと思う。自分の存在価値を感じられるからだ。こういう役割が減ったから若者の心にひずみが生まれたのではないかと思う。町という単位は、教育的な面からも、社会的・経済的・精神的にもとても大切だと思う。その町を人々の役割などをしっかり決めて、祭などによって盛り上げ、つくっていくということは、人を育てるという意味でも大切である。(以上、参加者の感想)

以上のような意見から見て、自分と自分の取り巻く社会を相対化し、社会の構成員としての自分の役割や自分の存在、現在の社会状況を理解する一端をこの事業が担ったことがわかる。その後「江戸時代生活体験」は平成十八年度(十九年一月六~八日)、十九年度(十九年十一月二三日~二五日)に実施し、大川地区土居家を会場とした類似事業として、二十年度には対象を小学生として「食文化をテーマにした異年齢相互体験学習・免許皆伝!もったいない名人~江戸の村人の巻~」(二〇年八月五日~十日)を実施している。また、久万高原町教育委員会主催で高校生・大学生を対象とした「EDOJIDAI生活体験」(二二年十二月十八~十九日)も開催されている。

以上、普段は何気ない衣食住の民俗など、地元久万高原町にて過去から世代を越えて伝承されてきた生活習慣が、単に地元の過去をふりかえる手段としてだけではなく、現代の若者・青年にとっても大人に成長するために自らをふりかえるための素材として活用できることが、この「江戸時代生活体験」は示している。これは現在の久万高原町の持つ地域遺産・地域資源ともいうべきもので、今後、都市化、消費社会化、無縁化がますます進む現代において、地元の民俗(伝承文化)に注目する必要性は高まってくるのは間違いない。 (大本敬久)



※挿入図版・表(江戸時代生活体験日程平成17年2月11~13日)は省略している。

※この文章は、平成22年に久万高原町教育委員会の依頼で江戸時代生活体験を実施した際にまとめたものである。



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電気もガスもない生活 江戸時代生活体験

2011年05月03日 | 衣食住
平成16年から「江戸時代生活体験」という事業を行っています。
大洲青少年交流の家や久万高原町教育委員会主催です。
電気もガスもない中で、自分で火をおこし、料理をし、お風呂に入る
こんな、昔は当たり前の生活スタイルを、
今の若者に体験して、現代の自分を振り返ってもらう、という事業です。

その事業の16年度に行われた分の報告が、大洲青少年交流の家のホームページに
掲載されています。


http://ozu.niye.go.jp/h16/otona/houkoku/E001_edotaiken.html#hiuchi



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近代日本のエネルギー革命

2011年05月02日 | 衣食住
自分の寿命があと何年なのか計算してみようとしても、いつお迎えが来るのかわからないので数えるだけ無駄である。ただ、日本人の平均寿命からすれば、私はおそらく2050年頃までは生きながらえているかもしれない。あと40年だ。この自分の寿命予測で弾き出される40年という数字は、近代日本が歩んできたエネルギー革命のスパンとほぼ一致するかもしれないと、最近よく頭をよぎってしようがない。

かつて、19世紀は石炭の時代、20世紀は石油の時代、そして21世紀は原子力の時代という言葉を自分が小さい頃に耳にしたが、これは少し大雑把過ぎる。1887(明治29)年に日本初の石炭による火力発電が東京・茅場町で行われ、その約40年後の1920年代には全国各地に発電所建設が進み、愛媛でも各家庭で平均1個以上の電球を持つ生活様式へと移行している。それから40年。1960年頃までは水力発電が主であったが、その後の高度経済成長の中で石炭・石油の火力発電が増加していった。実のところは1960年代のエネルギー革命は、水力発電から火力発電へという転換という単純なものではない。生活の中で近代日本以前より日常に用いられていた薪炭エネルギーとの比較で考えなければいけない。この身近に得ることのできる薪炭エネルギーを中心とした生活スタイルから、発電所から電気を送電してもらわないと生活が成り立たないライフスタイルへの転換こそがエネルギー革命であったわけで、これが今から約40~50年前の出来事だった。同じ時期に原子力発電の構想も進み、設計寿命40年とされる原子力発電所が建設されることになる。近年、その40年は迎えたところもあるようだが、長寿社会の現在、寿命は延びて60年使用という話も出ていたようである。そして今、2011年が訪れている。

このように日本のエネルギーの変革期は約40年ごとにやってきている歴史があると見ることもできるのだ。さて、今現在の状況はニュース・報道・ネット上の情報などからでは、自分はとてもではないが明確な判断ができない。情報過多である。その現状把握ができないにもかかわらず、次の40年後つまり2050年頃のことを考えてみたくなる。その頃は消費電力が少なくても生活が成り立つライフスタイルが確立されているであろうし、石炭・石油・原子力に変わる新たな再生可能なエネルギーが定着していると考えたい。原子力の燃料サイクル利用が構想から40年経ても実現の見通しが立たない現状を鑑みると、今後40年、燃料サイクル実現のためこのまま開発を継続していく労力も大変なもので、新しい再生可能エネルギーの研究開発の労力と変わりがないのかもしれないと、素人ながらに思ってしまう。平均的な寿命を全うできるのであれば、私も2050年頃まではこの歴史の変化と対峙しながら生き続けることになるのだろう。




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