愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

雪の大晦日

2010年12月31日 | 日々雑記
二年連続の雪の大晦日。昼過ぎに松山を出発したが、高速道路は通行止め。宇和に入ると路面は積雪、凍結。車にはチェーン装着。今夜もまだ降りそうな気配。

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再放送「柱に集い人は舞う~川名津柱松神事~」

2010年12月29日 | 日々雑記
明日、12月30日17:00~17:54、あいテレビで「ダイドードリンコスペシャル 川名津柱松神事 柱に集い人は舞う」が放送されます。これは今年の5月15日に放映された番組の再放送ではありますが、昨年から今年の4月まで、あいテレビの村上記者(八幡浜出身)が精力的に取材して仕上げた素晴らしい作品です。私も取材協力しましたが、あまりの熱心さに感服。魂がこもっています。村上さん、お疲れさん!

八幡浜市川名津で行われる県指定無形民俗文化財「柱松神事」に関わる人たちの思いが表現されているので、ぜひ見てほしい番組です。(多分、再放送もこれが最後だと思います。)

この番組のホームページ「ダイドー祭りドットコム2010」は、こちら。私の顔写真も掲載されていて、少しばかり恥ずかしいページですが・・・。

※写真は、あまりに熱心な取材に地元の人に愛されて、祭りの最中に川に投げ込まれた村上記者(左下)。プロ根性で、投げ込まれても大丈夫なように、防水用のビデオカメラを持っていた。流石です。

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縄なう~注連飾り大会~

2010年12月28日 | 日々雑記
正月準備で自宅用の注連飾りを作った。縄Nowならぬ縄綯う。毎年の恒例のように近所の子どもたちも集めてみんなで挑戦。藁は昨日、卯之町の注連飾り製作グループから分けていただいた。あとは山にウラジロを取りにいって、カブス(橙)は店で購入すれば完成。小学低学年の子どもたちも綯うことをマスター。

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吉田町の旧松月旅館2

2010年12月28日 | 日々雑記
松月旅館は、旧吉田藩の御用商人高月家(法華津屋)の建物を、昭和9年から昭和60年頃まで旅館として使用していたものであり、吉田町を代表する歴史的建造物である。

松月旅館の一部(安政6年・江戸時代末期建築)は、すでに平成に入って「吉田ふれあい国安の郷」(旧吉田町時代に建てられた歴史資料館的施設)に移築され、保存されている。

私が吉田町の旧松月旅館にうかがったのは2008年9月であった。地元の県議より県南予地方局長に一度建物を見てほしいとの依頼があり、地方局や市役所で相談したらしいが、結局、私のところに話が来て現地を訪問することになった。建築の専門家ではないので、現況を確認するという目的での訪問だった。

所蔵者の意向としては、旧松月旅館の歴史的・建造物的価値を周囲に知ってもらいたいことと、現在、建物自体が傾斜している箇所があったり、白壁の漆喰(うだつ部分)が剥落したりしている箇所が出てきている状態であり、何とか建物を保存したいという思いがあり、それに呼応して、吉田史談会の会員の方々等が、今後の保存・活用について模索していた状況であった。

私の立場では建造物的価値は判断することは難しいが、吉田藩御用商人の高月家(法華津屋)の居宅であった建造物であり、ふすまの下貼りから出てきた古文書なども確認されており、旧松月旅館が江戸時代から近代の吉田の歴史を語る上では貴重な歴史遺産であることは間違いないといえる。

その訪問時に強く感じたのは、旧松月旅館を保存・活用するには、住民の草の根の活動も必要だということである。現在、吉田史談会の会員等の理解者もいるため、吉田町内で保存・活用を目的とした住民グループが活動を開始することも重要であるとの感想を持った。

以下、当時の訪問時の旧松月旅館に関するメモを紹介しておく。

吉田藩御用商人の三引高月家(法華津屋)の本邸を、昭和初期に現所蔵者の先祖が購入し、昭和9年から旅館経営を開始している。同年には、野口雨情の宿泊し、雨情直筆の掛軸も残されている。

現在、保管されている歴史資料のうち、歴史的価値が高いと思われるものに、ふすまの下貼りから出てきた古文書類(法華津屋関係)がある。また、栗田ちょ堂や高月虹器といった江戸時代後期の伊予にて著名な俳人(文化人)の資料も保管されている。なお、近代のものとしては、野口雨情(作詞家・詩人)、後藤新平(政治家)、尾崎行雄(政治家)、高月紫明(吉田出身)、長谷川竹友(松山出身)等の書画が保管されている。

所有者によると、旧松月旅館は、豊臣秀吉の築城した伏見城を移築したものと説明しており、屋敷入口の案内看板にも、そのように記載しているが、史実か否かは、今後検討を要する。

所有者の説明では、元和3(1617)年に伏見城内黒書院が宇和島城の三の丸に移築され、これが宝暦13(1763)年に吉田藩の御殿として移築され、さらに明和2(1765)年に旧松月旅館(当時高月邸)として移築され、現在に至るという。(なお、安政年間に増築された部分は、合併前の吉田町の時代に「吉田ふれあい国安の郷」に移築・保存されている。その際に、建築の専門家が立面図・平面図を作製しており、建造物としての価値についても判断しているようである。)

この「伏見城移築説」については、元宇和島市立伊達博物館学芸員・現伊達博物館長、旧吉田町教育委員会学芸員に確認すると、現在のところ、それを裏付ける史料(第一次史料)は確認できないが、言い伝えとしては多くの人が知っているということであった。

念のため、宇和島藩の公式記録である『秀宗公不審抜書』(天明8年編纂)を確認してみると、以下の記事が掲載されている。

「同(元和)三丁巳年 秀忠公ヨリ伏見御城千畳鋪御殿、秀宗拝領之。三之丸ヱ引建ル。(中略)(朱)此ヶ条、月日未相知候付、未記之。」
「右者、江戸之旧記之趣ヲ以テ記之。亦一説ニ冨田信濃守時代拝領トモ申伝有之。何レカ実否未分明。」
 
 以上のように、宇和島藩としても、天明8(1788)年段階ですでに公式記録において、伏見城を三の丸に移築したことは、一次史料ではなく、二次資料(伝聞資料)である「江戸之旧記」に拠っており、実否もわからないと記している。(明治10年代に編纂された宇和島藩の公式記録『伊達家御歴代事記』では、『秀宗公不審抜書』の前半記事をそのまま引用し、「実否未分明」の記述は省略されている。このため、宇和島に伏見城を移築した話が定着したと思われる。)

このように、旧松月旅館に、伏見城の遺構が残されているという話は、史実かどうか、古文書、古記録から検証することは難しく、今後の検討課題といえる。

ただし、伏見城の遺構か否かは別として、現在残されている旧松月旅館の座敷の天井高などは、庶民の建造物とは考えにくい部分があり、吉田藩の御殿を移築したという話は、真実味がある。ただし、明治時代初期に吉田御殿を解体する際に、三引高月家(法華津屋)が関与していたという伝承もあり、その移築年代が宝暦年間か否かは、今後、検証が必要である。

建造物としての価値は私では判断しかねるが、旧松月旅館の茶室控間の床柱の材は南天といわれ、約10センチ(3寸弱)の太さがある。南天の床柱は全国的にも珍しく(南天が10センチ近くの太さになるには数百年必要)、本当に材が南天と確認できるのであれば、この建物が、庶民(単なる町民)の建てたものではないことを証明する材料になる。

以上のように、旧松月旅館に関しては、史実と伝承が混在している部分があり、建築学や、家材(南天・屋久杉・黒柿)の特定といった自然科学の調査も併せて行うことで解明できる点も多いといえる。

これまで、その存在は知られていたが、内部はほとんど公開されることはなかった旧松月旅館。地元のボランティアガイドの活動が本格化し、多くの人がこの建物の歴史と、保存の現況を認識し、今後の保存についての具体的な議論ができる時期が来たと実感している。


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2011年「自発縁社会」へ

2010年12月27日 | 日々雑記
さきほど南海放送ラジオへの電話出演終了。今日の番組のテーマは「私はここに居るよ」。2010年の流行語「無縁社会」との絡みで葬儀や墓の現状について少しコメントした。今年を締めくくる話で「無縁社会」・葬儀・墓を話題にすると、暗くて沈みがちな雰囲気になってしまう。なるべく明るい、前向きな話題へつなげようと思い、2010年は「無縁社会」という言葉が流行ったが、その状況を前向きに捉えた「自発縁社会」という言葉を紹介した。

「自発縁社会」とは、同じような価値観を持った人(非血縁・非地縁・非社縁)との自発的な付き合いの中で生きがいや自己のアイデンティティを見いだしていこうというもので、縁の自発的な構築に視点を向けた社会のあり方である。

「無縁」つまり「縁」が無いのであれば、自らが属性を選び、縁を構築していくという「自発縁」。そもそも「無縁社会」という言葉で物事のすべての結論とするのも可笑しな話で、例えば、「限界集落」という言葉にしても「限界」というレッテルを貼られるとそれで集落は終末かといえば必ずしもそうではないし、「駄目な人間」と烙印を押されても、前向きな行動があれば、永劫に「駄目」であるわけではない。現在が「無縁社会」であるという烙印は、社会の趨勢を無視した乱暴であり、一面的な用語である。2011年は「無縁社会」の言葉を克服して「自発縁社会」というべき時代の流れに目を向けるべきだと思う。

葬儀も墓も伝統的な慣習は薄れているが、それは現代の人々の自発的な選択であり、自らの死に方を生きている間に考えて選択するという時代になっている。死に方を見つめることは生きることを見つめなおすことにもつながる。「無縁社会」という言葉だけで片付けられる問題ではなく、この言葉の乱発に少し憂慮してしまう2010年の年末である。


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吉田町の旧松月旅館

2010年12月27日 | 日々雑記
宇和島市吉田町魚棚に、吉田藩の御用商人だった高月家の建物が現在でも残っている。一部は国安の郷に移築されているが、残った部分は昭和9年から「松月旅館」として使われ、詩人の野口雨情が宿泊するなど多くの著名人がここを訪れている。

この江戸時代の建築の建物。私は2年前に家主や地元の関係者の方々のご好意で見学させていただいたことがある。南天の床柱や豪華な欄間、そして野口雨情ら著名人の直筆の書などだけではなく、江戸時代の建築材(釘など)も保管されており、江戸時代から昭和にかけての吉田の歴史を語り継ぐ上で非常に貴重な文化遺産だと驚かされた。それ以降、知人やグループで吉田の町並みを見学する方々を外から案内したりしてきたつもりである。

しかし、なかなかこの松月旅館の文化遺産としての価値が世間に浸透していかないもどかしさも感じていた。これは家主や松月旅館の保存を支援する方々の共通の思いでもあったと思う。

実は、今日の愛媛新聞の朝刊に、この松月旅館の記事が出ている。「旧松月旅館存続の危機」「築200年傷み激しく」「観光資源 住民が保存運動」。このような見出しが紹介されている。地元の方々がガイドボランティアを結成し、これから一人でも多くの人に旅館を見てもらって、住民を巻き込んだ活動をすすめていくという記事である。

これまでも吉田の町並みのガイドは行われていたが、松月旅館に注目した新聞記事は初めてである。今回の記事は、松月旅館のことが広く知れ渡るきっかけになるのは間違いない。これが県や市などの公的機関からの情報発信ではなく、地元のボランティアの動きからの発信。吉田の町並みは、内子・大洲・卯之町・岩松に比べて素材は豊かであるが、住民主体の町づくりの動きが少なかったため、今回の動きは歓迎すべきことである。

松月旅館の詳細については、後日再度、紹介したい。




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伝説「五色浜の石」

2010年12月27日 | 口頭伝承
毎年3月第4日曜日に行われている五色姫復活祭。伊予市商業協同組合・五色姫復活祭実行委員会の主催で平成元年から行われている。この五色姫、源氏に敗れた平家の姫たちが伊予市の五色浜に住みつくも、悲劇の末、入水してしまい、五色の海岸の小石になったという地元の伝説が基になって、復活祭が実施されるようになったものである。『松山百点』265号(2009年)に「愛媛に伝わる姫物語」という特集が組まれており、私もインタビューを受けて、愛媛の姫物語の特徴などを紹介したが、この中で伊予市の五色姫についても少し触れたことがある。また、五色浜の伝説は『伊予市誌』にも紹介されている。しかし、この伝説は地元伊予市でも知られているようで案外知らない人も多い。それは内容があまりにも残酷で悲劇的だからである。姫の復活という華やかなイメージとは程遠い話であり、多くの人が目にする広報媒体には、もとの伝説が触れられることが少ないようである。

ここでは、あえて『伊予市誌』に掲載されている伝説「五色浜の石」を、そのまま紹介しておきたい。それはこの伝説が「五人の貴人の姉妹(兄弟)の争い」という骨子で成り立っており、この五人の争いは「陰陽五行」の「五行」に関する伝説に関わってくるなど、日本の思想史や宗教文化論の題材として貴重といえるからである。例えば、愛媛県内をはじめ全国各地の民俗芸能の「神楽」でも五人の王子が争って、春夏秋冬の四季に土用を加えることで時を五等分したという話があるなど、この五色姫に類する伝説は近世以前の中古・上代的要素が強いのではないかと推察している。



「五色浜の石」(『伊予市誌』1076〜1078頁、1986年)

寿永の昔のことである。「おごる平家久しからず」のことばそのままに、さしも栄えに栄えた平家が運つきて遂に源氏のため、はかなく西海の藻屑と消えてから間もない頃であった。ついぞこの辺りには見かけない五人の美しい姫たちがどこからともなく流れて来て、この砂浜にささやかな住居を作って暮らしていた。付近の人々は「あのお姫さんは皆お顔がよく似ている。御姉妹かもしれない」「羽衣をなくして飛ぶことを忘れた天人ではあるまいか」「いや、さき頃壇の浦で亡んだ平家のお姫さんたちに違いない」などといろいろうわさをしていたが、姫たちは五人とも決して村人と口をきかないので、それを確かめることはできなかった。

ある日、一匹のかにが濡れた背を赤く光らせながら浜辺をはっていた。ふとそれを見た一番年上の姫は、「まあきれいなかにだこと・・・。お前は平家のかにでしょう。平家の赤い御旗が夕日を浴びて、お前のように真赤に輝いている間は・・・。それにつけても憎いのは源氏です。お父様もお兄様も、あの荒荒しい源氏のためにあわれな御最期を遂げられたのです。赤い平家のかにがいるからには、きっと白い源氏のかにもいるにちがいない。ああ源氏のかにはどこにいるのでしょう。あの白い源氏のかには・・・」と、はるか海のかなたを見つめて気が狂ったかのように叫びつづけた。そして、驚いてかけ寄った四人の妹を見るなり、赤く血走った眼をそそぎながら鋭い声で「お前たちは早く源氏のかにを探しておいで。わたしはそのにくい源氏のかにを踏みつぶしてやるから」といいつづけた

四人はいいつけられたとおり一日中探したが見つかるのは赤いかにばかりで、白いかには一匹も姿を見せなかった。あくる日もその次の日も朝から晩まで四人は浜へ出て砂を掘ったり石をおこしたりして一生懸命探したが駄目であった。七日目の夕方、もどかしそうに妹たちの帰りを待っていた姉姫は、疲れきってしおしお帰って来た妹たちを見て「四人がかりで一匹のかにが探せないのはどうしたのですか。恐らく一日中遊んでいたのでしょう。さあ、もっと探しておいで・・・」と、言葉厳しく叱った。

夏の夜の海は潮がいっぱいなぎさに満ち、月がぼんやり波間を照らしていた。姫たちは夜どおし白いかにを探してまわったが、やっぱり見つけることはできなかった。四人はそのまま帰ることもできないので、相談の結果、赤いかにに白粉をつけて持ち帰ることにした。「お姉様、お喜びくださいませ。源氏のかにが見つかりました。」そういって差し出した白いかにをじっと見つめていた姉姫はやがて気味悪い笑みを浮かべ、あたりを見回して手をさし延べ、かにをつかむのが早いか庭の手水鉢へ投げ込んだ。するとかにの白粉はたちまちとけてもとの赤いかにになってしまった。それを見た姫はそばにあった刀をとると一番末の姫に切りつけた。この恐ろしい有様に三人の妹姫は「あれ・・・」と叫んで外へ走り出た。そして「お姉様どういたしましょう。もう帰ることはできないし・・・」「三人いっしょにこの海に沈んで、お父さまやお兄さまのお側へ行きましょう。」と中で一番年上の姫が目に涙をいっぱいためて言った。そこで三人はしっかりと抱き合って暗い波の底へ沈んでしまった

その夜一人残った姉姫は、殺した妹の死がいを抱いて「憎い源氏を討った」と叫びながら浜辺をかけ回っていたが、やがてとある岩の上に立って「ああ、あそこに妹たちがいる。」といってそのまま海へ飛び込んだ。月は早くも西に落ちてあとにはただなぎさを洗う波の音だけが暗闇やみの中にしていた。

こうして亡くなった五人の姫たちが、それぞれ赤・緑・黄・黒・白と五色の小石に化したのであるという。五色浜には今も美しい五色の小石がある。


以上が『伊予市誌』に掲載された文章である。

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2010年「無縁社会」

2010年12月26日 | 人生儀礼
本日も忘年会。少し飲み食いが過ぎた。キーボードがブレて見える。

今年もあともう一息で終わり。ようやく迎えた年末。今年も何とか辿り着きました。しかし、この年末年始、原稿〆切を抱えていない。何年ぶりであろうか。ここ数年は毎回、年末年始の休みに〆切に追われ、1月4日朝に入稿・・・ということが続いていた。今回は神経磨り減り度合いが全く違う。今、少しだけ幸福を感じている。追われていない生活は素晴らしい。

とはいっても、明日はラジオ出演が待っている。昨日出演依頼があって、急遽、生放送の電話出演することになった。

12月27日(月)14:30頃 
南海放送ラジオ 番組名「本気(まじ)?ラジ!」

この番組は南海放送ラジオで平日の13:35~16:50に生放送されている地域情報番組。今回、この番組において「2010年を振り返る」コーナーで、今年の流行語「無縁社会」をテーマとして、愛媛県内の状況を紹介するとのことで、私に、県内の伝統的な慣習(民俗)を調査する立場から、葬儀・墓の歴史と現状など「無縁社会」に関するコメントをお願いしたいとのことだった。特に台本もなく、詳しい事前打ち合わせもしないままの生出演でのコメント。本番は緊張するかもしれないが、何か準備をするわけでもなく、電話で会話をするだけ。どんな話になるやら、自分でも楽しみ。


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聖誕祭の宵宮

2010年12月24日 | 年中行事
今晩は世間では聖誕祭の宵宮。聖(セイント)ニコラウスが変化してサンタ・クロースになったのだと思うが、となれば「サンタ」を漢字で表記すると「聖」。「サンタさん」は「聖さん」となってしまう。漫画『聖☆おにいさん』の仲間みたいだ。ちなみに芥川龍之介『葱』(大正9年)に「クリスマスを祝ふ杉の葉の飾(中略)飾窓のサンタ・クロス」とあって、この頃には一般的になっているようだ。

さて、聖ニコラウスは子供好きの慈善家であったらしいが、この「慈善」のおかげで、子供達はプレゼントを頂戴することになる。私は今日は仕事が休みだったので午前中に宇和島に本とおもちゃを買いに行った。子供たちへのプレゼントのためである。難しいことに、未だ聖さんの存在を我が子は信じている。プレゼントは聖さんからのものとしなければならない。もしも聖さんがいないと発覚した場合は、自分が聖さんからWSO(世界サンタ機構・ウソと読む。多分実在しない。)の日本支部の手伝いを委嘱されていたことにするつもりである。

去年は聖誕祭直前に松山の大手玩具店(ト○ザらス)に行ったが、ものすごい込み具合。子供から聖さんへの手紙を握りしめた両親が、そこに書かれている玩具を必死で探しているし、それが見つからず困惑している人もいる。聖さんの慈善の影では、多くの親が子供の夢をかなえる為に努力もし、苦労もしている。

子供にとっては、毎年、消費財としての玩具をもらえる権利を有する聖誕祭。こんな風に現状を受け止めているので、もう少し、聖さんの人となり(といっても伝説上の人物ではあるが・・・)を話すとか、キリストの生誕劇を見せるとか、何やら消費社会の輪廻に翻弄されている自分を克服したい気持ちになる。

とはいいつつも、ケンタのチキンも大量購入している自分。あとは今宵、聖さんの登場を待つのみ。





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ヤンヨー!

2010年12月23日 | 口頭伝承
昨日は八幡浜市内で元気プロジェクトの忘年会に参加。気づいてみれば午前さま。いろんな人といろんなお話ができて、楽しい時間が過ごせました。

さて、八幡浜でかつては使われていた掛け声「ヤンヨー」。「万歳」とか「やった!」と称賛するときに使う言葉である。この話題が昨日の忘年会でも出た。年配の方々はよく知っているが、若い人は全く聞いたことがないという絶滅危惧種の方言。

この「ヤンヨー」は語源はよくわからないが、おそらく「ヤンヤ」の変化形だと思う。江戸時代の『浮世風呂』三・下に「女房が五大刀の爪弾を聴居るもヤンヤな沙汰ぢゃアねへ」とあるように、称賛に価するという意味で使われている。

方言としても、高知県や熊本県で称賛するときにいう言葉として「ヤンヤ」が使われている。(『日本国語大辞典』参照)

この「ヤンヨー」という掛け声。英語で言えば Good job! 若しくは We did it!

『八幡浜市誌』の方言編にも出ていないので、備忘のために記しておく。



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八幡浜の地域資源の魅力

2010年12月13日 | 日々雑記
「濱知の会」10周年企画のご案内です。

八幡浜の地域資源の魅力

平成12年11月に活動を始めた濱知の会。いつの間にやら10周年を迎えておりました。今回の例会では10年の歩みを振り返るとともに、下記のとおり、八幡浜の地域資源に関する講話を行います。ちゃんぽん・てんぷら(じゃこてん)、寿司などの郷土料理、柱松神事や座敷雛などの祭り・行事、ヘーシンクを育てた男「道上伯」、アメリカ移民の先駆者「西井久八、山下宅治」など、近年注目されている八幡浜の歴史・文化について紹介したいと思います。

当日受付・申込不要・参加費無料


日時 平成22年12月16日(木)19:00~21:00

題名 八幡浜の地域資源の魅力
   -食文化・祭り・歴史-

話者 大本敬久(県歴史文化博物館学芸員)

会場 八幡浜市福祉文化センター(八幡浜市広瀬2-1-13)

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愛媛の方言「がいな」

2010年12月12日 | 口頭伝承
NHKのドラマ「坂の上の雲」を視聴して、子規や秋山兄弟が話す愛媛方言に興味を持ったということで、昨年もそうであったが、私のところに電話やメールがよく来る。先日は「がいな」についてどう調べても明確な答えが帰ってこないというので、NHK松山さんや松山市役所さんからもこちらに問い合わせが回ってきた。この際、「がいな」については明らかにしておこう。来年もドラマは続くし、この種の質問は絶えそうにない。
「がいな」については明確な語源説があるわけではないが、「我意」もしくは「雅意」に関係するのではないかといわれている。これは既に『日本国語大辞典』にも紹介されており「『我意』の意から変化した語と思われるが明らかでない」とし、その他にも「異(け)」あるいは「実(げ)」の変化したものという説も記載されている。
 この「我意」、「雅意」とは①「自分の考えを押し通そうとする心。気ままな心。またそのようなさま。勝手きまま。わがまま。」の意味と②「程度が標準よりぬきでているさま。良い意味にも悪い意味にも用いる。けたはずれなさま。」の2つの意味がある。①については平安時代末期の辞書『色葉字類抄』に「雅意 ガイ」とあるし、文明6(1474)年成立の『節用集(文明本)』にも「雅意 ガイ 随意義。我意也」とある。『日葡辞書』にも「Gaina」とあり、わがままな人と訳されている。この「わがまま」という意味の我意が①である。一方、②の用例については室町時代中期の『史記抄』に「項羽はがいなものぞ」とあったり、江戸時代初期の『雑兵物語』に「がいに働いて、息が切べいならば」という記事がある。室町時代には既に「ぬきでている」、「はなはだしい」という意味の「がいな」はあったことが間違いない。これが①の「我意」が変化して②になったのかどうかは明確にはできない。むしろ別の言葉と考えた方が理解はしやすい。ともかく、方言「がいな」は室町時代には中央(都)では使われていた言葉であったことは確かであり、それが全国に伝播していったものと思われる。
 その「がいな」の分布であるが、当然、愛媛に限ったことではない。山陰でもよく使われる言葉であるが、案外この分布は広い。『日本国語大辞典』から拾うと、青森県三戸郡、岩手県、宮城県登米郡、秋田県、山形県村山、栃木県那須郡、静岡県、名古屋市、三重県、但馬、淡路、和歌山県、広島県豊田郡、出雲、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、大分県南海部郡。以上の地域では「はなはだしく」という意味で「がいな」が使われる。また、これに類する「ひどく」、「おびただしく」、「乱暴に」という意味で「がいな」が使われる地域は以下のとおりである。青森県、愛知県碧海郡、三重県志摩郡、京都府竹野郡、和歌山県、島根県那賀郡、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、大分県、対馬(以上は「ひどい」・「乱暴な」という悪い意味で使う)。岩手県遠野、宮城県牡鹿郡、富山県、三重県志摩郡、和歌山県、鳥取県西伯郡、島根県、愛媛県、高知県、大分県(以上は「たいした」、「大きな」という意味)。富山県、但馬、奈良県、和歌山県、島根県、岡山県、広島県比婆郡、徳島県祖谷、香川県、愛媛県(以上は「強い」、「丈夫な」という意味)。埼玉県入間郡、新潟県刈羽郡、大阪府泉北郡、和歌山県(以上は「ひどく」、「強く」の意味)。福島県、千葉県君津郡、伊豆大島、山梨県、愛知県知多郡、三重県、和歌山県、鳥取県、島根県、愛媛県(以上は「おびただしく」、「たくさん」の意味)。以上のようになる。これを見ると、大分県を除く九州と北海道以外はほぼ全国を網羅することになる。ただし、色濃く出てくるのは、やはり山陰と四国、そして三重、和歌山である。このように、愛媛のみで伝わっている方言というわけではなく、分布は全国に見られ、おそらく室町時代以降、全国各地に伝播したものと思われる。
 なお、「がいに」を「はなはだしい」という意味ではなく、「それほど」とか「全く」といった真逆の意味で使っている地域もある。それは岩手県釜石、福島県、群馬県吾妻郡、静岡県榛原郡、石川県、福井県である。この地域も含めてみれば、「がいな」という方言が伝わっていない都道府県は、北海道、茨城、東京(伊豆大島を除く)、神奈川、新潟、長野、岐阜、滋賀、福井、奈良、山口、そして大分を除く九州・沖縄のみとなる。以上がおおまかな方言「がいな」の概要である。

 ちなみに、この「がいな」。今でも八幡浜など愛媛県南予地方では若い人でも使う。この私も「今日はがいにひやいな~」(とってもさむいですねの意味)という具合に使っている。生きた方言である。


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方言 だんだん

2010年12月12日 | 口頭伝承
今日は広島の放送局からの問い合わせ。ドラマ「坂の上の雲」を見た方が愛媛の方言「だんだん」や「がいな」を聞いて、なぜ山陰方言が愛媛にもあるのか?という内容。この質問は昨年から各方面から何件も受けているし、ドラマ制作段階でNHKからも方言考証として多くの資料を提出したこともあり、すぐに対応できた。「だんだん」については、既に私が『民俗の知恵―愛媛八幡浜民俗誌―』(創風社出版)142~144頁で由来や分布を紹介しており、この文章で大抵は問題が解決できるはずである。「だんだん」は天明年間には京都で始まった言葉で、その後に北陸や山陰、四国、九州に伝播したもので、方言周圏論で説明可能なものだとも解説した。この「だんだん京都発生説」を紹介して数年経つが、最近、「『だんだん』は京都の遊郭に遊びに行った地方人が伝えて帰ってきたらしい」という話が聞こえてきた。私はこの話を聞いて、方言「だんだん」の伝播が誤解されて伝わっていることを危惧した。方言は時間をかけて徐々に中央から地方に伝わったからこそ多くの人々が使っているのであって、遊郭に遊びに行った地方人が伝えたというのは、説明としては面白いかもしれないが、納得はできない。自分が書いたものが別の方向で流布しているのを聞いて、少しだけ驚いた。


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どぶろくプリン

2010年12月11日 | 日々雑記
愛媛では初めて「どぶろく特区」に認定された宇和島市。この写真は、そこのどぶろく「なっそ」を使ったプリン。宇和島市中心街や津島町にある寿提夢で販売されている。見た目は普通のプリンだが、食べてみるとお酒の風味が広がる。子供向けではなく、大人指向のプリン。容器は陶器で、我が家ではそのまま食器として使っている。どぶろくで少しほろ酔い気分を味わえる地元スイーツ。

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紙の門松

2010年12月11日 | 年中行事
高知市あたりでよく見られる紙の門松。昭和30年頃に高知市内の印刷業者が考案し、生活改善の動きの中で高知市が全戸配布したことで普及した。

この写真は高知のものではない。愛媛県八幡浜市で、昭和30年に生活改善運動で各地区の自治会に見本として配布された紙の門松。

結局は見本だけで、高知市のようには普及はしなかったが、昭和30年段階の紙の門松の現物が残されているだけでも貴重である。


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