愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海への畏怖

2015年08月17日 | 信仰・宗教
いまだ空海について理解することができない(当たり前か!)。深くて、そして広いのだ。「理論」と「実践」の両面を備えており、特に密教の実践に関する著作は、私のような凡夫にはとても理解できるものではない。しかも宗教者としての著作以外に、『文鏡秘府論』といった漢詩評論の書があり、『性霊集』も宗教的視点だけで読み込めるものではない。『性霊集』は漢詩文集でもあるが、「漢詩」にとらわれることなく、書かれた内容から、当時の時代状況、生活、慣習をもうかがい知ることのできる一次史料ともいえる(といっても歴史学者は充分にこの史料を活かしてきただろうか)。このような宗教以外の著作が充実した宗祖は他にいるのだろうか。それだけではなく、満濃池の修池事業(土木)や、綜藝種智院の設立(教育)、三筆(書家)などなど、空海は各種分野で活躍し、総合性を備えた人物である。その著作からは、「総合」を「分類」しえない一種の「畏怖」を感じる。これがために、近代科学の合理性を追求したり、「分類」をすることで安堵を得る科学者(人文科学)にとって、空海は厄介な存在であり、理解できない、分類できない。そして畏怖の存在となり、ゆえに研究対象から排除されがちであったのかもしれない。空海の総合性を克服するには、セクション主義の近代科学の克服が必要であり、いってみれば、21世紀の科学が、科学足り得るための一つの指標は、空海を理解することなのかもしれない。ふとそう思った。自分にはまず無理なのだけれども。

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