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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

正月の注連飾りの「かぶす」と「だいだい」

2012年09月12日 | 年中行事
愛媛県八幡浜市出身の自分。

お正月の注連飾りに付ける柑橘のことを「かぶす」と呼んでいた(いや呼んでいる)。

この「かぶす」。日本国語大辞典によると、「だいだい」の異名、と紹介されているものだから、

「かぶす」は橙のことだと無意識のうちにそう思っていた。

でも、よく考えると(考えなくてもそうだが)、色も形も大きさも橙とかぶすは違う。

それでも、かぶすは橙の一種もしくは類似種なのだろうと、

何も考えずに、そう理解していた。

でもやはり、橙とかぶすは違う。

ちなみに「かぼす」と「かぶす」が違うものであることも充分理解はしている(つもり)。

今一度、日本国語大辞典を見てみた。

かぶすは、次のように紹介されている。

「かぶち(臭橙)」の音変化した語か。
植物「だいだい(橙)」の異名。
文明本節用集「鬼柑子 カブス」
日葡辞書「Cabusu(かぶす)<訳>蜜柑、レモンの一種。その果実のなる木」
大和本草「橙<略>又一種かぶすあり。」

これでは、やはりかぶすは橙の一種であり、しかも文明本節用集や日葡辞書に出てくるのだから

かなり古い、室町時代には既に使われていた言葉だとわかる。

それでも、、、である。何か腑に落ちない。

正月の注連飾りのかぶすは橙とは、色も形も大きさも違う。

謎である。(いや謎でも何でもない。明らかに違うだけだ!)

先日、西予市明浜町高山にうかがった際にも、

昭和初期生まれの方々にお話をうかがったが、

かぶすはかぶすであって、決して橙ではない。

これは自分の実家、八幡浜でも同じ答えであった。

もしかして、正月に用いる柑橘は、家が代々栄えるようにと

どんな柑橘を使っていても「だいだい」と混同されるようになったのではないか。

よく年中行事の辞典は説明する。「だいだい」は代々に通じて縁起が良いと。

先に挙げたように、かぶすは室町時代には既に使用されていた言葉であり、

橙の異名がかぶすなのではなく、かぶすが正月に用いられているので、

「だいだい(代々)」と混同されるようになったのではないだろうか。

このような年中行事や人生儀礼において語呂合わせ的な説明がなされるようになるのは

概して江戸時代からである。

江戸時代の家庭年中行事としての正月行事、注連飾りが一般化して、

その在地で使われる、つまりその地域で採れる柑橘を

正月に「だいだい」と称してしまった場合があったのではないか。

かぶすはかぶすであり、例えば、愛媛でも越智郡島嶼部にては、注連飾りの柑橘はコミカンだと聞いた。

橙が入手できる場合にはそれで構わないのかもしれないが、

橙がなくても、知識として正月の柑橘が「代々家が栄える」という縁起知識が普及することで、

その他の柑橘が使われる場合に「だいだい」の呼称の混同、混乱が生じたのかもしれない。

結局、何も解決しないので、愛媛県のみかん研究所に問い合わせしてみた。

すると、的確な文献を教えていただいた。

(素早いご返答ありがとうございました!)


木村勝太郎・谷中登希男著『日本の酢みかん』 原田印刷出版、 1995年10月発行 である。

ここに紹介されていることを簡単にまとめると

カブス(臭橙)Kabusu

別名び代々(ダイダイ)臭橙(シュウトウ)があり、学名にもきちんとKabusuとある。
インド、ヒマラヤ地方の原産で、中国揚子江沿岸地帯並びに我国の各地に分布する。
我国には非常に古く渡来したもののようで、
醍醐帝の御代(つまり平安時代)に著された本草和名(日本最古の本草書とされる。深江輔仁著)には
橙と記されている。
日本全国に分布し、汁は酸味強く、生食には適せず、酢の代用として料理に使用される。
古来、正月の飾りに使われている。

以上のようになる。

ということは、かぶすは、学名のある確固たる品種であり、しかも平安時代に既にあったというのである。

ところが、謎は深まった。

この書の説明で、本草和名では「橙」と記されていると・・・。

自分の頭の推察で、江戸時代に混同したのかと思っていたのに、

既に平安時代に混同していた?

そうなると、そもそも橙(だいだい)って何?という話にもなる。

かぶすはかぶすで良い。

方言でもなく、学名のある柑橘として理解しておけばよい。

しかし、橙、だいだい、代々との混同の謎は、いまだ解けない。

結局、すっきりしない。

このブログ。橙(だいだい)についても歴史をきちんと調べて、提示すべきなのだろうが、

まあ、こんなすっきりしない、自分の頭の中の混乱を披露するのも、いいだろう。

だいだい、一番身近な、正月の柑橘の種類をきちんと説明できていないことに

歯がゆさを感じる。嗚呼、恥ずかしや。

まあ、早いうちに本草和名などの原典にあたってみよう。



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亥の子のご祝儀の配分

2012年09月06日 | 年中行事
旧宇和町の広報誌『うわ』第6号、昭和29年10月31日にこんな記事があった。

「イノコにあった悪習慣を改める 多田地区のよい子」

秋の年中行事である「亥の子」のご祝儀について、「美談」として取り上げられているのだ。

記事を以下、引用しておこう。【 】内は大本補注。


毎年十月【現在では新暦10月の亥の日に行う。
十二支の亥の日なので、2回ある年、3回ある年がある。】
には子供達にとつて、たのしい亥の子祭がやつてくる。
「亥の子」には御祝儀をもらつて、子供達の手によつて配分し、
その配分の方法なども、小さい子供には少しの金を配当し
大きい子供は多くの金を取るという習慣が残っていたが、
【この慣習は今でも旧宇和町内各地に残る。】
今年多田地区の町組では頭取【子供大将もしくは亥の子大将とも
呼ぶ地区もあるがここでは頭取。年長者のことである。】
中学二年生牧野、岡田、二宮、福島の
四君が中心となり第一回は全員平等に配分し、
四君は組員より二十円少なくとり
残金は世話宿に世話料として差上げ、
第二回は全員平等に配分した。
このことは当然といえば当然ではあるがけれども
今までの悪い習慣を破つて新しい道を開いたことに対して
小さい子供をもつ父兄の人々は感心している。


以上が引用である。

亥の子が生活改善の一環で、廃れたという話をよく聞くが、
それに関連する話かもしれない。

ちょうどこの昭和29年には、文化庁により愛媛の年齢階梯制が
国選択無形民俗文化財となっている。
この年齢階梯制の中の大きな要素が子供組の活動、
そしてそこから成長しての青年集団(若衆組)の民俗であり、
「亥の子」も一種の文化財として意識された年であった。

地域の中で、年齢の階段を駆け上がるための地域教育の場であった亥の子。
亥の子組に入って、年少の頃は御祝儀の配分が少なくても、
年齢が上にいけば徐々に増えていく。
それを大将(頭取)といった亥の子組の年長者が配分していく。

子供組の中での金銭獲得、配分の経験の場であったのである。

これが「平等」に配分することになると、
亥の子組の中での年齢の階段、そして年長者の差配権限が希薄になってしまう。

亥の子のご祝儀の配分が、「悪習慣」という見方であるが、
必ずしもそうではないのではないか。

地域の教育力の場としての亥の子慣習を変容させ、崩すことにつながる可能性だってある。

そのように自分は思っている。



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昭和32年の新正月

2012年09月05日 | 年中行事
『広報宇和』第34号。昭和32年2月8日発行である。

「正月に賑やかな文化祭」

こんな見出しがあった。

これは旧宇和町の石城地区の岩木、郷内の両集落の話である。

岩木青年学級が生活改善を課題として研究を進め、その成果を披露したのが

昭和32年正月1日、2日。地区の文化祭を行ったのである。

この記事を見ると、昭和32年段階では旧正月はメインのお正月で、

現代のような新正月がいまだ定着していないことがわかって面白い。

その正月の文化祭の内容であるが、

第一部門 生活改善の調査の集計を展示して岩木の現在の改善の度合いを提示。

第二部門 各家庭の炊事場および風呂場の改善した写真を展示。

これが結構、目をひいたという。

第三部門 改善に関する図書と、改善に要した金額を展示。

第四部門 地区住民の手芸品を展示。

第五部門 地区の華道会の生け花を展示。

以上である。

これについて広報宇和の記事は

「ほんとうに正月らしい文化祭を開催しました。二日間の参観者の数は延人員千名をこえて盛況でした。」

とある。

「正月らしい文化祭」っていったい何なんだ???

隣の郷内集落でも大華道会を開催したとのこと。


この記事を読むと、生活改善で目指している新正月のイメージがよくわかならなくなる。

今とは違う。旧正月も徐々にこの頃から廃れていく。

この50年でニッポンのお正月は、激変したのがよくわかる。







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2012年八幡浜市真穴の座敷雛

2012年04月02日 | 年中行事
八幡浜市真穴に行ってきました。非常に天気に恵まれ、雛祭りの季節だな~と体感しながら地区内を歩きました。高校時代の同級生にも偶然出会ったり、公民館長さん、主事さん、座敷雛研究会の山下重徳先生にもいろいろとお話をうかがうことができました。先日の濱知の会で座敷雛について話した内容やレジュメを地元の方々にも配布、報告することができて少し安心。

でも、明日3日は天候が荒れそうで、少し心配です。


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八幡浜の伝統行事を知る―座敷雛と柱松神事―

2012年03月22日 | 年中行事

濱知の会<八幡浜ふるさと発見倶楽部>の例会のお知らせです。

4月は八幡浜市内では真穴の座敷雛(市無形民俗文化財)、川名津柱松神事(県無形民俗文化財)と興味深い伝統行事が続きます。

これらの歴史や文化財的価値、当日のみどころを、それぞれの行事日直前の特集として2回に分けて紹介します。

話者は大本敬久(県歴博学芸員)。

どなたでも参加できます。当日受付・申込不要です。

<1回目>
日 時 平成24年3月31日(土)19:00~21:00
テーマ 真穴の座敷雛の歴史とみどころ紹介
会 場 松蔭地区公民館1F(八幡浜市168-1中央)

<2回目>
日 時 平成24年4月12日(木)19:00~21:00
テーマ 川名津柱松神事・神楽の歴史とみどころ紹介
会 場 松蔭地区公民館1F(八幡浜市168-1中央)

※会場は通常とは異なり松蔭公民館(市民図書館裏)となっています。

<問合先>nanyotv(アットマーク)gmail.com
※(アットマーク)を@にご変換ください。


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注連飾りの行方

2012年01月16日 | 年中行事
小正月も終わりました。お正月の注連飾りを処理しないといけません。最近は家庭ゴミとして出しているお家も多くなっています。寺社で処理してもらう、地域で処理する、または山に持っていって木に吊るすなどさまざまですが、写真は数年前に松山市内のある寺社で撮ったもの。このままでははやす(燃やす)こともできません。分別の作業が必要です。

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山口県の柱祭り

2011年08月20日 | 年中行事
先日8月19日に、山口県周東町祖生山田の柱松を見てきました。八幡浜市五反田の柱祭りに類似した盆の火投げ行事なので、その比較検討するために行ってきました。急ぎ足の調査でしたが、いろいろと収穫あり。

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五反田柱祭りと金剛院の伝説

2011年08月15日 | 年中行事
ごく最近の出来事。7月下旬のこと。私は愛媛県八幡浜市の五反田柱祭りの記録撮影のため、五反田地区に行った。この柱祭りは愛媛県指定無形民俗文化財であり、盆の火投げ行事として知られている。盆の行事なので精霊供養や新仏供養という意味合いかといえば、実はそうではない。非業の死を遂げた修験者の霊を慰めるための行事として江戸時代以前から連綿と続けられている。

祭りの由来伝承は戦国時代に遡る。当時この五反田にあった元城が、土佐長宗我部氏に攻め込まれる際に、五反田から九州に修行に行っていた修験者の金剛院円海法印が知らせを聞いて急ぎ戻ったところ、敵と間違えられて射殺されたという伝承がある。

その後、五反田に疫病が流行した際、神官が「これは金剛院の祟りに違いない」と主張し、その霊を慰めるために盆の8月14日に川原に約20メートルの柱を立てて、その頂部に据え付けられた漏斗に、火のついた麻木を投げ入れるという行事が始まったといわれている。この行事の開始は、戦国時代とも江戸時代初期とも、あるいは幕末ともいわれ、諸説あってはっきりしないが、少なくとも戦国時代に金剛院が誤殺されたという伝承は既に江戸時代には知れ渡っていたようである。

さて、この修験者・金剛院は現在、五反田の中で金剛院神社として祀られている。数坪程度の小さい境内であるが、祠があり、その中に無縫塔が安置されている。無縫塔とは僧侶や修験者の墓石として用いられるもので、これが一種、神社のご神体となっている。

金剛院や柱祭りにまつわる祟り話は現在でも五反田で生きづいている。先日聞いた話では、金剛院神社境内の銀杏の木の枝を切ったら、家族に不幸があったので、もう関わりたくないという話。他にもある。ここでは書く事ができないが、地元五反田の人に言わせれば、そんな祟り話は枚挙にいとまがないという。明治時代にも祭りが派手だということで警察から中止命令が出て一年止めたとたん、悪い病気が流行ってその後は毎年続けられている。最近の話も記しておきたいが、リアルすぎるのと、個人が特定される恐れがあるので、具体的には紹介できない。地元では、いまだ金剛院の霊は鎮まっていないと認識されているようにも感じる。

さて、金剛院神社に案内してくれた地元の方のご配慮で、祠の中の無縫塔を見せていただいた。中には他に霊璽もあったのだが、何故か転がって倒れていたので、丁重に拝んで立てておいた。少し気味が悪いというか、金剛院のいろんな話を聞いた後だけにいわばご神体を直接触ることには鳥肌が立った。一通り、境内を見せていただいて、同行の方と一緒に歩いて帰りながら世間話をした。金剛院神社を出て、川を渡る橋の上で「そういえば今日は蝉の声も聞こえないな。異常気象で今年は蝉が鳴き始めるのが遅かったから」と彼は言った。

夏真っ盛りの昼間の会話である。近くは雑木林の山に囲まれている。当然、蝉も泣き続けている。少なくとも私の耳にはうるさいくらいに聞こえる。

地元の同行者の聴覚に異常が出たのだろうか。まさか、金剛院の祟りなのか。そしてその会話は、金剛院神社前の橋の上での会話だったので、余計怖さを感じた。しかも、偶然以外の何者でもないが、その橋の欄干の近くには何故か女性の靴が並べて放置されている。靴には蜘蛛の巣が張っていたので古い物とすぐに解ったが、思わず橋の下の川を見入ってしまった。

私は不可思議なことだと思ったが、彼には「直接、蝉がうるさいくらいに鳴いていますよ」とは言えないまま別れて、私は五反田を離れてしまった。

その後、金剛院の祟り話が脳裏から離れないが、今にいたるまで、自分の身には何事もない。でもそれ以来、慎んで生活をしないと心の安寧が来ない。



※これは私の実体験をもとに若干、フィクションも加えています。あしからず。どこがフィクションかはヒミツです。







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今年で最後の和歌山県すさみ町の佐本川柱松

2011年08月15日 | 年中行事
紀伊民報によると、和歌山の投げ松明行事の佐本川柱松。こちらも継承の危機に直面していて、今年の柱松を最後に保存会が解散するとのこと。


http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=215248



柱松継承へ黄信号 保存会、今年で解散


 和歌山県すさみ町佐本地域で220年続く伝統の盆行事「佐本川柱松」の継承が危ぶまれている。担い手不足や材料確保の難しさが原因で、地元住民でつくる佐本川柱松保存会(浦愛一郎会長)が、今年の柱松を最後に解散することを決めた。ただ、大学生や町職員ら地域外の若者から協力の申し出もあり、地元住民は「できれば途絶えさせたくない。何とか続けられたら」と話している。


 「佐本川柱松」は高さ20メートル前後の丸太の先に、松の枝や稲わらで作った「巣」を付け、火が付いたたいまつを巣に投げ入れる行事。着火するまで続けられる。夏の夜空に火が弧を描く幻想的な行事を見ようと帰省客や見物人ら300~400人が訪れ、地域人口の2倍近くの人でにぎわう。

 江戸時代後期の1787(天明7)年から2年間、夏に疫病がはやり、多くの村人が死亡したことから、供養と無病息災の祈願のため始められたとされる。1970年代からしばらく途絶えたが、83年に「佐本親子クラブ」が復活させた。主催はいったん地元区長会に移り、90年代からは保存会が営んできた。

 保存会会員は出身者らを合わせて14人。全員40歳以上。60代と70代が8人で全体の半数以上を占めている。家族が初盆に当たる人は関われないため、年によってはさらに担い手が減る。当日朝に行われる柱松作りも人手や技術がいる。以前は参加者が持参していたたいまつも保存会が約250本作って用意している。

 また、欠かせない材料の松も松食い虫の影響で、年々確保が難しくなっている。
 そのため、昨年は取りやめになり、そのまま会の解散も検討された。昨夏から児童を引率し、旧佐本小校舎を拠点にキャンプに来ている摂南大学(大阪府寝屋川市)のクラブ「ボランティア・スタッフズ」から「柱松を楽しみにしていた子どものためにも実施してほしい」と保存会に働き掛けがあったため、保存会は6月の会員総会で、今年の柱松を最後に解散することにした。

 同クラブは、キャンプの日程に柱松を組み込み、児童に参加させる。学生は当日朝、柱松作りを手伝ったり、会場の河原の掃除をしたりする。町職員ら地域外の若者もボランティアで手伝う予定で、賛同者を呼び掛けている。

 松については一昨年から集めてきたものがあり、たいまつは保存会会員が7月に入ってから作り始めている。

 保存会の浦剛さん(68)は「昨年は地元の人も帰省する人も寂しがった。保存会の行事としては最後になるが、新たに続けていける仕組みを考えられれば」、会員最年長の白滝寛志さん(79)も「材料や人手不足など課題はあるが、伝統が消えていくのはもったいない。応援してもらえれば何とか続けていけるかもしれない」と期待している。

 摂南大卒業生で、柱松実施に向けて活動しているすさみ町のNPO「魅来(みらい)づくりわかやま」の武田真哉さん(30)は「地域の伝統文化が廃れると過疎が進む。今後も学生が協力を続けたり、地域出身者らに積極的に協力してもらえるような仕組みをつくったりし、応援していきたい」と話している。

 柱松は13日午後7時から古座川支流の平野渕である。学生は午後4時半から旧佐本小で「夏祭り」を開く。食べ物やゲームの屋台や子どもや学生らの音楽演奏がある。

 同時に摂南大学とすさみ町教育委員会が12~15日に旧佐本小校舎でキャンプを開く。学生50人、寝屋川市の小学生100人が来町予定。希望した町内の小学校4~6年生も13、14日の1泊2日で参加。柱松に参加するほか、夏休みの宿題をしたり、川遊びをしたり、肝試しをしたりする。


【たいまつを作り、柱松の準備を進める佐本川柱松保存会会員(和歌山県すさみ町佐本中で)】

(2011年08月04日更新)

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愛媛八幡浜の柱祭りと三重県鳥羽市の盆祭行事

2011年08月14日 | 年中行事
実家の盆の年中行事である「五反田柱祭り」が先ほど終わった。今年は7月末からこの祭りの準備等について記録用の写真撮影を集中的に行った。それが天候にも恵まれて無事終わってホッとしている。この柱祭りは四国では唯一の盆の柱松・投げ松明行事であり県指定無形民俗文化財であるため、詳細を文章にまとめる準備に入っており、そのために以前から全国各地で行われる類似する火投げ行事を比較のため調査している。

そこにさきほど気になる情報が入ってきた。明日、8月15日に行われる三重県鳥羽市松尾町の盆祭行事が中止となったというのだ。ここの火投げ行事はかなり注目していた。というのもここの行事は国重要無形民俗文化財であり、2010年3月に鳥羽市教育委員会から調査報告書が刊行されたばかりなのだ。今年、できれば見に行ってみたいとも思っていたが、別の地域の行事(和歌山県)に行く事になったので、今年はあきらめていた。(明日の早朝に出発して、和歌山県内の盆行事を現地調査に行ってきます。)

中止につては、毎日新聞8月10日朝刊に記事が掲載されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110810-00000147-mailo-l24


文章もここに引用しておきたい。

火祭り:鳥羽の国指定重要無形文化財、人手足りず休止 /三重

毎日新聞 8月10日(水)12時3分配信

◇志摩加茂五郷、最後に残った400年前から続く松尾町の盆行事
◇市教委「復活へバックアップ」

鳥羽市松尾町に伝わる盆祭行事「火祭り(松明(たいまつ))」(国指定重要無形文化財)が今年、人手不足を理由に休止されることになった。400年前から続く志摩加茂五郷の盆祭行事の中で唯一、地元民によって開催されてきた松尾町の火祭り。市教委は「来年は何とか復活させたい」と話している。
火祭りは先祖の霊を供養し霊を送るため、8月15日夕方から行われていた。大きな鉦(かね)や楽共(がく)と呼ばれる太鼓などを打ち鳴らしながら町内を巡る。火が燃やされるのは深夜で、共同墓地に立てられた杉柱にわらなどで作った直径2メートル、深さ2・5メートルの逆円すい形の壺桶(つぼき)を取り付け、たいまつを投げ入れて燃やし、杉柱の倒れた方向で吉凶を占う勇壮な行事だ。
行事は厳しい年齢階層制の中で行われ、全員が何らかの役割を持って参加する。河中宇一町内会長によると、行事を行うには90~100人の人手が必要とされ、「過疎と少子化が進み、人数確保が難しく、今年は休止せざるを得なかった」と話す。6月19日に町内会の臨時総会を開き、休止を決めた。
加茂五郷(松尾、河内、船津、岩倉、白木町)の盆祭行事は、戦国時代末期の水軍の将である九鬼嘉隆の時代に始まったとされる。嘉隆に従い朝鮮出兵した戦死者の霊を弔ったなど由来は諸説ある。当初は五郷が集まって開かれていたが明治になり各町に分散。1987年に国の文化財に指定された当時は5町とも開かれていたが、火祭りは松尾、河内両町のみとなり、河内町は07年を最後に行事を休止した。
市教委は「やむなく今年休止になったが、伝統の火祭りを来年は復活できるよう町をバックアップしたい」としている。【林一茂】
〔三重版〕8月10日朝刊


国指定であり、調査報告書も出たばかり。このような事例でも継承は難しい状況。これには少し衝撃を受けた。私の地元の五反田柱祭りは継承者不足には陥っていないが、いつ伝承の危機が訪れるかわからない。これらの盆行事の継承の現況についても各地の事例を確認しておく必要を感じさせられた。実家の盆行事の終えた安堵感が一瞬にして吹っ飛びました。



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八幡浜市五反田柱祭りの由来

2011年07月13日 | 年中行事
昨日の柱祭り講演会で紹介した「愛媛県指定民俗資料五反田柱祭由来考」(伊住恵徳先生『五反田むら物語』神山地区公民館発行、昭和50年)の一部をここで引用して記しておきます。

八幡浜市五反田の柱祭りの由来、歴史が端的にまとめられており、非常に参考になります。


A【正月の年始の礼で白馬登城】
「その頃五反田村の鯨谷に金剛院円海法印といふ修験者(山伏)が住んでおられた。元城主親安公の碁友であって客将の待遇であったとも伝へられておる。或る年の正月、円海法印は城主に年始の礼のため白馬に乗って登城中、白馬には神経過敏になっておる(註:長宗我部は白馬に乗って来るとの流言のため)五反田の村人は長曽(ママ)我部の進攻と勘違いして村役の指図により弓で射殺したのである」
 
B【九州修行、松明入城射殺説は昭和以降】
「又一説によれば其の頃、円海法印は長崎に修業中であり、元城の風雲急なるを知り、急遽五反田村にかへり夜となり松明(たいまつ)つけて元城に入城する時、城兵に敵と間違えられて射殺されたといふ説であるが、この説は昭和の初め頃より流布された説であって古くからの口碑にはなく、麻がらの松明を行事に使用するために松明説が生じたのではないかともいわれておる。」
 
C【柱祭は江戸時代に神官の発意ではじまる】
「其の後五反田村に悪疫の大流行があって村人は塗炭の苦しみにあったのであるが、それは戦国時代に長曽(ママ)我部と間違えられて射殺され悲惨な最期を遂げられた金剛院円海法印の祟りであると喧伝されるようになり、神官の発意により日本国中に類例をみない行事をして御霊を御慰め申上げる事によって円海法印の御霊よ静まり給へと祈願して五反田村の悪疫の大流行より救われたと伝へられておる。これが口碑による五反田柱祭行事の由来である。」
 
D【口碑と矛盾の多い金剛院の石塔】
「五反田村の鯨谷に奉祀してある金剛社の祠の中には南無妙法蓮華経金剛院円海法印、文禄二年癸巳七月二十四日と刻まれた卵形型の石塔が安置されており、」
←文禄2(1593)年は、金剛院の没年。ただ、元城落城は天正12(1584)年。元城落城後も金剛院は生きていたことになる矛盾。文禄以降に造立された可能性が高い。
←命日の7月24日は、地蔵盆・施餓鬼が行われる日。つまり祀り手のない祟りをおこす霊を慰める日の典型日。よって、後の時代にこの日が設定された可能性がある。
 
E【柱祭を始めるには金剛院の位牌を迎えていた。】
「又鯨谷には金剛院円海法印の子孫と伝えられる家があって、その家には円海法印の位牌があって柱祭行事の祭にはその位牌を行事の場所にお迎へせなければ行事が始められなかった。(中略)円海法印の子孫は大正の頃より他郷にゆかれ、又円海法印の位牌のその後は判然としておらないようである。」
 
F【柱祭の創始者は江戸時代後期の菊池淡路か?】
「五反田村の社家菊池淡路(註:嘉永4(1851)年没)の住所も、又金剛院円海法印の位牌のあった家も、円海法印の霊を祀る金剛院社も皆五反田村の鯨谷にあることは柱祭行事の発祥に何かを示唆したものがあり、行事の創始者は五反田村の社家菊池淡路とする説の根拠の一つでもある。」
 
G【柱祭費用は誤殺した村役の家が負担していた】
「この柱祭の行事は五反田の行事であり一切の費用は五反田部落費によって運営されてるが、戦国時代の五反田村の村役と伝へられる某家があり、その誤殺した罪状滅却のため某家の本家、分家で行事一切費用を明治中期まで負担しておった事は多くの古老の話に残されておるが、その某家も祖先の逆源は古くはなく五反田村の社家と同年代位である事は、これにも柱祭行事の発祥近世説の手がかりがあるようである。」
 
H【伊住恵徳先生の結論】(八幡浜史談会長故福井太郎先生もこの説を継承)
「(江戸時代に)悪疫の大流行に苦しむ五反田村の村人は社家菊池淡路の御祈祷を懇願した事が考えられ、次々と病魔にたをれる村人の不安と焦燥、心の動揺の安定を考慮された社家菊池淡路は、鯨谷にあった修験者の家の金剛院円海法印の位牌を示されて、戦国の昔この円海法印は白馬に乗って元城に年始の礼に登城中、長曽(ママ)我部と間違えられて射殺されたが、その円海法印の慰霊の行事がなく、五反田村の悪病の流行はその祟りであって類例のない行事をして円海法印を慰霊する事によって五反田村の悪病の流行より救われる事が神の託宣として村人の心の動揺の安定を考へられたと推測する事は筆者の勝手な解明であろうか。」
 
I【柱祭を中止すると・・・】
「この行事は火を取扱ふため危険な行事として明治後に警察より差止められた事があったが偶々その年に伝染病の大流行があり、それは柱祭の中止によるものであると村人がさわいだので一年の中止で復活しておる。」


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五反田柱祭り講演会

2011年07月13日 | 年中行事
先ほど終了。八幡浜市五反田柱祭り講演会。

私の生まれ故郷の神山地区公民館での講演。

当初、柱祭り保存会会員対象で話す予定が、

結局、地元の回覧板、地区内のマイク放送で、

開催の情報が流れ、

50人を越える参加者がありました。

五反田だけでこの人数。驚きました。

それだけ、柱祭りに対する地元の方の思いが

強いということでしょう。

それにしても生まれ故郷だけに、

参加者は、実家の近所の人、小中学校の同級生の親、

父、伯母、大叔母、小さい時の育ての親代わりの恩人、

などなど、幼少期、少年期にお世話になった方々ばかり。

通常の講演より、三倍は緊張しました。

私の民俗学の原点は柱祭り。小学生の時に柱祭りの由来を

学校に出す日記に日々綴っていました。

地元に感謝!いまの自分があるのは五反田の皆さんが

柱祭りを継承している姿勢、努力を見てきたことにあります。

近所のおっちゃん、おばちゃん、ありがとう。

また、いろいろ祭りのことを逆に教えてください。



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講演会 八幡浜市五反田柱祭りあれこれ

2011年07月05日 | 年中行事
柱祭り講演会、急遽、本日決定!来週7月12日(火)19:00~私、大本が喋ります。「全国の柱祭りと五反田柱祭りー民俗文化財の継承と課題ー」八幡浜•神山地区公民館にて。柱祭り保存会主催。特に事前申込みなしで保存会以外の一般参加もオーケーです。

一週間前という直前の講演依頼ですが、故郷五反田からの依頼は有難し。さてさて、夜な夜な準備しませう。全国各地の柱祭りと同様のお祭りを紹介したいと思います。


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十六日祭は沖縄の「基層信仰」なのか?

2011年03月11日 | 年中行事
沖縄の十六日祭の地域性•歴史性を端的に述べているのが、酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』(第一書房、1987年)です。ごく一部ですが、引用します。

「八重山地方でも十六日の墓祭りは盛んであった。これは石垣島附近がとくに濃厚で、宮城文女史によれば、新旧の死者の有無に関わりなく墓参して、一日中にぎやかなときを過ごすという(『八重山民俗誌』526頁)。白保(石垣島)ではこの日をウヤビトの正月などといって、前日から墓掃除をして、当日は供物、打紙などを持参して墓に行くが、ここでは沖縄と逆に、十六日以降の一年間に死亡した人の家では墓には行かない。その日に墓に行くと魂をとられるという『白保』二三三頁)。これは竹富島なども同じようであるが、さらに離島に行くと十六日の墓の行事は希薄か、ほとんどみられない。」
「咸豊(かんぼう)七年(一八五七)に整理された「宮古島規模帳」によれば、「毎年正月十六日又は清明参之時 先祖の墓所江は菓子〆物相備致 焼香候御定跡々被仰渡置候処 惣而華美ニ相成云々」(『南島村内法』三四八頁)。という記事がみえる。(中略)これもまた琉球社会の基層文化の中から生まれたものではなく、権力者側の受け入れた異質の信仰を、祖先祭祀の普及の名のもとに常民社会へ強制していったらしいということがここで推測される。」

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トカラ列島の七島正月

2011年03月09日 | 年中行事
最近、私が沖縄•奄美の正月に興味を持っているのは、正月における仏(先祖もしくは死者)の民俗を押さえておきたいからである。その問題の出発点は愛媛県をはじめ四国独特の行事である巳正月(巳午•辰巳、いわゆる仏さんの正月)をどう捉えるかである。

今回は、トカラ列島の七島正月の概要を下野敏見先生が簡潔にまとめている文章があるので、それを引用しておきます。

七島正月について この行事は、日本中で十島村だけにあります。但し、名称だけは奄美大島の笠利町の一部にあります。おそらく、十島村の方が移住して伝えたものでしょう。七島正月が正しい言い方ですが、十島正月ともいいます。旧暦十二月一日より六日まで(口之島は七日まで)ですが、十二月一日は七島正月。六日はオヤダマ祭りといいます。オヤダマ祭りは実際には十二月一日の日から毎日やっています。すなわち先祖祭りです。オヤダマのお発ちが十二月六日(口之島は七日)です。この日、ネーシ(巫女)が「オヤダマのおたちだ」と告げると、島の総代が鉄砲をうち鳴らして島民へ知らせるのが昔のやり方でした。このときは、オヤダマとともに浮遊霊(無縁仏)もいっせいに島を離れるといいます。この十二月一日から七日への正月の構造は、旧暦正月の一日から七日への構造とよく似ています。二日は船祝いもあったのも似ています。つまり、七島正月は、大昔、本土の古い正月が入ってきたものです。そのとき、十島村では気候の関係で、稲作など早くやっていましたので、それの収穫も早く、祭りなども早くする必要がありましたので、一ヶ月早めて旧暦十二月一日に正月を適用したのです。それがいつであったかは、むずかしい問題ですが、いろいろ考え合わせますと、中世の初め頃ではないかと思います。七島正月は十島村の全部の島で祝います。特に、オヤダマ(先祖)の棚をこしらえていろいろな供物をしてまつるという鄭重な儀礼は、日本の先祖祭りを考える上から重要です。

以上、下野敏見『南日本の民俗文化誌3 トカラ列島』より引用。

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