愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐5

2011年02月28日 | 祭りと芸能
五、俵津文楽(西予市明浜町)

 俵津文楽は地元では「すがはら座」と呼ばれている。嘉永五(一八五二)年に地元の伊井庄吾が大坂より人形を数個買い入れて人形芝居を行ったことに始まるといわれ、明治三(一八七〇)年大阪文楽の竹本常太夫(本名近藤浅吉、周桑郡上市村・現西条市出身)が、俵津の者との縁組で永住することとなり、「すがはら座」を確立した。明治十九(一八八六)年には八幡浜の釜倉の「くぬぎ座」の人形頭や衣裳道具等を買い入れ、さらに大正十四(一九二五)年中村勗が淡路の「市村六之丞一座」一式を譲り受けて「すがはら座」は一段と充実した。この当時としては高額で、何年にもわたって資金を返済したという。他地域でも積極的に公演し、宇和島市日振島、戸島、西予市城川町、鬼北町などに出向いていた。
 保存されている人形頭は、動物を含めて百点を超えている。中でも作者の銘が確認されているものが四十七点あり、人形製作師天狗久、その弟子で天狗弁、由良亀(淡路由良の藤代亀太郎)など明治時代を代表する作品が大半を占めており、衣裳もおよそ二百点、引幕、水引、ふすま、雑品にいたるまで非常に保存状態がよく、種類、量、質ともに豊かに整備されている。これら人形頭・衣裳道具一式は県の有形民俗文化財に指定されている。
 現在、四月上旬に行われる「さくら祭り」に合わせて定期公演を行ったり、他地域の文楽保存会との合同公演等で活躍している。所在地は西予市明浜町俵津。保護団体は俵津文楽保存会。県の無形民俗文化財にも指定されている。
 後継者であるが、旧明浜町役場に勤務する者をはじめ、俵津に住む二十歳代の若者は積極的に保存会の会員となって稽古に励む者が多い。また、女性の会員が県内の他座に比べて多く、人形遣いから衣裳の繕いまで幅広く保存・継承の役割を担っている。このように前述の朝日文楽と、この俵津文楽は後継者が多く、幅広い年齢層で保存会が運営されている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内子座文楽 前売り券間もなく発売日

2011年02月27日 | 日々雑記
今日、ひめぎんホールでチラシを見つけた。間もなく文楽チケット発売。


日時:平成23年8月20日(土)21日(日)
【午前の部】10時00分
【午後の部】14時00分

会場:内子座 (愛媛県喜多郡内子町内子2102番地)

演目:●生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)笑い薬の段/宿屋の段/大井川の段 ●釣女(つりおんな)

主な出演者(予定)
【太夫】豊竹嶋大夫・豊竹咲大夫
【三味線】鶴澤清治(人間国宝)
【人  形】吉田文雀(人間国宝)
*配役の発表は、4月中旬頃の予定。

前売り券:3月1日(火曜日) 8時30分より一般発売開始

申込み方法:Tel: 0893-44-2114 (平日8時30分~17時00分)
もしくは、内子座ホームページ

主催:内子座文楽公演実行委員会・内子町・内子町教育委員会

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャラ にゃんよ

2011年02月27日 | 日々雑記
半年ほど前から御活躍中のゆるキャラ にゃんよ。

南予地方の観光振興のキャラとして、いろんなところに出向いている。

今朝の八幡浜でのテヤテヤよろずマーケットにて。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地域伝統文化キッズ・カーニバル

2011年02月27日 | 日々雑記
朝は、八幡浜でテヤテヤよろずマーケットに顔を出し、菊池邸を守る会の活動を少しだけ覗いて、大洲赤レンガ館で所用を済ませ、一目散に松山のひめぎんホールへ直行。地域伝統文化キッズ・カーニバル。今年度、伝統文化こども教室という事業の絡みで、数団体から声がかかってアドバイスしたり講義したりしたのだが、今日が子ども達の集大成の発表会。子どもも指導者も、そして保護者も力が入っています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐4

2011年02月27日 | 祭りと芸能
四、朝日文楽(西予市三瓶町)

 朝日文楽は、明治十二(一八七九)年ころ、朝立村の井上伊助が自ら木偶(デコ)や素朴な人形頭を作り、村の若者が一口浄瑠璃に合わせて芝居をするようになったのが起源といわれている。明治二十二(一八八九)年、山田村(西予市宇和町)の平松六之丞座を地元の朝立浜地区全体の協力を得て購入し、明治二十五(一八九二)年頃、師匠を招いて人形や浄瑠璃の技能習得に励んだという。明治四十(一九〇七)年柳井川村(現久万高原町)の吉村源之丞座や現八幡浜市の釜倉座を購入し「朝日座」と命名することになった。明治四十四(一九一一)年、劇場「朝日座」を建築して保管及び公演の場とし、大正時代中期からは活動の中心が青年団員となり、大正時代末期には旧正月五日間、公演満員という盛況であった。
 昭和十二(一九三七)年より終戦までは中断していたが、昭和二十一年に淡路出身、大阪で活躍していた豊田穀栄を師匠に招いて青年団員が再興した。
現存する人形頭は約七十八点。人形友(清水友三)の作二十七点、天狗久(天狗屋久吉・吉岡久吉)作十八点、大江巳之助の作八点など、明治を代表する作品が含まれている。さらに三百点近くの衣裳、引幕、小道具類があり、八段返し襖も一式が揃い、舞台装飾も華やかである。これら人形頭・衣裳道具一式は県の有形民俗文化財に指定されている。
現在、地元での定期公演の他、県立三瓶高校文楽部や「こども朝日文楽クラブ」にて積極的に伝承活動を行っており、後継者育成に力を入れている。保護団体は朝日文楽保存会。県の無形民俗文化財にも指定されている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュージーランド地震の今 その3

2011年02月26日 | 日々雑記
ギャラリー前の仮設トイレ


以上、26日午前中までの様子です。


それにしても、現地での日本人留学生の安否がとても心配です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュージーランド地震の今 その2

2011年02月26日 | 日々雑記
展示室で仮眠する救助隊の兵士

クライストチャーチ•アート•ギャラリーのサイトはこちら。

http://christchurchartgallery.org.nz/


この写真を見ると、電気は通っているようです。このギャラリーは、2003年に建てられた現代的な建築です。場所は、ニュースで映像が流れている大聖堂の近くです。ある程度、建物の構造自体の被害が軽微だったので、被災地の救助の拠点になっているようです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュージーランド地震の今 その1

2011年02月26日 | 日々雑記
ニュージーランドで数日前に発生した地震で、クライストチャーチにあるクライストチャーチ•アート•ギャラリーの今の様子が写真で届いたので、お知らせまでに、このブログでも紹介します。

写真は、今朝(2月26日午前中)の様子です。


クライストチャーチ•アート•ギャラリーのスタッフから情報をいただいたのですが、

建物は、大きな被害はない。

展示物は、10点以上、破損し、修理が必要である。

収蔵品の詳しい状況確認は、これから。

スタッフは全員無事が確認された。

ただし、自宅が損壊したスタッフもいる。

当面の間、休館する。

ギャラリーの玄関は、救助隊の打ち合わせなどに使われている。

展示室は、救助にあたる兵士が、仮眠するなど、休憩の場所になっている。

ギャラリー前のバス停には、仮設のトイレが多く設置されている。

ということです。


その近くにあるカンタベリー博物館は、スタッフは無事のようですが、建物や展示室の被害はギャラリーよりもひどいようです。

museums aotearoaというサイトによると、

スタッフは無事であるが、自宅が被害を受けている者もいる。

昨日25日にようやく建物の中に入ることができた。

館内は、スプリンクラーが作動して、水浸しになった。

館内のサーバーが完全にダウンしていて、館外からのメールなど受け取れない。

収蔵品の確認はこれから。(かなりの被害が予想されます。)



現状は、テレビ、新聞ではなかなか情報が得られないので、報告します。

以上、お知らせまで。

これは、今朝26日午前中までの情報です。

なお、クライストチャーチ•アート•ギャラリーとは、去年9月にAsk a Curator という世界中の学芸員がネット上で情報交換するイベントがあって、その時からサイトを拝見していたのですが、今回の地震後の現況写真を転載許可を先ほどいただきました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐3

2011年02月26日 | 祭りと芸能
三、大谷文楽(大洲市肱川町)

 大谷文楽は県の民俗文化財に指定されている。伝承地は大洲市肱川町大谷。保護団体は大谷文楽保存会。かつては「中村六之丞座」とか「中村座」と呼ばれていた。起源は、江戸時代末期の嘉永六(一八五三)年に淡路人形芝居の吉田伝次郎一座がこの地方を巡業中に、将軍家慶が亡くなったため、音曲停止となった。そのため一座は解散し、一部の座員が村に滞在して芝居を始め、安政三(一八五六)年には、阿波より人形衣裳などを買い付け、一座の形を整えたといわれている。
 明治四十一(一九〇八)年には岡之成重太夫(西予市野村町中筋)を買収し、つぎに大正五(一九一六)年に金本六之丞座(宇和島市三間町)を買収して現在の頭(かしら)、衣裳、道具類をそろえた。さらに昭和十七(一九四二)年に本家伊予源之丞(西予市宇和町東多田)を買収して内容を充実させている。
 現存する人形頭は、記名のあるものが三十一点、無記名のものが三十三点、合わせて六十四点あり、このうち天狗屋久吉(阿波和田の天狗久)の作が十六点、一時期宇和島に在住した人形友(清水友三)の作が七点、大江順の作三点などが含まれている。その他、衣裳、引幕、道具類も数多く残されており、現在は大谷郷土文化伝習館に収められている。
 継承者は高齢化が進んでおり、若手や女性が少ない状況にある。しかし、毎年、地元の大谷小学校での文楽の講習や、旧肱川町内で年一回、小中学校での公演を実施するなど、後継者の育成や地元での活動を地道に行っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Museum and Efficacy of reminiscence therapy

2011年02月25日 | 日々雑記
Efficacy of reminiscence therapy for the life tools of old times

Author Takahisa Oomoto 
Curator of Ehime Museum of History and Culture



In Ehime Museum of History and History, There is packing that lends the museum collections can “Rekihako”. Rekihako means the box of historical materials.

In “Rekihako”, there is the textbook of the school, the photograph of life scenery, and the life tools of old times from 1940’s to 1960's.

This museum cooperated with Seiyo city social welfare council, and “Reminiscence therapy” for the dementia prevention was executed for the senior citizen on February 14, 2011.

“Rekihako” is often used by the class of the elementary school. Especially, the social studies of the fourth grader. But recently, social welfare facilities and the welfare school's using “rekihako” has increased.

The museum collection that is collected and kept in a history museum is being paid to attention on the field of senile dementia prevention

To be continued.



Click here for related information.

Ehime Museum of History and History
wikipedia  
http://en.wikipedia.org/wiki/Museum_of_Ehime_History_and_Culture
website
http://www.i-rekihaku.jp

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐2

2011年02月25日 | 祭りと芸能
二、伊予源之丞(松山市)

 伊予源之丞は県の民俗文化財に指定されている。伝承地は松山市古三津。資料は宮前公民館に保管されている。保護団体は伊予源之丞保存会。明治時代の初めに、三津新町で荒物屋を営んでいた宝来屋(烏谷)新造が、「宝来座」という一座を組織し、三穂神社で人形芝居を始め、阿波から人形道具、衣裳を購入したといわれる。
 明治二十(一八八七)年以降、大型の頭(阿波の人形師の作品)を導入したり、大正時代に吉村座(松山市吉田)、泉座(松山市泉)、上村六之丞(松山)をあわせて、六十人を超える大きな座となった。県内の島々、村々のほか、九州、朝鮮、上海まで巡業したが、大正十二(一九二三)年の朝鮮巡業に失敗して、一時解散状況に追い込まれた。しかし、有志によって再興され、昭和十(一九三五)年に上村治太夫(松山市三津)を吸収して、現在名の「伊予源之丞」となった。戦時中、戦後、一時中断していたが、昭和三十四(一九五九)年に保存会が結成されて、翌三十五(一九六〇)年には宮前公民館に「文楽保存研究会」も結成された。
 宮前公民館に保管されている人形頭は、県指定の際の調査の結果、記名のあるものが五十二点、無記名のものが二十七点、合わせて七十九点あり、このうち、阿波和田の名人天狗屋久吉(天狗久)の作品が四十二点、天狗屋弁吉の作五点、松山の名工といわれた面光の作五点が含まれている。天狗久の作品を県下では最も多く所有しているのが特徴で、明治四十(一九〇七)年前後の作品が中心をなしている。
 継承者は、平成十年頃から少なくなってきており、次第に古三津地域を代表する伝統芸能である意識が地域住民の間からも薄れつつある状況にあるが、岡田実会長のもと、五十歳代の地元の者が継承のために保存会に加わり、稽古を続けている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐1

2011年02月24日 | 祭りと芸能
一、はじめに
本稿では、愛媛県内の地芝居の中でも特に人形芝居(文楽・人形浄瑠璃)について取り上げる。そもそも人形芝居は日本全国各地に数多く伝えられているが、その中でも大阪で盛んだった人形浄瑠璃は、江戸時代以来、演技の優美さや繊細さで庶民の人気を博している。「文楽」という名前は、もともと人形芝居を上演する劇場の名前だったのだが、その後、この芝居そのものを指すようになり、現在では正式な名称として使われている。「文楽」は①太夫、②三味線、③人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つもので、太夫の「語り」と三味線が奏でる音にあわせて、三人の人形遣いが一つの人形をあやつることによって演じられる人形劇である。これは世界でも類を見ない独特のものとされで、平成十七年にはユネスコ「世界無形遺産」に登録されている。三人で操ることによって、喜怒哀楽といった表現ができ、非常に高い芸術性をもっている。
現在では、「文楽」は人形浄瑠璃の代名詞として使われることが多いが、大阪以外でもさまざまな人形浄瑠璃が全国に伝えられている。とりわけ兵庫県の淡路地方や徳島県では非常に盛んである。これらの地域では、江戸時代に徳島藩主の蜂須賀家から手厚い保護を受け、日本各地に人形浄瑠璃を広める中心地として繁栄していた。しかも、対岸の大坂の人形芝居・文楽とは、お互いに影響をあたえあいながら、阿波、淡路の人形浄瑠璃も発展してきた歴史がある。淡路には上村源之丞座など数多くの人形座があって、主に阿波の人形師によって作られた人形を使って全国を巡業してあるいた。伊予(愛媛)もその地域の一つである。阿波、淡路の人形浄瑠璃は全国に人形芝居を伝え、地元にも人形座ができていくきっかけをつくったが、とくに愛媛では、阿波、淡路の影響をつよく受けた地域といえる。戦前から継承されている座を見ると、現在でも、伊予源之丞(松山市)・大谷文楽(大洲市肱川町)・朝日文楽(西予市三瓶町)・俵津文楽(西予市明浜町)・鬼北文楽(鬼北町)の五つの座が活動しており、それぞれ、阿波、淡路の影響を受けている。
なお、愛媛県では人形浄瑠璃を「文楽」と呼ぶのが一般的になっている。「文楽」と称するようになったのは、昭和三十四年に県の文化財に指定され、年に一度、各団体による合同公演が行われるようになってからである。それまでは「人形芝居」などが一般的で、伊予源之丞はもともと「宝来座」と呼び、俵津文楽を「すがはら座」、大谷文楽は「中村座」と呼ぶように「○○座」と称することが多かった。ただし、朝日文楽は昭和二十年代前半には大阪から豊田穀栄らを師匠として招き、大阪系の文楽を習得したので、昭和二十年代には既に「文楽」の呼称を名乗っている。朝日文楽は現在では人形遣いの技術も大阪系を自認しており、戦後は、文楽・人形浄瑠璃・人形芝居の語彙だけでなく、技術についても大阪系・淡路系が錯綜している状態にある。現存する五つの座による合同公演会は平成二十一年(西予市宇和町で開催)で五十一回目を迎え、愛媛の文楽の保存・継承の要となっている。その他にもそれぞれの座・保存会では地域で定期公演を行っており、地元の人々の娯楽になっている。ここでは、愛媛県内に残る五つの座の歴史・変遷・現況を紹介することで、愛媛の文楽(人形浄瑠璃)の概要を紹介したい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三十代最後ノ日

2011年02月24日 | 日々雑記
四十にして惑わず。そんなわけはない。人生、惑って迷って五里霧中。明日、不惑を迎えます。

大本です。

今日から愛媛の文楽に関する概要文章を数回にわけて紹介します。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛文化界の先哲・曽我鍛(そが・きとう)さん

2011年02月23日 | 地域史

先にも紹介した曽我鍛(そがきとう・号は正堂)さんは、明治12年に布喜川村(鴫山)で生まれ。松山中学校を経て、早稲田大学に進み、歴史学を学んでいます。

大学卒業後は帝国大学史料編纂掛(今の東京大学史料編纂所)や三井家史料編纂嘱託を経て、帰郷。大正~昭和初期に伊予日々新聞・大阪毎日新聞の記者として活躍します。

同時に、伊予史談会の設立・雑誌『伊予史談』の編集にたずさわるなど、戦前の愛媛県内の文化界の中心人物として活躍しました。

現在、愛媛の歴史の基礎史料となっている『宇和旧記』・『松山叢談』・『大洲旧記』などを活字化・刊行したり、大阪毎日新聞時代には、正岡子規の没後、子規にゆかりのある人を集めて対談記事を掲載したり(『子規全集』に再録)するなど、郷土史(歴史)・俳句(文学)に関するさまざまな礎を築いた人物です。

また、八幡浜関係では、戦前の村誌では質の高さで県内でも有名な『双岩村誌』の編纂・執筆に携わり、また、戦前の八幡浜地方の正月や亥の子など民俗行事を克明に随筆で紹介しています。また、坪内逍遥や安部能成など各界の著名人とも交流があり、その書簡や書などの遺品もご遺族により保管されています。

これまで郷里の三瓶町・八幡浜市では、曽我鍛(正堂)については充分にその業績が認知されていない状況でした。しかし、この曽我鍛(正堂)が使用していた書籍等の資料は、現在、三瓶文化会館にて保管されており、この最近、一部が館内にある「ふるさと資料展示室」にて常設で展示されました。

また、近年、ご子孫により、曽我鍛(正堂)の執筆した文章が八幡浜新聞にて公表されるなど、地元で曽我鍛(正堂)の業績を再認識しようという流れができつつあります。

さて、曽我鍛の読み方は、『愛媛県史人物編』や『愛媛県大百科事典』には「そが・きたえ」となっています。一般には「きたえ」と呼ばれています。しかし、曽我さん本人が著した『郷土伊豫と伊豫人』の奥付には「きたふ」と表記されており、また、「Kito」という蔵書印があることもご子孫に教えていただきました。号も「鬼塔(きとう)」・「黄塔(きとう)」ですので、曽我鍛は「きとう」と読むのが正しいのでしょう。これまで、愛媛の郷土史研究の大先達として多くの人に知られていても、ほとんどの人は「きたえ」と呼んでいます。今後は、「そが・きとう」と呼ぶのがいいと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星祭

2011年02月22日 | 日々雑記
サッカーマガジンを買ってアジアカップの総括をしようと思ったら、売り切れ。いつもは在庫があるのに・・・。W杯南アフリカ大会直後も手に入らなかったよ、そういえば。

大本です。

これ、2月上旬の話。

節分には、四国霊場43番札所明石寺で、採燈護摩供。火渡りの行事もあって、私も裸足でチャレンジしました。そのあとは恒例の餅まき。なんと今年はお先達さんに頼まれて、餅をまく役をやらせていただきました。人生初体験。コンテナ3箱分を撒き散らしましたが、「こっちも投げんか!」との怒号?も飛ぶ状態。いやいや、まんべんなく餅をまかねばならんので、結構気をつかいました。しかし、怒号?のあとは、みな笑顔。餅まきは人を幸せにいざなうことを実感。いい厄払いになりました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする