愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

北条市のダンジリ

2000年05月30日 | 祭りと芸能
 東予地方や南予地方では、ダンジリや太鼓台、牛鬼といった神幸行列を引き立てる風流が見られるが、中予地方にはそういったものが見られない。ところが、中予でも風早地方にはダンジリがあり、民俗的に越智郡との繋がりも見られ、中予と東予の中間地域と見ることができる。
 この北条市の国津比古命神社や鹿島神社の祭礼に登場するダンジリは、西条市のダンジリや新居浜市の太鼓台とは異なり、彫刻や金糸の刺繍などの装飾がほとんどみられない。また、屋根はなく、吹き抜けで、四本柱に日の丸の小旗を付けた笹竹を立てている。中央には提灯を吊し、台座部に半鐘と太鼓を据える。ダンジリ本体の高さは大きいもので三メートル弱、かき棒の長さは十メートル強である。豪華壮麗さは無いが、ダンジリの原初的形態を保っており、県内のダンジリの発達を考える上で指標となるものである。つまり、この北条ダンジリに高欄が付き、彫刻を施すと西条型ダンジリとなり、布団屋根を付けて、周囲に飾り幕を飾ると新居浜型太鼓台となるわけである。なお、笹を四本柱に立てる風は、南予の四ツ太鼓にも共通する。この北条ダンジリの形態の原初性は、全国的に見ても珍しく、愛媛を代表するダンジリと言っても過言ではない。
 なお、現在、北条市内には四十数台のダンジリが存在し、祭りでは半鐘を打ち鳴らしながら地区内をまわる。このことから、祭りを「風早火事祭り」とも称している。
 私は、この北条ダンジリをベースに、新居浜太鼓台、西条だんじり、南予の四ツ太鼓を比較検討すると、愛媛におけるダンジリ、太鼓台の系譜が明らかになるのではないかと考えている。

2000年05月30日

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愛媛県内のダンジリ

2000年05月29日 | 祭りと芸能
ダンジリと呼ばれる山車は瀬戸内海沿岸を中心として西日本各地に広く分布し、祭りの中で最も人目を惹く存在である。小型で素朴なものから大型で豪華なものまで形態は様々である。ダンジリは台尻が転訛したものと言われるが、愛媛県内でダンジリというと、三分類できるかと思われる。一つは、屋台形式で、二,三層にわたり精緻な彫刻を施したもの。つまり西条市や越智郡などに見られるものである。第二に布団屋根の太鼓台である。これは新居浜太鼓台をはじめ、越智郡の「布団ダンジリ」、南予地方の四ツ太鼓もこれに含まれる。第三には北条ダンジリのように木枠に笹竹を飾る単純な構造のものである。これらは、一八世紀に西条地方に屋台が見られ、その一世紀後に太鼓台が見られ、明治時代初期以前には北条ダンジリが登場するというが、どのだんじりが古くて源流であるとの系統立ては困難である。形態から判断すると、もともとは北条ダンジリのように木枠のみの単純な構造であったものに、西条ダンジリのように高欄を巡らし彫刻を施して飾り付けて派手とするか、布団を屋根に乗せ、さらに周囲を刺繍で飾って派手にするかで発達の様式が決定したものと言えるだろう。
 現在、愛媛でダンジリといえば西条ダンジリを思い浮かべるが、「ダンジリ」の呼称を持つ山車は、西条以外の県内各地に種々あり、それらを系統立てて考えることはできないかと考えている。

2000年05月29日

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仙台と南予の鹿踊

2000年05月26日 | 祭りと芸能

東北地方の鹿踊は、六頭から十二頭までの多頭の一人立ち獅子が陣形を組んで踊るもので、その系統はいくつかにわかれる。宮城県には仙台市を中心に「仙台鹿踊」と称するものと、宮城県北部から岩手県南部にけかて、ササラという背中に長い竹を背負って振りたてて踊る「行山流」の系統をひくものとがある。南予地方の鹿踊は秋祭り等の神社祭礼の練り物として登場するが、東北地方の鹿踊は、盆に家々を巡り、祖霊供養と五穀豊穣を祈る踊りであるという違いがある。また、旧仙台藩領内である岩手県江刺市の鹿踊の場合、踊り手が踊りを修得した際に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造の鹿踊供養塔を建立する。このように、東北地方の鹿踊は、盆の死者供養や「南無阿弥陀仏」の銘が示すとおり、仏教的な側面が色濃いのである。神社祭礼にのみ登場する南予鹿踊とは対照的である。
 また、鹿頭も、南予地方のものは鹿を模した形状であるが、東北地方の頭は、鹿ではなく、獅子という恐ろしい形相を示している。このことから、鹿踊のことを南予地方では「シカオドリ」と呼ぶが、東北地方では「シシオドリ」と呼んでいる。
『宮城県史』によると、宇和島藩に伝わった鹿踊は、宮城県桃生郡矢本町鹿妻のものであると記されているが、それを裏付ける史料、伝承は確認できず、根拠に乏しい。
江戸時代、仙台藩では芸能政策として、鹿踊等の芸能を管理しており、藩主伊達家から庇護を受けていたのは、大崎八幡宮であり、その地元である八幡町の獅子踊については、特別扱いであった。鹿踊は大崎八幡宮の別当寺である龍宝寺において管理されており、新たに鹿踊を行う場合には、寺の許可のもと、地元である八幡町の鹿踊から伝習している。この八幡町から伝わったといわれる鹿踊には、仙台市川前鹿踊、同市福岡鹿踊などがあるが、南予地方の鹿踊と比較してみる、頭の形状は異なるものの、歌詞が同様であったり、幌幕が横縞模様が類似しているなど、様々な共通点がある。このことから、江戸時代に宇和島に伝わった鹿踊は、仙台藩の八幡町の鹿踊である可能性は高い。(参考:『仙台市史民俗編』)
また、菅江真澄が記した史料によると、江戸時代の東北地方の鹿踊の頭は、現在とは異なり、実際の鹿の顔を模しており、南予地方のものと類似している。これは、東北地方では、盆の先祖供養など祓え・除災の要素が強調されて、恐ろしさを持つ獅子へと頭の形状が変遷したのに対して、南予地方では、仙台から伝播した当時の形態が保たれていると考えることができ、南予地方の鹿踊は、東北地方の鹿踊の古態を示しているとも言える。
南予地方の鹿踊の頭は、鹿のままで恐ろしさを付帯しなかったのは、盆の先祖供養ではなく、神社祭礼の練物として定着したことと、その練物の中に、牛鬼や獅子舞といった、祓えの役割を担うものが他に存在し、鹿踊には除災ではなく、招福が期待されたため、優美な芸能として今日に至っていると考えられる。
 このように、南予鹿踊は、形態上は東北鹿踊と共通する点も見られるが、踊り自体、東北地方は勇壮であり、南予地方は優美であるといった違いがあり、その要因は鹿踊の供養的側面といった機能は東北地方から南予地方には伝わらなかったことに求めることができる。

2000年05月26日

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五ツ鹿踊

2000年05月25日 | 八幡浜民俗誌

鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。

2000年05月25日 南海日日新聞掲載

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祭りと地域絶対主義

2000年05月25日 | 祭りと芸能
TBSの番組に「ここがヘンだよ日本人」がある。私にはお気に入りの番組で、毎週欠かさず見るようにしている。妻は口論の絶えないこの番組内容を敬遠して、ついチャンネル争いになってしまうのだが、私は強引にチャンネルをTBSにあわせてしまうのである。今日の内容は、「自分の国は世界一!自慢」ということで、ブラジル人のシェラスコ料理、インド人のカレー、イラン人のペルシャ絨毯が紹介されていたが、紹介する側は、自分達が世界一だと譲らない。しかし他国の人はそれにブーイングの嵐。
自民族絶対主義(エスノセントリズム)が垣間見えるし、他国の文化を認めようとする文化相対主義も同時に感じられる。私はこれを見るのが面白いのだ。
さて、愛媛の題材に眼を移すと、似たような事例がある。
「祭り」である。新居浜市民は太鼓台が一番だと言って譲らないし、西条の人はだんじりが一番だという。松山なら神輿、南予であれば牛鬼である。それぞれに誇りを持っていて、譲ることはない。この地域文化絶対主義は素晴らしいことと思う。自分の足元の文化に誇りを持つこと、これは大切である。ただし、それぞれの市民が、自分の地域の祭り以外を無視、もしくは排他してしまう傾向があるのには抵抗がある。愛媛の祭りは地域によって様相が著しく異なる。これをすべて理解するというのは難しいことだが、地域絶対主義の立場と共に、他地域の祭りも相対化して見ることのできる眼を持つことも必要だろう。私は県内各地の祭りを見て歩いて常々そういったことが頭の中をよぎってしまうのである。祭りの調査に嫌気がさす瞬間もあれば、同時にますます好きになってしまう、このアンビバレントな感情を抱かせてくれるもの。奥が深いなあ・・・。 

2000年05月25日


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古代のあしぎぬ-正倉院展より-

2000年05月21日 | 衣食住
 私の勤務する愛媛県歴史文化博物館で、5月20日に「よみがえる正倉院宝物-再現された天平の技-」展が開幕した。この展示は、日本文化の源流として古代の技術を今に伝える正倉院宝物の復元模造品約70点を中心とするもの。展示資料は戦前に帝室技芸員、戦後は人間国宝作家らが制作した物で、いずれも正倉院宝物の制作当初の姿を模している(現在は、宮内庁正倉院事務所と奈良国立博物館に保管されている)。
 天平時代の雰囲気を味わうことができるので、一見の価値あり!

 伊予国関係の資料としては、「伊豫国調白あしぎぬ」(「あしぎぬ」の漢字がATOKの文字パレットで探しても見つからない・・・。いとへんに「施」の旁の字です。)が展示されている。正倉院に伝わる調あしぎぬのうちで、国名が判明しているのは、常陸、武蔵、丹後、伯耆、伊予、土佐の6か国であるが、各国それぞれにあしぎぬの織密度や経糸、横糸の太さが違っている。規格化されていたわけではないようだ。天平18(746)年に献納されたもので、「伊予国越智郡石井郷戸主葛木部龍調あしぎぬ六丈」の墨書があり、上下に国印が押されている。(手許にあった『愛媛県編年史』を確認すると、「上方に国印、下方に郡印が押されている」とあるが、どういったことだろう。単なる『編年史』の記載ミスだろうか? 気になるなあ・・・。)
 それにしても、「あしぎぬ」は平織りの絹で、「悪し絹」から派生した語と言うが、実物を見るととても悪い(粗い)絹だとは思えない。古代の技術の高さを実感することができます。
 この展示は、6月18日(日)までです。

2000年05月21日

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山口県光市牛島の牛鬼伝説

2000年05月21日 | 口頭伝承
 平成10年12月19~20日に山口県光市の沖にうかぶ牛島に渡った。その島に伝わるという牛鬼伝説を調べるのが目的であった。
 19日には、光市文化センター、光市立図書館にて牛島および牛鬼伝説の文献調査を行なった。その際、図書館館長である国廣氏に牛島の歴史と民俗の概況について教示をうけた。20日には、牛島に移動し、地元の住民から聞き取り調査を行なうとともに、牛鬼を退治した藤内図書の墓を調査した。そこで見聞した牛鬼伝説とは次のようなものであった。
 牛島には牛鬼の伝説があり、牛鬼を退治した橘道信の墓がある。墓石は高さ107センチの天・人・地石の三段からなるもので、正面に戒名、左面に俗名の藤内図書橘道信、右面に没年の永禄三年(1560)申四月十八日、人石に家紋を二つ陰刻し、均整のとれたものである。
 牛鬼の話は、瀬戸内海に海賊が横行する天文年間(1532~54)に、牛鬼という者が、周防灘近辺に出没し掠奪を繰り返し、ついに牛島に現われ、裕福な浄土宗の尋常寺や民家を襲い放火し、島民を残害するなどして島を占居した。この時伊予国(現愛媛県)の住人橘道信が牛島に漂着っし、惨状を見て驚き牛鬼退治に奮起し策をたて、越後国(現新潟県)の生まれで三輪村に住む城喜兵衛平朝臣高経という名誉ある弓術者と謀り、牛鬼を射殺したという。その後離散した人々は追々帰島し、住み慣れた三浦地区が廃虚となっているので、今日の集落に家屋を建て、元の様な豊かな島になったともいわれる。道信は藤内図書と名を改め、牛島に住み着き子孫も今日まで続いている。喜兵衛は後に出家し、法名を了通といい、弘治2年(1556)三輪村に善流寺を創建した。それ以後江戸時代を通じて菩提寺のない島の人々は、離散地でほどこしを受けたことにより、三輪村の善流寺や余田村の明顕寺の門徒となっていたが、明治4年(1871)麻郷村(現田布施町)の教念寺を牛島に引寺し、ほとんどの家がこの寺の門徒となった。廃虚となった三浦付近に立輪という所があり、別名を赤石とも呼び、そこの大石で牛鬼が牙を磨いたという。
 私は、昨年、論考「牛鬼論-妖怪から祭礼の練物へ-」(愛媛県歴史文化博物館研究紀要4号に掲載)をまとめたが、この牛鬼伝説は西日本各地に51箇所あることを指摘した。ただし、まだまだ伝説はあるに違いない。時間をかけて丹念に調査していくつもりである。

2000年05月21日

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南予地方の牛鬼1

2000年05月18日 | 八幡浜民俗誌
 牛鬼は南予地方周辺地域の祭礼に登場する顔は牛とも鬼ともつかない形相で、胴体は牛を、尻尾は剣をかたどった練物の一種で、神輿渡御の先導を務め、悪魔祓いをしてまわる。 この牛鬼の出る祭りは愛媛県南予地方のほぼ全域のほか、上浮穴郡小田町、越智郡菊間町にあり、かつては、上浮穴郡柳谷村や久万町にもあった。また、南予地方と隣接する高知県側では檮原町、十和村、大正町、西土佐村、宿毛市に分布し、その数は約百五十箇所にのぼる。このように牛鬼は旧宇和島・吉田藩領を中心として、その周辺地域に分布しており、旧大洲、新谷藩領内でも宇和島に近い地域に濃厚に見られる傾向があるなど、旧宇和島藩領からその周辺に伝播したと考えられている。なお、旧宇和島藩内にて牛鬼が各地に伝播した要因の一つとしては、宇和島藩の一宮といわれる宇和島市の宇和津彦神社祭礼を藩領内各地の神社が模倣したことにより広まったことが挙げられる。 牛鬼がいつの頃から祭礼に登場するようになったかは不明であるが、一八世紀後半以降南予地方各地の祭礼に登場していることが確認できる。なお、史実とは異なるが、牛鬼の起源伝承として、加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために用いたのが始まりであるとか、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治したとか、宇和島藩主の許しを得て、狼退治のために牛鬼を作ったのが始まりであるなどと、様々な起源伝承が各地にある。 牛鬼の呼称については、「ウシオニ」、「ウショーニン」、「オショウニン」等があるが、江戸期の文献史料に「牛鬼」と表記されており、「ウシオニ」が原初的な呼称である。 牛鬼の一般的な形態としては、ドンガラと呼ばれる胴体が全長三から七メートル程で、竹を割って牛の胴体のように編まれ、赤や黒布もしくはシュロの毛で覆われている。尻尾は剣を象ったもので、木製である。首は全長二から四メートルほどの丸太でつくられ、その先に頭をつける。頭は牛とも鬼ともつかないような形相で、張り子で製作される。これは江戸時代後期製作のものも同様であり、木製のものは確認できない。 牛鬼の祭礼の中での役割は、神輿渡御の先導・露祓いや地区内の悪魔祓いなどの祓え的機能が基本的性格である。なお、神社祭礼だけではなく、七夕や盆に牛鬼が登場する地区もある。宇和町窪や明石では、盆の先祖霊を迎えるために牛鬼で家々を祓い清めるのである。牛鬼の顔の形相の恐ろしさは、祓いを一義としていることからきているのであろう。

2000年05月18日 南海日日新聞掲載

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明浜町の「うど貝」

2000年05月17日 | 衣食住

 先日、東宇和郡明浜町を散策したのだが、平成8年に、明浜の町おこし活動をやっている方々から「うど貝」という珍味を食べさせてもらったことをふと思い出した。
 うど貝とは何物ぞ?
 当時、朋友岡崎直司氏から「明浜で、今度、うど貝という珍しい貝を食べる機会を得たので来てみんか」と誘われたもののどんな貝なのか分けわからず・・・。
 手許にあった広辞苑を引いても「うど貝」なんて載ってない。
 「独活の大木」の諺どおり身体大きく役立たずの貝を想像し、石灰岩に寄生するという情報はもらっていたので、日吉村出身の地質学者大野作太郎が石灰岩の中から発見したミーコセラス貝(アンモナイト)の姿も頭をかすめた。
「そんな物食べておいしいのだろうか・・・。」半信半疑、私は参加してみたのである。 うど貝とは石灰岩の中に自ら穴をつくり、そこに寄生する貝であった。すまし汁にして食べてみたが、これが美味。明浜はかつて石灰基地であったため、他の地方では食べない(もしくは石灰岩が近くにないから生息しない)うど貝を、食する文化を発達させたのだろう。(明浜の町おこしの素材として活用できるか?)
 うど貝を食べた数日後、「明浜うど会通信」なるものが送られてきた。浜の人の行動の速さには驚かされたが、驚いてばかりもいられない。うど貝を食べさせてもらった以上、私も何かやらなくてはと思い、「うど」の語源について調べてみたのである。
 「うど」とは、「うつ(空)」が変化した語のようである。『続無名抄』という江戸時代の随筆に米が空っぽになることが「コメウトニナル」と表現されている。現在の方言を調べてみると、山口県祝島、徳島県美馬郡、愛媛県、高知県幡多郡、大分県など、四国から九州にかけての地域では洞穴のことを「うど」と呼んでいる。愛媛県中島町では「うどあな」ともいっている。東海地方になると、うどは川岸のえぐれているところをさすらしい(日本国語大辞典参照)。これら古語、方言をかんがみ、「うど貝」を漢字で表現するとすれば「空貝」となろうか。
 「明浜うど会」も漢字で書くと「空会」。しかし、それでは味気ない。私なりに「うど」を掛けていうなら、「有道」に掛けてみたい。これは曹洞宗の道元禅師が著わした『正法眼蔵』によく出てくる言葉である。仏道修行に励んで怠らないことを指すが、進むべき道を持つことが大切であることも意味している。つまり、進むべき道有りて修行すれば自然とさとりの道に近づくことができるということである。
 「明浜うど会」(今も活動しているか不明だが)は発足して間もないまさに「空」の会であろうが、「空なれども進むべき道は有り」、様々な町おこし活動を通して中身を充実させていく、これが明浜の「うどの精神」とでも言えようか。

2000年05月17日

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餅撒きの話

2000年05月13日 | 信仰・宗教

 先日、八幡浜市川名津の春祭りでもちまきの様子を観察した。もちまきを見ていつも思うことなのだが、人はなぜあれほどまでに熱狂するのだろうか。不思議で仕様がない。餅をその日の糧にするために必死になって取ろうとしているのだろうか。でも今の時代、餅なんて拾っても日常生活には関係ないように思える。
 もちまきを観察するのは面白い。あの餅が撒かれた瞬間の人々の緊張感たるや、客観的にみれば滑稽である。しかも撒かれた餅をダイレクトキャッチすればまだしも、地面に落ちた餅までもがめつく拾おうとする。普段は絶対見られない行為である。まるで餌に群がる鯉のよう。そこには人間の理性なんて全く感じられない。理性を保ちつつ餅撒きに参加した日にゃ、自分が地獄絵図の中にいることに気付く。手で拾うならまだいいが、網を持参する輩もあれば、地面に落ちた餅を靴で踏んづけて、おのが餅にしようとする。まさに地獄絵図である。いや地獄絵図とはいうが顔をみると人は幸せそうでもある。餅を手に入れる人々の一瞬の形相を除いて。終わったあとの表情もみな晴れやかである。おかしな儀礼だ。
 突然だが、私は幼き頃、もちまきがどうしても好きになれなかった。理由は2つある。ひとつは私が、理性の見られない本能のみの世界が嫌いな少年だったこと、もう一つは弟が餅撒きの餅を奪いとる名人であって親に比較されていたことである。弟は餅を集める名人であった。運動神経のよさもあるが、上着を両手で広げてムササビ状態にして餅を集めたという技を体得していたのである。私はいつももちまき場の外縁で人々の熱狂の光景を冷ややかな目でみていた。しかし心の片隅では「俺もあの輪に入って馬鹿をやってみたい」とも思っていた。少年の心は複雑である。結局、そんなガキであったため、数々の餅撒きを冷静に観察する機会を得たのである。しかし何回見ても何が人々をそこまでひきつけるかわからない。まるで「サザエさん」を冷静な目で見ると何がおもろいのかさっぱりわからなくなるのと同じである。そのように当たり前だけど冷静に考えれば不思議に思う事例は数多い。こんな事例こそ民俗学の対象にしなければならない、という私の学問観をいつも再確認させてくれる「もちまき」を今では好きになってしまっている。それにしても、もちまきは人の性格判断をするのに格好のリトマス紙になりそうだ。
 餅は基本的には固いもの。もちまきでは、石のように固い餅が撒かれることもままある。確か、あれはわたしが小学校六年の時である。近所の棟上げの際の餅撒きで、直径30センチほどの餅をわれ先にと前進して、つかみ損ねて餅が額にあたり、アザをつくった中年女性がいた。そのあとが凄かった。負傷しつつもそのオバサンは餅を拾い続けたのである。あの惨事と彼女の形相は今でも脳裏から離れない。私は小学六年生ながら人生というものを考えてしまったほどである。
 民俗学的にもちまきを考えてみよう。民俗的にはもちまきは散米というカテゴリーに入るものである。この散米とは、祓えの際に米をまき散らす行為で、餅撒き、蜜柑撒き、節分の豆撒きなどがあり、周囲の精霊に対する供養として、魔を祓う効果を期待して行なわれるとされる(『日本民俗事典』)。しかし、私は払われた厄が儀礼により福に転換して餅を媒体として人々に分担されるという構造があるのではないかと考えている。いずれそれは論文でまとめてみたいと思っている。

2000年05月13日

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尾州の啼地蔵と四国

2000年05月12日 | 信仰・宗教
『綜合日本民俗語彙』を流し読みしていて偶然見つけた項目。
啼地蔵(ナキジゾウ)
「愛知県丹羽郡小折常観寺にある。国に異変がある前には汗を流してこれを予報したという。むかし盗人が盗み出し四国まで背負っていったが、さまざまな不思議があったので怖れをなし、沢のほとりで棄てた。その地に毎夜光りものがあり、赤子の啼声が聞こえた。ある下人にこの地蔵様が憑いて狂い、もとへ帰さぬと祟るぞとわめいたので、探しだして尾州へ送り返したという(張州府志)」
何故、盗人は四国まで地蔵を背負って行ったのだろうか。尾州の話なのに四国が関係してくるのが不思議である。
そういえば、以前、遍路札所の納め札(巡礼者の住所、氏名が記載されている)を分析したことがあるのだが、四国を巡礼する遍路を県別に見ると、尾州(愛知県)の人が他県に比べて多かった。遍路と直接的には関係ないだろうが、関連づけて考えてみたくなる。
四国遍路や、例えば今昔物語集第十五に出てくる僧長増の話(比叡山から突然姿を消して四国に渡る話)からは、四国が宗教的に非日常性を帯びた空間であるように思えるのだが、この啼地蔵の話からもその性格が垣間見えるのではないかと、突飛ではあるが考えてみた。

2000年05月12日

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老若の弘法大師像

2000年05月12日 | 信仰・宗教

 愛媛をはじめ、四国には弘法大師の仏像がいたるところにある。真言宗寺院をはじめ、四国遍路道沿いの各所に堂庵があり、弘法大師像を祀っていることが多いのである。この弘法大師像は、左手に五鈷杵、右手に数珠をとる姿がほとんどで、像容としてはわかりやすいものだ。
 私は、二年前の九月に福井県小浜市の明通寺(真言宗御室派)を拝観した。そこにも弘法大師像が祀られていたのであるが、その像容には少し驚かされた。顔に皺がよっており、年輩(老人)の姿の弘法大師だったのだ。
 日頃、私が四国で見ていた弘法大師像は、顔は福々しく、精気みなぎる成年像である。年老いた弘法大師像は見たことがなかった。(それにしても大師は62歳で入定しているのだから老人像には違和感があるのだが・・・。)全国的にも、国指定重要文化財になっている有名な大師像(例えば京都神護寺、六波羅蜜寺、神奈川の青蓮寺、奈良法隆寺など)があるが、これらもみな成年像である。
 四国において年老いた弘法大師像は似合わない。なぜなら、四国は大師の修行の地とされており、それに対する信仰であるなら、若い像容でなくてはいけない。(満濃池をつくったのは晩年だが。)
 四国以外であれば、修行を終えて、入唐後、宮廷にも深く関与した以後の大師に対する信仰としての像容は年老いていてもよいのだろう。
 弘法大師に限らず、こういった祖師像については、像容の老若によって信仰の内容も異なるのではないかと勝手に考えた次第である。
 それにしても、四国に数多く残る弘法大師像を広く調査した成果については、私は未だ知らない。仏像研究は中世以前が主であり、江戸時代以降の製作のものについては研究対象とされにくいためだろうか。石仏研究のように、身近にある大師像の年代比定が可能になるような、類型化された研究成果があれば良いのだが・・・。

2000年05月12日


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南予地方の牛鬼2

2000年05月11日 | 八幡浜民俗誌
牛鬼の頭は、牛とも鬼ともつかない形相をしているが、その表情は一様ではなく、地域により異なっている。一般的には宇和島地方の牛鬼の形相が有名であるが、頭の様式を大まかに分類すると、上浮穴郡型、喜多郡型、西宇和郡型、宇和島型、南宇和郡型、その他に分けることができる。 上浮穴郡型は小田町やかつての久万町、柳谷村で見られたもので、完全に牛の表情をしており、鬼の要素は感じられない。このような牛の顔のものは、五十崎町など一部喜多郡にも見られるが、旧宇和島藩から離れた地域において独自に発達している。 喜多郡型は、大洲市、喜多郡に見られるもので、上浮穴郡型のように牛の表情にも近いが、顔に皺をよせて恐ろしさを強調しているものが多い。上浮穴郡型と宇和島型の中間形式とも言える。 西宇和郡型は、八幡浜市周辺に見られるものである。八幡浜市川名津や大島のように、鬼としての恐ろしさが薄れてはいるが、形状は宇和島型に似ており、宇和島市に残る明治時代の牛鬼の頭に類似している。宇和島型の亜流といえるが、宇和島型の古い形式ともいえる。 宇和島型は、現在、最も一般的とされる型で、牛鬼の最も恐ろしさを強調しているものである。西宇和郡型に比べると、口を大きく開け、牙をむき出しにし、眼光を鋭く表現している。これは戦後地元の張り子職人が考案したもので、南予各地に広がっている。 南宇和郡型は、南宇和郡全域に見られるものである。丸型を基調として、眉や鼻を強調し、牙を並べて恐ろしさを強調している。 その他に、上記では分類できない牛鬼もある。喜多郡長浜町豊茂、東宇和郡明浜町狩江、北宇和郡日吉村上鍵山の牛鬼である。これらは、南宇和郡型と同じく、丸型を基調としているという共通性を持つ。いずれも、牛鬼の分布からすると、周辺部に位置するものであるが、周圏論的に見れば、これが牛鬼の古態を示しているのではないだろうか。つまり、牛鬼は、かつては丸型を基調としていたが、宇和島型へと発展し、一部喜多郡、上浮穴郡では、伝播する際に、鬼の要素が解消されて、牛に近い表情となったのだろう。 このように、牛鬼の頭の分布を見ると、分布の中央部にあたる宇和島地方に新しい型の牛鬼があり、周辺部にいけば古態の型の牛鬼が見られるという傾向があるのである。

2000年05月11日 南海日日新聞掲載

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鏝絵(こてえ)について

2000年05月10日 | 衣食住
 五十崎町の山本茂慎氏から、鏝絵(こてえ)に関する資料を送っていただいた。内子町・五十崎町の鏝絵分布マップである。
 実は、現在、愛媛では「えひめ鏝絵の会」の会員により、鏝絵の調査が進められている。(鏝絵は地域の隠れた文化財だということで注目されつつある。大分県ほどでは無いけれど・・・。)
 そもそも鏝絵とは、民家の母屋や土蔵の壁、戸袋などに、龍や恵比寿、大黒などを、漆喰をもってレリーフしたもの(図像学的に非常に面白い!)。江戸時代末期に入江長八によって作られたのが起源といわれている。明治時代になり、その弟子たちや多くの左官によって全国に広まった(といわれている)。入江長八とは、「伊豆の長八」とも呼ばれ、1815年に伊豆の松崎町(現静岡県)生まれ。江戸の商家等に彩色をもった鏝絵を多く製作している。鏝絵は長八が江戸日本橋茅場町の薬師堂建立にあたり、柱に漆喰で龍を彫刻したことにより広まったといわれている。明治10年に明治政府が主催した「内国勧業博覧会」に出品した鏝絵が花紋賞牌を受賞。新聞のニュースとなって長八の名が全国へ広まった。長八の作品については、現在、伊豆の長八美術館等にて保存、展示されている。
 この鏝絵の分布としては全国各地に散在している。最も多く確認されているのが大分県で、700点程。504点確認されている愛媛県はそれに次ぐ多さである(えひめ鏝絵の会調査、平成11年3月現在。ここ一年でさらに発見されているので600点くらいか。このままいけば、大分の700点を越えるか?)。

全国的な特徴を大まかにまとめてみると以下のとおりになる。
気仙左官(岩手県)
「高さ約1メートルの丸物の唐獅子など、立体彫刻的。花弁一枚一枚を造り、組合せ牡丹にするような丁寧な仕事」
小杉左官(富山県)
「全長8メートルに渡る壁面から約15センチ浮き出た双龍は彫刻的。色付や、細かい描き込みは繊細で絵画的」
石州左官(島根県)
「入母屋屋根妻側一面に装飾。下絵を用いる。目玉にガラス。彫刻を埋め込んだような奉納額は立体的」
東予の左官(愛媛)
「梁隠しを兼ねた小規模な鏝絵。彫り込みは浅い。円形の梁隠しの中いっぱいに表現する」
安心院・日出の左官「多彩で鮮やかである。繊細な鏝絵から簡単に仕上げた鏝絵まで多様にみられる。彫り込みは少ない」
(参考:石井達也「鏝絵の地域的分布と左官技術の展開2」『左官教室』No.513)
 昨年3月に佐渡の相川郷土館を訪れた。そこには土蔵の扉に巨大なムカデの鏝絵が施されていた。実に大がかりなもので、富山といい、日本海側の鏝絵の装飾の派手さには驚かされる。愛媛や大分は総じて小振りな鏝絵が多いようだ。

 この鏝絵は、建築様式に変化により、白壁とともに消えようとしている。
 左官職人の技と芸術が、見向きもされないまま、消滅しようとしているのだ。
 この鏝絵については、大分の藤田洋三氏、東大名誉教授の村松貞次郎氏によって、評価がなされ、その影響で愛媛でも岡崎直司氏、越智公行氏、そして今回資料を送っていただいた山本氏らが発掘、調査活動を行っているが、大分県の安心院や日出のように行政も絡んで保存活動が展開できれば理想的。(唯一の例は、東予市の「雲龍」の鏝絵。近藤誠さん達の尽力のおかげです。)

 それにしても、大分の藤田さんが鏝絵の写真集を出す準備をしていると言ってたけれど、もう刊行されたのだろうか。早く見てみたいものです。

(参考までに私の方で以前まとめた鏝絵関係文献目録を掲載しておきます。)

2000年05月10日

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鏝絵関係文献目録

2000年05月10日 | 衣食住

鏝絵に関する文献目録(稿)
『消えゆく左官職人の技 鏝絵』、1996年、藤田洋三、 小学館
「宇佐・院内・安心院地域にみる鏝絵」長田明彦・藤田洋三・貞包博幸、大分大学教育学部
写真集『鏝絵』(刊行予定)藤田洋三、石風社
『季刊銀花』49号 「豊の国の鏝絵」、1982年、澤渡歩、文化出版局
『季刊銀花』64号 「サフラン酒の蔵」、1985年、藤森照信、文化出版局
『季刊銀花』114 夏の号 特集 鏝絵「文明開花」、1998年、文化出版局
『日出の鏝絵』 「日出町史」所収、1986年、藤田洋三、日出町史
『地域政策・鏝絵連合王国』、1993年、村松貞次郎、自治省
『特集左官読本 漆喰って何だ』 建築知識5月号、1989年
『鏝(KOTE)-伊豆長八と新宿の左官たち-』、1996年、新宿区立新宿歴史博物館
『伊豆長八』、1980年(復刻)、結城素名、伊豆長八作品保存会刊、芸艸社
『伊豆長八作品集 上・下巻』、1992年、松崎町振興公社
日本の『創造力』御一新の光と影、1992年、日本放送出版協会
『名工伊豆長八』1958年、白鳥金次郎、伊豆長八作品保存会
「松崎に現存する伊豆長八の作風について」、菅原篤、明治大学
「稲荷神社本殿の彫刻・作者伊豆長八について」高橋直司
『開かずの間の冒険』1991年、荒保宏、平凡社
『左官教室』21 「古きをたずねて新しきを知る」、1958年、池戸庄次郎、黒潮社
『左官教室』142 「こて絵彫刻工法」、1968年、池戸庄次郎、黒潮社
『左官教室』442 特集/大分鏝絵シンポジウム 庶民の文化「鏝絵」に光!、1993年、黒潮社
『左官教室』466 鏝絵通信その21「京都の鏝絵-鏝絵探訪2-」、1995年、今井明、黒潮社
『左官教室』471 特集/大分の鏝絵「宇佐・院内・安心院地域にみる鏝絵」、1995年、長田明彦・藤田洋三・貞包博幸、黒潮社
『左官教室』477 鏝絵通信その25「安心院町鏝絵シンポジウム」、1993年、沢畑亨、黒潮社
『左官教室』479 鏝絵通信その27「石州左官をおっかけて井沼田桝市(その2)」 、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』479 鏝絵通信その28「石州左官児島嘉六について」、1996年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』482 鏝絵通信その30「ナンバン漆喰と土佐漆喰のルーツ」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』483 鏝絵通信その31「宇佐左官と石灰」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』484 鏝絵通信その32「こて絵の世界展」、1996年、中島忠雄、黒潮社
『左官教室』484 鏝絵通信その33「若桜街道・鏝絵観察記」、1996年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』486 鏝絵通信その33「石灰を食べる話」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』487 鏝絵案内 全国「鏝絵の会」及び鏝絵資料(1)、1997年、黒潮社
『左官教室』488 鏝絵通信その34「終わりか始まりか?」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』489 鏝絵通信その36「美作路(津山近郊)巡検同行記」、1997年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』489 鏝絵通信その37「赤崎町タック谷鏝絵紀行」、1997年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』490 鏝絵通信その38「東北に鏝絵を求めて」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』491 特集/鏝絵の保存について 「金太郎のお引っ越し」顛末記、1997年、岡崎直司、黒潮社
『左官教室』491 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』492 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方2」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』493 鏝絵通信その39「初めてのヨーロッパ」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』495 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方3」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』495 鏝絵通信その41「東北に鏝絵を求めて2」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』496 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方3」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』496 鏝絵通信その43「鏝絵は地霊の刻印だ」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』498 特集/「大黒様の里-奈義町の鏝絵-」、1997年、黒潮社
『左官教室』498 「奈義町は岡山の鏝絵王国」、1997年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』498 鏝絵通信その45「エコミュージアムin津山」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』500 鏝絵通信その47「ロマネスクな鏝絵を求めて」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』501 「左官職人の技-高橋興一の鏝絵-」、1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』501 「日野鏝絵紀行」、1998年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』501 鏝絵通信その48「INAXエクサイトヒルは不滅だ!」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』503 特集日本のロマネスク2 鏝絵、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』503 鏝絵通信その50「オ石灰探偵団四国路を行く!パート1高知編」 1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』505 鏝絵通信52「オ石灰探偵団四国路を行く!パート3愛媛今治編」 1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』506 「土壁に泥の鏝絵-驚くべき土壁のいのち-」1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』506 鏝絵通信その53「再び長野を訪れる」1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』507 「左官職人の技・伊予の鏝絵写真展」1998年、岡崎直司、黒潮社
『左官教室』507 「こうして鏝絵は残った」1998年、近藤誠、黒潮社
『左官教室』507 鏝絵通信その54「再々東北へ」1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』508 鏝絵の地域的分布と左官技術の展開、1998年、石井達也、黒潮社
『左官教室』508 鏝絵通信その55「群馬三国街道を歩く その1」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』509 鏝絵通信その55「群馬三国街道を歩く その2」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』510 「漁村の土蔵と鏝絵-丹後の舟屋集落にみる土蔵と鏝絵-」、1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』510 鏝絵通信その57「書を捨てよ田舎を歩こう」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』512 「『招福辟邪』鏝絵」、1999年、岡沢まどか、黒潮社
『左官教室』512 鏝絵通信その59「瀬戸内鏝絵連合王国」、1999年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』513 鏝絵案内 全国「鏝絵の会」及び鏝絵資料(2)、 石井達也、黒潮社
『小杉左官 竹内源三』 富山県小杉町史、1991年、田村京子、富山県小杉町
『小杉左官鏝絵の名人竹内源造』1994年、小杉町史編纂室
「嘉飯山も鏝絵」『嘉飯山郷土研究会会報』8号、1994年、中島忠雄・山本浩一郎
「庶民の美9 漆喰絵」『芸術生活』250、1970年、高橋正雄、芸術生活社
「思楽老コテばなし」斎藤隆介『職人衆昔ばなし』1967年、池戸庄次郎、文芸春秋社
『鏝なみはいけん石州左官の技』大田市役所
「蔵飾り」上田勝俊 五彩庵文庫(自家版、鳥取市)
「石州左官の技写真展」町並み交流センター(島根県大田市)
「大黒様のさと-奈義町の鏝絵-」赤松壽郎(自家版、岡山県御津町)
「御津町の鏝絵」赤松壽郎(自家版、岡山県御津町)
「愛媛県東予地域鏝絵と左官職人たち」越智公行(自家版、愛媛県今治市)
「東予市鏝絵地図-愛媛県東予市楠河・庄内・吉岡地区にみる鏝絵調査報告書-」1997年、愛媛県立東予工業高等学校建築科「鏝絵研究会」
「白壁に残る左官職人芸 鏝絵」『アトラス』2、1997年、越智公行 (有)インデクス内・アトラス編集部
「酒蔵の意匠」『アトラス』10、1999年、岡崎直司、(有)インデクス内・アトラス編集部
『月刊土佐』32号 特集漆喰妻飾り、1986年、和田書房
『熊本の鏝絵』1992年、石井清喜、長野工業50年史
『職人文化の世界』1987年、大分県宇佐風土記の丘歴史民俗資料館
『常設展示 豊の国・おおいたの歴史と文化』1998年、大分県立歴史博物館
『まちのデザイン 歩き目デスは見た!』1997年、岡崎直司、創風社出版
『デザイン発見・壁絵のある家』1~4、1988~9年、松味利郎 京都書院

鏝絵関連文献
『日本壁の研究』1942年、川上邦基、水土文庫
『日本壁の研究』1943年、川上邦基、竜吟社
『日本壁の話』1980年、山田幸一、鹿島出版会
『ものと人間の文化史 45 壁』1981年、山田幸一、法政大学出版局
『石灰群書』1980年、涌井荘吉、日本石灰協会
『土佐石灰業史』1975年、織田清綱、津久見石灰協業組合
『上方左官物語』1989年、大阪府左官工業組合
『左官職昔ばなし(遠州浜松松浦左官一家の覚書)』1976年、松浦伊喜三私家版
『佐渡相川の歴史・資料集八 「相川の民俗工」』1986年
『気仙大工気仙かべ技術写真帖/匠達への誘い』1981年、平山憲治、大船渡職業訓練協会
『気仙大工の歴史とその人物群像』1982年、平山憲治、大船渡職業訓練協会創立30周年史
『 工伝』1975年、須田昌平、文寿堂印刷所
『沓亀』伊藤菊三郎(覚え書き)
『基礎知識5月号』1989年、建築知識社
『日本壁の研究』1954年、中村伸、相模書房
『左官技術』1971年、鈴木忠五郎、彰国社
『日本建築学会標準仕様書・同解説』15・左官工事、1975年、日本建築学会(編)、技報堂
『左官工事』1981年、小俣一夫、井上書院
『日左連』日本左官業組合連合会
『日本の近代建築史 上』藤森照信、岩波書店
『明治を伝えた手』1969年、朝日新聞社
『レンズは見た-映像四十年の軌跡-』、1992年、新田好
『津久見石灰史』1975年、織田清氏綱、津久見石灰協業組合
『馬路教育史』1978年、馬路教育史編纂委員会
『三陸のむかしがたり 第18集』1997年、三陸老人クラブ連合会
『INAXBOOKLET 日本の壁』 Vol5、1985年

2000年05月10日

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