愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「穴井歌舞伎」

2000年07月20日 | 八幡浜民俗誌
「穴井歌舞伎」

 六月十八日に八幡浜市の穴井公民館で、地区の有志により、戦前、盛況であった穴井歌舞伎の衣装の整理作業が行われた。穴井歌舞伎は、江戸時代後期から、県指定無形民俗文化財「長命講伊勢踊り」の和気踊(ワキ、脇の意味)として行われていた地芝居で、近郷にも出向いて興行する人気のあるものであった。穴井歌舞伎が上演される時には、大島、三瓶、双岩、合田あたりからも観衆が集まって、その数は二千人に達したとも言われているが、現在、八幡浜市内ではこの歌舞伎の存在さえも忘れられかけている状態で、使用された衣装や道具も眠ったままになっている。このような状況を地元穴井の方々が憂慮し、今一度、穴井歌舞伎を再評価させようと立ち上がり、今回の整理作業に至ったのである。そして作業の結果、明治時代から昭和初期に寄進された歌舞伎衣装を百九十五点、舞台幕を十七点を確認することができた。これは一つの地芝居の資料として膨大なものと言える。愛媛県内では現在行われている地芝居は久万町の川瀬歌舞伎のみであるが、これは大正八年に始められたもので、明治時代の資料は残っていないと聞く。また、野村町の阿下で行われていた歌舞伎も衣装が残っているが、資料点数では穴井が上まわる。穴井歌舞伎の衣装は地芝居資料として県下随一のものと言えるのではないだろうか。
 今回確認した衣装は金糸で龍や唐獅子、鯉などを立体刺繍しているものがあったり、花鳥が鮮やかに描かれたものがあり、豪華で見栄えのするものが多かった。私が興味を惹いたのは、寄進者の年齢が三十三、四十二、六十一歳の厄年の者がほとんどであったことである。穴井歌舞伎は単なる芝居ではなく、厄祓いを祈願する民俗行事としての性格もあったのだろう。また、舞台幕では明治六年、明治十二年の寄進のものがあり、明治時代初期からの道具が残されていることも判明した。穴井歌舞伎は言い伝えでは天明年間に始まったとされ、江戸時代の衣装等が出てくるのを心待ちにしていたのだが、残念ながらそれは確認できなかった。衣装は昭和三、四年の寄進のものが多く、穴井歌舞伎は大正元年に一時中断され、大正時代後期から徐々に復活していったといわれているが、昭和初期に一気に衣装をリニューアルしたのかもしれない。
 いずれにせよ、穴井歌舞伎の衣装類は、県内有数の地芝居資料であり、今後保存対策を講じていく必要があるだろう。

2000/07/20 南海日日新聞掲載


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川名津柱松神事の榊台

2000年07月13日 | 八幡浜民俗誌
川名津柱松神事の榊台

 八幡浜市川名津で毎年四月第三土、日曜日に行われる柱松神事では、榊台(さかきだい)という、二.五メートル程の高さの榊を一本立てたかき棒付きの台が出される。これは、祭りの中で、天満神社の本殿から御神体を移された神輿が巡行する際に、神輿を先導するお供の役割を持つものである。柱松神事の最後つまり日曜日の午後五時頃になると、神社前に神輿が据えられて、その脇に榊台も置かれるが、その前で五ツ鹿踊りや唐獅子が最後の踊りを奉納する。これが終わると神輿が神社本殿に帰る宮入りとなるが、この際に、牛鬼と榊台が鉢合わせをする。牛鬼は青年団が担ぎ、榊台は四十二歳の厄年の男達が担いで、神社前に立てられた柱松を巡りながら、双方をぶつけ合う。鉢合わせではケガ人が出る年もあるなど、荒々しいもので、八幡浜市内の祭りでは最も迫力のあるシーンと言えよう。祭りの観客は、この鉢合わせにくぎ付けになるが、その観客の眼を盗むかのように、神輿は宮入りを果たし、鉢合わせの最中に御霊(みたま)遷しが行われる。他所の祭りでは、神輿の宮入りは祭りの最後の行事として、神社拝殿前で氏子に見守られながら行われることが多いが、川名津では神輿の宮入りは、観客が牛鬼と榊台の鉢合わせを注目している時に、ひっそりと行われるのである。これは、神輿のお供である榊台が、神輿を襲おうとする牛鬼から、無事宮入りできるように神輿を防御するというストーリーで説明できると思われる。
 さて、一般に祭りに際して、神輿とは別に装飾を凝らして、担いだり、曳いたりするものを山車(だし)と言うが、京都の祇園祭の山鉾や、愛媛県内では新居浜の太鼓台や西条のだんじりが有名である。これらはもともとは神輿のお供として存在していたものが、装飾が発達するあまり、祭りで最も注目されるものとなっている。太鼓台にしても現在は金糸の立体刺繍の施された幕が飾られ豪勢になっており、また鉢合わせも行われることがあるが、原初的な形態は単に太鼓を据えた台であり、神輿の巡行の前に、神輿の到着を太鼓を叩いて知らせたり、太鼓の音で神を奮い立たせるものである。これを川名津の榊台に当てはめて考えると、榊台も神輿のお供であり、単なる榊が台に乗せられ、厄年の男がこれを担いで、牛鬼と荒々しく鉢合わせを行う。もし、この榊台に彫刻や刺繍などの装飾を施して、その飾りが観客の眼を惹きつけるようになると、立派な山車になってしまう。つまり榊台は、神輿のお供という役割を充分に全うしている山車の原型といえるのである。

2000/07/13 南海日日新聞掲載

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八幡浜市大島の牛鬼

2000年07月06日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜市大島の牛鬼

(原稿ファイルを探索中・・・。)

2000/07/06 掲載


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