愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

高知市の「命山」

2024年03月18日 | 日々雑記
高知市潮江地区の竹島公園。命山。南海トラフ地震による津波避難場所として盛り土。海抜8m。登ってきました。











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3/2 大島の島四国に関する講座

2024年02月29日 | 日々雑記
愛媛県歴史文化博物館主催のサテライト講座「大島 島四国の歴史・現在・未来in村上海賊ミュージアム」
日時:3月2日(土)13:30-15:00
場所:今治市村上海賊ミュージアム

本日の愛媛新聞に、この講座で紹介する資料に関する記事が掲載されました。


許可番号d20240229-01




当日受付も可能です。



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人口減少社会における文化芸術

2024年02月22日 | 日々雑記
3/14は宇和島市内にて「人口減少社会における文化芸術ー愛媛県南予地方の演劇・芸能文化の現状と今後ー」。南予の舞台芸術、伝統芸能、民俗芸能について話す予定です。





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新刊『愛媛の民俗―冠婚葬祭編―』(えひめブックス30)

2024年02月21日 | 日々雑記




公益財団法人愛媛県文化振興財団より、拙著『愛媛の民俗-冠婚葬祭編-』が刊行されました。

愛媛県文化振興財団 えひめブックスHP https://ecf.or.jp/publication_books/index.html#

「日本文化の中では誕生・成年・婚姻・葬送・先祖供養など人生の大きな節目にさまざまな儀礼が行われてきた。これを「冠婚葬祭」や「通過儀礼」、「人生儀礼」と呼んでいる。本書では、愛媛県内各地に伝承されてきた冠婚葬祭、生と死に関する民俗事例を基に、子どもや若者の成長、人間存在の意味について考えるとともに、冠婚葬祭の文化から見えてくる愛媛の地域的特徴を紹介する。」

令和6年3月刊行

新書判 本文172頁 定価1,200円(税抜価格1,091円) ISBN978-4-901265-70-6

入手方法はコチラから。









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重伝建卯之町の末光家住宅公開

2024年02月04日 | 日々雑記
地元の西予市宇和町の重要伝統的建造物群保存地区「卯之町」の末光家住宅公開日。地域の文化遺産を活用した災害復興支援活動について話してきました。能登半島地震での建造物被害についても少し紹介。旧武蔵ではかまど炊きおにぎりのふるまい。美味しくいただきました。
















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佐田岬半島ミュージアム講座「能登の歴史と民俗」

2024年02月03日 | 日々雑記
今日は佐田岬半島ミュージアムの講座「半島を学ぶ 能登の歴史と民俗」。あえのこと、キリコ祭り、白米の千枚田、揚浜式塩田、輪島塗、朝市、魚醤いしる、重蔵神社、スズシアターミュージアム、重伝建黒島など。地震からちょうど3ヶ月前に能登を訪問した際に見聞きしたことを取り上げてきました。愛媛の過去の地震被害についても紹介。先週、能登に入られた国立歴史民俗博物館川村清志先生から輪島市門前町皆月の現況の映像を送っていただき、上映。同じ半島部の佐田岬半島。能登から学ぶことも多く、この講座が能登へのサポートの第一歩となれば。









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人口減少社会と文化遺産シンポ

2023年12月21日 | 日々雑記

内子町でのシンポジウム「文化遺産の現在と未来ー人口減少社会と生きるー」無事おわりました。雪の予報で交通が乱れるかと心配していましたが、積雪も大したことはなく、内子町に移動できました。

今回のシンポ概要は以下の通りでした。

文化遺産とは、地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、そこに属する人々にとって何ものにも代え難い誇りです。同時に、情報を共有すれば他地域の人々をも感動させる価値を持っています。しかし、その将来は必ずしも明るいとは言えません。本シンポジウムでは、人口減少によって危機に瀕する文化遺産の現状や課題を議論するとともに、予測不能な現代社会にこそ必要な「文化とともに歩む未来」について考えます。

主催は、愛媛大学社会共創学部、社会連携推進機構地域共創研究センター、気軽にコミュニティカレッジin内子懇話会、内子町教育委員会。

趣旨説明 井口 梓(愛媛大学社会共創学部副学部長・社会連携推進機構地域共創研究センター副センター長)
研究発表
渡邉敬逸(愛媛大学社会共創学部・社会連携推進機構地域協働センター南予)「人口減少との関係から考える文化財管理のゆくえ:愛媛県を事例として」
大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)「VUCA時代の無形文化遺産―文化が新たな地域に果たす役割―」
村上恭通(愛媛大学先端研究・学術推進機構アジア古代産業考古学研究センターセンター長)「文化遺産と人口減少社会の将来-なぜ今、議論するのか-」
総合討論・質疑応答 コーディネーター:井口 梓 

貴重な機会を与えていただきました愛媛大学、内子町教委、そして内子懇話会のみなさま、ありがとうございました。



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松山市北条市民会館

2023年12月16日 | 日々雑記



愛媛県高校総合文化祭の郷土芸能部門。先月19日、暴風警報で延期になって本日開催。北条市民会館の大ホール。郷土芸能の披露にはちょうど良いサイズ感。和太鼓や虎舞の迫力満点でした。



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高校生との課題解決プロジェクト~愛媛県宇和島市吉田町の地震・津波防災~資料編

2023年12月11日 | 日々雑記
先日に投稿した愛媛県宇和島市吉田町の高校での課題解決プロジェクト。地域に残る過去の地震・津波被害の記録、古文書を基にした防災学習や防災ソングの制作について、その事前学習で使用した資料をここに掲載しておきたい。

1、宇和島市吉田町の地震・津波記録「永代控」とは何か
江戸時代に立間尻浦は、伊予吉田藩の村浦の一つで、吉田藩の陣屋や陣屋町を取り囲む位置にあります。現在の宇和島市吉田町立間尻であり、吉田湾の最深部の湾岸に位置し、江戸時代には北は立間村、西は鶴間浦に接していました。その立間尻浦の庄屋を勤めていたのが赤松家で、現在の国道五六号に隣接し、現在も庄屋時代の建造物や古文書が保存・保管されています。赤松家に保管されている古文書の中に「永代控」があります。これは江戸時代の庄屋が村浦の業務全般を日記形式で綴ったもので、「永代」とあることから、村浦の出来事や庄屋として行った業務内容を後世に伝えるために、「控」として赤松家に現在にいたるまで代々保存、継承されてきたものです。この「永代控」に、一八五四(嘉永七/安政元)年に発生した安政南海地震による吉田・立間尻での被災の状況が記されており、過去の南海地震の被害を知る上で貴重な史料として知られています。一九七七年には、東京大学地震研究所が編纂した『新収日本地震史料』に翻刻文が掲載され、地震研究者の中でも広く知られることになりました。二〇一二(平成二四)年にはこの記録をもとに愛媛県が赤松家を訪れ、現地調査、文献調査を実施しています。この「永代控」には、赤松家の長屋門の鴨居まで津波が来たという記述があり、津波高が一.八mに達すると推定されています。これは宇和海沿岸部での津波高を知る上で、数少ない文献記録であり、愛媛県内外の地震研究者がこの記述をもとに報告書や論文等を執筆しています。ただし、この「永代控」に記述されている地震・津波の被害内容は、長屋門の鴨居までの津波高だけではなく、地震発生直後からの地震の揺れによる被害、津波の襲来の状況、余震の発生回数、住民の避難行動などが時系列で記されており、地震・津波被害、そして地盤沈降による長期にわたる高潮被害に関する豊富な情報が含まれていますが、その全容を周知するような成果はこれまで刊行されていませんでした。そこで、今回は、この「永代控」の安政南海地震に関する全文の翻刻文と意訳文を紹介します。これにより宇和海沿岸部での地震・津波被害を時系列で把握することができ、今後の南海トラフ巨大地震への防災、減災対策につながる一助になれば幸いです。

2、「永代控」からわかる被害概要
〇吉田でも過去に大きな地震が発生し、家屋の倒壊被害が出た。
〇大地震のあとに、長期間にわたる余震が続いた。
〇本震よりも二日後の余震の方が揺れは強かった。
〇吉田も過去に津波が襲来し、何度も引き波、押し波を繰り返した。
〇津波は、まず引き波から始まり、最大の海面上昇は数時間後であった。
〇地震により地盤が沈降し、海岸部では海水流入の長期被害を受けた。

3、「永代控」の内容(意訳と筆者による解釈)
一八五四年一一月五日(新暦では一二月下旬の冬の寒い時期である)一五時頃に、大きな地震があって家や土塀が多く損傷した。推定震度は『地震総覧』によると震度五~六。本史料の内容から大本推定では震度五強~震度六弱であった。

海は次第に「あびき」(「網を引く」の意味から津波が襲来する前に起こる引き波)が強くなり、陸につないでいた船などは(繋留の綱)が切れて、つなぐことができずに、網船などが沖へ流出した。波が覆いかぶさるような津波が襲来するのではなく、まずは海面が引き波になって、船が流出したのである。

女性、子ども、老人はみんな、海岸から離れて山際にある大信寺(海抜一七m)や一乗寺(海抜一五m)などに避難した。いずれも比較的小高い場所にある寺院であり、JRよりも山側に位置している。

すると、次第に海面が上昇してきて、浜が一面、「大大汐」(津波による海面上昇)となって、夜二〇時頃に、立間尻浦庄屋の赤松家の長屋門の鴨居(障子・襖の上、約一.八mの高さ)まで「高汐」となり、海面が上昇した。地震直後ではなく、発生から四~五時間後に津波高が最も上昇したことになる。

避難していなかった赤松家の源四郎と使用人の二人と、蔵の番をしていた一人も、それまでは、門で控えて居たが、とどまっているのが難しくなった。地震発生から数時間は、海岸近くに残っていた人がいたのである。

赤松家の周囲が一面の海となって、表通りは一.二~一. 五m(四、五尺)の高さまで海水が上昇してきた。これは元町・魚棚三丁目付近の津波高を示している。
避難していなかった三人は、裏門から脱出して綱を使って溝を渡って、いったん大信寺まで避難して、お粥などを仕度した。夜間の海面上昇であり、暗い中での避難であり、溝を渡る危険行為で何とか逃れた。

□様(不明・藩の役人か)が様子を見に来たところ、海水が少し引いてきた。しかし、またまた海面が上昇(「高汐」)してきて、それまでのように三度、四度も海面が上昇した。そしてそれまでよりは少し海水が引いてきた。何度も津波の押し波、引き波が繰り返されていた。海水が引いてきたので安心したところ、また上昇するという状況であった。

しばらくして、引き波(「あびき」)は激しくなって、小さな舟などがつなぎとめることが難しくて、そのまま流されていった。そうすると、一艘が大工浜小屋の下の網にかかっていた。また一艘は地震翌日に南君や奥南のあたりまで尋ねていったが、すべて見つからず、三日が過ぎて、源泥(「深泥」の読み誤りか)大宮元の下へ流れていた。源泥(深泥)の御番人より知らせてもらい、引き取りに行かせた。数度の海面上昇、下降を経たあとの強い引き波があって船などの流出被害が見られたのである。
地震発生当日一一月五日の夜も、余震は一六、七回も発生した。避難している者の中には、生き延びたいと神仏に祈るばかりで、自分は祈ることもままならず、ただ津波(「津なみ」)が寄せて来ることを恐れて、所々、山々へ登り火を焚いた。しかし、相次ぐ余震で大地が鳴動して助けを呼んだりすることが難しい状況だった。なお、本史料では「あびき」(引き波)・「高汐」(海面上昇)・「津なみ」(波が寄せてくること)の語が区分されて使われている。小高い場所に避難して、山々に、火を焚いた。避難している印としたのだろう。

大信寺、一乗寺、海蔵寺(海抜九m)へ避難した人数は、約三〇〇~四〇〇人ずつ居て、小高いところの田畑などに、一四〇~一五〇の小屋を建てて、しのいでいた。合計で三〇〇~四〇〇人か、それとも「ツゝ」なので、合計一〇〇〇人程度が避難していたと推定できる。すぐには帰宅できず、避難場所に小屋がけして、過ごしていたことがわかる。

地震発生の翌日一一月六日は、一四、五回の余震があったが、大きな揺れではなかった。天気もよく、おいおい地震も収まるものだと思っていた。本震の翌日は、大きな余震もなく、比較的落ち着いていたのである。

地震発生の翌々日一一月七日になって、避難者の中には自宅に戻る者もいたが、昼の一二時前に、また大きな地震が発生した。本震の五日の揺れよりも激しく、庄屋の御成門の塀や、長屋の西の石垣が揺れで倒壊した。門も潰れてしまった。網屋一軒、蒸釜屋一軒、割木小屋なども倒壊してしまった。新田前浜なども被害が大きかった。方角がわからなくなるほど混乱し、みな、避難小屋へ立ち戻ることになった。最大の余震が、本震から二日経って発生していることになる。これは誘発地震であり豊予海峡を震源とする地震だった。推定震度は『地震総覧』では震度五~六。本史料から大本推定で震度六弱である。避難者も、自宅に戻ろうとしたが、この余震により再び、避難小屋に戻ることになった。

地震発生の一一月五日から一五日まで、自分の家においおい戻ったものの、余震は昼も夜も七、八度ずつは発生した。地震発生から約一〇日間は、余震活動が激しかったのである。

地震発生から一八日後の一一月二三日は、大雨、大雷で天気が悪く、大風もたびたび起こった。

地震発生から一ヶ月半経った一二月二〇日までは余震の無い日は一日もなかった。

吉田では、町方(今の本町、裡町、魚棚町)では死者が六名出て、家屋の倒壊は八〇軒にのぼった。村方(立間尻村)では、茅葺の建物が九軒、土家(瓦葺)三軒、郡屋九軒の計二一軒が倒壊した。石垣は五〇〇軒もの家で崩れた。現在の吉田中心部では、少なくとも一〇〇軒以上が倒壊したことになる。

翌年二月二〇日大雨、大雷。二月二八日には中規模の余震(震度四程度か)があった。この頃も余震は日々続いていた。地震発生から四ヶ月経った三月に入ると余震は少なくなり、一日一日と穏やかになっていった。激しい余震が一〇日程度続き、余震自体は数ヶ月にわたって続いていたことがわかる。

どの土地も地盤が沈降してしまった(「ゆり下げ」)。海水面の潮位が高くなると、海岸部の土地はみな浸水してしまった。地震発生の翌年一八五五年中は、高潮被害が発生して、住民はみな困惑した。そして、海岸部の石垣を三尺(約一m)かさ上げして、ようやく高潮被害を防ぐことができた。安政南海地震により、地盤沈降が発生し、長期にわたる高潮被害が出ている。石垣を三尺かさ上げしたことから、沈降量は五〇~七〇cm程度であったと推定できる。地震直後に沈降したのであれば、庄屋長屋門の鴨居まで津波が来たというのは、一.八mではなく、地盤沈降の〇.五~〇.七mを引いて、一.一~一.三m程度の津波だった可能性もあり、またこれは浸水高ではなく遡上高とすれば、表通りの浸水高一.二~一.五m(地盤沈降〇.五~〇.七mとすれば実際は〇.五~一mの津波)が吉田での津波浸水高とするのが適当であろう。つまり南海トラフ地震による津波では、約一mの津波高でもこのような状況になる可能性があるということである。

4、翻刻文
「永代控」(立間尻浦庄屋赤松家文書)
嘉永七寅十一月
一寅十一月五日夕七ツ半時頃ゟ大地震ニ而家土之塀多分損シ追々あびきつよく相成中々地方ニ津なぎ悉く船なとハ押切つなぎ留かたく網船なとハ沖へ流出シ壱不綱大碇ニ而ことことくつなぎニ而水ふせき候処女子供老人は皆々大信寺一乗寺なとへのかれ行取ものも取あへすのかれ行残処追々汐差上り浜一円ハ大大汐と相成夜五ツ時頃庄屋所門長屋鴨居まて高汐と相成候ニ付源四郎下人両人外ニ蔵番壱人も夫迄は門へ控居候処中々難留り候ニ付一円之海と相成候ニ付表通リハ四五尺も上り候ニ付裏門ゟのかれ出候処綱切ニ而水溝渡り一旦大信寺迄立のき粥なと仕度いたし又々□様見合ニ参候処少シ汐引取様ニ有之然ル処又々高汐ニ相成前之通三四度も上り候へ共以前よりハ少々水ひき相成候其内あびきハはげまし而小舟なとハつなぎかたく候而其儘流し次第ニいたし置候処壱艘大工浜小屋之下へ網にかゝり居候壱艘ハ翌日同浦南君奥南辺迄尋候処都而見不申両三日も過候処源泥大宮元之下へ流居候由源泥御番人ゟ為知もらひ候ニ付取ニ遣候其夜も地震ハ拾六七度もゆり候而中々延命なと祈候斗ニ而余事ハ思もよらす只津なみ寄来事を恐れ所々山々へ登り火をたき鳴動する事難呼立候大信寺一乗寺海蔵寺へのかれ居候人数も三四百程ツゝ居候其余小高き処を辺々田畑なとへ小屋かけ百四五十いたし而志のき居候翌六日少々昼夜十四五度ゆり天気能相成候ニ付追々直候事と存追々七日ニ相成候而我家へ帰候者も有之処同七日昼九ツ時前又大ゆりニ而五日のゆりよりはけしく庄屋所御成門塀長屋西之小平石垣ゆりくずし門もつへ込候網屋壱軒蒸釜屋壱軒割木小屋なとも崩し候由新田前浜なとも多分痛ニ而中々方角難立一統小屋へ立戻候処十一月五日ゟ同十五日迄夫ゟ追々自分之家へ相帰候左候共ゆり候事は昼夜ニ七八度ツゝは矢張より申し同廿三日大雨大雷之条有之天気難定大風なとハ度々有之同十二月廿日より無之日は一日もなく町方死人六人崩家八拾軒村方屑宅九軒土家三軒郡屋九軒石垣五百軒二月廿日大雨大雷二月廿八日中ゆり少々有之事は日々有之三月ニ至候而追々ゆり遠く相成一日替二日替ニ而末ニ至候而穏ニ相成候何土地もゆり下け有之汐高く浜辺之土地ハ皆々汐下ニ相成卯年中は高汐ニ而一統当惑いたし浜辺石垣三尺築上漸汐防き候
※この翻刻文は、東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二より転載したものである。

5、教訓
 〇大きな地震が来たら、急いで小高い場所に逃げる。
 〇津波は、押し波が最初に来るとは限らない。
 〇津波は、第一波が一番大きいとは限らない。
 〇寒い暗闇の中で避難しないといけない。最大の津波が来たときは夜二〇時。一二月下旬の寒い暗闇の中だった。
 〇本震よりも余震の方が大きいこともある。
 〇余震は、数週間内は頻繁で強く、数ヶ月継続する。
 〇地盤沈降により海岸部は津波が相対的に高くなり、長期の高潮被害が出る。

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日本の切手と葉書

2023年12月10日 | 日々雑記

テーマ展「日本の切手と葉書」

 当館がこれまでに収集してきた切手や葉書の中から、1840年にイギリスで発行された世界初の切手である「ペニー・ブラック」と「ペンス・ブルー」、明治4(1871)年に発行された日本初の切手である「竜文切手」や翌年に発行された「竜銭切手」のほか、お正月にあわせて昭和10(1935)年に発行された日本初の年賀切手「富士」(渡辺崋山)や昭和24(1949)年に発行された日本初のお年玉付き年賀葉書など、多種多様な切手と葉書の世界を紹介します。

展示概要

会場
愛媛県歴史文化博物館 企画展示室
会期
2023年12月9日()~2024年1月28日(

詳しくは
テーマ展「日本の切手と葉書」| 展示案内 | 愛媛県歴史文化博物館

テーマ展「日本の切手と葉書」| 展示案内 | 愛媛県歴史文化博物館

愛媛県歴史文化博物館

 

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大瀬の民俗世界も描かれる『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』

2023年12月06日 | 日々雑記
菊間晴子氏の著書『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』東京大学出版会 (2023/3/22)

内子町大瀬の森の世界が描かれる。著者のフィールドワークの経験から大江作品の抽象性を解説。特に犠牲獣のこと、興味深く、大瀬の牛鬼に関する記述もあり、愛媛の多くの人に読んでもらいたい著作。

【主要目次】
序論 「死生観」から大江を読む
第I部 「壊す人」の多面性――『同時代ゲーム』
第一章 『同時代ゲーム』の背景
第二章 「犬ほどの大きさのもの」
第三章 「暗い巨人」への帰依
第四章 「森」という神秘のトポス
第II部 犠牲獣の亡霊
第一章 皮を剥がれた獣たち
第二章 「御霊」を生むまなざし
第三章 隠された「生首」
第四章 「後期の仕事(レイト・ワーク)」における亡霊との対話
第III部 「総体」をめぐる想像力
第一章 自己犠牲と救済
第二章 救済を担う大樹
第三章 聖なる窪地と亡霊たち
補論 テン窪を探して
第四章 「神」なき「祈り」の場
結論 「犠牲の森」の変容

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『犠牲の森で 大江健三郎の死生観』

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シンポジウム「文化遺産の現在と未来―人口減少社会と生きる―」

2023年12月05日 | 日々雑記
愛媛大学社会共創学部のホームページに、シンポジウム「文化遺産の現在と未来―人口減少社会と生きる―」の概要が掲載されました。

文化遺産とは、地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、そこに属する人々にとって何ものにも代え難い誇りです。同時に、情報を共有すれば他地域の人々をも感動させる価値を持っています。しかし、その将来は必ずしも明るいとは言えません。本シンポジウムでは、人口減少によって危機に瀕する文化遺産の現状や課題を議論するとともに、予測不能な現代社会にこそ必要な「文化とともに歩む未来」について考えます。
興味・関心のある方のご参加をお待ちしております。

日  時:令和5年12月21日(木)17:30~19:15
共  催:社会共創学部、社会連携推進機構地域共創研究センター
     気軽にコミュニティカレッジin内子懇話会、内子町教育委員会
開催形式:対面
開催場所:内子町内子自治センター(内子町内子3427)
定  員:先着50名(事前申込はこちら)
参加費 :500円

「文化遺産の現在と未来―人口減少社会と生きる―」
■開会挨拶 林 純司 内子町教育委員会 教育長
      徐 祝旗 社会共創学部 学部長
■来賓挨拶 小野植正久 内子町 町長
■趣旨説明 井口 梓(社会共創学部副学部長・社会連携推進機構地域共創研究センター副センター長)
■研究発表
 渡邉敬逸(社会共創学部・社会連携推進機構地域協働センター南予)
  「人口減少との関係から考える文化財管理のゆくえ:愛媛県を事例として」
 大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)
  「VUCA時代の無形文化遺産―文化が新たな地域に果たす役割―」
 村上恭通(先端研究・学術推進機構アジア古代産業考古学研究センターセンター長)
  「文化遺産と人口減少社会の将来-なぜ今、議論するのか-」
■総合討論・質疑応答 コーディネーター:井口 梓

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12月17日は徳島歴史講座で空海について講演します。

2023年11月21日 | 日々雑記
徳島市立徳島城博物館主催で、「弘法大師空海と四国」に関する講座が開催されます。今年は弘法大師空海の生誕1250年。

[タイトル]「青年期の空海と四国―聾瞽指帰・三教指帰を読む―」
[日時]   令和5年12月17日(日曜) 午後1時30分から午後3時
[講師]   大本 敬久(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)

空海の幼少期から青年期までを「三教指帰」の記述などから紹介する予定です。讃岐での誕生、15歳での上京、仏教との出会い、室戸、石鎚山等での修行、仏道修行の強い決意、若い頃の親族との関係などなど。

現在、四国4県で進められている四国遍路世界遺産登録推進事業。少しでもその一助になればと思っています。


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歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑤

2023年11月10日 | 日々雑記
4 江戸時代最大の地震―宝永地震―
南海トラフを震源としてM8.6の規模という、江戸時代では最大級の地震である宝永地震が宝永4(1707)年10月4日に発生している。津波は伊豆半島から九州東部にいたる太平洋沿岸に襲来し、瀬戸内海沿岸でも田畑の塩害や浸水被害が出た。津波は紀伊水道を抜けて大阪湾にも入り、淀川の二つの川口、木津川口、安治川口から大坂市中を縦横に走る堀川に侵入し、港に停泊していた船が津波に乗って川や水路を遡上しながら橋を破壊した。大坂市中での津波高は道頓堀川左岸・幸町(現浪速区)で津波高(浸水標高)3.6mとされ広範囲が浸水した。被害が大きかったこともあり全体像が把握困難で犠牲者の数値は史料によって異なるが「大阪諸国大地震大津浪並出火」には水亡人7000余人、洪水にて10000人が犠牲となったと記されている。
この地震・津波では大坂以外で被害の大きかったのは四国・土佐藩であった。『谷陵記』によると藩内の流失家屋は1170軒、全壊家屋4863軒、死者1844名となっている。地震に伴う地殻変動も広範囲で生じ、室戸岬に近い津呂(現室戸市)では2m以上隆起し、現在の高知市内では20平方キロの範囲が最大2m沈降した。過去の南海トラフを震源とする地震では同様の隆起、沈降現象が確認されており、この隆起で港は使用困難となったり、沈降により海水流入したりしており、これらは今の高知県域の地域的特徴といえるだろう。伊予国(愛媛県)でも、宇和海に面する宇和島藩では3m以上の津波により藩主達も高台に避難して野宿し、7273石の田が汐入となり、死者12名、流失333軒、全壊167軒の被害が出ている。また伊予吉田藩でも12名が犠牲となっている。
なお、この宝永地震の49日後には富士山が噴火(宝永富士山噴火)し、高さ10キロ以上の噴煙が繰り返し立ち上り、耕地、林野の埋没、家屋の倒壊、交通路の遮断等の被害が出て、火口から100キロ東方の江戸でも降灰が確認されている。
宝永地震での松山市内の被害記録としては「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」(門屋家文書)がある。「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかる。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震もしくは誘発地震が集中していたことを物語る。そして発生当初は、1日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生4日目から11日目まで日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、2、3日に1度は余震があったと書かれており、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになる。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れを庄屋が記録しており、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できる。
また、堀江村周辺をはじめ松山地方の被害状況についても書かれている。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかった。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせている。
ここで、道後温泉の被害についても触れておきたい。宝永4年10月4日に発生した宝永地震による被害については、『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり、『諸事頭書之控』に「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり道後温泉では地震直後に湯が不出となったが、翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになった。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあり、急に湧出が回復したのではなく、数ヶ月後から少しずつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかる。現在、道後温泉では毎年3月に湯祈祷が実施されているが、これは宝永地震での温泉不出という危機を経験して始められた行事であり、過去の災害の記憶を伝える儀礼として重要な文化遺産といえる。

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北条風早の史跡めぐり

2023年09月24日 | 日々雑記
今日は愛媛県歴史文化博物館主催の「風早の史跡めぐり」でバスガイド役。テーマは、北条風早の古代・中世。

式内社の国津比古命神社、櫛玉比賣命神社、国史見在社の高縄神社はじめ、国指定文化財の平安初期仏の庄薬師堂を拝観。花崗岩地質に安山岩が突出してできた高縄山、恵良山、腰折山を眺める。お昼は鹿島に渡って太田屋さんで鯛めし三昧。

話題として、白村江の戦から帰還した物部薬、平安初期の風早出身の天台僧の光定と医術の物部広泉。河野郷と河野氏・河野さん(こうの?かわの?)、鹿島城と来島氏などなど、北条風早は、古代、中世ネタは尽きず。


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