1.愛媛県西予市山間部の「茶堂」
四国山間部の愛媛県西予市城川町には各地に「茶堂」が残されている。旧街道の辻々に立 っており、約60ヶ所現存し、「茶堂」を機軸とした「文化的景観」を保全している。「茶堂」 は一間四方の方形で屋根は茅ぶきまたは、瓦ぶきの宝形造、柱は径30cmほど角柱である。 三方を吹き抜けとし、正面奥の一面のみが板張りで、そこに棚を設けて石仏等を祀る。床は 厚さ5センチほどの板張りで地面から約45cmの高さにある。祀られる石仏は弘法大師、地 蔵、庚申像など様々である。「茶堂」はかつて「おこもり」の場であり、地区中の者が集まっ て酒宴をする懇親の場、情報交換の場であり一種のコミュニティセンターとして機能してい た。そして現在でも通行人への接待や虫送りなど様々な年中行事が「茶堂」を舞台として行 われている。なお、合併前の旧城川町時代より「永く後世に重要な民俗文化財を保存継承す ることを目的」として「茶堂整備事業補助金交付規程」が制定され、毎年2ヶ所の「茶堂」 の保存修理が行われている。
2.「茶堂」の呼称
「茶堂」では地区の人々が毎年旧暦7月1日から末の31日まで毎日各戸輪番に出て午前 9時ごろから夕刻までお茶を沸かし通行人に接待をしていた所が多い。これが「茶堂」の呼 び名の由縁ともなっている。ただし「茶堂」の名称が一般化したのは昭和50年代以降で、 それまでは単に「辻堂」・「お堂」と呼ばれた。この「茶堂」名称の固定化は、国の民俗文化 財(「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」)に選択され、市内外から注目されて 以降のことである。なお、徳島県、香川県山間部には「四つ足堂」等と呼ばれる三方吹き抜 けの構造の辻堂が見られるが、実際に「茶堂」、「四つ足堂」の呼称は少なく、「氏堂」、「辻堂」、 単に「お堂」や祀っている仏名で「観音堂」等と呼ばれている。そして、「茶堂」は一般的に 四国遍路の「接待」と絡められて語られることが多いが、城川町は遍路道からは遠く離れた 地域であり、城川町の「茶堂」イコール四国遍路道文化と直接とらえることはできない。そ の「茶堂」の発生と遍路文化、歴史の関係性については充分に解明されていない。
3.「茶堂」と接待
茶堂における「接待」については、西予市城川町高野子の杖野々茶堂では昭和12年頃ま では「茶当番」といって旧暦7月中、通行人に対して湯茶、大豆の煮物、梅干、らっきょう等を接待していた。遊子谷泉谷の四ツ庵茶堂でも戦前に旧暦7月中の一ヶ月間、全戸当番制 で自家製の茶、炒り豆を常に置き、接待していた。魚成の蔭之地茶堂では8月(旧暦7月) 1から16日まで当番制で茶、漬物(梅干、らっきょう)、炒り豆、米などを接待した。茶の 種類は窪野の程野茶堂では自家製の番茶であった。参考までに四国遍路関係の接待で施され るものは文政4(1821)年、十返舎一九『金草鞋』によると茶飯、芋豆の強飯、結飯、 白米、味噌、餅、髪月代、煮染、梅干、豆腐汁、半紙、おはぎ、草鞋、風呂、荒布などが施 されている。文政6(1823)年の吉田瑤泉『四国紀行』に「釜ニ茶ヲ煮テ旅人ヲ招キテ 炒麦粉一盆ヲ与ヘテ茶ヲ出ス此ソ四国遍路中摂待トテ所々ニアル事ナル由」とあるように 様々である。なお、『節用集』の「接待(セッタイ)」の項に新城常三著では「煎茶施人」と 記されているが、陽明文庫本(室町中期写)を確認すると「茶ヲ施旅人」とあり、また江戸 時代初期成立の『日葡辞書』に「Xettaiuo」とあり巡礼や貧者のために茶を出し、暖かくもて なすことあるように茶を施すことが基本とされている。実際に室町中期成立の『三十二番職 人歌合』(『群書類従』第28輯)の「巡礼」に「同行のめく(巡)る御てらのそのかす(数) に三十三の茶かはりもかな」とあり、西国巡礼において茶の接待が行われている。ちなみに、 茶を接待したか否かは判断できないが、新城著によると寺院等における「接待所」の記述は、 永仁4(1296)年、遠江国菊河宿(『平田家文書』)が最古とされ、南北朝期にかけて北 は陸奥国から南は土佐国にいたるまで17箇所が紹介されている。このように「接待」は「茶」 を中心としてとらえる必要があるが、四国遍路関係での茶供養の最古の事例は高知県土佐清 水市下ノ加江の貞享5(1688)年7月21日建立供養塔で「諸邊路茶供養」とあり、喜 代吉榮徳氏、小松勝記氏により報告されている。四国八十八ヶ所霊場においても江戸時代中 期に境内周辺に「茶堂」が建てられており、寛政12(1800)年の『四国遍礼名所図会』 には第58番仙遊寺、第59番国分寺(ともに愛媛県今治市)に茶堂とその中の茶釜も描か れている。また第50番札所繁多寺(松山市)については「繁多寺茶堂」と染付された近世 砥部焼の茶碗も石岡ひとみ氏によって確認されている。18世紀に四国遍路の隆盛とともに 茶の接待も盛んとなり、その影響もあって霊場(札所)や遍路道から遠い西予市山間部では 往来者も多い街道沿いにて茶の接待が定着した可能性がある。
4.論点と課題
ここでは愛媛県西予市山間部における「茶堂」の概要を紹介したが、今後、愛媛県 や四国のみならず中国地方、九州地方における類似する辻堂を比較し、三方吹き抜け構造の 辻堂の分布、地域差を紹介すると同時に、そこで行われる「茶」接待の事例を通して四国遍 路文化との関係、および中世以降の盆供養といった先祖供養展開史も絡めて検討し、「茶」を 用いた儀礼の様相を考察する必要がある。
【参考文献】
新城常三(1982)『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房 文化庁文化財保護部(1989)『民俗資料選集 16 茶堂の習俗』国土地理協会 喜代吉榮徳(1997)「遍路と茶の話―茶堂の発生について―」『四国辺路研究』第 12 号 愛媛県生涯学習センター(2005)『平成14年度遍路文化の学術整理報告書 遍路のこころ』 愛媛県美術館 長井健・石岡ひとみ編(2014)『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』四国へんろ
展愛媛編実行委員会
四国山間部の愛媛県西予市城川町には各地に「茶堂」が残されている。旧街道の辻々に立 っており、約60ヶ所現存し、「茶堂」を機軸とした「文化的景観」を保全している。「茶堂」 は一間四方の方形で屋根は茅ぶきまたは、瓦ぶきの宝形造、柱は径30cmほど角柱である。 三方を吹き抜けとし、正面奥の一面のみが板張りで、そこに棚を設けて石仏等を祀る。床は 厚さ5センチほどの板張りで地面から約45cmの高さにある。祀られる石仏は弘法大師、地 蔵、庚申像など様々である。「茶堂」はかつて「おこもり」の場であり、地区中の者が集まっ て酒宴をする懇親の場、情報交換の場であり一種のコミュニティセンターとして機能してい た。そして現在でも通行人への接待や虫送りなど様々な年中行事が「茶堂」を舞台として行 われている。なお、合併前の旧城川町時代より「永く後世に重要な民俗文化財を保存継承す ることを目的」として「茶堂整備事業補助金交付規程」が制定され、毎年2ヶ所の「茶堂」 の保存修理が行われている。
2.「茶堂」の呼称
「茶堂」では地区の人々が毎年旧暦7月1日から末の31日まで毎日各戸輪番に出て午前 9時ごろから夕刻までお茶を沸かし通行人に接待をしていた所が多い。これが「茶堂」の呼 び名の由縁ともなっている。ただし「茶堂」の名称が一般化したのは昭和50年代以降で、 それまでは単に「辻堂」・「お堂」と呼ばれた。この「茶堂」名称の固定化は、国の民俗文化 財(「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」)に選択され、市内外から注目されて 以降のことである。なお、徳島県、香川県山間部には「四つ足堂」等と呼ばれる三方吹き抜 けの構造の辻堂が見られるが、実際に「茶堂」、「四つ足堂」の呼称は少なく、「氏堂」、「辻堂」、 単に「お堂」や祀っている仏名で「観音堂」等と呼ばれている。そして、「茶堂」は一般的に 四国遍路の「接待」と絡められて語られることが多いが、城川町は遍路道からは遠く離れた 地域であり、城川町の「茶堂」イコール四国遍路道文化と直接とらえることはできない。そ の「茶堂」の発生と遍路文化、歴史の関係性については充分に解明されていない。
3.「茶堂」と接待
茶堂における「接待」については、西予市城川町高野子の杖野々茶堂では昭和12年頃ま では「茶当番」といって旧暦7月中、通行人に対して湯茶、大豆の煮物、梅干、らっきょう等を接待していた。遊子谷泉谷の四ツ庵茶堂でも戦前に旧暦7月中の一ヶ月間、全戸当番制 で自家製の茶、炒り豆を常に置き、接待していた。魚成の蔭之地茶堂では8月(旧暦7月) 1から16日まで当番制で茶、漬物(梅干、らっきょう)、炒り豆、米などを接待した。茶の 種類は窪野の程野茶堂では自家製の番茶であった。参考までに四国遍路関係の接待で施され るものは文政4(1821)年、十返舎一九『金草鞋』によると茶飯、芋豆の強飯、結飯、 白米、味噌、餅、髪月代、煮染、梅干、豆腐汁、半紙、おはぎ、草鞋、風呂、荒布などが施 されている。文政6(1823)年の吉田瑤泉『四国紀行』に「釜ニ茶ヲ煮テ旅人ヲ招キテ 炒麦粉一盆ヲ与ヘテ茶ヲ出ス此ソ四国遍路中摂待トテ所々ニアル事ナル由」とあるように 様々である。なお、『節用集』の「接待(セッタイ)」の項に新城常三著では「煎茶施人」と 記されているが、陽明文庫本(室町中期写)を確認すると「茶ヲ施旅人」とあり、また江戸 時代初期成立の『日葡辞書』に「Xettaiuo」とあり巡礼や貧者のために茶を出し、暖かくもて なすことあるように茶を施すことが基本とされている。実際に室町中期成立の『三十二番職 人歌合』(『群書類従』第28輯)の「巡礼」に「同行のめく(巡)る御てらのそのかす(数) に三十三の茶かはりもかな」とあり、西国巡礼において茶の接待が行われている。ちなみに、 茶を接待したか否かは判断できないが、新城著によると寺院等における「接待所」の記述は、 永仁4(1296)年、遠江国菊河宿(『平田家文書』)が最古とされ、南北朝期にかけて北 は陸奥国から南は土佐国にいたるまで17箇所が紹介されている。このように「接待」は「茶」 を中心としてとらえる必要があるが、四国遍路関係での茶供養の最古の事例は高知県土佐清 水市下ノ加江の貞享5(1688)年7月21日建立供養塔で「諸邊路茶供養」とあり、喜 代吉榮徳氏、小松勝記氏により報告されている。四国八十八ヶ所霊場においても江戸時代中 期に境内周辺に「茶堂」が建てられており、寛政12(1800)年の『四国遍礼名所図会』 には第58番仙遊寺、第59番国分寺(ともに愛媛県今治市)に茶堂とその中の茶釜も描か れている。また第50番札所繁多寺(松山市)については「繁多寺茶堂」と染付された近世 砥部焼の茶碗も石岡ひとみ氏によって確認されている。18世紀に四国遍路の隆盛とともに 茶の接待も盛んとなり、その影響もあって霊場(札所)や遍路道から遠い西予市山間部では 往来者も多い街道沿いにて茶の接待が定着した可能性がある。
4.論点と課題
ここでは愛媛県西予市山間部における「茶堂」の概要を紹介したが、今後、愛媛県 や四国のみならず中国地方、九州地方における類似する辻堂を比較し、三方吹き抜け構造の 辻堂の分布、地域差を紹介すると同時に、そこで行われる「茶」接待の事例を通して四国遍 路文化との関係、および中世以降の盆供養といった先祖供養展開史も絡めて検討し、「茶」を 用いた儀礼の様相を考察する必要がある。
【参考文献】
新城常三(1982)『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房 文化庁文化財保護部(1989)『民俗資料選集 16 茶堂の習俗』国土地理協会 喜代吉榮徳(1997)「遍路と茶の話―茶堂の発生について―」『四国辺路研究』第 12 号 愛媛県生涯学習センター(2005)『平成14年度遍路文化の学術整理報告書 遍路のこころ』 愛媛県美術館 長井健・石岡ひとみ編(2014)『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』四国へんろ
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