愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

古代の未知の南海地震? 延暦地震について

2015年08月29日 | 災害の歴史・伝承
岡山大学から平成24年4月17日付で「794年に発生した未知の巨大地震を確認」という内容のプレスリリースがありました。

https://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/soumu-pdf/press24/press-120417-7-1.pdf

そのプレスリリースの趣旨は、古代史学の今津勝紀先生が延暦13(794)年7月10日にこれまで知られていなかった地震が発生していたことを確認したというもので、先に述べたように古代の南海地震は天武13(684)年と仁和3(887)年が知られていて、その発生間隔は203年である。それが天武13年の白鳳南海地震と仁和3年の仁和南海地震のほぼ中間時期にあたる延暦13(794)年に未知の南海地震が発生していたことが『日本紀略』に記載されていると発表されたのです。この説は既に平成24年3月3日に奈良文化財研究所で開催された第28回条里制・古代都市研究会にて口頭報告されたものです。私もこの説は古代史関係の先生から教えていただき、注目していました。この延暦年間頃の六国史は『日本後紀』になりますが、全40巻のうち10巻のみか現存し、『国史大系』でも活字化されています。しかし残り30巻は欠けており、奈良時代末期から平安時代初期の歴史を紐解く上で障害となっています。絶対的に史料が少ないのです。ところがその後に六国史の記述を分類整理した『類聚国史』や略文を掲載した『日本紀略』には六国史の内容が踏襲、記載されており、『日本後紀』の欠けている各巻の条文がどのようなものであったのか、その概略のみですが推測できるのです。その『日本紀略』に延暦13年7月10日条に「宮中并びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」との記述があり、この年の九月にかけて連続して地震が発生していたことがわかったというのです。確かに延暦年間は地震の多発した時期でした。それは『類聚国史』を見てもわかります。四国の関連でいえば、この時期は讃岐国出身の弘法大師空海の青年期にあたり、昨年開催された愛媛県歴史文化博物館特別展「弘法大師空海展」の図録でも取り上げてみました。この弘法大師空海の青年期には、蝦夷との戦争、飢饉の頻発、長岡京や平安京への遷都の労役従事、そして地震の頻発と、庶民にとって4つの大きな苦難が重なり、若き空海は庶民の苦しみを済度するために、それまで学んでいた大学での儒教中心の学問ではなく、仏教を基礎とした山林修行に出る決意をしたのではないかと指摘をしました。この延暦13年の地震の震源については、プレスリリースによると、延暦15年に四国を一周していた南海道のうち、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)の海岸部を通っていた道路が廃止をされ、新道が使われるようになっており、これが延暦13年の地震による海岸線被害と関連する可能性を提示されています。この新説が本当に未知の南海地震であったのか、その検証もその後に行われています。代表的なのは雑誌『歴史地震』第29号(2014年発行)に掲載された石橋克彦氏「684年と887年の間に未知の南海トラフ地震があるか?」です。石橋氏は『日本紀略』の記述が「地震う」とか書かれていなくて単に「震」、「震死」のみであることを強調され、当時の史料では地震は「地震」と書かれるのが一般的であり、「震」と書かれる場合は雷や雷に打たれて死ぬことであるため、この『日本紀略』の記述自体、地震史料ではなく、落雷に関する史料であるとしています。そしてこの記事が『類聚国史』の災異部五・地震の項目に載っていない、つまり編者の菅原道真も地震の記事ととらえていなかったというのです。これが未知の南海地震と断定できるわけではない裏付けとされています。このように、白鳳南海地震から仁和南海地震まで203年の間隔がありますが、その中間時期の延暦13(794)年に南海地震が発生したかどうか、現在の研究では可能性が高いとはいえないという状況となっています。ただし、『類聚国史』を見てもわかるように延暦年間に地震が頻発している。これは京都中心の記述になりますから、畿内中心に西日本において地震活動が活発化していたといえるのです。それらの地震史料をもっと詳細に、一つ一つ検証する必要もあるのではないかと思ってしまいます。

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