愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「魚」の幼児語

2004年03月25日 | 口頭伝承

愛媛県内でも、地域によって「魚」を意味する幼児語が異なっている。おおまかにわけて、松山地方から南予にかけての人には「ジジ」が通じて、菊間町より東寄りになると、「ジジ」は通じなない。今治地方では「タイタイ」とか「トト」と呼ぶようだ。関東地方でも「トト」というらしく、魚型をしたお菓子「おとっと」の語源とも思える。
「ジジ」については、手もとにある『日本国語大辞典』(以下辞典)を見てみると、少しばかり、関連しそうな記述があった。面白いテーマなので、簡単にまとめて見た。辞典によると、物が焼けるかすかな音を表す語。これに類する方言で、熊本県球磨郡五木では、魚を焼くことを「じじしてあげる」という。さらには、焼き魚自体を「ジジ」という事例が、同じ五木や、肥後菊池にある。魚肉を「ジジ」というのは、山口県豊浦郡、愛媛県松山、福岡県企救郡、熊本県芦北郡、宮崎県延岡にある。比較的九州に近いところに分布しているので、愛媛でも松山以西(中予・南予)で聞くことができるのも頷ける。
つまり、「ジジ」の発展過程は、①魚を焼く音としての「ジジ」→②焼いた魚を表す言葉としての「ジジ」→③魚全般を表す言葉としての「ジジ」、といえるだろう。
次に、「タイタイ」であるが、辞典によると、魚の幼児語。広島県比婆郡、山口県、大分県の方言だという。また、「タイタイ」は、もともと、幼児が両手を重ねて物を請う時に言う語、また、幼児に向かって物をくれるように言う語という。この事例は『本朝廿四孝』や『松翁道話』などの江戸時代の文献にも見えるようだ。また、幼児が両手を重ねて物を請うこと自体を「タイタイ」という事例が、江戸時代の俳諧書の『続山の井』に見える(「餅つつじたいたいするやわらべの手」)。
「タイタイ」は方言としては、青森県三戸郡、上方、岐阜県郡上郡、名古屋、徳島県、香川県、愛媛県、高知県にあり、類語で「てえてえ」が宮城県仙台にある。このようなことから、語源としては、タベタベ(給え給え)の義もしくは、「戴々」の字音かと推察できる。そこから、魚が餌を欲しがる様と、子供が物をねだる様を同じと見て、魚を「タイタイ」と呼ぶようになったのではないだろうか。決して代表的な魚である「鯛」からきた「鯛々」が語源ではないと思う。
つまり、「タイタイ」の発展過程は、①子供が物を欲しがる(給え給え)→②その様子は魚が餌を欲しがる様子とダブる。→③「魚」自体を「タイタイ」と呼ぶようになる、ということではないだろうか。
次に「トト」である。辞典によると、魚をいう幼児語、女房詞とある。狂言本の『腰折』に、「ととをくれうならば、はがわるいほどに、ほねはいや、みばかりくれいと云」とあるように、江戸時代には既に「トト」と呼んでいたようだ。元禄5年成立の『女重宝記』に「うをは、とと」とある(魚を「トト」と呼ぶ意味)。室町時代の辞書である『節用集』には、「斗斗 トト 倭国小児女、魚を呼びて斗斗と曰ふ。類節に云く、南朝、食を呼んで頭となす。魚を呼びて斗となす。此れ本や。」とある。室町時代には既に「トト」に関して、このような説明があるが、語源の詳細については、不明としか言いようがない。

2004年03月25日


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タンポポの俗信

2004年03月24日 | 口頭伝承

愛媛で聞くことのできる俗信「ミミツブシ:タンポポの綿毛が耳に入ると耳が聞こえなくなる」を考えてみた。
 そもそも「タンポポ」については、文明本節用集に「蒲公草 タンホホ」とあったり、日葡辞書に「Tnpopo」とあるように、中世には既に「タンポポ」と呼ばれていたことがわかる。江戸時代の和漢三才図会に「蒲公英 和名不知奈、一云太奈、俗云太牟保々」とあり、正式には「蒲公英(ホコウエイ)」と呼ばれ、日本名として「不知奈(=藤奈)」、「太奈(=田菜:田んぼに生える草の意?)」があり、その俗的な言い方として「太牟保々(たんぽぽ)」と呼んでいた。なお、漢方では「蒲公英」は、解熱、健胃薬であり、食されていたようである。
 タンポポの語源は、大言海によると、「タン」は「タナ(田菜)」の転で、「ホホ」は綿がほほけていることからだというが、柳田国男『野草雑記』(定本22集)によると、タンポポの方言にツヅミクサ(鼓草)があり、鼓の音を擬したものではないかという。
 さて、「ミミツブシ」であるが、本草綱目啓蒙によると「馬勃<略>ほこりたけ、みみつぶれ、みみつぶし 讃州」とあり、キノコ科の「埃茸」のことを「みみつぶし」といっている。必ずしもタンポポの方言だけでないことがわかるが、さらに調べてみると、キク科の多年草であり、タンポポに似た植物である「ジシバリ」のことを「ミミツブシ」という事例が愛媛県重信町にある(『日本国語大辞典』より)。類例として、タンポポの方言に「ミミツンボ」というところが大分市にあるが、同じく重信町や周桑郡では「ジシバリ」のことを「ミミツンボ」という。また、柳田『野草雑記』によると、福井市ではススキの穂を「ミミツンボ」という(以上『日本国語大辞典』)。
 なお、タンポポ、ジシバリを食べたり、綿毛が耳に入ると聞こえなくなるという文献や事例は、私の手元の一次資料では確認できない。
 そもそも耳に異物が入ることは歓迎すべき事ではないが、綿毛が外耳に入ったところで、即、耳が聞こえなくなるとは考えにくい。また、耳元で吹いたとしても、押し込まない限り、耳に入るとも考えにくい。医学的にはタンポポの綿毛が耳に入って鼓膜につくと耳閉感(耳がつまった感じ。高所での耳詰まり感のこと)になるらしいが、過去の文献や各地の方言を見ていくと、耳が聞こえなくなるという俗信は、「タンポポ」の語源が鼓の音に由来していることと、何か関係しているのではないだろうか。
なお、『日本民俗大辞典』下633頁によると、今も利用されている民間薬としても「蒲公英(タンポポ)」が「健胃、利尿、催乳」の効能があるとして紹介されている。

2004年03月24日

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アメリカ移民の先駆者・西井久八

2004年03月23日 | 地域史

アメリカ西海岸の日本人社会では、八幡浜市を中心とした近隣の出身者が多数活躍しています。『八幡浜市誌』によると、この地方の出身者の2~4世を合わせると実に1万人近くにもなるといいます。
このように八幡浜地方からの出身者が際立って多いのは、アメリカ移民の先駆者で、「日本移民のパパさん」と呼ばれた、西井久八の絶大な影響であるといわれています。
西井久八は、安政3(1856)年8月、現在の八幡浜市向灘に生まれ、明治8(1875)年、海外への渡航を夢見て、九州、更には横浜へ行き、外国船の水夫として働き、明治11年、22歳の時にアメリカへ向けて出航しました。
日本を出たあと、香港・シンガポールを経てヨーロッパに到着し、6ヶ月かかって米国オレゴン州ポートランドに上陸しました。それまで日本人にとって未到の地であった場所で、一生懸命に働き、シアトルやタコマで、日本人初の経営となる「スター洋食店」を開きました。更に農場経営やその他数々の事業に成功し、一躍、大実業家となりました。そして在留日本人の事業活動を積極的に援助・指導し、アメリカにおける日本人社会は目覚しい発展を遂げました。
成功者となった久八は明治22年に、妻を迎えるために日本に帰国し、「みよ」と結婚しました。そして八幡浜の若者達に、アメリカの将来の有望性を説き、数名を同行して帰りました。久八の成功談は近隣の村々に広がり若者達の夢を盛り上げました。また、地元の小学校などの教育機関に多額の寄付をするなど、郷里の後進を育成するための努力を惜しみませんでした。
ところが、日本からの移民を積極的に受入れていたアメリカでは、大陸横断鉄道の事業が一段落つくと、失業者が急増し、熱心な働き手の多かった日本人を排斥する運動が広がりました。ついには、明治41年に「日米移民紳士協約」が成立して、日本からアメリカへの渡航は困難となってしまいました。
しかし、久八の成功談の伝わっていた八幡浜では、正規の渡航とは別に、密航によりアメリカを目指す若者も後を絶ちませんでした。大正2(1913)年には、真穴地区の若者15人がアメリカに向けて地元を出港しました。彼らは長さ約15メートル、重さ50トンの打瀬船に乗り、北針(きたばり)と呼ばれる木枠の磁石を頼りに、伊豆大島から海流に乗って、危険な航海に出ましたが、出航から58日目、ついに憧れの地、アメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着しました。距離にして1万キロの移動でした。数日後、一行は密航者として日本へ強制送還されましたが、わずか50トンの小船で太平洋を横断し、勇躍新天地へと向かった15人の行動は、全米の新聞に「コロンブスのアメリカ発見にもあるまじき奇蹟なり」と報道されました。また、そのことは八幡浜の人達にも勇気を与え、翌年、翌々年と夢を求める多くの若人たちが航海に挑んだといいます。そして、現実にアメリカで一旗揚げる者もかなりの数に上ったそうです。この話は「北針物語」として、八幡浜市民の間で語り継がれています。
このように、西井久八に始まる八幡浜のアメリカ移民の歴史は、この地方の人たちが持っていた進取の気性をあらわしているといえます。
(出典)村川庸子『アメリカの風が吹いた村』(愛媛県文化振興財団、昭和62年)
(参考文献)『愛媛県史人物編』(愛媛県、1989年)

2004年03月23日

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義農作兵衛

2004年03月23日 | 生産生業

作兵衛(さくべえ)は、元禄元(1688)年、伊予国松山藩筒井村(現松前町)の貧しい農家に生まれました。少年の頃より昼は田畑を耕し、夜は遅くまで草鞋を作るなど、昼夜一心に働いて、村の人は作兵衛を若い者の手本だと思っていました。
そのうち、家の暮らしも次第に楽になり、地味が悪いながらも少しばかりの田地を買うことができました。作兵衛は勇んで村役人のところへ行って、買った田地の所有手続きをしました。村役人は作兵衛の買った田地が、地味の悪い痩せた土地なので、収穫は少ないだろうと考え、税を納めさせるのは気の毒に思いました。しかし作兵衛は「どんな土地でも苦労して一生懸命に耕せば、必ず良い田地に仕上がり、多くの米を収穫することができるはずです。」と言いました。作兵衛は前にもまして農作業に精を出し、実際に良い田地に仕上げ、多くの収穫を得ました。痩せた土地を数年で見事な田地に変えたのです。その上に、他にも良い田地をたくさん買うことができました。
さて、享保17(1732)年、松山藩は大変な飢饉(ききん)に見舞われました。長雨と洪水につづいて、ウンカという害虫の発生がものすごく、稲をはじめ雑草まで食い荒らす有様で、米の収穫はごくわずかでした。農民たちはわずかに蓄えていた雑穀、くず根、ぬか類を食べて、飢えをしのいでいましたが、それさえもなくなり、餓死する者が数え切れないほど出てきました。
9月に入り、次第に涼しくなって麦をまく季節がやってきました。飢饉のため、田畑を捨てて離散する者も多かったのですが、作兵衛は、飢えの中、倒れそうになる体をふるいおこし、麦畑に出て、耕作をはじめました。けれども、あまりの飢えと疲労のため、その場に倒れてしまいました。近所の人に助けられ、ようやく家に帰ることはできましたが、起きあがることができなくなり、麦俵を枕にして寝込んでしまいました。
 このみじめな有様を見た近隣の人々は、その俵の麦を食べ、命を長らえるようにすすめました。すると作兵衛は「穀物の種子を播いて収穫を得て、租税として納めるのは民の務めである。これにより国の人々は生活ができるのである。しからば、穀物の種子は、自分の命に以上に貴重なものなのだ。民は国の基本であって、種子は農事の基本である。今もし、私一人がこの麦種を食して、数日の生命をつなぎ得たとしても、来年の麦種をどこから得ることができるであろうか。わが身はたとえ、ここに餓死すとも、この麦種によって幾万人かの生命を全うすることは、もとより私の願うところである。」と告げて、不帰の客となりました。享保17年9月23日のことで、全国的な「享保の大飢饉」の真っ只中の出来事でした。
 翌年、村の人々は作兵衛の残した種麦を、一粒一粒祈りを込めながら播いていきました。この話を伝え聞いた松山藩は年貢を免除し、村人は飢饉の苦しみから脱することができました。
そして作兵衛の死後44年を経て、安永5(1776)年に、松山藩主松平定静は、彼の功績を後世に伝えるため、碑文入りの墓石を建立しました。その後も作兵衛の尊い犠牲の精神は人々に語り継がれ、明治14(1881)年には、伊予郡の人々が作兵衛の祀る「義農神社」をつくり、その世話をする「義農会」もできました。種麦を枕に死んでいった作兵衛の銅像も建てられ、毎年4月23日にはそこで地元の人たちが義農祭を行っています。
(出  典)森恒太郎『義農作兵衛』(内外出版協会、明治42年)
(参考文献)『松前町誌』(松前町役場、昭和54年)
『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(追記)作兵衛といえば、種麦を残して餓死した逸話がクローズアップされているが、戦前の修身の教科書に取り上げられてるのは、種麦の話ではなく、本文前段に取り上げている、痩せた土地を懸命に耕して見事な田地に変え、多くの税を納めることができたという話が中心である。義農作兵衛の逸話の趣旨が時代とともに変わっていることも興味深い点である。

2004年03月23日

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いも地蔵-下見吉十郎の旅-

2004年03月23日 | 生産生業

「いも地蔵」は、江戸時代に甘藷(さつまいも)を瀬戸内海の島々に伝えた功労者である下見(あさみ)吉十郎(1673~1755年)を祀った、石造の地蔵菩薩像です。現在、越智郡上浦町瀬戸の向雲寺(こううんじ)境内にあり、台石の左面には「下見吉十郎」の文字が刻まれています。
 この吉十郎は、瀬戸村の生まれで、先祖は名族河野氏の出と言われています。吉十郎には妻と2男2女の4人の子供がいましたが、全員、早死にしてしまいました。嘆き悲しんだ吉十郎は、正徳元年(1711)、37歳の時に、六十六部廻国行者となって日本全国を回国行脚の旅に出ました。六十六部廻国行者とは、書き写した法華経を全国66ヶ所の寺院などの霊場に、一部ずつ納めて回る巡礼者のことです。
瀬戸村から旅立った吉十郎は、広島の尾道を経て、京都、大坂方面をまわり、九州に下りました。同年11月22日に、薩摩国(現鹿児島県)日置郡伊集院村を訪れ、そこで、土兵衛という百姓の家に宿泊させてもらいました。その際、薩摩地方で栽培されている甘藷をご馳走になりました。薩摩ではこの芋のことを琉球(沖縄)方面から伝わったとして「琉球芋」と呼ばれていました。土兵衛からは、甘藷は栽培方法が簡単で、主食にもなり、しかも悪い土壌でも育つので飢餓に耐えることのできるものであることを教えてもらいました。
吉十郎の故郷である瀬戸内海の島々は、平地が少なく、ひとたび水不足や洪水があると作物のあまり穫れなくなる所だったので、土兵衛に、ぜひこの甘藷の種芋を分けてほしいと願い出ました。食糧不足で悩む瀬戸内海の島々でこの甘藷を栽培することができれば、飢餓に苦しむこともなくなると考えたのです。
ところが、薩摩藩では甘藷を国外へ持ち出すことは、かたく禁止されていました。もし見つかってしまうと重い刑罰をうけなければならなかったのです。土兵衛には断られましたが、吉十郎は危険を覚悟で、ひそかに種芋を故郷に持ち帰える決心をし、種芋を携えて無事帰郷することができました。
翌年の春を待って種芋を植え、試しに苗を作ってみました。最初は、収穫があるかどうか、村人も半信半疑でしたが、やがて秋になると甘藷は豊作で、村人は大変喜びました。
こうして瀬戸村からはじまった甘藷栽培は、瀬戸内海の島々に広がっていき、農民はこれによって幾多の干害を切り抜けることができました。なかでも、享保17年(1732)に西日本でおこった大飢饉の際、松山藩では多くの餓死者が出たと伝えられていますが、この地方では、ほとんど餓死者を出すことはありませんでした。吉十郎の持ち帰った甘藷が人々を救ったのです。
後に、江戸幕府は、青木昆陽が江戸の小石川薬園で甘藷を栽培した後、幕府は飢饉の対策として、全国に甘藷の栽培を奨励しました。薩摩で「琉球芋」と呼ばれていた甘藷は、こうして全国に広まり「薩摩芋」と呼ばれるようになり、人々を飢饉から救いました。
吉十郎は80歳で亡くなりましたが、死後、瀬戸村の向雲寺に葬られました。この寺では、彼の業績を追慕して「いも地蔵」がつくられ、毎年命日の旧暦9月1日には供養祭「いも地蔵祭り」が営まれています。
(出典)『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(参考文献)木村三千人『さつまいも史話』(創風出版社、平成11年)
(追記)以上のいも地蔵・作兵衛・アメリカ移民の3話は、『伝えたいふるさとの100話』(地域活性化センター発行)の掲載候補として執筆・提出した文章である。このうち、いも地蔵・作兵衛が100話に選定された。文章はリライトされて掲載されているので、ここでは提出文を原文のまま掲載した。

2004年03月23日

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庚申庵と庚申信仰

2004年03月18日 | 信仰・宗教

先日、NPO法人庚申庵倶楽部(松山市味酒町)の会員になった。1月下旬に松山での地域づくりフォーラムにて、庚申庵倶楽部理事長の松井先生や、事務局田所氏のお話を聞く機会があり、NPO法人として文化財の保護・活用に取り組む姿勢に共感できたので、即、入会を決めた。
その後、庚申庵に関する書籍である『庚申庵へのいざない』(アトラス出版、以下『いざなない』)を読んで、さらに「庚申庵」に興味を持った。私の調査テーマである「愛媛県内の信仰・儀礼伝承の民俗学的研究」に関連する「庚申信仰」と絡んできたからである。『いざない』に紹介されている栗田樗堂「庚申庵記」(文化2年成立)に見える庵名の由来記事を読むと、①寛政庚申年に立てられた。②かつて近くに青面金剛が安置されていた。③この付近を村の老人は「古庚申」と呼んでいる。以上のことが明確になるが、私は②、③に特に興味を惹かれる。
『いざない』によると、「古庚申」の注記に「松山市味酒町二丁目三番六号付近にあった」とあるが、①ここに庚申堂があったのか、それとも庚申塔があったのみなのか、②祀られていたのは庚申の木像なのか、それとも単に石造物なのか。③祀り手の主体は、味酒の住民(講組織)だったのか、それとも僧侶・山伏などの宗教者だったのか、いずれ現地に行って調べてみたい事項である。
「庚申庵記」の記述からすると、「古庚申」は地名であり、「古」がつくということは、1800年頃には既に庚申堂(もしくは像)が移転して「新庚申」が存在していたことになる。この1800年頃にあったと思われる「新庚申」と、現況の「路傍に小さな石像と、『庚申』と記した小さな石碑がある。現在の庚申堂は、この場所から60メートルほど南にある集会所の敷地内に、神式で祭られている」(注記)とが、どう繋がるのか知りたいところである。現在「神式」で祀られているということは、明治初期の神仏分離や廃仏毀釈、修験道廃止により、それまでの「庚申」の祀り手・祀り方に変化があったことは間違いなく、明治初期以降の「庚申」は、いわば「新々庚申」なのではないかと思うのである。
また、1800年頃の古老が「古庚申」と呼んでいる(若い人は呼んでいなかった?)ことから、「新庚申」への移転は、その1世代前(約30年)以前と推測すれば、18世紀半ば以前ということになる。
味酒の庚申信仰の形態を時代で区分すると次のようになるのではないかと、勝手に考えてみた。

第1期:18世紀半ば以前=「古庚申」=庚申信仰の「起」<祀り手の主体は、僧侶(もしくは山伏)であり、庶民の講組織は未成熟だった。>

第2期:~明治時代初期=<新庚申>=庚申信仰の「承」<祀り手の主体は、住民による講組織であり(庚申講の成立を契機に移転?)、それに僧侶(もしくは山伏)が関与していた。>

第3期:~昭和30年代(←勝手な推測です。)=庚申信仰の「転」<祀り手の主体は、住民による講組織であることは変わりないが、神仏分離や廃仏毀釈運動の影響により、祀り方は神式になった。>

第4期:~現在=庚申信仰の「結」<講組織も機能しなくなり(庚申講が開かれなくなる)、庚申像のみ安置される。(もしくは神官による祭りが細々と行なわれる。)>

以上の時代区分の推測が、もし証明できれば、庚申信仰の歴史を考える上で貴重な事例になると思う。(私の勝手な解釈なので、調査すればすぐに瓦解するかもしれませんが・・・。)時間ができれば、ゆっくり味酒のお年寄りに話を聞いたり、庚申像の現地見学ができればと考えている。

2004年03月18日


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