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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

水軍の帰農伝承

2001年03月31日 | 口頭伝承
 生名村には戦国時代に水軍が入島し、帰農したという伝承がのこっている。入島した家のことを地元では「七軒株」と呼んでおり、今回、これについて現地調査を実施した。
これまで生名七軒株については、『伊予水軍関係資料調査報告書』に既に報告されている。その記述内容は次の通りである。
家名・入島年代・系統・屋号・字
久保・天正13・河野氏・久保屋・久保の谷
上村・同上・同上・伊予屋・同上
村上・慶長5、秋・因島村上氏・水地・中の谷
村上・同上・同上・空屋・岡庄
岡本・同上・同上・片平・岡庄
山本・同上・同上・白木屋・中後
大本・同上・同上・こうじゅう屋・尾又
池本・同上・同上・小田本屋・中の谷
このほかに、前田、田尾の二軒が古いが、不明
以上のように紹介されている。
今回聞き取りしたところでは、地元では、村上は水地が総本家であるといわれ、現在で16代目である。この村上(水地)が入島する時に、家臣としてついてきたのが、名字に「本」がつく家(岡本、山本、大本、池本)である。
村上(水地)は、はじめ正福寺の上にある大日堂の近くに居を構え、その周囲に「本」の付く姓の者も住んだといわれる。現在、残っている池本家の墓石には「慶長五年能島村上水軍ノ部将タリシ祖先、此ノ地ニ移住帰農シ代々村役人ヲ勤メタリシ謂フ、屋号ヲ小田本屋ト称ス」とあり、根強い伝承が残っているようだ。
生名村の村上一族が作成した「生名村上氏族勢一覧」によると、「初代、村上次郎太夫、慶長5(1600)年、能島村上武慶ら毛利輝元に従ひて長州萩に移りし時、七家臣と共に生名島に来住し、岡庄の台上(大日堂あり)に居を構え、帰農せり。元和2(1616)八和田八幡宮建立、寛永6(1629)年没」、「水地2代 村上助太夫、慶長5(1600)年、因島村上家11代元充、因島村上の族長として毛利輝元に従ひて萩に移るとき、その一族太夫、幼少にして、因島中庄に居住しあり。生名島次郎太夫嗣子なきため、その養嗣子となる。生名島を支配。大日堂建立 寛文9(1662)、正福寺建立 延宝元年(1673)」と記されており、村上および「本」の付く姓はもともと能島村上氏の系統であり、二代目に因島村上氏から養子をとったようだ。
なお、この村上水軍以外の系統として、河野水軍の系統といわれる久保、上村姓がある。これらは、村上氏が入島する前から居住していたようである。
以上の久保、上村、村上、岡本、池本、大本、山本をもって「生名七軒株」と呼んでいるようだ。
ただし、この七軒株では、年中行事として先祖祭りを行っているかどうか聞き取りしてみたが、それは確認できなかった。
ともあれ、戦国時代の水軍の帰農伝承としては、情報が豊富な事例であり、貴重であるといえるだろう。

2001年03月31日

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新宮村の「縄文的文化」

2001年03月30日 | 生産生業
 最近、四国山地の各所を重点的に歩いている。3月16日には上浮穴郡面河村相ノ木に出向いてトチの実をアク抜きして実食していた食文化について聞き取りを行った。地元ではトチモチといっており、縄文時代の遺物からも推定されているドングリ類の食文化との繋がりを視野に入れながら、調査をしている次第である。
 そして3月21日には宇摩郡新宮村に出向いた。そこでは、稗や蕎麦、救荒作物としての彼岸花、カシの実など様々な情報を得ることができた。これらを直接的に縄文文化に繋げることはできないが、縄文時代から連綿と続くであろう「縄文的文化」としてとらえ、以下紹介してみたい。(ただし、玉蜀黍や唐芋など歴史時代に入ってからの作物もあるが、これも併せて紹介しておく。)
内容は『新宮村誌』の記述および、その補足として聞き取りしたものである。

主食
 主食糧は、唐芋・蕎麦・稗・玉蜀黍・粟・黍・麦などで、それらのものを唐臼や水車で搗いたり、石臼でひいたりして、粉・団子・餅・雑炊・粥などにして食べることが多かった。
 米を食べるようになったのはずいぶん後のことであり、それも少しだけそれらに混ぜて食べるくらいだった。米食だけになったのは少し前のことである。
<唐芋>
 唐芋は干魃にも強く、以前は農家の主食だった。唐芋を輪切りにして乾燥したものをシラボシといい、それを唐臼で搗いて細かくなったものを、石臼でひいた粉をお茶で練って食べる。唐芋を輪切りにしたものに穴をあけ、藁を通して茹でて干すとカンコロができる。カンコロはそのまま食べることもできるが、小豆と混ぜて炊いて食べることもある。
<里芋>
 里芋は茹でてそのまま食べたり、野菜や穀類と混ぜて炊いて食べる。たくさん茹でて残ったものをアジカ籠に入れておき、必要なときに食べる。
 芋類はイモツボに保管する。土間から茶の間の地下に向けて需要量に応じた深さ、広さの穴を掘る。唐芋と里芋は別々に保管する。底と側面を藁で囲って芋が直接土に触れないようにする。畑で掘った唐芋・里芋を選別して隙間のないよう詰め込み、唐芋は上に籾殻を30㎝くらいの厚さで覆い、里芋は古筵をかける。そうすれば腐らないで長期間保存できる。
<稗>
 稗は蒸すと先端が開くので、それを乾燥してから臼で搗き、麦を少し混ぜて炊く。または粉にひいたものを炒って、お茶で練って食べる。
<蕎麦>
 蕎麦は実を粉にして熱い湯で練ったり、団子にしたり、あるいは野菜と混ぜてソバ雑炊にした。
<玉蜀黍>
 玉蜀黍は焼いたり炊いたりして食べる。又は乾燥したものを砕き、それを粉にして麦や小豆をまぜて炊くのをトウキビメシという。<粟・黍>
 粟や黍の「もち性」のものは搗いて餅にした。また、野菜や麦と混ぜて炊いたりしても食べた。
<麦>
 麦は常畑で栽培され、米が主食になるまでは麦が主食だった。
 裸麦を唐臼でつくと丸麦ができる。それを洗って釜に入れ、倍量の水に長時間浸しておき、それから炊き込む。しばらく沸騰させて二、三時間蒸したものを「ヨマシ」という。「ヨマシ」を釜の底からかき混ぜて水と少量の米を加えて炊き、沸騰したら薪を取り除き、オキでよく蒸すと麦飯ができる。
 麦を石臼などでひいて野菜と混ぜて炊いて食べたりもした。
<動物性蛋白質>
 動物性蛋白質は山野にいる動物や川魚から摂取していた。
 山にいるイノシシ・ウサギ・キジなどは鉄砲や罠を仕掛けて捕っていた。
 川にはアメゴ・イダ・ウナギ・シハライ・クグ・フナ・コイなどがいた。
 「ハレ」の日の正月や盆に塩気のきいた鯖(サバ)・鰺(アジ)のほかに干した鱈やスボシを行商人から買うようになったのは戦後ずいぶん経ってからであり、無塩の魚を食べるようになったのは、つい最近のことである。
<餅無しの正月>
 新宮村には正月餅を搗かない家がある。
 新瀬川の某家:正月に餅を搗かない。雑煮は米粉団子に里芋をいれたものである。十五日のしめはやしが終わってから餅を搗く。
 田之内の某家:正月に餅を搗かない。借金を取りにきた女を騙して風呂で蒸し殺した祟りで、餅を搗こうとすると蒸籠に梟がとまって動けないので餅が搗けない。正月十一日の蔵開きが終わるまでは餅を搗かない。
 大窪の某家:ある年の大晦日に某家で大喧嘩があって中に迷惑をかけたので、の申し合わせにより、正月十五日まで餅をついてはならない、また酒を正月中用いてはならないと申し渡された。
<山菜>
 ワラビ・ゼンマイ・芹・蕗・筍・ウド・タラノメ・茗荷などをおかずにした。
 余ったものは漬物・日干し・佃煮にして保存した。
<救荒作物>
 享保六年(一七二一)に記された『新宮村明細帳』に「男女作間の稼ハくずわらび堀飯米ニ仕候」とある。
 飢饉の年には、椎の実、樫の実、とちの実などの木の実や、野草、ひがん花の球根からとれる澱粉まで食した。
 西横野、脇氏所蔵文書によると、天保八年(一八三八)四月、「数珠花トモ言其根ヲ白イモト言ナリ、是ヲ前里金川領家辺ヨリ当村ヘ持来致シ洗ヒ芋ニテ一升ニ付一二文ヨリ一四文ナリ 其外樫ノ実ナラノ実葛コビ野ソバト言木ノ葉ヲ粉ニシ其余色々ノ物ヲ食スナリ」(葛コは葛の根からとった澱粉)
 明治二二年一月九日付け 上山村戸長役場から各組長あてに出した文書「去ル明治廿年以来儲蓄セル稗石数届出之儀ハ毎年十二月三十一日限リ之処今ニ何等届出デザルニ就テハ儲蓄法ノ破レタル義ト候哉 而ラザレバ儲蓄ノ石数直チニ届出ヅベシ」これを見ると、明治の中ごろまで、飢饉に備えて各農家に稗の蓄えを命じ、毎年年末にその量を報告させていたようである。
<彼岸花球根食>
 救荒作物の一つに彼岸花の球根がある。
 有毒成分アルカイドが含まれており、これを十分除かなければならない。
 球根採取:四月から八月ごろまで、花の咲くまでが澱粉量が多い。
 澱粉採取の過程:堀取った球根を水洗いしたあとヒゲ根と茎を切る。
 するつぶすか臼で突き砕き、バケツ等容器に入れて澱粉が流れない程度に水をかけて流して三ないし四日間さらす。
 五日目くらいに全部を木綿袋等に入れ、水中でもみほぐして澱粉を漉し出す。
 更に一日か二日水にさらしてから上水をとり、沈殿した澱粉を採取する。
 採取した澱粉はもち状にして、ほうろくか鉄板上で焼き、みそなどをつけ食した。
 あく抜き法には、球根を煮てからすりつぶす方法もあり、この場合二日程度短縮される。
 また、煮る時に灰汁を入れて煮ると、更に一日くらい短縮される。
<樫(カシ)の実食>
 そのままでは渋くて食べられない。
 種子採取:十月下旬ごろ落果したのを拾い集める。木についている実は渋が抜けにくい。 二日、三日から一週間天日干しをするか、三日四日水浸して虫を殺してから一週間くらい天日干しをして保存する。
澱粉採取:保存していた実を二・三日天日干しをすると荒皮が割れ易くなる。平らな台石の上で平石等で押しころがして荒皮を除くか、踏臼(だいがら)で突き砕いて荒皮を除く。
より分けた実を石臼でひくが、だいがらで突き砕いて細粒にする。粒を木綿袋に入れ、容器を入れて五日間くらい流水でさらす。渋が抜けたら水を切り、石臼ですりつぶし、木綿袋に入れて、水を入れた容器の中でもみ出し、澱粉を沈殿させる。水は茶褐色になるが、無色になるまで水を取り替える。
 さらした澱粉を鍋に入れ、弱火でゆっくり煮詰める。ゆっくりしたたり落ちる程度に煮詰まったら型に流し込み、自然にさます。固まったものは水中で、毎日数回水を取り替えると一週間くらいは保存ができる。
 食べるときは適当に切り、単に醤油をかけるか、ユズ味噌のタレなどをつけて食する。
<焼畑>
 新宮村では遅くまで焼畑が行われていた。蕎麦や稗や粟は山を焼いたあとにつくった。
 山を焼いたあとに作物をつくることを焼畑又は切替畑という。
 山を焼く場合、下草を刈り、木の枝を伐る作業をする。木を伐るときは依代となる木に「おりかけだる」(竹で作った樽二個が外皮でつながっている)に入れたお神酒を捧げ、山の神に祈る。そして何日か乾燥させて燃えやすい状態にしておく。
 畑の上部と両側に延焼防止のための防火線「ヒミチ」をつくる。「ヒミチ」は周囲に延焼しないくらいの幅であり、草や木などの可燃物を取り払い、畑の外へ火が移ることを防ぐ。
 火入れは風のない日を選んで行われる。このときも山の神に火入れをする許しを請い、山に住む生き物が早く逃げるように唱え言を言う。祈りがすむと、上から火をつけて、時間をかけてだんだんと下へ下へと焼いてくる。そうすればきれいに焼けて危険も少ない。下から火をつけると、いっきに燃え上がるので燃え残りも多く、延焼しやすい。それよりも気をつけなければならないのは、上のほうにいると煙や炎に包まれる危険がある。上から火をつけて焼いても燃え残りができるので、こんどはそれらを集めて燃やした。
 山を焼いてから何日かして雨が降ったあとに種を播いたり、植え付けをしたりした。
 山焼きをしたあと、一年目は蕎麦や稗をつくる。
 蕎麦は七月に焼いて八月に播けば七五日でできる。
 稗は春の三月か四月に焼いて植え付けをし、秋に収穫する。あるいは蕎麦の二年目につくる。
 稗のあとは小豆や大豆、そして粟をつくった。
 その場所で四、五年作物をつくると地力を回復させるために休耕地として他の場所に移る。

2001年03月30日

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方言「おちょっぽ」

2001年03月29日 | 八幡浜民俗誌
方言「おちょっぽ」

 郷里を離れると、誰しも自分の方言を意識してしまう。普段何気に使っていた言葉が地元を離れると通じないことを発見し、驚きを感じるのだ。私の場合、高校を卒業して郷里を離れ、東京で大学生活を送る際に愛媛の方言を再認識させられたが、就職して愛媛に戻った後、愛媛県内各地の出身者と交流する中で、愛媛の中でも八幡浜出身者にしか通じない方言が多いことも発見させられた。その方言の代表的なものを挙げてみると、「にやす」、「ぞぶる」、「ひなち」、「つべ」、「おちょっぽ」というところであろうか。これらは八幡浜とその周辺でのみ通じる言葉である。簡単に意味を説明すると、「にやす」は、なぐるという意味であるが、それよりもニュアンス的には強く、打ちのめすといった感じである。「ぞぶる」は「どぶる」とも言い、川の水に入ることを意味する。「ひなち」は日、期日、日どりの意味で「日にち」が訛ったものである。「つべ」はお尻のことで、運動会の競争で最後の者をビリとは言わずに「つべ」と呼んでいた。ただし、日本国語大辞典によると、これは四国各地で聞くことのできる方言だということである。
 さて、八幡浜人にしか通じない究極の方言は「おちょっぽ」ではないだろうか。これは正座することを意味し、家では親に、そして学校では先生に叱られると「おちょぽしなさい!」とよく言われたものである。東宇和郡城川町にてこれを使用する例を確認している以外、八幡浜、西宇和郡以外では類例を知らない。「おちょっぽ」に類する方言としては、温泉郡重信町に「おちゃん」という言い方がある。これは今ではかなり高齢の人しか使っていない言葉であるが、語源については不明である。
 さて、南予地方には正座することを、「おつくなみ」とか「おつくやみ」と言う地域がある。これも今では高齢の方のみが使用する方言であるが、伊方町九町越では「おつくなみ」、北宇和郡三間町音地では「おつくやみ」という。同じ正座を意味する「おちょっぽ」よりも格式ばった言い方だということである。この方言の語源は「つぐなむ」という古語で、身をかがめるとか、しゃがむといったもともとの意味があり、これが現在では中国、四国地方に方言として残っている。高知県では「きちんとすわる」の意味で「つぐなむ」という方言が使われている。推測の域を出ないが、八幡浜の方言「おちょっぽ」は「おつくなみ」を砕けさせた言い方なのではないだろうか。「おつく」プラス「っぽ」が訛って「おちょっぽ」になるといった具合である。つまり、かつては正座の方言には丁寧語の「おつくなみ」、日常語の「おちょっぽ」の二種類が存在していたものの、「おつくなみ」は次第に使われなくなり、「おちょっぽ」のみが現在残ってしまったと言えるのではないだろうか。

2001/03/29 南海日日新聞掲載

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彼岸と社日

2001年03月22日 | 八幡浜民俗誌
彼岸と社日

 春分、秋分を中日として、それぞれ前後の三日ずつをあわせた七日間を彼岸という。彼岸はもともとは仏典に出てくる「波羅蜜多」の訳語で、「到彼岸」と書き、涅槃の世界に到達する、つまり悟りの境地に達することを意味している。この彼岸の期間には、寺院において法会が行われることが多いが、これは日本独自のものであって、中国やインドには見られない行事である。彼岸に関する民俗としては、この期間に墓参をするというのが一般的である。彼岸に入ると家族揃って先祖の墓参りをし、墓地の清掃をしてシキミなどの「花」を生け替える。そして茶碗に水をそそぎ、米を供え、線香をあげて供養をするのである。
 また、彼岸の頃には農事との関わりの深い行事も行われる。例えば、伊方町九町では、彼岸の吉日を選び、農作物を守るために、うさぎ狩りやいのしし狩りを行っていたという。瀬戸町塩成でも行われていて、これを山狩りと言っていた。また、九町では、地区の者が大勢で農道の整備をする「道つくり」も彼岸の行事であった。彼岸は、季節の変わり目であり、農事上での目安になっていたのである。
 ただし、農事上の目安は彼岸ではなく、「オシャンニチ」であったとする地区も多い。「オシャンニチ」は「お社日」のことで、暦の上では、年に二回あり、春分、秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日のことである。たいていは、社日は彼岸の七日の間に来るので、彼岸と社日の習俗が混交したのであろう。社日に関する習俗の事例を挙げてみると、八幡浜市穴井では、オシャンニチに「虫祈祷」が行われる。地区の者が寺に集まり、念仏を繰り返し唱え、札を貰い、これを竹に挟んで畑に立てるのである。そうすると、虫害を被らず、豊作になるという。また、瀬戸町大江では、この日は土を休める日なので田畑の仕事をせずに休み、土地に鍬を立てることを忌むという。
 愛媛県内の社日に関する民俗の特徴として、春の社日に山から「山の神」が里に降りて来て「田の神」(農神)となり、「田の神」は秋の社日に再び山へと帰っていくという農神去来の信仰が強く残っていることが指摘されている(『愛媛県史民俗編下』)。松山平野や南、北宇和郡に色濃く残る神観念であるが、八幡浜地方にもこれに類する民俗が存在する。例えば、かつて八幡浜市若山や大島では、オシャンニチに、野菜などを三宝に載せて、座敷に供える風習があった。これは家の神や恵比寿、大黒に供えるといい、農神(田の神)を迎えるための行事であると地元では認識されているわけではないが、もともとは農神を山から里(家)へ迎え入れる儀礼の一種と見ることができる。
 このように、社日は単なる季節の変わり目ではなく、農作業を始める上で、それを見守る神を招き入れる日だったのである。

2001/03/22 南海日日新聞掲載


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上郷の火乃神大明神

2001年03月15日 | 八幡浜民俗誌
上郷の火乃神大明神

 八幡浜市上郷の梅之峠というところに、一本の巨大なクスノキがそびえ立っている。このクスノキを調査した「さんきら自然塾」の水本孝志氏達によると、幹周は五〇〇センチ、樹高は約一四メートルで、現在、八西地域で確認されている巨樹クスノキとしては、五番目の大きさらしい。樹齢は地元の人によると、三〇〇~三五〇年といわれている。
 このクスノキの近くには、「火乃神大明神」という火伏せの神を祀ったお堂があり、その脇には「神の水」と呼ばれる湧き水が出ている。イボが直ったり、飲むと肝臓が良くなったりすると地元では評判の名水として知られている。ちなみに「神の水」の名称は最近になって付けられたもので、『愛媛新聞』にこの水が取り上げられて以降、使われるようになったそうである。
 さて、「火乃神大明神」については、次のような由来伝承が残っている。
 今から三五〇年前に、吟兵衛という修験者が、一人馬に乗って名坂峠を越え、上郷梅之峠にたどり着いた。そして、地元の娘と結婚して、この地に住み着いたという。クスノキはその時に植えられたとも言われている。吟兵衛には、権律師正蔵坊という修験者の弟子がおり、彼が「火之神大明神」を祀り始めたという。その修験者の系譜は既に途絶えてしまっており、吟兵衛の子孫にあたる家の者がお堂や湧き水を管理されている。
 この修験者について調べてみた。明治五年に編纂された『神山県寺院明細帳』(愛媛県立図書館蔵)によると、明治時代初期に上郷が属していた郷村に、延命山大覚院という修験寺院があり、玄良という者が住み着いていた。この寺院は天台宗系の本山派に属し、祈祷檀家が一五〇軒あったと記されている。そして、この寺院の開基が、万治二(一六五九)年に門覚という者によると記されているのである。今からほぼ三五〇年前のことである。クスノキが植えられた時期、「火之神大明神」が祀り始められた時期と重なっており、この延命山大覚院というのが、吟兵衛や権律師正蔵坊が創始した寺である可能性がある。
 明治時代初期には修験道廃止令により、各地の修験者は帰農したりして系譜が途絶えてしまうことが多い。梅之峠のこのお堂も、修験者が帰農し、祀り手がいなくなり、小堂として管理されている。かつては毎年四月三日にお堂の中に西国三十三カ所霊場の掛軸を飾って、地元の者が集まり、お祭りをしていたというが、現在では廃れてしまっているようだ。祀り手の修験者が消え、お祭りも無くなってしまったものの、地元では火伏せの霊験は信じられ、また、そこから出る湧き水は病気直しの効果があると信じられている。民間に土着した信仰の源流が、修験者の活動にあったことを示す一事例と言えるだろう。

2001/03/15 南海日日新聞掲載

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長増遁世譚-異界としての四国-

2001年03月15日 | 信仰・宗教
 『今昔物語集』巻第十五の「比叡山僧長増往生語第十五」に、比叡山僧の長増が四国に退隠流浪し、たまたま伊予国で再会した弟子清尋供奉の慰留も退けて終生乞食修行を続けて往生を遂げたという話がある。内容は次のとおりである。今は昔、比叡山の東塔に長増という僧がいた。(長増は天徳四年に律師に任じられた東大寺戒壇和尚名祐(明祐)の弟子である。)ある時長増は僧房を出て厠に行ったきり、自分の数珠や袈裟、経文等を残したまま行方をくらましてしまう。その後、数十年が経過したが、ついに行方はわからなかった。長増の弟子清尋供奉は六十歳程になったころ、伊予守として任国に下った藤原知章に伴って伊予国に着いた。清尋は藤原知章の庇護のもと修法を行い、伊予国内の人々も清尋を敬った。ある日のこと、清尋の僧房の前に立ててある切懸塀の外に一人の老法師がいた。その格好は「蓑ノ腰ニテ●ケ懸タルヲ係テ、身ニハ調布ノ帷、濯ギケム世モ不知ズ朽タルヲ二ツ許着タルニヤ有ラム、藁沓ヲ片足ニ履テ竹ノ杖ヲ築テ」という門付け乞食の姿であった。僧房の宿直をしていた土地の人がその老法師を大声で罵って追い払う。その叫び声を聞いて清尋が障子を開けて乞食に近寄って、笠を脱いだその顔を見れば、老法師は比叡山にて厠に行ったまま行方不明になっていた長増であった。清尋が問い尋ねると、長増は「我レ、山ニテ厠ニ居タリシ間ニ、心静ニ思エシカバ、世ノ無常ヲ観ジテ、此ク、世ヲ棄テ偏ニ後生ヲ祈ラムト思ヒ廻シニ、只、『仏法ノ少カラム所ニ行テ、身ヲ棄テ次第乞食ヲシテ命許ヲバ助ケテ、偏ニ念仏ヲ唱ヘテコソ極楽ニハ往生セメ』ト思ヒ取テシカバ、即チ厠ヨリ房ニモ不寄ズシテ、平足駄ヲ履キ乍ラ走リ下テ、日ノ内ニ山崎ニ行テ、伊予ノ国ニ下ダル便船ヲ尋テ此国ニ下テ後、伊予讃岐ノ両国ニ乞匈ヲシテ年来過シツル也。」と答え、僧房を出てそのまま跡をくらました。やがて、藤原知章が伊予守の任期が終わり上京し三年程たってこの門付け乞食が伊予国にやってきた。今度は土地の人々が彼を貴び敬ったが、間もなく伊予の古寺の後の林にて、この門付け乞食が西に向かって端座合掌し、眠るように死んだ。土地の人々は各人が法事を修した。このことは、讃岐、阿波、土佐国にも聞き伝えて、五、六年間、この門付け乞食のための法事を営んだ。「此ノ国々ニハ、露功徳不造ヌ国ナルニ、此ノ事ニ付テ、此ク功徳ヲ修スレバ『此ノ国々ノ人ヲ導ムガ為ニ、仏ノ権リニ乞匈ノ身ト現ジテ来リ給ヘル也』トマデナム人皆云テ、悲ビ貴ビケル」つまり、「此ノ国々」=四国はまったく功徳をつくらない所であるのに、長増の死があってから功徳を行うようになったので、仏が仮に乞食の身となっておいでになったと語り伝えられている。
 ちなみに、長増の弟子で伊予守藤原知章に伴って伊予に着いて修法を行った「静尋」は、『台密血脈譜』や『阿裟縛抄』八六、『諸法要略抄』によると「静真」と見え、六字河臨法を修している。『諸法要略抄』に「六字河臨法(中略)河臨法者、阿弥陀房静真、為伊予守知章、於予州修之」とあるのである。また、『谷阿闍利伝』によると、静真の弟子皇慶も藤原知章のもとで長徳年間に普賢延命法を行っている。六字河臨法は『阿裟縛抄』八六には、呪咀、反逆、病事、産婦のために修すとあり、公的というよりむしろ貴族の私的修法の性格が色濃いものである。また、普賢延命法は九世紀までは玉体を祈念する国家的修法として発達するも、一〇世紀には有力貴族の私的修法へと転換する(註速水侑『平安貴族と仏教』52頁)。つまり、これらは伊予守藤原知章による私的修法であることがわかる。
 さて、先に紹介した『今昔物語集』長増遁世譚では、四国は「仏法ノ少カラム所」、「露功徳不造ヌ国」と表現されている。『今昔物語集』の他の説話で「四国ノ辺地」と表現されているように、四国は仏法の普及していない「辺土」であったと認識されていたのである。なお、辺地とは、日本国語大辞典では「弥陀の仏智に疑惑を抱きながら往生した者の生まれるところ」(今昔17ー16参照)と紹介されている。
 ここで長増の話しに戻ろう。長増は、厠からそのまま行方をくらましているが、これと同様の行為、つまり厠からの脱出譚は日本の昔話に多く見られるものである。その代表的な話として「三枚の護符」がある。
 ある山寺に和尚と小僧がいた。小僧は山に花を取りに行ったが道に迷って夜になってしまう。小僧は山中の一軒のお婆さんの家に泊めてもらうが、実はこの婆は鬼婆であった。何とかして逃げなければいけないと思い、便所に行き、便所の神の導きで窓から逃げた。神からは三枚の護符を貰い、追っかけてくる鬼婆に投げつけながらようやく寺に戻る、といった話である。
小僧は異界(山)での試練を経験し、寺に帰ってくるのであるが、厠はちょうど異界との境(鬼婆のいる世界と日常入る山・寺)に位置していると認識することができる。厠に関しては、飯島吉晴がその意味、昔話や儀礼におけるその位置づけ、禁忌や俗信、厠神の伝承などを考察しているが、それらを分析すると、厠は異界へ参入する入り口、変身の場、此の世と異界との境というイメージが伴っているとされている(註『竈神と厠神-異界と此の世の境-』)。
 この厠に関する民俗からすると、『今昔物語集』の長増が厠を通じて四国に渡るという行動は、四国が異界であることを象徴していることになるのではないだろうか。
 ここで、さらに四国の異界性について考えてみたい。
 『今昔物語集』三一ノ十四に「今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予讃岐阿波土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共其ヲ廻ケル」とあり、この史料は海岸廻りの道を僧侶が巡る四国遍路の原初的形態と解釈されている。また、『梁塵秘抄』に「我等が修行せしやうは、忍辱袈裟をは肩に懸け又笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む」とあるように、僧侶にとって四国は修行の場であった、つまり日常とは異なる空間であったのである。また、武田明によると、本州や九州の人々にとって四国とは海を渡らなければとどかない一種の他界であって、四国が死者の霊魂のこもる霊地であったともいっている(『巡礼の民俗』)。
 四国遍路の習俗を見てみると、遍路の装束は死装束である。実際に巡拝にもちいた白衣を死に装束として用いることはよくある話である。また、遍路がかぶる菅笠に書かれている文言「迷故三界城・・・」とは真言宗や禅宗の葬儀において用いられる文言である。すなわち遍路はそのままで死者に他ならない。(註 真野「四国遍路への道-巡礼の思想-」『季刊現代宗教』1-3 1975・11)
 長増の場合、比叡山の厠を通じて、異界としての四国に上陸し、苦行、門付乞食をしながら、地元の者には忌避されていたが、清尋との再会を契機に尊敬される存在となり、そして往生する。ミルチャ・エリアーデの言うように、イニシエーションつまり人間の宗教的・社会的地位の変革をめざす儀礼で、受礼者は一連の試練を克服し、世俗的生活に終止符を打ち、新たにめざめた生を受けいれることを象徴する。その儀礼の大部分は死とそれにもとづく再生を象徴している。このことにまさに当てはまる事例といえるのではないだろうか。 以上、長増の説話と四国の関係を検討すると次のことがわかる。
 歴史的に見ると、伊予国内においても一〇世紀には国司が私的密教修法を行っていたことがわかる。つまり、これからは、律令的社会体制が崩壊し、個人的な救済が主とする貴族社会へと変容していることが見てとれる。
 ただし宗教的に見ると、四国は、当時の中央から見て「仏法ノ少ナカラム所」であり、史料に修法に関する記事があっても、国司の個人的修法であったため、中央から見れば、やはり、「仏法ノ少ナカラム所」であり、そして一種、異界的世界としてとらえられていたのである。
 後に、四国遍路が成立するのは、その道の険しさ故だけではなく、古代においてそういった異界性が前提としてあったからではないだろうか。儀礼的死人として四国で修行することに再生に達しようとするという遍路の構造が古代にもあり、それが原型であったといえるのである。
 異界性を伴うことから、四国は「死国」であったとも言えるのではないだろうか。

2001年03月15日


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南予の相撲練り

2001年03月13日 | 祭りと芸能

化粧廻しをつけた八~一二名の子供力士が円陣を組み、立行司の語る文句に合わせて踊るもので、演じる者はほとんどの地区が小学生である。南予地方の祭礼の練りに加わるものであるが、現在の分布は、大洲市上須戒、平地(現在中断)、長浜町出海、八幡浜市川名津(平成八年より中断)、舌間、真網代、保内町川之石楠町、伊方町河内、瀬戸町川之浜、三崎町三崎、三瓶町朝立、明浜町狩浜、高山、野村町惣川、宇和島市三浦大内、日吉村上鍵山、内海村家串にあり、西宇和郡、八幡浜市近辺に多いという特徴がある。旧宇和島藩・吉田藩領内の分布がほとんどであるが、一部、旧大洲藩領内にも見られる。大洲市上須戒では、天保年間(一八三〇~四三)に、宇和島藩側から移入したと伝えられ、また、同じく大洲藩であった長浜町出海も、宇和島藩に隣接する位置にあり、宇和島藩側からの伝播と考えられる。
 『愛媛県の民俗芸能-愛媛県民俗芸能緊急調査報告書-』(愛媛県教育委員会、一九九九)が引用している宇和島市三浦の田中家文書によると、天保一五(一八四四)年八月二九日「天神宮祭礼の節、大内浦より角力礼差出度く願済」、同年九月一八日「大内浦相撲礼八番に相立、船隠よいやさ、千代浦牛鬼は其の後一相廻候様申し聞かす」とあり、宇和島市三浦大内では、この年に相撲練りが始まっていたことがわかる。また、野村町惣川でも、祭礼に取り入れられたのが天保年間と伝えられており、この時期に南予地方各地に伝播したことが推測できる。ただし、その伝播の要因や、相撲練り自体を最初に始めた祭礼がどこであったかは不明である。なお、西宇和郡や八幡浜では、明和六(一七六九)年に、八幡浜浦八幡神社で始められたのが最初という説明がなされることが多いが、史料上では確認できない。八幡浜市舌間では、佐田岬半島方面から伝習したという伝承があり、また、伊方町河内や瀬戸町川之浜では、保内町楠町のものを伝習したと言わる。三瓶町朝立でも、明治時代初期に八幡浜方面から習ったと伝えられており、現在、西宇和、八幡浜方面に多く分布するのは、明治時代に各所で伝習し合ったことによるものと思われる。

2001年03月13日

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西条ダンジリと造り物

2001年03月12日 | 祭りと芸能
「西條花見車」という『雨夜の伽草』(伊予史談会蔵)に収められた史料に、天保八(一八三七)年の西条祭りのダンジリ(ここでは「楽車」と表記している)について詳細な記述がある。
 「この楽車といふは、家の形造りにして、二重あるいは、三重の高欄付きにて、黒塗りの金縁、朱塗りの銀縁等にて、高欄の疑宝珠は金銀を以てし、高欄の縁には、七福神の遊びあるいは大江山鬼神退治、富士野牧狩、鵯越逆落し、八嶋合戦、または牡丹に獅子、竹に虎等、巧を尽くして彫透し、術を究めて彩れり。家根はみな縮緬にて覆ひ、破風口には孔雀、鳳凰、鶴等を彫り付け金銀にてだみたり。幕は金襴緞子、天鵞絨、羅紗、猩々緋などに金砂、銀糸などにて竹に虎、雲に竜、または竜宮の玉取、浦島子竜宮入、和藤内千里の竹藪等、さまざまの高縫に金銀珠玉を鏤座り。その内にさまざまの造り物を飾る。」
 このように、彫刻の透かし彫りの技法が発達し、江戸時代後期には既に彫刻を以て見せ、そして、幕などにも当時の高価な物を用いて見せるダンジリであったことがわかる。しかし、「さまざまな造り物を飾る」の記述とは異なり、現在のダンジリには、四本柱に巻かれた幕の内側に造り物を据えることはない。この点が現在とは大きく異なっている点といえよう。
 この記述はこれまで謎とされてきた。しかし、最近、この謎が解けたのであろる。それは昨年10月に愛媛新聞紙上でも公表された「伊曽乃祭礼細見図」の発見によってである。
 もともと、この西条ダンジリが描かれた絵巻については、伊曽乃神社が保管している絵巻「伊曽乃大社祭礼略図」が知られており、内容はダンジリ十八台、神輿太鼓五台、船ダンジリ、鬼頭、鉄砲組、奴、神輿、諸道具類などを描いた「御神輿の渡御行列図」、西条藩士の礼拝する様子を描いた「御殿前略景」、御旅所の賑わいを描いた「御旅所略景」、「小供狂言之図」からなっている。筆者は不詳であるが、この絵巻は、昔、江戸城内で仙台の藩主(伊達氏)とお国の祭自慢をしたことを契機に、西条藩主が伊曽乃神社祭礼を絵巻に描かせて仙台に贈ったものとされ、その後、伊達家に保存されていたが、昭和二五年に伊曽乃神社に寄贈されている。制作年代は佐藤秀之氏によると、一八五〇年前後とされている。
 今回発見された絵巻は、近年確認された東京国立博物館蔵「伊曽乃祭礼細見図」である。この絵巻は、国立歴史民俗博物館の福原敏男氏が確認し、二〇〇〇年夏にはじめて地元西条に紹介したものである。それを受けて、早速、西条祭りの研究者佐藤秀之氏が「『伊曽乃祭礼細見図』について」というレポート(自家版)をまとめており、ここでは、その内容を一部引用しておきたい。
「伊曽乃祭礼細見図の内容
 ・神社本(「伊曽乃大社祭礼略図」)より古かったこと。
 ・造り物、人形屋台であったこと。
 ・ふすまだんじりが数台あったこと。
 ・二階、三階の別があり、高欄や升組形式など細かく分けられていること。
 ・何より、彫刻、装飾の題材が(神社本に比べて)はっきりと細かく描き分けられていること。」
 以上の事などが指摘されており、この絵巻の制作年代を天保七(一八三六)年前後と推定されている。注目しておきたいのは、「西条花見車」に記述されていた幕の内側に「さまざまな造り物を飾る」ことである。この絵巻では、この造り物が詳細に描かれており、「西条花見車」の記述を裏付けている。天保年間以前には、西条型ダンジリは、人形屋台としての要素もあっていたのである。この点は、南予地方の山車とも共通するところがあり、今後この絵巻の調査報告が待たれるところである。

2001年03月12日

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江戸時代の太鼓台

2001年03月11日 | 祭りと芸能
東予方面に布団太鼓が出現するようになったのは、一八世紀後半のことである。寛政元(一七八九)年の佐藤正治氏蔵「神輿太鼓控覚帳」が、東予地方の布団太鼓の最古の史料とされている。この史料には「それ、神は人の敬うによって威を増し、人は神の徳によって運を添えるは実なり。当社御祭礼の賑わい殊に宿願あるに任せて、神輿太鼓を飾り調えて、大いに心をすすめ奉る。」とあり、この寛政元年に布団太鼓(ここでは「神輿太鼓」と記述されている)が登場しているのである。これと同じ年には、香川県の大野原八幡神社の「ちょうさ太鼓」が登場しており、この時期に讃岐から東予地方にかけて飾り幕の発達した布団太鼓が流入してきたようである。太鼓台祭りで有名な新居浜市では、この時期には布団太鼓が存在した史料は見あたらず、東予地方でも、東側の宇摩平野から順次、西に伝播していったことが推測できる。さて、川之江市立図書館蔵「役用記」に、文化三(一八〇六)年の川之江八幡神社の祭礼行列が記されている。ここにも「神輿太鼓」と呼ばれる布団太鼓が五台が記されており、祭礼の中で布団太鼓が風流の主流になりつつあることがわかる。 新居浜市における布団太鼓の初見は文政五(一八二二)年の「船大工仲間永代迄の諸覚帳」(『新居浜太鼓台』三〇四頁所収)である。ここには「東町太鼓」の記述があり、この頃から新居浜では布団太鼓が多くなってきたようである。文政九(一八二六)年の「一宮神社文書」(『新居浜太鼓台』三〇四頁所収)には、「当方ニテ檀尻再興又ハ近年ニ至りみこし太鼓と申もの出来之節ハ」という記述があり、この地方ではもともとダンジリ(ここでは「檀尻」と記述)が主流であったものが、文政年間になって布団太鼓(ここでは「みこし太鼓」と記述)が流行したことが推察できるのである。これ以降、新居浜地方でも布団太鼓の記述は多くなり、数多くの「太鼓台」が製作されていったことがわかる。
 さて、この当時の新居浜地方の布団太鼓の形態は不明であるが、西条祭りの記録である「西条花見車」によると、「其次御輿楽車といふを引くなり。其様上に五重七重の蒲団を積重ね、黒段々もあり、黒計なるもあり、赤計もあり、何れも天鵞絨、羅紗等也。前後左右に蒲団〆といふ二つ宛あり。これに様々の高縫あり。雲に龍、竹に虎、瀧に鯉、岩に獅子、桐に鳳凰等なり。幕は天鵞絨、猩々緋に高縫なり。高欄の縁には四方に掛蒲団とて、天鵞絨、羅紗等に大造りなる縫の小蒲団を掛けたり。(中略)此の楽車は車にて引くなり。」とある。車が付いていて引いてまわる、現在の西条ミコシとほぼ同型の記述であるが、形態は別にしても、新居浜でも同様に布団太鼓に豪華な幕を飾っていたことが推察できる。この時期には既に刺繍によって見栄えのする飾り幕を「見せる」ことが祭りの中で重要な位置を占めていたことがわかる。
 なお、嘉永二年(一八四九)「新居浜浦家躰神輿太鼓錺物調帳」の中に「茂多連布団」という記述あり、新居浜の布団太鼓も江戸時代後期には掛け布団のある現在の宇摩型であったことがわかっており、その後に上幕、高欄幕を吊る型に変化している。この変化の要因については、不明である。

2001年03月11日

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八幡浜を訪れたデコ芝居

2001年03月08日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜を訪れたデコ芝居

 明治時代から戦後間もなくまでは、庶民の娯楽として村芝居やデコ芝居、人形浄瑠璃などがあった。八幡浜では穴井歌舞伎が有名であったが、これは地元の者の手による芝居で、地芝居とか、農村歌舞伎と呼ばれるものである。また、人形浄瑠璃(文楽)では、三瓶町の朝日文楽や明浜町の俵津文楽(菅原座)が有名で、明治時代には双岩にも人形浄瑠璃があったというが、いずれも地元の者によるものである。
 地元以外の者、つまり他所から訪れてきて芝居などが上演される場合もあった。昭和三十年頃まで、正月から春にかけて、阿波から三番叟が訪れていたという例が知られているが、これは正月の祝いとその年の豊作祈願のためという神事性を帯びた芸能で、単なる娯楽だけではない要素があった。つまり、芝居などの庶民娯楽を簡単に分類すると、地元の者の手によるものと他所からの訪問によるもの。そして、単に娯楽として行っていたものと、神事芸能としての性格を有したものというように分けることができる。
 ここでは、他所から八幡浜を訪れたデコ芝居の一例を紹介してみたい。
昭和二十三年十一月のことであるが、三瓶や八幡浜に、高知県のデコ芝居「西畑デコ芝居」が来て上演をしたという記録が残っている。「西畑人形巡業日記」という資料であるが、これは『土佐西畑デコ芝居』(高知県春野町発行)に収録されているものである。この西畑デコ芝居は、明治十二年頃、仁淀川の河口に近い吾川郡仁西村西畑(現高知県春野町西畑)の大工・柳井十蔵が、正月十四日のカイツリ(子供達が銭さしを持って村内の家々をまわり、お金や若餅を貰う行事で、高知県や愛媛県南予地方にかつて見られたもの。)の余興として、卵の殻に目や口を描いてデコ人形を作り、踊ったのが始まりといわれる。これが人気を呼んで、他村からも招かれるようになり、次第に浄瑠璃を基に芝居化し、デコ頭や衣装を構え、上演し、やがてこれが職業化している。明治時代末期から昭和の戦前期にかけて、四国、中国、九州一円を巡業し、土佐のデコ芝居として有名となった。高知県では各地にデコ芝居があったが、土佐の元祖は西畑デコ芝居だと言われている。
 「西畑人形巡業日記」によると、昭和二十三年十一月七日に三瓶町朝日座で、十二日に同町皆江で、十五日から真穴の大嶌頼海庵寺で、十八日に大島でそれぞれ上演し、二十一日に八幡浜から高知に帰郷している。これを見ると、穴井歌舞伎や朝日文楽といった地元の娯楽が盛んだった場所で上演していることに気付く。それだけこれらの地区は芝居という娯楽に興味があったのだろう。
 この西畑デコ芝居も、上演の最初には場を清める意味で三番叟が演じられていたという。これは八幡浜の穴井歌舞伎の例にしても同様である。これら娯楽としての芝居も、原初を追求すると神事との関係が必ず出てくるのである。

2001/03/08 南海日日新聞掲載


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「めんどしい」という方言

2001年03月01日 | 八幡浜民俗誌
「めんどしい」という方言

 唐突ではあるが、私の妻は伊予郡松前町、つまり中予地方の出身である。同じ愛媛県内の出身者同士ということで、結婚当初から夫婦間に言葉や慣習にさほど違和感の無いまま、これまで暮らしてきたつもりだったが、先日、私がある事で妻に対して「めんどしいんじゃないか」と声をかけると、妻からは「私は面倒くさくないわよ」という返事が返ってきた。「めんどしい」が見苦しいという意味だと理解していなかったのである。
 その時初めて「めんどしい」が南予独特の方言だということに気付いた。その後、東予地方や県外の知人に「めんどしい」の意味がわかるかと聞くと、必ず「面倒だ・わずらわしい」の意味が帰ってきた。これは南予人にしか通じない言葉だったのである。
 気になったので、小学館『日本国語大辞典』の「面倒」に類する言葉を拾い読みしてみたが、見苦しいという意味で「めんどしい」を使う地域は、愛媛県南予地方以外に全国どこにも見つけることができなかった。
 この辞典によると、「面倒」にはもともと、四つの意味があるようである。一つ目はわずらわしいこと。これはごく一般的に使われる意味である。二つ目は、困る、大変だという意味である。これは北陸地方で聞くことのできるもので、例えば富山県氷見では「家内が亡くなってめんどなことになりました」と使う。ここでの「めんどう」は、困った、大変なという意味で、決して、葬式を挙げるのがわずらわしいと言っているわけではない。
 三つ目は、恥ずかしいという意味である。南予の「めんどしい」にも恥ずかしいというニュアンスは含まれているが、徳島県海部郡では「人に見られるのはめんどい(恥ずかしい)」と言い、高知県幡多郡や大分県大野郡、長崎県平戸でも同様の使い方をする。純粋に恥ずかしいといった意味なのである。
 そして四つ目が見苦しいの意味である。この意味の「めんどしい」は、全国でも南予地方以外は確認できないが、岡山県や近畿地方から北陸地方にかけての広い範囲では見苦しいことを「めんどい」と言っている。南予の「めんどしい」に最も近い用法であろう。
 さて、『広辞苑』によると、面倒の語源は、馬道のことをメンドウといい、そこを通るのがわずらわしいからという説明をしている。しかし、この説では、「わずらわしい」は説明できても、「恥ずかしい」や「見苦しい」の意味は説明がつかない。やはり、「面」つまり体裁・表面が倒れる(もしくは崩れる)ことから、見苦しいという意味になり、そこから人前では恥ずかしいという意味が出てきたのではないか。
 このように、南予地方の「めんどしい」は『広辞苑』の語源説をも覆す良い材料になったのである。

2001/03/01 南海日日新聞掲載

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