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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

内子・民俗と詩のワークショップ

2023年12月23日 | 民俗その他
参加者みんなで詩人になった。

今日は内子町教委主催の「ふるさと学のススメ」。昨年度からの続き。

今回は、地元の「民俗」(昔からの暮らしや伝統行事)を題材に詩を作るワークショップ。

自分の経験や、他所出身の方には内子に来て驚いたり感じたりしたことなどを言葉で表現し、各自発表してもらいました。

いかに地域の文化を他者に伝えるのか、後世につなぐのか。そのアウトプット、表現手段として、詩を作り、後に残したり活用したりできるように、模造紙に綴っていく。

元々は「民俗を学ぶ」講座という趣旨ですが、結局、参加者が経験してきたことこそ、大切な民俗の情報だったりするわけで、それを引き出す、カタチにする、というのが今回の私の役割。

個々人の記憶を地域共有の記憶へ。

それぞれの思いの詰まった作品が仕上がって、ちょっと感激。

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みんなの介護ニュース

2016年10月04日 | 民俗その他
みんなの介護ニュース に 9月4日の卯之町末光家住宅での回想法のことが紹介されました。

認知機能改善や認知症予防に。全国各地で博物館の学芸員が「回想法」をリード

http://www.minnanokaigo.com/news/N88332415/

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古民家で民具を使った回想法

2016年09月04日 | 民俗その他


9/4(日)重伝建 卯之町の末光家住宅の一般公開。

今回の内容は「健康・福祉と民俗学ー懐かしの道具で認知症予防ー」&「大正琴で奏でる懐かしの名曲」。「懐かし」特集。

古民家(末光家住宅、市指定文化財、1770年建築)にて、民具を使った回想法講座でした。






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民具で回想法

2016年08月27日 | 民俗その他
認知症、予防・治療考える 民具に触れ、心に余裕を 来月4日、西予で/愛媛 毎日新聞2016年8月26日

http://mainichi.jp/articles/20160826/ddl/k38/040/573000c




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「あみだくじ」の歴史

2013年09月30日 | 民俗その他

あみだくじ。これを漢字で書くと阿弥陀籤。現代では誰もが知っているくじ引きの方法である。これは複数の縦線を書いて、くじに参加する者が横線を加えて書いていき、当たりを決めるやり方だが、その由来を知りたいと思って日本国語大辞典を見ると、ちょっと驚く記述であった。

「あみだくじ【阿弥陀籤】〔名〕(阿弥陀の後光のように放射状に線を引いたことから)線のはしに金額を書いて隠し、各自が引き当てた金額を出しあうくじ。あみだ。あみだのひかり」

このように記載されている。現在のあみだくじとは違う。縦線、横線のあみだくじではなくて、放射状に線を書くというのだ。この放射状方式から縦横線方式に変化するのがいつ頃なのか、という年代確定はいまは手元に材料が無いのでわからない。ただ、この放射状方式が「あみだくじ」の呼称より「あみだのひかり」の方が一般的で、中世(室町時代)にまで遡るようである。

享禄(1528~1532)年間から天文(1532~1555)年間頃の成立とされる俳諧連歌集『犬筑波集』に「一すぢにあみだの光たのむ也 ちゃわむのはたのすみぞめの袖」とある。また同じ16世紀半ばの「証如上人日記」(『石山本願寺日記』)の天文21年2月9日条に「去七日あみだの光をし」と出てくる。

あみだくじの「阿弥陀」とは、くじを引く際に阿弥陀如来はすべてお見通しであるといった意味ではなく、放射状に広がる後光の様子になぞらえて付けられたものだということだ。

それにしても、縦横線方式がいつの時代から成立、普及、流行したのか、ちょっと知りたいものである。

さて、あみだくじは平等で公正明大なくじの方法であると思いがちだがそうではない。これは確率の問題になるが、確率が高いのが当たりの真上の線で、その横線が次に確率が高くなる。縦線を5本(仮にA、B、C、D、E)を書いたとして、中央のCを当たりとすれば、確率が高いのはCであり、一番端のA、Eは確率が低い。当たりの位置を隠せば問題はないが、当たりを見せた状態で参加者が横線を書き足す場合もあるので、その時には当たりを引き寄せることができる。

さまざまな場であみだくじは使われているが、必ず当てることは無理にしても、確率を高めることが可能なのである。あみだくじは厳密に公正明大とはいえないのかもしれない。でもこれは確率の問題。結局は阿弥陀さまがお見通しで、くじの結果は神(いや阿弥陀?)のみぞ知る、ということにしておこう。







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新刊『触穢の成立ー日本古代における「穢」観念の変遷ー』

2013年03月28日 | 民俗その他
新刊本です。

大本敬久『触穢の成立ー日本古代における「穢」観念の変遷ー』(A5判、134頁、創風社出版)

学生時代 1992~94年に書いた原稿です(ワープロ 文豪mini5で入力)。95年に愛媛に戻ってからこのテーマから離れていましたが、縁あって冊子にしていただきました。

本書の概要はこちら。
http://www.soufusha.jp/book/new.html#syokuenoseiritu

【内容】
「触穢」と「罪穢」。日本文化に深く刻まれたケガレ思想。六国史の「穢」の記載や、弘仁式、延喜式の穢規定など古代日本における文献史料を分析することにより奈良時代、平安時代初期から中期のケガレ観念の変遷や「触穢」の成立過程を明らかにする。古代のケガレは「罪穢」に収斂されることがあるが、古代、中世、近世、近代と各時代の「罪穢」の用法の変遷についても提示にし、歴史学、民俗学におけるケガレ論の論点と課題を整理する。

【主要目次】
序章 ケガレと穢
第一章 ケガレ・穢に関する研究史と課題
第二章 触穢規定成立以前の「穢」
第三章 触穢の成立
第四章 「罪穢」の用法と変遷
第五章 触穢思想の成立と仏教との関係
結語


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西予市城川町の茅葺き「茶堂」

2011年05月28日 | 民俗その他
西予市城川町に残る茅葺きの文化遺産「茶堂」。
この文化的価値と、保存・継承について、twitterで紹介しました。
最近、問い合わせが多い「茶堂」の保存・継承の問題。
twitterで、簡単にまとめています。

http://twitter.com/#!/nanyotv



【追記】本日、某広報誌の編集者さんから「茶堂」に関する取材を受けました。少し前に、時間が経って、そのつぶやきが検索できないとのご指摘もありました。確かに3年以上経つと自分でも検索できせんでした・・・。バックアップしていたつぶやきの中から、2011年5月に「茶堂」関連のものを以下、列挙しておきます。(2014年10月21日)



110516 081009(←2011年5月16日8時10分09秒のつぶやきのことです。以下同じ。)
城川町に50箇所以上ある茶堂。年々、茅葺き屋根から瓦葺に改修され続けている。このままでは景観が崩れて、城川が城川でなくなってしまう。茅葺き技術継承ネットワークづくり急務。地元集落では技術がなくて瓦葺を選択している。西予市の貴重な地域遺産の危機的状態と城川を通るたびに感じる。

110516 081522
城川町の茶堂は昭和43年に緊急民俗調査で文化庁調査官田原久さんが全国的にも貴重だと評価し、「伊予の茶堂習俗」として昭和53年に国選択民俗文化財になっている。ただ、習俗だけが文化財になったと解釈し、その場・舞台である茅葺き茶堂は「文化財」ではないものとして使われてきた経緯がある。

110516 081858
愛媛には茅葺き職人が少ないと言われる。でも、城川の隣の高知県梼原や東津野には茅葺きの改修経験のある技術者がいる。愛媛でも先日、東温市で茅葺きワークショップが行われている。材料もまだ茅グロが残っているように全くない訳ではない。技術も材料もあるかないかはネットワーク有無の問題だ。

110516 082210
平成15年に国の文化財「重要文化的景観」の導入にあたっての事前調査報告書があるが、その中に城川の茶堂景観も「重要地域」として掲載されている。周囲の棚田景観も含めて、茅葺き茶堂は、宇和島遊子水荷浦につづいて国の重要文化的景観に選定されるだけの価値がある。

110516 082642
茅場があったとしても、その刈り出しなどの労力は過疎化、高齢化の「限界集落」ではできないと嘆く。しかし、野村町惣川の土居家で茅葺き改修した際には、地元中学生が総出で手伝った。この経験は素晴らしい。昔ながらの「結」「出夫」の地縁を中心に、外にネットワークを構築すれば不可能ではない。

110516 090207
茅葺きの全国ネットワークといえば、全国茅葺き民家保存活用ネットワーク協議会。いま事務局は日本茅葺き文化協会。6月4日から鹿児島県で茅葺きフォーラムがある。 http://www.kayabun.or.jp/katsudou.html

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西予市が合併して5年が過ぎたが、茅葺き茶堂などの城川独特の文化遺産が西予市内でも未だ市民に周知されていないのかもしれない。西予市内そして県内・全国へ向けて、その情報発信の機会は設けないといけない。

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旧城川町民でも、今まで「当たり前」・「自明のもの」と思われてきた茅葺き茶堂。文化遺産の価値を再認識し、未来への保存・継承の契機とする取り組みは必要だ。城川の住民の「郷土意識」を今一度、強く抱く契機とし、新たな「地域おこし」の活性化を期待したい。

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本音をいえば、茅葺き茶堂の記録会•保存に尽力してきた西岡圭造先生思いを継承し、文化財関係者の若返り(次世代の担い手育成)が必要だ。宇和や野村では史談会等の組織が充実しているが、城川でも地域づくりネットワークは充実しているから、社会基盤は充分。あとはビジョンとスキルだ。

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愛媛・西予市の茶堂。一間四方の方形で屋根は茅ぶきまたは、瓦ぶき。三方を解放し、正面の奥一方のみが板張りでそこに石仏等が祀られる。まつられている石仏は大師、地蔵、庚申像などである。文化財(建造物)としても有形民俗文化財としても価値がある。

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愛媛・西予市では、昔は旅商人、通行人が歩きつかれて「茶堂」で憩い、地区の人々から茶の接待を受けた。旧七月一日から月末まで毎日各戸輪番に出てお茶を沸かし、通行人や地区の子供たちに接待をした。これが茶堂の呼び名の由縁とである。   →文化財「国選択民俗文化財」としての価値

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愛媛・西予市の「茶堂」。「おこもり」と言って地区中の家族総出で茶堂に集まり、酒宴を開き話し、唄う懇親の場、情報交換の場であった。地域のコミュニティセンターとして機能していた。現在でも虫送りなど様々な年中行事が茶堂を舞台として行われており、国選択無形民俗文化財となっている。

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愛媛・西予市城川町や野村町に残る茅葺きの茶堂は、建造物としても民俗文化財としても文化的景観としても貴重な地域遺産。地元に住んでいるとこれが「当たり前」で価値に気づきにくい。この茶堂の保存や茶堂にまつわる文化の継承には、まず茶堂の存在価値を改めて見つめ直す作業が必要である。

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愛媛・西予市の茅葺き「茶堂」。地元に茅葺き職人がいない。材料がない。そこで瓦葺きに改築されているが、職人は隣町の高知県梼原町にもいるし、全国の茅葺きネットワークは構築されていて、その中に愛媛も入っていく必要がある。職人や材料の問題は、地元だけで解決できるものではない。

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西予市茶堂整備事業補助金交付規程。「市内に所在する茶堂を修復するために実施する茶堂整備事業に要する経費に対し、市が補助金を交付することにより、永く後世に重要な民俗文化財を保存継承することを目的とする。」とある。この規程の「修復」「保存継承」の精神が遵守されることを願うのみ。



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【新刊紹介】曽我正堂著『ふる郷もの語』

2011年05月12日 | 民俗その他
「すごい本が世に出た。」手に取ったそう思った。曽我鍛さんの書いた文章をまとめた本が先月出版された。民俗学に関わる者として一読してみて、この本に書かれている話はもう聞き取りはできない。数十年前にタイムトリップした気分になった。正直、私が以前執筆した『民俗の知恵-愛媛八幡浜民俗誌-』が吹き飛ぶほどの内容の濃い八幡浜・西宇和の庶民生活史の記録だと思った。

書名は、曽我正堂著『ふる郷もの語』(曽我健編集・発行、平成23年4月15日刊)。

曽我鍛(正堂)が戦前に新聞に寄稿した文章を一冊の本にまとめたもので、明治時代から昭和にかけての八幡浜、西宇和地方の人々の生活の歴史を克明に記録・紹介している。

「ふる郷もの語」は編者の曽我健氏の祖父曽我鍛が、昭和11年から16年にかけて「愛媛日曜新聞」に掲載したものである。愛媛日曜新聞はあまり現存していない新聞で、愛媛県立図書館所蔵の新聞目録にも入っていない。現在ではなかなか閲覧することができない新聞に寄稿された貴重な文章が復刻・出版されたことは、八幡浜地方の歴史に興味のある者にとっては非常にありがたいことである。

曽我鍛(正堂)については、このブログでも以前紹介したが、八幡浜・西宇和をはじめ戦前愛媛の文化界で総合プロデューサーのような役割を果たした人物である。伊予史談会の雑誌『伊予史談』の編集に携わり、『松山叢談』『宇和旧記』の活字化・出版などプロデューサーとしての業績だけでなく、『双岩村誌』の執筆・編纂や『郷土伊予と伊予人』の著作など、多くの文章を書き残している。しかし、その当時書かれた文章がすべて出版化されていたわけではなく、今回のように新聞連載で書いたものはこれまで目にする機会がなかった。

「ふる郷もの語」は全部で187編の長期連載で、それが今回、活字化された。内容について簡略に紹介しておきたい。その目次から一部を抽出すると次のようになる。

<年中行事に関すること>
歳末風景
お日待ち
元旦
旧正月
思い出の雑煮
雛の節句
菖蒲の節句
虫送り
七夕さま
盂蘭盆会
燈籠あげ
おもうし
いの子

<社会生活・信仰・芸能に関すること>
若衆組
若衆宿
共同浴場
穴井芝居(歌舞伎)
山田薬師
兎狩り
はぜ採り唄
やき米
番茶
醤油

<口頭伝承に関すること>
猿の婿入り
狸の話
癩姫塚
保の木
方言の思い出
矯正すべき詞
一、二、三人称

<衣食住・生活の変遷に関すること>
おはぐろ
パッチと脚絆
筒っぽ筒袴
帽子のない時代
被りものの変遷
手織り木綿の話
木綿織の話
生活の革命
台所改善の必要
公会堂
アイスケーキ
贅沢になった食物

<地元の歴史に関すること>
左氏珠山
旧庄屋無役地事件を解剖す
最初の兵隊さん
寺子屋の話
飯野山城

これらは本書の目次からごく一部を拾ったものである。また、この「ふる郷もの語」に加えて本書には戦後に愛媛タイムスに掲載された「今昔習俗談義」、「双岩村分裂記」、そして雑誌『四国公論』に掲載された「三友興亡記(続ふる郷もの語)」も活字化され本書に収録されている。

本書は非売品であるが、八幡浜近隣の図書館に寄贈されており閲覧することができる。(八幡浜市民図書館や愛媛県歴史文化博物館図書室など)

明治時代から昭和初期にかけての愛媛の民俗を記録した貴重な本書を一人でも多くの人に閲覧してもらって、読んでほしいと思う。




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身体の時計‐多元的四季論‐

2009年11月28日 | 民俗その他
晩秋に紅葉を見て「秋を感じる」ことは、受動的な四季の感じ方ではないかと思う。この時期、例えば生産者は玉葱を植え付けしたり、花の好きな者はチューリップの球根を植えたりする。晩秋、11月。これから冬がやってくる。しかし、これら人間の身体には、数ヵ月後に訪れるであろう春を意識できる時計が宿っており、それが働いている。収穫や開花のイメージが明確なのだ。ここから私は、身体には、多元的な四季が存在するのではないかと推察する。外的なもの、つまりその同時期・同時間の自然から受けたり、感じたりすることにより季節を認識すること。梅が咲いたことで春の訪れを感じ、桜をめでて春を実感し、新緑の山々を見て春から初夏への移行を知る。単純化すれば、気温が上がれば夏を知り、寒くなれば秋、冬を知る。どれも外的要因によって「四季」という時計を、身体で確認する「現象」である。しかし四季の中で農業や漁業などに関わる「生産する人間」の身体には、もう一つの四季を認識する時計が存在する。今の時期であれば、春を予見しての晩秋の農作業。作業中、頭の中には、収穫や開花といった春のイメージがすでに浮かび上がっている。冬に向かう時期であるはずなのに、生産者の脳の中、心の中には、既に春の暖かさが予見され、存在している。これが身体の時計にある、外的・受動的なものと、生産者が持ちあわせる内的・主体的ものという多元的な時間である。考えてみれば、暦の「新年」・「正月」は受動的な四季の感じ方とは少し異なる。寒さが過ぎ去って温かくなってから新年が訪れるわけではない。旧暦では2月上旬の節分頃が正月となるが、いまだ寒い時期だ。受動的な身体時計であれば、新年は3~4月が適当ではないか。年始の挨拶に「新春のお慶び」を申し上げるにも、特に新暦の正月(今の1月1日)は、大寒も迎えていない時期であって、どこに「春」が存在するのか。受動的季節感とは甚だズレが激しい。寒い中、なぜ「新春のお慶び」なのか。でも、その疑問は受動的季節感しか持ち合わせない人間の感覚ではないか。もともと暦は、四季の中で「生産する人間」により形づくられたものであるが、現代の生産をしなくなった人間、極言すれば「消費する人間」は、かつて身体の中に宿っていたもう一つの四季が忘却されてしまっているのではないか。その忘却ゆえに、外的な自然を見ることで、受動的に四季を認識できる。その「現象」のみになってしまい、これを「春夏秋冬、日本の四季」と高らかに言い張ることが通常の「季節感」と呼ばれるものになってしまっている。これを突き詰めていくと、結局、自然も四季も「消費」の対象・範疇に入っているのではないかと危惧してしまう。身体の中で忘却された主体的な季節を感じる力。ここから人間と自然との関係や、生産と消費という社会関係もいろいろと見えてくるものがあるのではないか。本日11月28日、松山から帰る途中、車窓から晩秋の紅葉を眺めていて、「綺麗だ」と思う気持ちと裏腹に、自然をめでる自分がいかに現代的であるかを直視させられて、心の中は少しだけブルーになった。


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民俗学における漢字と片仮名表記

2009年10月13日 | 民俗その他
「日本の草や木の名は一切カナで書けばそれでなんら差し支えなく、今日ではそうすることがかえって合理的でかつ便利でかつ時勢にも適している。マツはマツ、スギはスギ、サクラはサクラ、イネはイネ、ムギはムギ、ダイコンはダイコン、カブはカブ、ナスはナス、ネギはネギ、キビはキビ、ジャガイモはジャガイモ、キャベツはキャベツ等々でよろしい。なにも松、杉、桜、稲、麦、馬鈴薯、甘藍などと面倒臭くわざわざ漢字を使って書く必要はない。元来漢字で書いたものはいわゆる漢名が多く、漢名は中国の名だから、こんな他国の字を用いて我国の植物を書く必要は認めない。ゆえに従来の習慣のように漢字を用うるなはもはや時世後れである。」

これは、植物学者・牧野富太郎『植物一日一題』(ちくま文庫、140頁)からの引用である。昭和20年代、牧野の晩年に記された文章であるが、片仮名表記といえば、民俗語彙にもあてはまる。柳田國男監修の『綜合日本民俗語彙』が刊行されたのは昭和30年。民俗語彙の片仮名表記について、柳田は、牧野のような激しい表現はしていないが『青年と学問』(『定本柳田國男集』第25巻)の中の「伝統と小学校教育」という項目(もとは、昭和2年2月の社会教育指導者講習会講演の内容である)で、「単なる漢字の一又は二を以て、代用せられない古くからの内容が感じられる」と述べている。

※なお、ここでの主語は「民俗語彙」ではなく「地方口碑」。また民俗語彙の片仮名表記については、石垣悟「民俗を表記する-民俗語彙、標準名称、そして差別用語をめぐって-」(『日本民俗学』256号、2008年)に詳しい。

漢字では代用されない地方口碑。柳田は、その主意を「伝統と小学校教育」の中で次のように表現している。

「私などのいふ地方口碑は、単に直接に過去の事実を語り伝へるに止まらず、尚之に伴うて色々の古い思想と感情とを運ぼうとした」、「完全に学校で仕込まれた少青年以外の者は、さういふ古風の語を自在に使ひ、土地に生れた者ばかり辛うじて其心持ちを会得するといふ状態である。親々の代からの村の社会倫理や芸術観で、言葉以外には何等の記録も無く、斯うして幽かに伝はり将に亡びんとして居るものは非常に多い。」(『定本柳田國男集』第25巻、195頁)

「地方口碑」や「古風の語」は漢字で表記すれば、親の代からの古い思想・感情、村社会の倫理・芸術観が伝わらない。これは漢字では代用できない。これが柳田の主張である。

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小椋寛一郎と久万

2009年07月01日 | 民俗その他
愛媛新聞社から問い合わせ・取材あり。久万の旧直瀬村で助役をしていた小椋寛一郎が昭和4年にカメラ「ライカ」を購入し、久万の様々な風景を撮影しているとのこと。写真は約2000点あり、その一部を、今回、久万美術館で展示するというので、その写真を見せていただき、取材対応した。昭和10年代頃の久万の風景が撮影されている貴重な写真コレクション。今のように、林業で山一面が植林される以前の風景写真。久万美術館の展示が始まったら、すぐにでも見学したいと思っている。

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自分の民俗学って・・・

2009年04月08日 | 民俗その他
4~5年前から「民俗」をテーマとした講演の依頼が多い。講演の依頼があれば、原則引き受けていたが、今回、八幡浜の某団体からの依頼があったものを、どうしても都合がつかず、延期してもらった。時期が6月中旬で、どうしても展示準備や館内の資料保存作業で日程のやりくりがつかないし、展示資料の借用で、先方の都合を優先しないといけないので、どうしても6月は予定が入れられない。わざわざ来館までしてお話をいただいたに申し訳ありません。

講演会は、観光関係団体、経済研究会や老人クラブなども多いのだが、そこで私が「民俗」とは!と強調して話すと、いつも自問自答してしまうことがある。特に観光、地域づくりや経済界の方々と話す際には、「民俗」を取り上げて紹介することを「自己と他者を差異化する手段」にしてしまっているのである。これが、また、私の話を聞く側にとっては結構「受ける」。納得してくれるのだ。自己の地域性・独自性の確定を誘導する手段としての「民俗」講演会となるのである。自分の「アイデンティティ」を確認させてくれた!というような反応が返ってくる。これを戦略的に使っている自分に対して、内省することも多い。ただ、これは愛媛という一つ地域を重点的に調査していることや、博物館に勤めていて、展示で「民俗」を紹介する責務を負っている自分の定めだと思うときもある。ヘルシンキ大学の岩竹美加子氏や、東京大学の岩本通弥氏の著作・論文を読んだりしたり、最近、発足した現代民俗学会の活動内容をながめたりすると、自分自身が民俗学の調査対象者として俎上にあげられる?、いや自分自身でそこを解決・克服していく必要性を痛感する。

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東祖谷山村の落合

2008年07月25日 | 民俗その他
東祖谷山村の落合に到着。この写真は落合の向かいにある中上集落から撮影したもの。落合は、平成17年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、地元では保存会も結成され、集落保全の活動が進みつつある。今回は、保存会の会長さん宅にお邪魔させていただき、お話をうかがったり、落合を案内していただきました。

落合の集落は、一番高い民家から一番低い民家までの高低差は250メートルもあるという。この高低差で一集落を成しているのは驚きだった。愛媛のいろんな集落と比較を頭の中でしてみたが、これほどまでの高低差はないのではないか。

民家の構造も興味深かった。前便所に、ヒシャギ竹、そして屋敷の間取りなど、祖谷地方の特徴が随所に見られて、民家の変遷・歴史を整理する上でも非常に参考になった。ちなみに保存会長さんのご自宅は安永9年に建っている。棟札も拝見させていただきました。

なお、東祖谷山村の集落や民家については、『阿波学会紀要』第53号(総合学術調査報告 三好市旧東祖谷山村 2007年3月発行)に収録されている「三好市『旧東祖谷山村』の民家」に詳しい。この報告を執筆した建築士さんとは、なんと落合の「そば道場」で昼食にそばを食べていたら、偶然ばったり対面することができた。落合の明治34年建築の民家修復で現地に来られていたのだ。偶然とは恐ろしい。そしてありがたい。



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祖谷の蔓橋2

2008年07月25日 | 民俗その他
蔓のアップ。この蔓橋、場所は西祖谷山村善徳。東祖谷山村も含めて、現在は合併して三好市となっている。三好市は面積では四国で一番広い。実際、徳島自動車道の井川池田ICを降りてから、祖谷まで1時間近くかかる。

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祖谷の蔓橋1

2008年07月25日 | 民俗その他
7月22日に徳島県の東祖谷山村に行く。目的は、平成17年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された落合地区に行って、地元の方々のお話を聞くこと。

その東祖谷山村に向かう途中に、祖谷の蔓橋があった。折角なので、渡ってみた。案内看板のよると、昭和30年には国の重要民俗資料となっており、その指定を機に「しらくちかずら」を材として現在まで保存に取り組んでいるとのこと。長さ約45メートル、幅1.5メートル、水面からの高さは橋の中央で約14メートル。

何気なく、渡り始めたが、すぐに後悔。高すぎるは、揺れるは、足元は踏み外しそうで怖いは・・・。高所恐怖症ではない自分ですが、渡り終わるまで終始、手足が震えていました。

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