愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和島の工芸品「魔除けの牛鬼」展示販売中

2012年01月28日 | 祭りと芸能
現在、熊本市のくまもと工芸会館にて九州、四国の民工芸品の展示販売会が行われています。2月2日(木)まで。ポスターに宇和島の張り子細工で、玄関などに飾る用の「魔除けの牛鬼」が大きく紹介されています。地元宇和島では注文製作になるというもので、これが展示即売されるという機会は滅多にありません。制作者は愛媛伝統工芸士の宇都宮計介(よしを民芸店)さん。南予地方の牛鬼、鹿踊りの面、獅子頭など伝統的な張り子細工の伝統技術を継承されている方です。現在では張り子職人は宇都宮さんだけになっています。民俗技術の面からしても重要な文化財の伝承者。江戸時代からの牛鬼、鹿踊りの面の修理、修繕についての技術継承は宇都宮さんが担っているという状況です。彼の製作した牛鬼。今回の展示販売は、祭り用ではなく、贈答用や観賞用で玄関や店先などに飾って魔除けとする牛鬼です。

くまもと工芸会館のアドレスはこちら。
http://www.kumamoto-kougei.jp/index.php/component/content/article/48/203-2012-1-17

なお、ネット上での魔除けの牛鬼の注文は、こちらです。
http://item.rakuten.co.jp/eu-oukoku/c/0000000189/


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安積開拓の史跡~福島県郡山市と愛媛の繋がり~

2012年01月28日 | 災害の歴史・伝承
福島県郡山市に行ってきました。明治時代に愛媛県松山市から安積原野の開拓のため移住、定住した旧松山藩士族の旧跡を見てまわるためです。郡山の近くには私の大学時代のゼミの同級生が住んでいるので、彼と久方ぶりの対面。車を出してもらって、いろいろ案内してもらいました。友人からは地震のこと、直後の断水やガソリン等の物資不足、自宅の被災状況、そして放射線のことなどいろいろ話を聞きながら、郡山市内を車で巡りました。

まず郡山市役所。本庁舎は地震で甚大な被害のため今も使用不可となっています。各課が分庁舎や市内の別の建物に移っての業務。人口33万都市の本庁舎が使えないという現実を目の当たりにしました。私は教育委員会の文化財担当の方に挨拶に行くため、教育委員会が移転している音楽文化交流館にうかがったのですが、狭い部屋にすし詰め状態で並べられた長机での業務。そして職員の皆さんが慌ただしく執務する様子。その部屋の雰囲気に震災から10ヶ月経ってもいまだ大変な状況である事を改めて実感させられました。また、音楽文化交流館内では市民向けに放射線の空間線量を計測するサーベイメータの貸し出しの窓口が設置されて、そこに多くの人が並んでいました。

教委の文化財担当の方から郡山市指定文化財となっている旧小山家住宅や県指定文化財の開成館の被災状況と今後の復旧の予定等をうかがいました。旧小山家住宅というのは、愛媛松山から郡山市牛庭に移住した人の明治時代の住宅であり、移住開拓のシンボルとして郡山市中心地の開成館敷地内に移築、保存されている建造物です。現在、開成館はやはり地震被害のため閉館した状態です。教委では修繕の計画を既に立てており、来年度には再オープンする予定で検討しているようです。

教委にうかがった後、松山の方々が移住した牛庭地区に足を運びました。区長さん、副区長さんが出迎えてくれて、いろいろなお話をうかがいました。今でも松山からの開拓移住者のご子孫も多く、それには驚かされました。そして地元には開拓記念碑なども建てられており、松山との交流の深さを実感。明治時代の安積開拓は明治政府による安積疏水事業によって始まるのですが、その安積疏水(現在は4月26日から9月10日に水が流れるようになっているとのこと)のちょうど上に松山関係の記念碑が建っていました(写真の記念碑がこれです。奥に向かっているのが安積疏水)。水路の上に記念碑というちょっと珍しい建て方に驚かされました。そして地元の神社は三島神社でした。伊予大三島の大山祇神社と繋がりがあるとのこと。社号の扁額は愛媛大山祇神社の宮司さんが書いたものでした。この三島神社。社殿の被害はなかったそうですが、鳥居が倒壊していました。倒れたというよりも固定していた基礎を残して折れた状態でした。これは全く復旧できていません。旧小山家住宅の建っていた場所も教えていただき、いろいろ牛庭を散策しました。地区内は被災した住宅、立て直している住宅、いろいろ地震の爪痕が見受けられました。

このように地元の教委、公民館、区長さん、副区長さん、そしてゼミの友人にいろいろお世話になりながらの見学となりました。お世話になったみなさまありがとうございました。




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愛媛の芭蕉布の可能性と楮布

2012年01月21日 | 衣食住
芭蕉布といえば奄美、沖縄が有名ですが、愛媛にも芭蕉で繊維をとっていたという報告事例があります。

『講座日本の民俗4衣食住』有精堂、1979年、78頁に全国県別の植物繊維の表が掲載されていて、そこに愛媛は楮や芭蕉が紹介されています。この表では芭蕉は愛媛が北限であとは宮崎以南。ただ、この表が作られる典拠がわからないままだったのですが、1964年に刊行された『愛媛県民俗資料調査報告書』の中の南予地方・佐田岬半島での報告に芭蕉の記述があることを最近見つけました。

ただし、芭蕉「布」があったかはわかりません。単に繊維をとっていただけで糸としていただけかもしれません。実際の現物資料は確認されていません。(もしあれば指定文化財の候補になると思います。)

芭蕉布について、私自身、今まで愛媛県内の現地確認をしていませんし、大分、熊本以北の他県の状況も調べていないのですが、上記の表を淡い根拠に勝手ながら愛媛(南予地方)が芭蕉布北限の地であるという、ちょっとした仮説を立てているわけです。

何せ、愛媛県南予地方には芭蕉がいたるところに自生しています。自生というのは正確ではないかもしれません。かつて人間の手で植えられたものでしょう。用途は今では盆の精霊棚に敷くことだったりしますが、芭蕉から繊維をとっていたことも可能性としてはあるはずです。

しかし、大正時代生まれの方に聞き取りしてもわからないでしょう。やはり明治それも明治30年代以前生まれでないと難しいと思います。年齢でいえば大正元年生まれで今年100歳。既にこのことを調べるには遅すぎたのかもしれませんが、最期の悪あがきのつもりで調べてみようと思っています。

あと、「木綿以前」の関連でいえば、楮(コウゾ)の布については現物資料が残っています。「タフ(太布)」と呼ばれ、これは新宮村で明治時代に織られたとされるもので、愛媛県歴史文化博物館でも保管しています。楮布は旧宇摩郡山間部に多く、伊予三島市金砂町でも明治時代までは盛んに織られていて、昭和21年まで細々と織られていたとのこと。昭和21年でしたら、実際に織ったことはなくても実際に見聞きしたり、布が残っている可能性もあります。あと伊予三島市富郷町の明治時代生まれの老婦人が楮布を織った経験があったということです。このことも『愛媛県民俗資料調査報告書』に紹介されています。

このように木綿以前の繊維について、少しアプローチしておかないと、数年後には手遅れになる。そんな危機感を持っています。(ただし、既に手遅れの可能性は大。)


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注連飾りの行方

2012年01月16日 | 年中行事
小正月も終わりました。お正月の注連飾りを処理しないといけません。最近は家庭ゴミとして出しているお家も多くなっています。寺社で処理してもらう、地域で処理する、または山に持っていって木に吊るすなどさまざまですが、写真は数年前に松山市内のある寺社で撮ったもの。このままでははやす(燃やす)こともできません。分別の作業が必要です。

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