愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

新刊紹介『川名津神楽本』

2000年09月29日 | 祭りと芸能

このたび、八幡浜市の県指定無形民俗文化財である川名津神楽・柱松に関する書籍が、地元の川名津神楽保存会から刊行された。364ページにわたる大著で、神楽の種目・台詞がすべて翻刻され、本の後半はこれまでに発表されている川名津柱松・神楽に関する研究成果を掲載している。掲載されているものは次の通りである。
『八幡浜市誌・八幡浜の文化財』、『愛媛県史民俗編下』、大本敬久「厄祓いの構造に関する一考察ー八幡浜市川名津柱松の分析を中心にー」(初出:『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』1号、1996)、守屋毅「柱松素描」(初出:『愛媛の祭りと民俗』雄山閣、1978)、八幡浜高校地歴部「八西地方の神楽」(初出:『地歴研究』21号、1989)、野口光敏「愛媛の年齢集団ー若者仲間覚書」(初出:『伊予の民俗』18)、秋田忠俊「八幡浜の柱祭りと柱松」(初出:『伊予の民俗』5)、大本敬久「川名津柱松」(南海日日新聞連載記事、2000)
私がこれまで書いてきたものも掲載されているが、何と言っても、私が八幡浜高校2年~3年生の時に、顧問赤松環先生(現宇和島東高校)の指導のもと調査をした成果である「八西地方の神楽」が載っていたのは嬉しかった。というのも、この文章の載った『地歴研究』の残部はすでになく、また、この神楽調査が私の民俗研究のスタートでもあったわけで、久々に読み返してみると、感慨深くなってしまう。
さて、愛媛県内には各地に神楽が伝承されているが、神楽に関する充実した書籍はこれまでなかった。今回の刊行は、地元でもその詳細をしられていない祭り・芸能を知ってもらうための書籍としても有用であるし、また、県内の神楽をはじめ各種の芸能研究の刺激になることだろう。

一般にも販売されているようで、一冊2000円(程度だったと思います)。連絡先は、川名津神楽保存会神楽本編集責任者である山本政司さんまで。(山本さんは川名津区長さんでもあります。)あまり部数を刷っていないようでしたので、購入されるなら、お早めの方が良いかと思います。

2000年09月29日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島と愛媛

2000年09月28日 | 地域史

先日、妻が石川県に旅行に行った際に、輪島市にあるキリコ会館というお祭り博物館を見学し、その中の展示風景をビデオで撮影してくれた。キリコとは、能登半島の各地の夏から秋にかけての祭りで、神輿のお供として氏子が担ぐ巨大な御神燈のことである。キリコは切子灯籠からきた名称で、奥能登ではキリコと呼ぶが、口能登では「ホートー(奉燈)」、「オアカシ(御明かし)」と呼ぶ。祭礼の際の明かりとなる御神燈が発展・風流化したものである。
撮影されたビデオを見ていると、キリコだけではなく、石川県指定無形文化財の御陣乗太鼓も展示されていた。この太鼓は輪島市名舟で伝承されているもので、現在では観光用にホテルなどの舞台で演じることが多いという。その太鼓をたたく者は、面をかぶっているのだが、展示されているマネキンには、上着に裂織りを着用していたのである。裂織りは石川県のみならず、日本海沿岸に広く見られるので、その存在自体は珍しくはないのだが、芸能衣装として裂織りが使用されているのに少し驚かされた。
早速、御陣乗太鼓に詳しい名舟の方に連絡をとってみたところ、御陣乗太鼓ではこれといって着用しなければならないというものはなく、日常着で行っていたという。その日常着の中に裂織りもあったのではないかということであった。また、昭和40年頃までは刺し子の仕事着を山着として着用していたといい、それを太鼓で使うこともあったという。
裂織りが芸能や祭礼衣装として使用される例は、愛媛県内では西宇和郡三崎町の二名津の春祭り(2月11日)で、昭和30年代までは牛鬼を担ぐ者が着用していたというが、これは、裂織り(地元ではオリコという)が丈夫であるため、担ぐ際に肩にやさしいからだと思われる。この使用例も特に祭礼の中で伝統的で、決まりきったものではないようだ。裂織りを伝統的な祭礼・芸能衣装として使用している例が全国的に見て、あるのかどうか知りたいところである。
ところで、能登の祭礼は愛媛と同様、地域差が激しく、また豪華であり、興味が惹かれる。100カ所近くあるキリコ祭りだけでなく、七尾市や羽咋市およびその周辺地域に現在でも300カ所余りの地区で獅子舞が演じられており、獅子舞の濃厚な分布地域としても知られている。また、中能登の枠旗祭り、お熊甲祭り、総輪島塗りの山車の登場する輪島の曳山まつり(4月5,6日)、デカ山と呼ばれる巨大な山車3基が出る七尾市の青柏祭(5月3~5日)などなど。面白いのは、獅子舞が濃厚に分布する地域、キリコの盛んな地域は色分けできるようで、愛媛の東予の祭礼の太鼓台・だんじり文化圏と継獅子文化圏に類似する芸能と山車の棲み分けが見られる。(愛媛では豪華な太鼓台の分布する新居浜、宇摩郡域では、他地域に比べて民俗芸能が極端に少ないという傾向がある。これは太鼓台に力を注ぎすぎて、芸能にまで手が回らなかったということか?)
能登は京都を中心として同心円状にみると、京都からは愛媛と同距離になり、周圏論的にみると、類似した民俗事例が確認できる可能性がある。また、能登は海上交通の栄えた場所であり、かつては北前船で大坂、瀬戸内との交流もあったはずである。愛媛の側でも、詳細は忘れてしまったが、東宇和郡明浜町のある神社に石川県の者が奉納した玉垣が残っているのを見たことがある。このように能登の祭礼や民俗を眺めていくと、愛媛の文化を調査する新たな視点を見いだせるような気がしている。勝手な推測であるが・・・。

2000年09月28日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地芝居の振付

2000年09月24日 | 祭りと芸能

坂本正夫氏「高知県の農村舞台と地芝居」(角田一郎編『農村舞台の総合的研究』1971年所収)の中で、高知県における地芝居の手付、振付のことが紹介されている。「太夫三味線、手付、振付などは他所から玄人を招くことが多かった。これは地域によって招く所が大体決まっていたようである。室戸地方では地芝居の中心地である三津、椎名、佐喜浜などにいたが、遠く高知市や徳島市から玄人を招くこともあった。津野山地方では土佐戸波、高岡郡越知町、高知市などからも招いたが、愛媛県八幡浜市や大洲市などからもよく招いていた。」とある。高知の地芝居に愛媛の八幡浜や大洲の者が参加していたというのである。このことを、8月に坂本先生にお会いした際にご教示いただき、八幡浜の地芝居史料を読み直してみた。高知方面に手付、振付が行っている史料は見あたらないが、八幡浜市穴井で行われていた穴井歌舞伎の「芸題録」によると、明治35年正月に「菅原伝授手習鑑」などが上演された際の振付が土佐の嵐三津十郎であったと記載されている。この「土佐」が現在の高知市なのか、津野山地方なのかはわからないが、高知方面からも振付が来ているのである。愛媛から高知というような一方通行の交流ではなかったようである。
なお、この穴井の「芸題録」によると、振付は、土佐からだけではなく、別府稲荷町、西国東郡真玉村(大分県)、川之石(愛媛県保内町)、御荘(愛媛県御荘町)から呼んでいる。広範囲な交流があったことがわかる。

2000年09月24日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遍路道の世界遺産化活動

2000年09月24日 | 信仰・宗教

昨日9月23日、四国遍路道をユネスコ世界遺産に登録しようと活動をする「四国へんろ道」世界遺産化の会の設立総会が愛媛県松山市内で行われた。この会の設立の準備にあたっては、会の代表世話人である仙遊寺住職小山田憲正氏をはじめ、各方面、様々な人たちが準備にたずさわり、昨日の設立総会にこぎつけた。この会では、遍路道が癒しの道であり、人間性回復の場であること、また、もてなしの心をはぐくむ道であること、生活文化の交流の場であること、豊かな自然を持つ環境保全の舞台であることを強調し、世界遺産化を推進しようとするものである。会では今後、世界遺産化された原爆ドームなどの視察や、ホームページの開設、ミニ四国霊場の実態調査などを行う予定とのこと。今後、活発なPR活動も行われるようで、遺産化へ向けてなんと200万人の署名を目指しているという。今回、遺産化しようとしているのは、「四国八十八カ所」(つまりそれぞれの札所・霊場)ではなく、札所・霊場を結ぶ「遍路道とそれに付随してくる文化」のようである。このような巡礼道として世界文化遺産に登録されている例としては、1993年に登録されたスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼道がある。サンティアゴ・デ・コンポステラはイベリア半島の西端に位置する人口13万人の中規模都市で、9世紀の聖ヤコブ(サンティアゴ)の墓の近くに作られたガリシア地方の政治・行政の中心で,キリスト教の巡礼地である。スペイン北東部の観光・文化の中心で、「古都サンティアゴ・デ・コンポステラ」、「サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼道」が世界遺産に登録されている。この巡礼の道は、聖ヤコブの遺体が見つかって以降、ヨーロッパ各地からこの町へ多くの巡礼者が訪れ、多い時には年間50万もの人たちが、同地を目指して歩いて来たという。ただし、この巡礼道の登録は1993年であるが、それに先立つこと8年前の1985年にサンティアゴ・デ・コンポステラの町自体が登録されていることを忘れてはいけない。単に「道」が登録されているわけではなく、信仰の中心地である大聖堂を核として登録されているのである。この点が「道」を前面に押し出そうとする四国遍路道とは異なっている。
そもそも、世界遺産とは、1972年に第17回ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)総会で採択された条約「世界遺産条約」(正式名称は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」)により制定されたもので、現在、日本では、法隆寺地域の仏教建造物(Buddhist Monuments in Horyu-ji Area 1993) 、姫路城 (Himeji-jo 1993)、白神山地(Shirakami-Sanchi 1993)、屋久島(Yakushima 1993)、古都京都の文化財( Historic Monuments of Ancient Kyoto)、白川郷・五箇山の合掌造り集落( Historic Villages of Shirakawa-go and Gokayama 1995)、広島平和記念碑(原爆ドーム)( Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome) 1996)、厳島神社(Itsukushima Shinto Shrine 1996)、古都奈良の文化財 (Historic Monuments of Ancient Nara 1998)、日光の社寺(Shrines and Temples of Nikko 1999)が登録されている。また、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」、「彦根城」、「鎌倉の社寺」が登録準備中となっている。
世界文化遺産の登録基準であるが、日本ユネスコ協会連盟のHPによると、 Ⅰ.人間の創造的才能を表す傑作であること。 Ⅱ.ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に大きな影響を与えた人間的価値の交流を示していること。 Ⅲ.現存する、あるいはすでに消滅してしまった文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。 Ⅳ.人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体、あるいは景観に関するすぐれた見本であること。 Ⅴ.ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地利用の一例であること。特に抗しきれない歴史の流れによってその存続が危うくなっている場合。Ⅵ.顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連があること。以上の6項目が挙げられている。
この項目を見ると、四国遍路道が実際に世界文化遺産に登録されるためには、遍路道とそれに付随する文化は当然のこと、札所・霊場の建造物、仏像などの仏教芸術なども含めて四国遍路文化総体として取り上げることが理想のように思える。ただ、会は発足したばかりである。今後のこの会の活動の方向性に注目していきたいと思う。

2000年09月24日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和同開珎と駒曳銭

2000年09月23日 | 祭りと芸能

昨日、八幡浜市の福祉会館で行われた水本正人氏の講演「猿廻しについて」を聴講した。10月に八幡浜に周防猿廻しの村崎氏(先般NHKの人間大学「宮本常一の世界」でも紹介された方)が来る予定があり、その準備のための講演であった。
猿廻しは、日本では平安時代にまでさかのぼるとされ、中世以降は『吾妻鏡』や『融通念仏絵巻』などにも見える。馬の守り神として厩祈祷をし、また、江戸時代末期までは朝廷の新春をことほぐ猿舞として上覧に供されていた。もともとは神事芸能であったものが、後に舞台芸能化し、紆余曲折を経て、近代以降は周防猿廻しのみが継続している。
水本氏によると、江戸時代の猿廻しについては、伊予国関係では史料が今のところ見つかっていないという。私の調べたところでも見あたらない。ただし、宇和島藩の田苗真土亀甲家文書の安政5年4月、人数御改牒によると、「猿廻 右同断(此類当村中無御座候)」とあり、項目として猿廻が登場している例はある。これは宇和島藩全体での調査であり、藩の設定した項目であろうから、宇和島藩内に猿廻が存在していたのかもしれない。
さて、昨日の講演の中でかつて民放で放映された日本、中国、インドの猿廻しの紹介ビデオが紹介された。そこで、猿が馬の守り神的な存在であることを示す資料として和同開珎の裏にレリーフされた馬をひく猿が映像の中にでていた。猿が馬の守り神とされる信仰は、中世以降に盛んになったものであり、和同開珎にそのような造形があるはずがないと思い、私は驚いてしまった。調べてみたところ、やはり奈良時代に鋳造された和同開珎の裏側には何も描かれていないようだ。あの映像は間違いなのか、それとも近世に流行した絵銭の一種である駒曳銭なのだろうか少し気になった。絵銭といえば、赤坂一郎編『日本の絵銭』を参照すればすぐに解決するのだろうが、あいにく、この本は手元にもなければ、愛媛県立図書館、愛媛大図書館にも所蔵されていない。駒曳銭などの絵銭は、流通貨幣として使用されたものではなく、お守りあるいは子供の遊び道具などとして製作されたものだが、表が「和同開珎」と描かれているため、どうも気になって仕方がない。

2000年09月23日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊万里市のトンテントン

2000年09月22日 | 祭りと芸能

佐賀県伊万里市では「トンテントン」という秋祭りが行われる。伊万里供日(くんち)とも呼ばれるものだが、毎年10月22~24日に行われる伊万里神社の神幸祭のことである。この伊万里神社は昭和40年に香橘神社と戸渡島神社が合祀したもので、祭りでは荒神輿と団車(ダンジリ)の鉢合わせが有名である。団車の形状は、1メートル四方の櫓の上に青、黄、赤、白、黒の五色の布団屋根をのせ、中央に太鼓を据えるという典型的な布団太鼓である。祭りの名前の「トンテントン」は、団車の打ち込み鳴らす太鼓の音から来ているといわれる。
この太鼓の音については、愛媛県内の新居浜太鼓台の音が「ドンデンドン」と表記され、伊万里の「トンテントン」と類似している。また、山口県熊毛郡の上関町の布団太鼓は、太鼓の音から「ドンデン」という名称で知られている。各地の布団太鼓の音の表記が類似しているのは、布団太鼓の伝播と関係しているのかもしれない。西日本各地に分布する布団太鼓について、この太鼓の音の表記を丹念に調べてみると、伝播の諸相が見えてくるのではないか。

なお、伊万里のトンテントンの祭礼日程は、10月22日が宵宮で、神輿と団車が神社を出て市内を巡行し、2カ所で鉢合わせをする。23,24日は終日市内巡行。そして24日の夕方に伊万里川で神輿、団車が川落とし合戦をし、双方組み合ったまま川に落ちる。早く陸上に引き上げたほうの勝ちという。この行事が終了して宮入りとなる。

2000年09月22日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新刊紹介『現代に息づく伝統としての四国遍路』

2000年09月11日 | 信仰・宗教

「Traditional Shikoku Pilgrimage in the Modern Context」(現代に息づく伝統としての四国遍路)という遍路ドキュメンタリーを綴ったCD-ROMが、このたび創風社出版(愛媛県松山市)から刊行された。撮影者はKeith Kenney(キース・ケニー)。アメリカ・サウスカロライナ州立大学ジャーナリズム学部準教授で、フォトジャーナリストとしても活躍している人物である。TextとTranslationはJunko Baba(馬場順子)。同じくサウスカロライナ州立大学助教授である。
内容は、各約2分程度の遍路に関する映像(撮影・キース・ケニー)15編で構成されており、それぞれに詳細な英文解説(文・馬場順子)が加えられている。また、和文英文併記のテキストも付属しており、その中に用語解説も含まれているが、外国人から見た眼を通して、「日本人にとってはあたり前になってしまて見落としてしまいそうな」遍路の世界を捕らえ、「もう一度外から見た日本の再発見をして頂きたい」という意図のもと制作されたものである。
さて、15編の映像それぞれを見てみた雑感をここで記しておきたい。

1 四国遍路 Introduction to Shikoku Pilgrimage
四国遍路に関する様々な事象を静止画のコマ送りで紹介。寺に向かう歩き遍路、寺で鈴を鳴らして合掌する姿、納経帳への授印、接待をする人々、顔を朱で塗られた地蔵菩薩、寺の近く(もとの神宮寺か)の拝殿に飾られた注連縄から垂れた幣、札所前に止められた一台の乗用車とその中に置かれた菅笠、高野山奥の院に奉納された巨大なコーヒーカップなどの画像が流れ、本編への導入として、伝統的な遍路の姿と現在の四国遍路の様相を描き出そうとしているように見える。
映像中で流れる音は般若心経、寺の鐘の音、鶯の鳴き声のみ。静寂さを意識しているようだが、これは全編を通していえることである。

2 敬虔な祈り Reverential Prayer
71番札所弥谷寺にある洞窟内の堂で、お経を唱える遍路の一団の映像。涙を流しながらお経を唱える姿に、敬虔な信仰というあるべき姿を垣間見たという。映像からは何の涙かはわからない。しかし、弥谷寺は、死者の霊が集まる山中他界の観念があり、弥谷参りといって死者供養のための参拝が盛んである。涙を流す遍路も亡き人の供養のため必死にお経を唱えているのかもしれない。そういったことを示唆させてくれる映像である。
導入の次にこの映像を持ってくることは、撮影者がこれを遍路の本来の姿であり、また核心部分であるととらえているのだろう。

3 「笑い」の接待 "Laughter"Settai
徳島一国参りをするバス遍路が薬王寺の宿坊に泊まった折りに、夕食後の余興として、バスのツアーガイドが「オカマショー」を披露し、遍路達は爆笑の渦となる。ガイドはこれを遍路に対する「笑い」の接待と考えているらしい。「笑い」は多忙でストレスの多い現代社会では心の癒しとなるとともに、新たなエネルギーを人に与えてくれるもの。解説では「リストラ等で笑顔が消えつつある現代の日本社会の中で、笑顔や笑いは最高の形での『お接待』なのかもしれない」と述べている。また、日本人は生真面目一辺倒と国際社会では一般的なレッテルが貼られているが、我を忘れて阿呆になりきって楽しむというのが日本人気質ではないかとも述べ、このオカマショーも一見モダンなパフォーマンスに見えるが、実は日本の伝統に根付いたものなのではないかと言っている。
儀礼的に笑いと遍路が結びついている事例を私は知らない。しかし日本の伝統的な旅である寺社参詣、たとえば伊勢参り、金毘羅参り、大山参りなどは、神仏祈願だけではなく、寺社周囲の街に滞在して遊興に浸ったり、はては乱痴気騒ぎをしたりと、旅には遊びの側面が必ず見られるものである。ところが例外的に伝統的な四国遍路には遊びの要素が少ないというか、見られないと思っていた。それは遍路が修行、死者供養などを元来の目的とし、その側面が強調されたためなのだろうか。現代の遍路にも「遊び」は見えず、遍路の「笑い」は表立って出てこないように感じるのだが、映像を見ていて、この「ように感じる」がクセ者に見えてきた。遍路はそのように見せる仕掛け(というより、「遊び」や「笑い」を表に見せない仕掛け)があり、実体はそうとは限らないののではないか。儀礼的に遊びや笑いはなくとも、個々の巡礼中にはそれなりの遊びがあり、笑いがあるのかもしれない。ただし、その実体については、私自身、遍路の旅に出たことがないのでよくわからないのだが・・・。

4 清水の癒し Healing with Sacred Water
映像は水面から始まる。(水面には蓮の葉が浮かんでいる。)次に水の張られた田んぼでの田植えのシーン、1番札所の霊山寺境内にある滝、手水鉢に流れ込む水を取る遍路が紹介される。
田植えのシーンが出てくるが、私はなぜここで田植えを紹介するのか最初不思議に思った。解説文によると、仏教で悟りを象徴する蓮は、池の泥水を吸ってもなお、純白の花を咲かせる。昔は托鉢をするお遍路さんにお接待として一握りの米を施すのが習わしであったが、このお米は、蓮のように泥に水を張った水田で育つと説明されている。この蓮と米を結びつけて考えているようだ。
ただし、泥を世の中の悪になぞらえているように思えるが、田んぼの泥についてもそのようにとらえることができるのだろうか。泥という悪と、清水という善の中から育まれて稲は成長するという解釈だろうか。正直、「西洋っぽい」感覚だとも思ったが、否定もできないところもある。「顔に泥を塗る」の泥は明らかに悪、恥、罪、汚れをイメージさせるし、民俗儀礼の中でも、御田植祭りにおいて、ダイバンという鬼が田んぼの中に、周囲の者を落として泥まみれにさせるという例(つまり、ダイバンという鬼が泥=悪のシンボルという解釈が成り立たないわけではない)があるように、この「西洋っぽい」感覚で解釈できる事例も探せばありそうだ。本編の主題は清水であるが、むしろ泥に対する感覚に興味がひかれた。

5 遍路儀式 Pilgrims' Ritual
遍路が札所に着いてからの参拝の儀礼を順を追って紹介している。
このCD-ROMの内容は先日、フィンランドで行われた国際学会International Conference of the European Association of Japanese Studiesでも発表されたというが、本編は四国遍路の巡拝方法の紹介であり、外国人が遍路を知る上で最もポピュラーな映像となったのではないか。(実は、これも日本人感覚で、実際はそうではなかったりして・・・。)

6 洞窟からの悟り Enlightenment Through the Cave
映像は暗から明へというコントラストが印象的。洞窟という闇の空間に一度行き、そして洞窟から出て、再びこの世に戻ってくる。死と再生をイメージさせる映像。まさにエリアーデが解説した世界のようだ。
映像は洞窟から出てきたシーンで終わっているが、解説文では最後に「この洞窟を通り抜けるという宗教的経験を経た後、お遍路さん達を待ち受けているものは、交通騒音という世俗の世界。これが現代の悟りへの道なのだろうか。」と付け加えている。

7 山門への遍路道 Narrow Passage to the Mountain Temple
歩き遍路が岩屋寺の山門まで歩いて登るシーンを紹介しているが、映像の中ではまず遍路のお経の声が流れ、次に鈴の音、そして山門前の松の枝を剪定している庭師のハサミの音、山門で僧侶が拍子木を叩く音、という具合に、音のリレーとなっている。
この映像に限らず、全編とおして言えることだが、撮影者は音を遍路にまつわる音を、かなり意識しているように思える。いや、意識せざるをえないほど、遍路に関する音が印象的だったのかもしれない。馬場氏がまえがきで、「A narrow pilgrimage path stretches into nature and Japanese pilgrims walk in silence on their quest」という文章を紹介しているように、遍路のキーワードを「自然」、「静寂さ」ととらえている。その静寂さを強調してくれるのが遍路の鈴の音であったり、鶯の鳴き声であったり、流れる水の音であったりするのだろう。
さて、遍路はなぜ「静寂さ」をイメージさせるのだろうか。これは先に述べた遍路には遊びや笑いの要素を表に見せない仕掛けがあると推察したこととも関連してくるのだろう。今、ここでは結論は導き出せない。今後、考えて行くしかない。

8 自然とのふれあい In Touch with Nature
浄瑠璃寺の住職が、自然の草木を用いて生け花をしているシーンが流れる。「花屋で買ってきた花を花瓶にいける西洋式のフラワーアレンジングになれ親しんでいるキース・ケニーにとって、自然のありのままの素材を取り入れて花器に生けていく日本の生け花は新鮮な発見だった」(解説文より)
自然の素材を生かしながら生きている日本人の姿を見たのだろうか。自然とふれあい、脳裏の中で自然をイメージするだけでなく、一体化することができていると見たのだろう。ステレオタイプな西洋・日本の自然との接し方の違いの紹介ではあるが、遍路のキーワードである「自然」を実感する感覚は、現代の日本人ではなく案外、西洋人の方が強いのかもしれないとも思った。

9 室戸岬 Cape Muroto
弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を行い、悟りを開いた場所である室戸岬から海を眺めたシーンが流れる。海に沈みゆく夕日の映像がまず流れるが、これは空海の悟りを象徴したものだろう。次に岸に打ち寄せる波が撮され、その後、海岸で遊ぶ子供の姿が撮される。打ち寄せる波は「時」を、子供は「現代」を意味しているのだろうか。空海が悟りを開いてからの千年以上の年月を映像で紹介しているようにも見える。

10 三味線の集い Shamisen Lesson
島四国で有名な愛媛県大島の民宿で、女将や近所の主婦が三味線の練習をしている場面の映像である。大島は春に島四国に訪れたお遍路さんに接待を行ったり、宿を提供する善根宿の風習がいまだ行われているところである。その接待を行っている女性達が、三味線を練習しているところを見て、大島の人達が「お接待」だけではなく、日本の伝統芸能の伝達者であるかに見えたようだ。
ただ、「お接待」は、地元において世代を越えて伝承されてきた文化であるのに対し、「三味線」は地域間で伝承されてきた伝統ではなく、言ってみれば外からもたらされた伝統である。
「伝統」という言葉の中身は複雑であるが、英語の「tradition」の意味するものと同じなのか、相違しているのか知りたいところである。

11 横丁の伝統芸能 Traditional Crafts Around the Corner
香川県の善通寺近くの古い町並みに残る伝統産業(伝統工芸)を撮った映像である。こういった伝統工芸の類が、「現代化、西洋化が進められる前の『古き良き日本の姿』に郷愁の念を抱くお遍路さん達の心を満たしてくれる違いない」(解説文より)と述べている。ただ、私の感覚からすると、遍路の心を満たすのは、伝統工芸よりもむしろ、接待などのような地域内で伝承されてきた伝統の方ではないかと思ってしまう。前編の「三味線の集い」と同じく、「伝統」という概念について深く考えてみたくなるのだが・・・。

12 お接待再考 Another Meaning of Settai
タイトルがAnother Meaningなので、お接待の「別の意味」ということか。
本編では、室戸岬の海岸で、磯焼きを楽しんでいる一行を撮した映像が流れる。この一行は、長くつき合いのある会社のお得意さんへの「接待」だという。ビジネス上の接待(接待ゴルフなど)なのだが、このようなものでも、労をねぎらってもてなすという本来の「接待」の精神があり、そのまま四国の地に根付いているように思えると解説している。

13 夜空の鯉のぼり A Prayer to Carp Flag
漁港の海岸線に沿って空高く泳ぐ鯉のぼりの映像が流れる。この映像と遍路を結ぶものは何なのか、この映像の意図しているものは何なのか、最初に見たときには正直言ってわからなかった。解説によると、鯉のぼりには漁師達の大漁への祈りと、息子が末永く健康で家業を継いでいってくれるようにという祈りが込められているが、漁師の仕事は常に自然と向き合っており、自ずと宗教心がはぐくまれ、中には弘法大師信仰にあつい人も多く、遍路への接待をする人も多い、ということらしい。鯉のぼりが大漁祈願というのにはしっくりこないところもあるが、外国人の眼からは、魚の造形を空中にかかげる鯉のぼりの光景が、自然と向き合っている人たちの信仰の所産と映ったのか。自然と信仰の調和という意味で、遍路と鯉のぼりを関連づけて見たのだろう。

14 お接待今昔 Settai Past and Present
20秒という短い映像だが、霊山寺で、20年にわたって「お接待」をしている老婦人の様子を映し出している。一つ一つ丁寧にお遍路さん用の賽銭袋を手で編み、縁起物の5円玉をつけてお接待の品とする。今日では珍しくなった手づくりの品の接待である。解説ではこれを「次の世代にも残していって欲しい四国の風土が生んだ心の遺産」と言っている。
確かに、これほど心のこもった接待はないのだが、こういった姿は現代では稀になってきているのだろう。近年、地域おこしの一環として接待を復活させた事例があると聞くが、こういった接待は、自らの信仰心が一義となっているわけではない。
この映像を見て、信仰心を端に発した接待がいつかは消えてなくなり、イベントとしての接待が多くなって、四国遍路の姿が見た目は変わらなくても、中身が少し味気ないものになってしまうのではないかという危惧を感じた。

15 ノスタルジアへの誘い Commercial Invitation to Nostalgia
最後の映像は、遍路ではなく、京都大覚寺で行われた白拍子の舞の様子である。白拍子が灯された蝋燭の火を扇であおぐシーンで映像は締められるが、それは伝統的な四国遍路の姿が、現代においても揺られつつもなお、火を灯しているかのように生き続けていることを表現しているようにも見える。

この15編の映像の主題は「現代に息づく伝統としての四国遍路」である。では、何を伝統と表現しているのかというと、集約すると「自然との調和」、「接待の心」の2つになるのではないか。観光化され、現代的イメージの強くなっている四国遍路ではあるが、キース・ケニーと馬場順子両氏は、四国に根付いた遍路の伝統文化を、日本人とは違った側面から見て、我々に気づかせてくれる。しかも、この映像とテキストが、この四国の出版社(創風社出版)から刊行されたことは貴重であり、地元の文化を、内からの眼と外からの眼の両面で見るきっかけを与えてくれたのではないだろうか。

2000年09月11日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珊瑚の奉納

2000年09月09日 | 信仰・宗教
昨日、八幡浜市大島へ船で渡って、島内を散策してみた。その際、若宮神社の境内に数多くの珊瑚が積まれているのを見つけた。手水鉢の脇に山積みされており、長期間、雨ざらしで放置されていたようで、一見、普通の石かと見誤ってしまいそうなほど、表面は汚れていた。古くに地元の者が神社に奉納したままになっているのだろう。ただ、これを見つけたのが船の出航15分前と時間が限られていたので、地元の人に珊瑚奉納の話を聞くことができず残念であった。
神社境内に珊瑚が供えられる例は、宇和海沿岸ではよく見ることのできる光景である。西宇和郡三崎町正野にあるエビスの祠にも珊瑚が供えられていたのを見たことがあるし、隣町の瀬戸町足成(あしなる)の八幡神社の境内社恵美須社の拝殿の前にも供えられている。南予地方の海岸部ではそう珍しくない光景で、私もこれまで一つ一つ記録することなく、見過ごしていたのだが、珊瑚はかつては貴重品であり、神社への奉納物の一つとして注目しておく必要があるだろう。(ちなみに、珊瑚については明治時代の漁業絵図である愛媛県立図書館所蔵『漁業図説並びに解説』に珊瑚採りの絵が含まれている。宿毛湾で行われていた珊瑚漁の様子を描いたもので、愛媛県史民俗編の口絵写真にも紹介されている。)
さて、神社の奉納物の代表的なものに絵馬があるが、真珠やオーストラリア貝を飾った絵馬を海岸部の神社ではよく見ることができる。いずれもその生業の盛興を祈願してのものである。珊瑚の奉納については、網漁でたまたま引き上げたものを綺麗だからといって供えたのか、珊瑚漁の豊漁祈願として供えたのか、どちらなのだろう。佐田岬周辺では珊瑚の密集率は低いというが、この地方でも珊瑚漁が行われていたのだろうか。
珊瑚の奉納の意味について今後調査してみたいと思うようになってきた。

2000年09月9日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義援金と義捐金

2000年09月06日 | 民俗その他
三宅島の噴火により島民が島から避難したが、同時に三宅島災害の義援金のお知らせがマスコミを通じて頻繁に目に付くようになった。この「義援金」という言葉を聞くと、いつも思い出してしまうのは、私が学生時代に大正時代の新聞を読みあさっていた時、関東大震災の関連で「ギエンキン」募集の記事が数多く出ていたことである。また、夏目漱石の『我輩は猫である』の中でも確か東北地方の凶作で「ギエンキン」を出したという文章があったと記憶している。ここでカッコ付きのギエンキンとしたのには訳がある。それらに載っているギエンキンの漢字が、現在の「義援金」とは異なるのだ。大正時代の新聞記事や『我輩は猫である』の場合、「義捐金」の字を使っている。内容は同じであろうが、「援」は援助の意味、「捐」は捐てる、捨てるの意味である。捨てることから援助することへ、ギエンキンの意図も変化したのだろうが、いつから「義援金」を用いるようになったのかは調べていないのでわからない。日本国語大辞典を見てみると、漢字は「義捐」をあてている。「慈善や公益、災害に対する救済などのために金品を出すこと。また、その金。ほどこし。」とあるが、現在はこの行為を「すてる」こととするのに抵抗があるのだろう。現在、「すてる」という言葉はマイナスイメージを帯びているようだ。「ほどこし」に「すてる」という意味を付帯させると、何やら無責任な行為、つまり、私はこれだけほどこしを与えますが、あとは知りませんよ、とでも言っているようなものだろうか。「義捐金」を使用しなくなったのは、その言葉に、施す側の無責任さが内包され、それに気づいたため、「捐」を援助の「援」に代えてしまったのだろう。(誰が代えたのか。誰が代えようとしたのかは知らない。)
捨てるといえば、「喜捨」という言葉がある。もともとは仏教用語だと思うが、修行僧に対して施与することで、これを広義にとらえると、豊かな者が貧しき者に対して自分の財産を分け与えることといえる。これも単なる貧者や困窮者に対する同情や憐れみととらわれがちだが、仏教では施与者が、財物への執着から離れるために行われる行為という意味合いが強く(まさに一遍の世界!)、それが功徳のある行為と考えられていたのである。かつては「義捐金」も単なる同情、憐れみから発生して、そこから「すてる」という意味の文字が用いられたのだろうか。
私はそのようなことより、「すてる」という意味の変容が、この文字の変化をもたらしたのではないかと思っている。かつての「すてる」は、ゴミを捨てるにしても、リサイクルが可能だったように、社会構造の中で還元されていた。喜捨にしても同じ社会の中で、富と貧の差を平等にするための一種の宗教的作用だったといえるのではないか。これも同じ社会構造の中で行われていることである。ところが、現代の「すてる」は社会からの排除が前提になってしまっているように思える。ゴミ問題も共同体からの排除意識が根源にあり、「捨てる」が、社会から逸脱させる行為となっているように見えてならないのだが。
以上のような背景があり、「義捐金」は現代では受け入れられず、「義援金」となったのではないだろうか。
愛媛の伝承文化とは、関係のないことだが、最近のテレビを見ていて、このようなことを考えてみた。

2000年09月6日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五反田柱祭りと「伝統」

2000年09月04日 | 年中行事

松明投げで知られる八幡浜市五反田のお盆(8月14日)の伝統行事「五反田柱祭」の衣装が、今夏の祭から新調された。戦国時代の合戦シーンをイメージした衣装で、関係者は「衣装の新調を機に八幡浜の柱祭を全国にPRしていきたい」(愛媛新聞上でのコメント)と意欲をみせているようだ。柱祭りは、県指定無形民俗文化財で、約400年前の戦国時代に、土佐の長宗我部氏の軍勢と見誤って殺された修験者金剛院の霊を鎮めるために始まったと一般にはいわれている。高さ約20メートルの杉柱の先端にあるじょうご形の直径約30センチのかごを目がけて、麻木を束ねた「ガラ」に火をつけて放り上げ、かごの中で燃えるまで続けられる。衣装は火入れ競技に参加する選手が着用するもので、柱祭保存会(木綱貞道会長)が宝くじ助成金などを受けて作ったとのこと。従来は半てんにヘルメット姿だったが、これは昭和40年代始めに青年団の意向により始められたもので、それまでは普段着で特にヘルメットも着用していなかったという。この柱祭りは現在、戦国時代と結びつけて考えられているようで、また、今後も「戦国の祭り」的なイメージで売り出そうとしているように見受けられる。
私は実はこの五反田の生まれであり、幼き頃より柱祭りの歴史には興味があった。(大学生の時には実際に火投げに参加したこともある。)私が子供の頃に聞いた話は、こうである。戦国時代に元城という城が元井の山にあって、そこに仕える山伏がいた。名前は金剛院。彼が九州に修行に行っている最中、土佐の長宗我部氏が攻めてくるというので、急ぎ元城に白馬に乗って帰還したところ、味方に敵方と間違えられて射られてしまった。その後(この期間が射殺後すぐというよりも、少し時代が経てから、つまり江戸時代になってからと子供ながらに認識していたが)、五反田に悪い病気が流行り、地元の人はこれは金剛院の祟りに違いないといって、彼の霊を供養するために、柱祭りをはじめた。以上。
柱祭りはよく400年の伝統のある行事といわれる。それは、この祭りが戦国時代に始まったと認識されているからだろう。ところが、先日、五反田の氏神である湯島神社の倉庫の中に入る機会があり、そこに、昭和30年代の五反田区の文書箱があり、種々の区内の行事に関する記録を見ることができた。中でも興味深かった文書を一つ紹介しておく。
昭和36年8月2日五反田区長文書より
柱祭は「全国的にも珍しい行事として、漸く脚光をあび圧倒的な人気を博しております。然しながら御承知の様に多くの故事が時代と共に忘れさられて居ります現状をみて一抹の淋しさを感じて居ります」、「さて、130年の伝統をほこる奇祭”柱祭”本年も愈々8月14日五反田河原において」云々
この文書からは、昭和36年の段階で、すでに祭りの伝統が忘れられかけている危惧が見受けられることと、柱祭りの伝統が400年ではなく、130年となっているところが面白い。130年とは具体的な年数であり、江戸時代後期にはじまったことを示している。この昭和36年段階では、明治時代初期生まれの人も生きていたわけで、もう聞くことのできなくなった柱祭りに関する古い話も伝わっており、起源についても明確だったのかもしれない。ところが、柱祭りは昭和40年前後に県の指定文化財となり、ますます脚光をあび、昭和50年代からは場所を本来の五反田川原ではなく、公園グランドで行うようになり、競技化、観光化されていった。この過程で、正確な起源伝承は途絶えてしまい、新聞やテレビなどのマスコミが伝える「400年」、「戦国時代」の言葉に影響されて、「柱祭りは、400年前に始まった」という新たな伝統を創出していったのだろう。
こういった祭りの伝統が近年になって創出される事例は数多い。例を挙げればキリがない。上記の内容を今、五反田で声高く言ったら・・・。衣装を戦国風に新調した今、実は戦国時代ではないんじゃないですか、なんて言えない、言えない。実家の親にも窘められてしまった。史実と伝統の相違はよくあること。史実至上主義の立場はとらず、伝統が創出されていっている現在を客観的にとらえて、今の柱祭りの状況を長期的に観察してみようという立場に私は立とうとしているのだが・・・。

2000年09月4日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和霊信仰と二十三夜

2000年09月03日 | 年中行事
先日、越智郡岩城村を訪れた際に、亀山八幡神社の祭礼の際にお旅所となる「厳島」という場所(現在厳島神社が祀られているわけではない)に「和霊神社」という文字が刻まれた石碑が立っているのを見つけた。これはそう古いものではなく、大正3年6月23日に稲本幸次郎が立てたものということが銘文からわかった。この稲本氏は村内のいたるところの社寺に寄進しているようで、玉垣等に頻繁に見られる名前であった。村内の人に聞くと、京屋といって、かなりの分限者だったらしい。和霊神社とは、当然、宇和島の和霊さまのことである。西日本各地に和霊信仰圏は広がっているが、岩城も例外ではないようだ。
和霊信仰の盛んなところでは、蚊帳待ちの習俗(和霊神社の祭神山家清兵衛<読みはヤンベセイベエ>が6月23日に蚊帳の中で暗殺されたことから、この日には蚊帳に入ってはいけないというもの)があることが多いのであるが、岩城の80歳以下の年齢の人からはその習俗の存在を確認することができなかった。ところが、80歳以上の方からは、やはりその話を聞くことができた。戦前には、月が出るまでは蚊帳に入らなかったというのだ。蚊帳待ちについては『愛媛県史』民俗編の中で、佐々木正興氏が、祭日に蚊帳を吊らないで寝ると種々の利益があるというのが基本的な型で、瀬戸内一帯では、二十三夜待ちの習俗と習合して、蚊帳を吊らずに夜明かしをしたり、月の出まで起きている型が生じたことを述べているが、岩城の事例はまさに月の出を待つ月待の習俗と混同されている。ところで、地元の古老はこの日のことを「サンヤ」と言った。おそらく二十三夜のことであろう。つまり陰暦23日の夜の月待行事。23日の夜に社寺の籠もり堂や当番の家に集まり、念仏を唱え、歌い騒いだり、餅をついたりして月の出を待つものであるが、古老はこうも言った。サンヤの語源は和霊の祭神は「山家」(サンヤ)と呼べるからだと。私はナルホドとうなずいたものの、見事なこじつけだとも思った。実際、そうなのかもしれない。村の人が実際そのように認識していたのならば、史実は別としてそれを受け入れなければいけない。和霊信仰と二十三夜が、行事内容のみならず、名称でも習合していることに驚かされたのである。

2000年09月3日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南予地方の祭礼の山車

2000年09月02日 | 祭りと芸能

南予地方の祭礼には案外知られていないが、人形を乗せた山車が各地に登場する。高欄付きの台の上に人形を乗せ、唐破風屋根で覆い、台下にて三味線や鉦、太鼓をたたくという構造。台の部分には木彫りの鮮やかな彫刻がある。吉田町など南予5つの町の祭りに登場するが、戦前には宇和島市などでも出ていたが次第に少なくなってきている。
ここで山車の一例を紹介しておく。
伊方町湊浦の八幡神社のねり行事では、湊浦、中浦、小中浦から一台ずつ合計3台が出る。湊浦の山車の管理運営は青年団が行っている。人形は豊臣秀吉と加藤清正。言い伝えでは天保年間に購入したというが、現在の山車は明治時代初期に更新されたともいわれる。次に中浦の山車は、人形が神功皇后の三韓征伐で、明治10年に矢野家の世話により制作したものである。江戸時代後期にはすでに山車はあったという言い伝えもある。次に小中浦の山車についてであるが、人形は牛若丸と弁慶である。『小中浦のあゆみ』(昭和61年発行)によると、山車は明治31年に新調したもので、木材は宇和島から調達し、車自体は地元の大工が作成しているが、彫刻は大阪の彫刻師小松源助が行い、幕と人形は京都に注文していることが紹介されている。この史料は、南予地方の山車文化の伝播を考える上で非常に貴重なものである。もともとは、江戸時代後期に宇和島の一宮祭礼に山車が取り入れられ、それを南予各地の神社祭礼が模倣したと考えられるのだが、山車の制作にあたっては、京都、大阪の職人の関与が直接的に見られたのである。南予の山車は海岸部以外はほとんど見られないが(例外も一例あるが)、やはり大阪、京都といった上方との海上交通での繋がりによって、この山車文化が花開いたのかもしれない。
ただし、山車は曳いてまわるだけで、祭りの中では牛鬼、四ツ太鼓に比べて「力強く」担いで「見せる」という要素が薄い。伊方町九町では、昭和三〇年頃に、山車では若者が満足しないので、四ツ太鼓に変えたという話を聞いたことがある。彫刻や人形によって「見せる」山車が19世紀の祭礼文化だとすると、「担ぐ」四ツ太鼓や牛鬼は20世紀の祭礼の花形といえる。担ぐことを「見せる」、そして「見られて」満足する。人々の祭りに対する思いも時代とともに変化しているのだろうか。
ともあれ、現存している南予の山車は10台を越える。これらを一つ一つ詳細に調べてみる必要があるように思えてきた。調査すれば、南予祭礼文化の歴史がもう少し鮮明に見えてくるのだろう。それだけでなく、西条のだんじりや越智郡各地に見られる櫓、だんじりの起源や伝播の過程を考える上での一つの指標になりうるとも思っているのである。

2000年09月2日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曳きダンジリと担ぎダンジリ

2000年09月02日 | 祭りと芸能
8月21,22日に岩城村を散策してみたが、その準備として『岩城村誌』を一通り目を通して行った。その中でダンジリに関する史料が紹介されていたので、ここで取り上げておきたい。
村誌の1482頁で、「三浦家永代記録」の中の明治14年の「祭礼道具人別控」に各種の練物が記されているが、「引壇尻」(西地区から出される)と「太鼓壇尻」(東地区から出される)とが並記されている。これは亀山八幡神社の秋祭りに登場したものであろうが、「引壇尻」という語に興味を持った。というのも、現在は東西のダンジリとも「担ぎダンジリ」だからである。地元では、東西のダンジリともに明治2年の新調と言っているが、明治14年の段階で「曳きダンジリ」があったと考える方が妥当であろう。先日も述べたように、愛媛においては、祭礼の中で「曳いて見せる」文化は、19世紀(以前)のものであり、近年はダンジリを担ぐことによって、「見せる」のである。現在の西のダンジリは、明治14年以降に新調されたというよりも、改築されて、曳く形から担ぐ形に変化したのではなかろうか。
少し話は異なるが、南予地方の牛鬼は、19世紀に描かれた絵を見ると、すべて担ぎ手は胴体の中に入っており、現在では外に体を出して担ぐのが一般的となっている。(現在でも明浜町や三瓶町では人が中に入っているが・・・。これが古風な担ぎ方なのだろう。)また、西条市のダンジリも現在は人間が外に出て担げるようになっているが、西条祭絵巻を見ても、人は中に入って担いでいる。つまり、19世紀はあまり担ぐ姿を「見せる」という祭りの雰囲気ではなかったのではなかろうか。岩城村西のダンジリも、もとは曳く形だったのが、担いで見せることを意識し、曳きダンジリから担ぎダンジリへ変容させたのだろう。
このように、山車の曳き方、担ぎ方の歴史をたどっていくと、19世紀から20世紀にかけての祭礼における「見せる」要素の変遷がわかり、人々の祭りに対する思いの変化も理解できるかもしれない。

2000年09月2日

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする