愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

じゃこ天と南予の段々畑

2023年10月26日 | 衣食住
宇和島や八幡浜。限られた農地を確保するために段畑を切り開くも、白米には恵まれぬ芋・麦中心の食文化。でも前に広がる宇和海の魚の恵み。最大限に資源利用するために小魚も捨てず長期保存できるように生み出される「じゃこ天」。まあ貧しさ、厳しい生活の中から生まれた知恵だとすれば、じゃこ天が貧しい食というのもわからんでもない。





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伊予絣(かすり)の特別展開催中

2019年03月07日 | 衣食住
2月19日(火)から、特別展「伊予かすり‐絣文様の世界」が愛媛県歴史文化博物館で開催されてます。

会名 特別展「伊予かすり‐絣文様の世界」
会期 平成31年2月19日(火)~4月7日(日) 
会場 愛媛県歴史文化博物館企画展示室
料金 大人(高校生以上)320円、小中学生・65歳以上160円

【展示概要】
こんにち愛媛の伝統工芸品として親しまれている伊予絣は、江戸時代後期の享和年間(1801~04年)に、伊予郡垣生村今出(いまず)の農婦・鍵谷(かぎや)カナが考案したとされる「今出絣(いまずかすり)」に始まります。着物、作業着、寝具などの生地(きじ)に用いられた伊予絣は、明治以降、生産量が飛躍的に増加しました。大正時代には最盛期を迎え、近代愛媛の基幹産業として賑わいをみせ、久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の一つとして全国的に知られました。絣は明治以降、次第に庶民の織物、国民的衣料として爆発的に普及し、近代日本の衣生活を支えました。

藍染めで染め分けた糸を経糸や緯糸に使い、うまく合わせながら織り上げる絣は、染め、括り、織りの高度な染織技術の結晶です。絣の文様は、抽象的な幾何学(きかがく)文様、「絵絣(えかすり)」と呼ばれる絵画的文様に大別され、それらを組み合わせ、素朴な図柄から複雑なものまで文様の種類は無限です。藍染めによる紺と白のコントラストから生まれるジャパン・ブルーの美しさをもち、ほとんどが縁起の良いとされる伝統的な吉祥文様ですが、身近なモチーフに取材した生活感あふれた素朴でユニークな文様も多く、実に意匠が豊富で、社会情勢や人々の願いなどを示したものも多く見られます。

本展では、日本有数の絣コレクョンとして大いに注目される伊予織物工業協同組合所蔵の白方(しらかた)コレクション、伊予絣の調査研究、資料収集の成果として名高い定秀寺(じょうしゅうじ)コレクションなど、これまであまり公開されることが少なかった貴重な伊予絣関係資料を一堂に展示します。

本展を通じて、愛媛に華開いた伊予絣の歩みをふり返るとともに、伊予絣を中心とした日本の絣文様の素晴らしさやノスタルジックな魅力を感じて、今後の伊予かすりの発展に寄与できれば幸いです。

【関連事業】
3月9日(土)13時半~
「伊予の綿織物について~道後縞そして伊予絣へ~」
講師:高山朋子氏(日本織物文化研究会員)

3月17日(日)13時半~
「伊予かすり展の見どころ」 
講師:今村賢司氏(愛媛県歴史文化博物館)

3月10日(日)・3月16日(土)10~15時
製作実演会「高機を使用した伊予かすりの製作実演」
講師:川西利美氏(織物研究家)

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愛媛県の屋根付き橋

2016年10月20日 | 衣食住


西予市野村町惣川の三島神社。この神社の参道にかかる屋根付き橋。愛媛県内では内子町、大洲市(旧河辺村)、この野村町惣川、西予市城川町に屋根付き橋が残る。いずれも南予山間部。



この屋根付き橋は平成5年に建て替えられたもの。その前は昭和15年に建て替え。その前は明治時代(明治30年頃)に架けられる。それ以前は不明。

南予山間部の屋根付き橋は明治時代に架けられたものが多く、その時期に流行したものかもしれない。

惣川は、有名な河辺の屋根付き橋(御幸橋)とは直線距離では近い。惣川はかつては交通の要衝で河辺との行き来も盛んだったこともあり、何らか関係があるのかも。

来月11月26日には、四国西予ジオパーク学習会としてこの惣川の現地見学会を行う予定です。




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伊予の伝承文化を学び伝えるリーダー村

2016年08月24日 | 衣食住


国立大洲青少年交流の家主催「伊予の伝承文化を学ひ伝えるリーダー村」に来ています。

野村町惣川の土居家(茅葺きの庄屋建築)を主会場に、今週、大学生と小学生が昔の生活を宿泊体験。

惣川で10年目。美川村での「江戸時代生活体験」事業を含めたら13年目。(累計で参加者は500人近くになる。ホントありがたや。)





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国重要文化財「渡部家住宅」一般公開

2016年03月22日 | 衣食住






松山市の国重要文化財「渡部家住宅」にて、昔のくらし 子ども向け解説会。5/1の公開時に実施します!

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「古代布・太布の技術守る 那賀・伝承会発足30年」

2013年03月18日 | 衣食住
2013/3/17付の徳島新聞の記事

「古代布・太布の技術守る 那賀・伝承会発足30年」

http://www.topics.or.jp/localNews/news/2013/03/2013_13634987148254.html


徳島県那賀町木頭の太布(たふ)。古代布とも称される。その保存、継承に取り組む「阿波太布製造技法保存伝承会」。木頭でも一時途絶えたというが、昭和58年に93歳で亡くなった県無形文化財技術保持者の岡田ヲチヨらが復活させ、昭和59年に伝承会を結成。

その活動が30年目となったという。

楮の皮を原料とする太布。愛媛県内でも昭和20年代前半までは織っていたという聞き書きはある。四国中央市山間部である。製品も若干ではあるが残っている。しかし、繊維をとる技術、織る技術は途絶えた。

この徳島新聞の記事によると、

「発足時に約20人いた会員は8人に。明治期に木頭地区全体で年間2千反(幅35センチで長さ2万メートル)に上った生産量は、一時は2千分の1の1反(長さ10メートル)まで落ち込んだ。町村合併で補助金も半分以下に削減された。(中略)2010年からは徳島市地場産業振興協会と連携するなどして都市部へのPRにも努めている。太布の魅力に引かれて徳島市内から太布庵に通う人が現れたり、県外から注文があったりして、現在では生産量は3反まで持ち直している。」

30年前に保存継承を目的とした活動が始まっていたことは貴重である。愛媛で太布文化の「復活」は可能なのだろうか。おそらく不可能に近い。しかし、もしかしたらまだ織っていたのを見たことがあるといったような聞き書きは可能かもしれない。

時間をとって、一度、新宮や富郷など四国中央市山間部で年配の方々に話を聞いてみることにしよう。そういう思いをかきたててくれる記事でした。

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ぞうきんの歴史~雑巾と浄巾~

2012年08月28日 | 衣食住
日本国語大辞典見ていて偶然発見。

雑巾(ぞうきん)って、1400年代の辞典「節用集」には「浄巾」って出てる。

浄らか、もしくは浄める布。

たしかに、ぞうきんのこと「じょーきん」と呼ぶ年配の方がいるなぁ。

いつから「浄」が「雑」になってしまったんだろう?


だいたい木綿布は室町時代には一般に普及していない。

とんちんかんちん一休さんのアニメでは、

よく雑巾がけやっていたが、

あれはその時代、高級品。アニメの設定上、将軍足利義満の時代。

貧乏寺である安国寺ではちょっと無理がある。

といっても、浄巾は禅宗から普及していったとの話もあるので、

一休さんの雑巾がけも可笑しなわけではないのかもしれない。


木綿以前の雑巾。

麻、藤、芭蕉などなど、いろんな繊維があるが、

どれも適してはいないような気がする。


「雑巾がけ」(走るかのような雑巾がけ)という行為自体も、

近代学校建築での廊下や教室といった広い板張り空間の出現とともに

一般化したのかもしれない。ちょっと極端ではあるが。

あとは寺院建築でも、雑巾がけは可能だ。

やはり一休さんは間違っていない?


さらには「雑巾でふく」という行為。

これは木綿以前の繊維の雑巾だと、

繊維が柔らなければ、ふくのは難しい。

というわけで、「雑巾でふく」という行為も

普遍的ではないのかもしれない。


ぞうきん文化、奥深し。














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愛媛の芭蕉布の可能性と楮布

2012年01月21日 | 衣食住
芭蕉布といえば奄美、沖縄が有名ですが、愛媛にも芭蕉で繊維をとっていたという報告事例があります。

『講座日本の民俗4衣食住』有精堂、1979年、78頁に全国県別の植物繊維の表が掲載されていて、そこに愛媛は楮や芭蕉が紹介されています。この表では芭蕉は愛媛が北限であとは宮崎以南。ただ、この表が作られる典拠がわからないままだったのですが、1964年に刊行された『愛媛県民俗資料調査報告書』の中の南予地方・佐田岬半島での報告に芭蕉の記述があることを最近見つけました。

ただし、芭蕉「布」があったかはわかりません。単に繊維をとっていただけで糸としていただけかもしれません。実際の現物資料は確認されていません。(もしあれば指定文化財の候補になると思います。)

芭蕉布について、私自身、今まで愛媛県内の現地確認をしていませんし、大分、熊本以北の他県の状況も調べていないのですが、上記の表を淡い根拠に勝手ながら愛媛(南予地方)が芭蕉布北限の地であるという、ちょっとした仮説を立てているわけです。

何せ、愛媛県南予地方には芭蕉がいたるところに自生しています。自生というのは正確ではないかもしれません。かつて人間の手で植えられたものでしょう。用途は今では盆の精霊棚に敷くことだったりしますが、芭蕉から繊維をとっていたことも可能性としてはあるはずです。

しかし、大正時代生まれの方に聞き取りしてもわからないでしょう。やはり明治それも明治30年代以前生まれでないと難しいと思います。年齢でいえば大正元年生まれで今年100歳。既にこのことを調べるには遅すぎたのかもしれませんが、最期の悪あがきのつもりで調べてみようと思っています。

あと、「木綿以前」の関連でいえば、楮(コウゾ)の布については現物資料が残っています。「タフ(太布)」と呼ばれ、これは新宮村で明治時代に織られたとされるもので、愛媛県歴史文化博物館でも保管しています。楮布は旧宇摩郡山間部に多く、伊予三島市金砂町でも明治時代までは盛んに織られていて、昭和21年まで細々と織られていたとのこと。昭和21年でしたら、実際に織ったことはなくても実際に見聞きしたり、布が残っている可能性もあります。あと伊予三島市富郷町の明治時代生まれの老婦人が楮布を織った経験があったということです。このことも『愛媛県民俗資料調査報告書』に紹介されています。

このように木綿以前の繊維について、少しアプローチしておかないと、数年後には手遅れになる。そんな危機感を持っています。(ただし、既に手遅れの可能性は大。)


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現代における「民俗」の活用法

2011年05月04日 | 衣食住
現代における「民俗」の活用法
-青年の自立支援プログラム「江戸時代生活体験」-

愛媛県大洲市にある国立大洲青少年交流の家では平成十六年度より久万高原町大川地区(旧美川村)において青年(大学生~概ね三十歳)を対象とした企画事業「江戸時代生活体験」を実施している(表一・平成十六年のプログラム参照)。この企画には私の勤務先である愛媛県歴史文化博物館も協力機関として参加し、事業の立ち上げ・運営・講師として私も関わってきた。本稿ではその企画事業の実施意図、内容について簡単ではあるが紹介しておきたい。

「江戸時代生活体験」は、社会の中で子どもから青年・大人へと成長していく諸段階で行われる通過儀礼(人生儀礼)が薄れつつある現代で、「大人とは何か」という問いを中心に、青年が大人になることの社会的意味合いを参加者自身に考えてもらうための自立支援プログラムとして出発した。この事業の立ち上げには、愛媛県内の大学研究者、社会教育関係者、新聞社、民間企業教育担当者等十名で構成された「大人を考えるシリーズ実行委員会」が組織され、その会議の中で、現代の青年についての課題を以下の四点に集約した。①現代の若者のコンサマトリー(今さえ良ければいいという考え方)化への対応、②若者がライフビジョン・ライフスキルを持つ必要性、③若者が人と関わりながら生きていく力の必要性、④若者が自分の自己存在を確認できる場の必要性。その結果をふまえて企画事業の一つとして、過去に戻り現代、そして自分自身について考える「時と文化を探るプロジェクト『江戸時代生活体験』」を実施することとなった。

実行委員会で提示された課題をもとに、天保十二(一八四一)年建築の久万高原町(旧美川村)大川地区旧大庄屋「土居家」の土居一成氏ご夫妻並びに丹波松清氏をはじめ大川地区の方々とご相談した結果、江戸時代からの建築・史料が残っており、衣・食・住に関する民俗(伝承文化)を再現するために多くの方々に協力していただくことが可能だったため、会場を土居家および大川地区とし、以下の四点の特色を盛り込む事業にすることとした。①江戸時代から昭和までの生活を民俗学から探る内容(愛媛県歴史文化博物館学芸員の大本敬久による昔のくらしの生活案内を行う。体験プログラムごとに愛媛並びに大川地区の伝承文化・民俗に関する解説を入れる。)、②大川地区で行われた旧正月を再現(旧正月に近い時期に事業を実施したため、大川地区で行われていた餅つき・おせち料理を再現し、旧暦時代の季節感を体感する。)、③夜警、獅子舞等、江戸時代から高度経済成長期まで若者組(青年団)等で若者・青年が担っていた役割を体験する。(大川地区で行われていた夜警コースを当時と同じ箇所を同じ方法で巡る内容。獅子舞は大川地区八柱神社奉納獅子として二百年前から始まったと言われる大川獅子舞を体験する。)、④現代社会について考えるふりかえり(プログラムの最後に、伝承文化体験と現代社会を比較する形で行い、主に「環境(自然に負荷をかけない生活スタイル)」・「文化の伝承」・「社会での若者の役割」・「町づくり・地域づくり」の四つのテーマとして、講師の大本が総括し、参加者とともに考える。)そして参加定員は二十名とし、実際に参加したのは愛媛県内外の大学生、高校生、二~三十代で、久万高原町内の参加者は少なく、都市部の若者が中心だった。

このように、名称自体は「江戸時代生活体験」であるが、久万高原町の江戸時代当時そのものの生活を再現するよりは、江戸時代から明治・大正・昭和(高度経済成長期)まで継続して地元で伝承されてきた生活文化を再現・体験するという内容として実施した。事業実施中は、現代の便利な生活をふりかえってもらうため、携帯電話は使用を禁止し、また冬の寒い時期ではあったが現代の電気・ガスの機器を使わず、火起こしは火打石で自分で行い、燃料となる薪も自分達で割るという生活を基本とした。

参加者の感想として代表的な意見をまとめると、以下のようになった。
自分の周りの環境がすごく恵まれていると感じた。また、残飯を肥料にしたり、藁で縄を作ったりするのを見て、物を大切にすることが大切だと感じた。何でもゴミを出してはいけないと思う。現代、外国の文化を受け入れる傾向があるが、今回体験した藁細工、餅つき、獅子舞もとても素敵な文化だと思う。こういった日本の文化を大切にしていきたい。社会での若者の役割は重要だと思う。自分の存在価値を感じられるからだ。こういう役割が減ったから若者の心にひずみが生まれたのではないかと思う。町という単位は、教育的な面からも、社会的・経済的・精神的にもとても大切だと思う。その町を人々の役割などをしっかり決めて、祭などによって盛り上げ、つくっていくということは、人を育てるという意味でも大切である。(以上、参加者の感想)

以上のような意見から見て、自分と自分の取り巻く社会を相対化し、社会の構成員としての自分の役割や自分の存在、現在の社会状況を理解する一端をこの事業が担ったことがわかる。その後「江戸時代生活体験」は平成十八年度(十九年一月六~八日)、十九年度(十九年十一月二三日~二五日)に実施し、大川地区土居家を会場とした類似事業として、二十年度には対象を小学生として「食文化をテーマにした異年齢相互体験学習・免許皆伝!もったいない名人~江戸の村人の巻~」(二〇年八月五日~十日)を実施している。また、久万高原町教育委員会主催で高校生・大学生を対象とした「EDOJIDAI生活体験」(二二年十二月十八~十九日)も開催されている。

以上、普段は何気ない衣食住の民俗など、地元久万高原町にて過去から世代を越えて伝承されてきた生活習慣が、単に地元の過去をふりかえる手段としてだけではなく、現代の若者・青年にとっても大人に成長するために自らをふりかえるための素材として活用できることが、この「江戸時代生活体験」は示している。これは現在の久万高原町の持つ地域遺産・地域資源ともいうべきもので、今後、都市化、消費社会化、無縁化がますます進む現代において、地元の民俗(伝承文化)に注目する必要性は高まってくるのは間違いない。 (大本敬久)



※挿入図版・表(江戸時代生活体験日程平成17年2月11~13日)は省略している。

※この文章は、平成22年に久万高原町教育委員会の依頼で江戸時代生活体験を実施した際にまとめたものである。



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電気もガスもない生活 江戸時代生活体験

2011年05月03日 | 衣食住
平成16年から「江戸時代生活体験」という事業を行っています。
大洲青少年交流の家や久万高原町教育委員会主催です。
電気もガスもない中で、自分で火をおこし、料理をし、お風呂に入る
こんな、昔は当たり前の生活スタイルを、
今の若者に体験して、現代の自分を振り返ってもらう、という事業です。

その事業の16年度に行われた分の報告が、大洲青少年交流の家のホームページに
掲載されています。


http://ozu.niye.go.jp/h16/otona/houkoku/E001_edotaiken.html#hiuchi



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近代日本のエネルギー革命

2011年05月02日 | 衣食住
自分の寿命があと何年なのか計算してみようとしても、いつお迎えが来るのかわからないので数えるだけ無駄である。ただ、日本人の平均寿命からすれば、私はおそらく2050年頃までは生きながらえているかもしれない。あと40年だ。この自分の寿命予測で弾き出される40年という数字は、近代日本が歩んできたエネルギー革命のスパンとほぼ一致するかもしれないと、最近よく頭をよぎってしようがない。

かつて、19世紀は石炭の時代、20世紀は石油の時代、そして21世紀は原子力の時代という言葉を自分が小さい頃に耳にしたが、これは少し大雑把過ぎる。1887(明治29)年に日本初の石炭による火力発電が東京・茅場町で行われ、その約40年後の1920年代には全国各地に発電所建設が進み、愛媛でも各家庭で平均1個以上の電球を持つ生活様式へと移行している。それから40年。1960年頃までは水力発電が主であったが、その後の高度経済成長の中で石炭・石油の火力発電が増加していった。実のところは1960年代のエネルギー革命は、水力発電から火力発電へという転換という単純なものではない。生活の中で近代日本以前より日常に用いられていた薪炭エネルギーとの比較で考えなければいけない。この身近に得ることのできる薪炭エネルギーを中心とした生活スタイルから、発電所から電気を送電してもらわないと生活が成り立たないライフスタイルへの転換こそがエネルギー革命であったわけで、これが今から約40~50年前の出来事だった。同じ時期に原子力発電の構想も進み、設計寿命40年とされる原子力発電所が建設されることになる。近年、その40年は迎えたところもあるようだが、長寿社会の現在、寿命は延びて60年使用という話も出ていたようである。そして今、2011年が訪れている。

このように日本のエネルギーの変革期は約40年ごとにやってきている歴史があると見ることもできるのだ。さて、今現在の状況はニュース・報道・ネット上の情報などからでは、自分はとてもではないが明確な判断ができない。情報過多である。その現状把握ができないにもかかわらず、次の40年後つまり2050年頃のことを考えてみたくなる。その頃は消費電力が少なくても生活が成り立つライフスタイルが確立されているであろうし、石炭・石油・原子力に変わる新たな再生可能なエネルギーが定着していると考えたい。原子力の燃料サイクル利用が構想から40年経ても実現の見通しが立たない現状を鑑みると、今後40年、燃料サイクル実現のためこのまま開発を継続していく労力も大変なもので、新しい再生可能エネルギーの研究開発の労力と変わりがないのかもしれないと、素人ながらに思ってしまう。平均的な寿命を全うできるのであれば、私も2050年頃まではこの歴史の変化と対峙しながら生き続けることになるのだろう。




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もち麦みそ

2010年11月29日 | 衣食住
昨日は、八幡浜の新町ドームでの「テヤテヤよろずマーケット」に行き、

まずは鳥津さんのてんぷら(じゃこてん)を購入。

またまたフジ観光さんのちゃんぽんを試食。



さて、ここのところハマっているもち麦。

「テヤよろ」でも発見!

大洲市から出店していた梶田商店さんの「もち麦みそ」。

ありゃ?「もち麦」は希少栽培種だと自分で書いた割(2010年10月25日)には、

探せば、結構出会うものだなと思いつつ、

聞いてみると、やはり、どこにでもあるものではないらしい。



ご飯に直接つけて食べられるということで、

もち麦みそを購入し、きのうの夕食は、

もち麦ごはんに、もち麦みそをつけて食べる という

究極のもち麦飯。



梶田商店さんは大洲中村で明治時代から続く老舗。

タツミ醤油の名でも知られています。






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大洲の「もち麦」

2010年11月28日 | 衣食住
先日、愛媛でも希少になっていると紹介した「もち麦」。

大洲市の産直市「愛たい菜」に行くとありました。

早速購入して、食べました。

白米8、もち麦2の割合で普通に炊飯器で炊くと

確かにもちもちした麦ごはん。美味。



この時期、妻の実家からもち米も大量にもらって、

ここ1週間、餅三昧。冷凍庫は餅ばかりのわが家で、

もち麦も加わり、年末年始もまだなのに、

餅太りしそうな、今日この頃。




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八幡浜のてんぷら

2010年11月22日 | 衣食住

魚のすり身を整形して揚げた練り製品「じゃこてん」。八幡浜をはじめとする南予独特の料理だが、自分は子供の頃、じゃこてんとは言わず、単に「てんぷら」と呼んでいた。

じゃこてんは、何処となく着飾った余所向けの呼び名という感覚だ。

自分は八幡浜の「てんぷら」に、大きな物語を描くことのできる可能性を感じざるを得ない。

というのも、「てんぷら」は南蛮渡来の400年の食文化であり、郷土料理である上に、空間的にも時間的にもダイナミックさがある。

一説には、西洋で寺院の精進料理が起源であり、templeとてんぷらは同源ともいわれる。(この説については、現在、検証中)

徳川家康が食べたというてんぷらは、衣のついたてんぷらではないことは確かである。衣のついたてんぷらは江戸時代中期以降。それ以前のてんぷらは、今の八幡浜のてんぷらに共通する点が多い。

衣のてんぷら、あとは鹿児島のさつま揚げ、八幡浜のてんぷら、これらは時系列に並べてみることも可能ではないかとも考えている。

八幡浜のてんぷらを語ることは、てんぷらの食文化史を語ることにもなる。

わざわざ「じゃこてん」と名乗らなくても、地元のネィティブ「てんぷら」と呼べば良いのではないか。勝手にそう思っている。


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愛媛のもち麦

2010年10月25日 | 衣食住
『日本の食生活全集第38巻愛媛の食事』(1988年)に付録されていた月報24号の「編集室から」という編集後記に、愛媛のもち麦について書かれていた。

「麦にも糯(もち)と粳(うるち)があります。南予の西海町で、もちといえば「もち麦」をさし、行事の日には、麦もちやしっぱりもち、べらもちをつくります。しかし、現在ではほとんど栽培されることなく、今回は大洲の丸本平吉さん、東予市の田口朋子さんから提供を受けました。この場を借りてお礼申し上げます。一つの種が消えてゆくのはさみしいものです。もち麦の復活をねがってやみません。」

もち麦は、裸麦の一種で、米の裏作で作られていたという話はよく聞く。いまでも栽培されているようで、県内の産直市でもたまに見かける。

もち食については、愛媛はサトイモとの関連(もちなしの正月)や、このもち麦のことなど、話題には事欠かない。


*高速バスで携帯から投稿しているが、時間を潰すにはちょうどいい。

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