愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「竜の島」と「杏の里」

2004年09月02日 | 口頭伝承
※本稿は『文化愛媛』52号(2004年)に掲載した原稿である。

「竜の島」と「杏の里」‐八幡浜・三瓶‐

 現在でこそ、南予用水の開通により、水不足の年は少なくなったが、平地に乏しく、大きな河川のない南予地方の沿岸部では、以前は頻繁に日照り・渇水に見舞われていた。雨や水への祈りは民衆にとって普遍的なものだが、南予地方では特に竜神・竜王への信仰と結びついて人々の切実な願いとなっていた。八幡浜も例外ではない。特に八幡浜沖の地大島(じのおおしま)にある大入池(おおにゅういけ)にまつわる伝説は、まさに典型的な竜神への祈りを表している。
 この話は、八幡浜地方で日照りが続くと、市内五反田にある保安寺(ほあんじ)の住職が地大島の大入池に渡り、雨乞い祈祷を行う由来を述べたものである。内容は次のとおりである。
保安寺の裏には小さい池があり、ここに竜神が住んでいた。しかし竜神は成長して大きくなり手狭になったので、地大島の大入池に移ることにした。ある日、竜神は若い娘に化身し、舌間(したま)浦の漁夫に島まで渡海を頼んだ。漁夫は承知して娘を乗せたが、舟が沈むかのように娘は重いので不審に思っていたが、娘は自分が保安寺の竜神であり、大入池に渡ったことを誰にも話さなければ大漁にすると告げた。実際、漁夫はその後大漁続きであったが、不思議に思った周囲の漁夫に問いつめられて竜神を渡したことを話すと元の貧乏漁夫に元戻りしたという。大入池に渡った竜神は、保安寺で育てられたお礼に、代々の住職が一代につき三回まで大入池で雨乞いをすれば、必ず雨を降らすことができる修法を授けたという。
その雨乞いの方法は、住職が「火もの断ち」といって、熱火によって料理した一切のものを断ち、ただ生食のみで寺内の八大龍王の前で七日間昼夜の別なく勤行し、更に舌間の雨乞山に登って祈念した後、舌間から地大島の大入池に行き、池中の竜神へ読経するというものであったという。一度雨乞いを行うと、住職は三年の寿命を竜神に捧げるともいわれていた。なお、保安寺と同じく、寺の池が狭くなったので竜神が大入池に渡ったという話は、三瓶町垣生(はぶ)の三宝寺にも伝えられている。竜神は報恩のため、この三宝寺の住職にも雨乞い祈祷の修法を授けたとされる。昭和のはじめに旱魃があった際、住職が請雨(しょうう)陀羅尼(だらに)を誦(とな)えると忽然と雨が降ったという。
さて、竜といえば、アジア、特に中国文明圏ではしばしば王権の象徴とされるが、日本国内各地の竜神にまつわる伝説を眺めてみると、竜が女性に化ける話は多く、また、竜が棲んでいたという場所は、寺の近くの池もしくは淵などであることが多い。それらの場所は、王権や寺の建立とは無関係に、もともと、水を司る神が棲む聖地であったとされる。実際に八幡浜でも、竜神・竜王が祀られている場所を見てみると、水源となる川の上流域だったり、池だったりする。竜神・竜王は、水を司る神ゆえに雨乞いの御利益(ごりやく)に関わったのである。
 ただ、地大島の大入池のほとりにあるお籠り堂の寄進者を見てみると、八幡浜市向灘(むかいなだ)などの漁民や船主の名前が多いことに気付く。また、八幡浜から宇和海沿岸の漁に出る際には、この竜王宮の前の海を通過するが、その際に酒を奉納したりしていた。トロール漁船が漁に出る時にも竜王沖で船を止めて豊漁を祈願してから出漁しているという。単に雨への祈りだけではなく、豊漁など他の祈願への広がりが見られるのも、漁師町である八幡浜の特徴といえるだろう。
 話は変わるが、八幡浜市合田(ごうだ)地区はかつて「杏の里」と呼ばれ、家々の庭先に杏の木が植えられていた。<一望千本合田杏>と称され、三月頃の開花時期には合田一円が花の名所となり、また、五月には住民は甘い果実を喜んで収穫していた。この杏は「千鳥(ちどり)」という姫が合田にもたらしたという言い伝えがある。「千鳥」は鎌倉時代初期の武将で梶原景時(かじはらのかげとき)の長男梶原景(かげ)季(すえ)の妻とされる女性である。景季が戦死した後、千鳥は流れに流れてこの合田に漂着し、住処としたという。千鳥はここで経文を書き続け、一生を終えたが、この千鳥姫が道中薬用として杏の種を携帯していた。村人は塚を立てて姫を供養するとともに、家々に杏の種を植えて姫を偲んだのである。
実際に、合田には「ちどりが丘」と呼ばれる所があり、そこに「梶原源太景季妻チドリ」の銘の入った塚がある。バッポ石と呼ばれる海岸の丸平石を積み上げ、石造の聖観音菩薩像を祀った祠を建てている。祠の中には姫が書いたと伝えられる墨書した石経も安置されている。観音像は大正十年に建立されたものだが、かつてはここにお籠り堂もあり、姫の命日とされる五月十七日には地元の人々が参集していたという。
 梶原景季と千鳥については、江戸時代の『平仮名盛衰記』を典拠とする浄瑠璃「梅ヶ枝(うめがえ)」に登場することで有名である。千鳥は、愛する夫景季の出陣に必要な金を調達するために無間(むげん)地獄に落ちるのもいとわず金策に心を砕き、現世で富を得るも、来世に地獄に落ちるとされる。合田に千鳥姫の伝説があることは、この浄瑠璃の知識に影響されたもので、歴史的事実とは異なった形で定着したと考えられるが、姫が流れ着くことや、一生経文を書き続けて、来世に対して罪業をはらそうとしたことは原典にも記述のないオリジナルな伝承である。仏教的に罪深いとされる姫を合田の人々は快く受け入れ、そして死後も供養し、姫からは杏という財産を享受したのである。
なお、姫が漂着したという伝承は、合田に隣接する白石地区にもある。らい病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ、流れ着いたといわれるもので、地元の人によると、姫はこの地で暮らしていたものの、白石は漁村で賑やかなため、静かな山村をのぞまれ、三瓶町鴫(しぎ)山(やま)地区に移住したという。鴫山では、姫のために小屋を建て、食べ物をかわるがわる差し上げていた。姫は、この地にらい病がおきないよう、法華経を石に書写しながら、ついには亡くなったといわれる。そして村人は姫をしのんで、海から丸平石を運んで積み上げ、姫塚として霊を慰めたという。
現在でもその塚は鴫山にあり、中に一石五輪塔が祀られている。また、付近の畑の脇に姫を葬ったといわれる場所も残っており、集会所には姫が法華経を書写したといわれる青石も保管されている。
 以上の話では、罪業を背負った姫が自らの後生の安穏を願うと同時に、杏や無病といった住民に幸せをもたらしている。先に挙げた竜神渡りの話も、女性に化ける竜は雨乞いや豊漁の御利益がある。この地方の話では、女性が住民に幸せを運ぶ存在として語られていることが多いのも特徴の一つといえるだろう。