「姫塚と癩(らい)病」
癩(らい)病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ、流れ着いたといわれる伝承地が八幡浜市白石にある。地元の人によると、姫はこの地で暮らしていたものの、白石は漁村で賑やかなため、静かな山村をのぞまれ、三瓶町鴫山に移住したという。鴫山では、姫のために小屋を建て、食べ物をかわりがわる差し上げていた。姫は、この地に癩病がおきないよう、法華経を石に書写しながら、ついには亡くなったといわれる。そして村人は姫をしのんで、海から丸石を運んで積み上げ、姫塚として霊を慰めたという。現在でもその塚は鴫山にあり、中に一石五輪塔が祀られている。また、付近の畑の脇に姫を葬ったといわれる場所も残っていたり、集会所には姫が法華経を書写したといわれる青石が保管されている。また、最初に流れ着いた白石にも、姫を祀った祠が明治九(一八七六)年に建てられ、三月一六日を祭日としている。
このような癩病にかかった人物が京都を追われて流されたという伝説は全国各地に見られるが、特に四国には多く確認することができる。
そもそも癩病は近代ではハンセン病とも呼ばれ、きわめて伝染力が弱いにもかかわらず、歴史的には「業病」などと呼ばれ、強い差別視のもとにおかれてきた。近代においては、明治四〇(一九〇七)年に癩予防法に関する法律が公布されて、全国規模で組織的な癩患者の治療が始まったが、その法律の根本は厳重な収容と隔離政策にあり、深刻な人権侵害に拡大する側面があった。戦前には治療法が確立したにも関わらず、昭和二八(一九五三)年にそれまでの法律を引き継いだ「らい予防法」が制定され、平成八年にこの法律が廃止されたものの、近年まで感染予防として患者を隔離する政策が続けられていたのである。 感染力の極めて弱い癩病が業病とみなされた背景には、仏教思想が関与している。日本の歴史上、最も受容された経典である『法華経』には癩病について、「普賢菩薩勧発品第二十八」に、法華経を受持するものを軽笑したり、謗ったならば、「この人は現世に白癩の病を得ん」という記述がある(岩波文庫『法華経』下)。人を救済するはずの仏教の経典に癩病差別の根拠が示されていることは悲しむべきことだが、白石・鴫山に流れ着いた姫が、この地で法華経を書写して亡くなったというのは、癩病にかかったのは前世においてこの経典を軽んじた因果のためであり、書写、奉納することによって来世では癩病という応報から解き放たれようとするための行動と見ることができるだろう。
2001/01/25 南海日日新聞掲載
癩(らい)病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ、流れ着いたといわれる伝承地が八幡浜市白石にある。地元の人によると、姫はこの地で暮らしていたものの、白石は漁村で賑やかなため、静かな山村をのぞまれ、三瓶町鴫山に移住したという。鴫山では、姫のために小屋を建て、食べ物をかわりがわる差し上げていた。姫は、この地に癩病がおきないよう、法華経を石に書写しながら、ついには亡くなったといわれる。そして村人は姫をしのんで、海から丸石を運んで積み上げ、姫塚として霊を慰めたという。現在でもその塚は鴫山にあり、中に一石五輪塔が祀られている。また、付近の畑の脇に姫を葬ったといわれる場所も残っていたり、集会所には姫が法華経を書写したといわれる青石が保管されている。また、最初に流れ着いた白石にも、姫を祀った祠が明治九(一八七六)年に建てられ、三月一六日を祭日としている。
このような癩病にかかった人物が京都を追われて流されたという伝説は全国各地に見られるが、特に四国には多く確認することができる。
そもそも癩病は近代ではハンセン病とも呼ばれ、きわめて伝染力が弱いにもかかわらず、歴史的には「業病」などと呼ばれ、強い差別視のもとにおかれてきた。近代においては、明治四〇(一九〇七)年に癩予防法に関する法律が公布されて、全国規模で組織的な癩患者の治療が始まったが、その法律の根本は厳重な収容と隔離政策にあり、深刻な人権侵害に拡大する側面があった。戦前には治療法が確立したにも関わらず、昭和二八(一九五三)年にそれまでの法律を引き継いだ「らい予防法」が制定され、平成八年にこの法律が廃止されたものの、近年まで感染予防として患者を隔離する政策が続けられていたのである。 感染力の極めて弱い癩病が業病とみなされた背景には、仏教思想が関与している。日本の歴史上、最も受容された経典である『法華経』には癩病について、「普賢菩薩勧発品第二十八」に、法華経を受持するものを軽笑したり、謗ったならば、「この人は現世に白癩の病を得ん」という記述がある(岩波文庫『法華経』下)。人を救済するはずの仏教の経典に癩病差別の根拠が示されていることは悲しむべきことだが、白石・鴫山に流れ着いた姫が、この地で法華経を書写して亡くなったというのは、癩病にかかったのは前世においてこの経典を軽んじた因果のためであり、書写、奉納することによって来世では癩病という応報から解き放たれようとするための行動と見ることができるだろう。
2001/01/25 南海日日新聞掲載