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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「姫塚と癩(らい)病」

2001年01月25日 | 八幡浜民俗誌
「姫塚と癩(らい)病」

 癩(らい)病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ、流れ着いたといわれる伝承地が八幡浜市白石にある。地元の人によると、姫はこの地で暮らしていたものの、白石は漁村で賑やかなため、静かな山村をのぞまれ、三瓶町鴫山に移住したという。鴫山では、姫のために小屋を建て、食べ物をかわりがわる差し上げていた。姫は、この地に癩病がおきないよう、法華経を石に書写しながら、ついには亡くなったといわれる。そして村人は姫をしのんで、海から丸石を運んで積み上げ、姫塚として霊を慰めたという。現在でもその塚は鴫山にあり、中に一石五輪塔が祀られている。また、付近の畑の脇に姫を葬ったといわれる場所も残っていたり、集会所には姫が法華経を書写したといわれる青石が保管されている。また、最初に流れ着いた白石にも、姫を祀った祠が明治九(一八七六)年に建てられ、三月一六日を祭日としている。
 このような癩病にかかった人物が京都を追われて流されたという伝説は全国各地に見られるが、特に四国には多く確認することができる。
 そもそも癩病は近代ではハンセン病とも呼ばれ、きわめて伝染力が弱いにもかかわらず、歴史的には「業病」などと呼ばれ、強い差別視のもとにおかれてきた。近代においては、明治四〇(一九〇七)年に癩予防法に関する法律が公布されて、全国規模で組織的な癩患者の治療が始まったが、その法律の根本は厳重な収容と隔離政策にあり、深刻な人権侵害に拡大する側面があった。戦前には治療法が確立したにも関わらず、昭和二八(一九五三)年にそれまでの法律を引き継いだ「らい予防法」が制定され、平成八年にこの法律が廃止されたものの、近年まで感染予防として患者を隔離する政策が続けられていたのである。 感染力の極めて弱い癩病が業病とみなされた背景には、仏教思想が関与している。日本の歴史上、最も受容された経典である『法華経』には癩病について、「普賢菩薩勧発品第二十八」に、法華経を受持するものを軽笑したり、謗ったならば、「この人は現世に白癩の病を得ん」という記述がある(岩波文庫『法華経』下)。人を救済するはずの仏教の経典に癩病差別の根拠が示されていることは悲しむべきことだが、白石・鴫山に流れ着いた姫が、この地で法華経を書写して亡くなったというのは、癩病にかかったのは前世においてこの経典を軽んじた因果のためであり、書写、奉納することによって来世では癩病という応報から解き放たれようとするための行動と見ることができるだろう。

2001/01/25 南海日日新聞掲載

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「正月の注連飾り2」

2001年01月18日 | 八幡浜民俗誌
「正月の注連飾り2」

 前回は、正月の注連飾りの形態の地域的相違を眺めてみたが、今回は注連飾りの処分方法について触れておきたい。
 正月の注連飾りの処分に関する民俗事例として県下でも著名なものは、越智郡や道前平野などに見られるトウドやシンメイサンと呼ばれる小正月の火祭りである。正月十五日前後の早朝に子供組の行事として集められた地区内の注連飾りや門松などの正月飾りを一同に「はやす」のである。一般に「どんど焼き」とも呼ばれる行事である。 しかし、愛媛県下全域でどんど焼きが行われているわけではない。宇摩郡および中予・南予地方では、戸別に処理する地域と、越智郡・道前平野のように組織的で大規模ではないにしても合同で燃やして処理する地域が混在している。八幡浜周辺では、合同で「どんど焼き」として燃やして処理することが多いようであるが、宇和町郷内のように、山の木に縛り付けるという事例もある。
 さて、どんど焼きが行われる理由としては、正月に来ていた年神がどんど焼きの煙によって帰るためと説明されるが、私は、それとは異なった考え方をとっている。注連飾りは、神聖、清浄な場所を演出するために家の境界に設置され、外から侵入してこようとする不浄や邪悪なものを防ぐためのものである。注連飾りは基本的に藁で構成されているが、この藁は、原初的な神輿に使用されて神の依代とされたり、藁人形として怨念がこめられたりするように、一種の観念的な容器として捉えることができる。つまり、注連飾りは、外から来る邪悪なものを防ぐというより、吸収して、中の清浄空間を保つ役割を果たしているのである。そして、正月が終わる頃になると注連飾りは種々の不浄、邪悪なものを背負わされ、どんど焼きなどで処理されるのである。
 このように考えると、どんど焼きは、正月に身辺から不浄を注連飾りによって取り除き、集めた不浄を一同に焼いて処理するという儀礼なのではないだろうか。正月の終わりにこのような儀礼を行うことで、一年間の清浄性を維持しようとするのであろう。
 どんど焼きによって年神の去来を説明しようとするのは、後次的な説明であって、注連飾りに吸引させた不浄処理というのが原初的なものであると私は考えているのだが、そもそも、神の鎮座する神社も、古札など思いのこめられたものを処理したりする場所である。参詣者から願いを託された賽銭を投げられたりもするように、神自身が実は不浄も含めた様々な人々の観念を吸引してくれる装置(存在)と解釈できるのではないだろうか。

2001/01/18 南海日日新聞掲載

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正月の注連飾り1

2001年01月11日 | 八幡浜民俗誌
正月の注連飾り1

(原稿ファイルを探索中・・・。)

2001/01/11 南海日日新聞掲載


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祭日を「モンビ」ということ

2001年01月01日 | 八幡浜民俗誌
祭日を「モンビ」ということ

 今では日常的に使うことはないが、八幡浜では正月などの祭日を「モンビ」と呼んでいた。方言の一つであるが、これは大阪周辺、和歌山県、香川県でも使われており、名古屋や広島県高田郡では「モンピ」と言っている。
 私が子供の頃、正月に近所の人が家に来て「今日はモンビやけん」といってお年玉を頂いたことがある。この「モンビ」という言葉の意味がわからず、「モンビって何?漢字でどう書くの」と私が聞き返して、正月早々、近所の人や親を返答に困らせてしまった。正月は門松をたてるから「門日」なのかと自分自身納得させていたのだが、よく考えてみると「モンビ」は正月に限らず祭日全般に使うことから、この説は正しくはないだろう。不思議な方言だと思っていたが、正月を迎えるにあたり、この言葉の由来を考えてみた。 一つ目は「モンビ」=「紋日」という説である。正月などの祭日には、紋の付いた衣裳を着るため、この言葉が生まれたという考え方であるが、それ以外にも『日本国語大辞典』によると、豊臣秀吉の時代、奢侈を競い新しい織方の紋で過分の収入をあげた機屋がを休ませ、その日を紋日といったという説と、小袖の紋が五つであることから、祭日である五節供を紋になぞらえたという説など種々紹介されているが、はっきりしたことはわからない。
 もう一つは「モンビ」=「物日」という説である。田山花袋の『田舎教師』の中に「物日の休みにも、日曜日にも、たいてい宿直室で暮らした」という一文がある。「モンビ」は、この「物日(モノビ)」が訛ったものだということである。「物(モノ)」には様々な意味があるが、「物の怪(モノノケ)」というように、神仏や妖怪、怨霊のことを総称して「モノ」ということがある。つまり「物日」とは神仏に関連する日を指すのである。正月には家で神棚にお供えをして、氏神に初詣に参る。また、盆には先祖霊を迎えて祀るというように、「モンビ」はもともと神仏を祀る日を意味する言葉とする考え方である。ところが、「物」は祀り上げられた神仏というよりも、未だ畏怖・恐怖の対象となっている霊のことを指すことが多く、納得しがたいところもある。
 ただし、祭日の方言のことを「モノビ」という例を調べてみると群馬県多野郡や静岡県榛原郡など関東地方近辺に確認できる。やはりもともとは「物日」であって、それが訛って「モンビ」になってしまい、それに付随して様々な「紋日」説が派生したと考えるのが妥当ではないだろうか。

2001/01/01 南海日日新聞掲載

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