チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

書評は難しい

2008年01月12日 16時07分51秒 | Weblog
翻訳仕事もまだ完了しないうちから、学会誌への書評執筆依頼が舞い込んできました。5月までに書くようにとのことなのですが、実はすでにもう1本、別の書評依頼を引き受けていて、こちらも同じ頃が締切です。

書評を書くのは実に久しぶりのこと。書評は、翻訳とはまた違った難しさがあります。自分の意見が書けるだけ、翻訳よりは生産的な感じがするし(あくまで「感じ」の問題。翻訳出版自体は別の意味で生産的です)、自分で作文しますから、翻訳のような、うまい訳文ができない苦しみはないのですが、他人の力作を評価するのだから、ものすごく気を遣います。

書評の文章は、本の内容紹介と、その内容にたいする論評とに分けることができます。時として、前者が多過ぎて、後者がほんのちょっとしかない、というような書評にお目にかかりますが、とくに学術誌の場合はそれだと困るでしょう。『本のひろば』のような、宣伝目的で出されている媒体ならそれでもいいかもしれませんが。

本当に難しいのは、後者、すなわち論評の部分で、書評者の力量や見識が露になるので、勢い力が入ります。

ずっと前に、あるベテラン研究者の論文集を書評した際、収録されている個々の論文について(その先生に胸を借りるつもりで)割に丁寧に意見を書いたら、どうも気に入られなかったらしく、ものすごい分量と勢いの反論が返ってきたことがありました(結局その反論は公刊されずに終りましたが)。著者ご自身が鋭い批評家でもあったので、自分に対する批評はこれまた厳しく切り返すということだったのでしょう。その先生は間もなくして他界されたので、対話が深まらなかったのは残念でした。

若手(といっても自分より年上の)研究者の一般向け書籍を書評した時は、これは内容に問題が多かったので、結構批判的に書きました。その後、その人と行き来が途絶えたのですが、それが書評のせいだったのかどうかはわかりません。あんな風に書くからだ、と別の先生から(冗談半分に?)言われたことはありましたが。

やはり、著者を個人的によく知っている場合は多少なりとも書きにくいものです。今回は、2件ともそうなのでちょっと悩みます。もちろん、知り合い同士といえども、学問的対話は厳しくなされるべきで、それが日本の聖書学の発展を可能にしたことはよくわかっていますが。どちらも良い本だと思うので、良いものは良いと書けばいいわけですが、学会誌となると、それだけでなく、多少は批判的な視点も提供する必要があるので、そこが難しいところです。とくに、自分の(狭い意味での)専門分野でない本だった場合は、的外れなことを書く危険も高いわけで。

一般向けの書評となると別の意味で気を遣います。『本のひろば』というキリスト教の書評誌がありますが、これは、上にも書いたように、どちらかというと本の宣伝を目的としたものですから、批判的な論評はあまり載らないのが常です。実際、以前にある翻訳書の紹介を書いた際、訳語の問題をいくつか指摘したら、出版社から電話がかかってきて、その部分を書き直してくれと言われたことがありました。その問題を事前にチェックしなかった自分たちのせい(編集者の落ち度)じゃないかと思ったので、だいぶん反論はしましたが、結局書き直しには応じました。(これに限らず、編集者と揉めることが何度かありましたが、その件はまた別に書くことにします。)

この数年、書評の依頼はありませんでした。そんな過去もあり、ヘンなこと(?)を書くからだと思われているのか、編集者からすると相手にしたくない存在だと思われているのか...。こちらも書かずにいるほうが気は楽です。が、そのほとぼりが醒めたので、また依頼が来るようになったのかもしれません。今度も正直に書くつもりではありますが、やっぱりちょっと気が重い。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
takuya様 (tsujigaku)
2008-01-16 20:48:04
日本の新約聖書学の先駆者たちは(みな東大出身ですが)、
最先端で激しく議論し合うことで日本のレベルを高めてくれました。
が、やはり感情的なもつれを避けることは難しかったようです。
相互批判による連帯、ということが言われたのですが、
実際にはやっぱり難しいですよねぇ。

返信する
議論と喧嘩 (takuya)
2008-01-15 21:42:05
言い尽くされていることですが、(日本で?)感情的な応酬に陥らずに議論や批評をするのは難しい。こちらが議論のつもりでもあちらはケンカを売られたと思いこむケースが少なくない。それで、どのみち非生産的なのだからと沈黙に行き着く。厄介ですね。
近ごろ、「聴く」ことの重要性を改めて考えてみたりしています。
返信する
mikisuke-th様 (tsujigaku)
2008-01-14 20:15:17
聖書学(とくにお宅の大学!)は論争を好むようです。反論にあらずば学問にあらず、とまで思っているかどうかはともかく。これはドイツ的精神が日本に輸入された一例とお見受けいたす。かく言う拙者もその影響下にござるのじゃが。
返信する
Unknown (mikisuke-th)
2008-01-14 11:34:30
うちの大学の聖書学関係の学生さんたちは、厳しく、かつ細かい指摘の多い書評を書きます。そういう文化(?)なのでしょうね。
聖書学関係でないワタクシといえば、ついつい絶賛系の書評を書いてしまいます。【・・・のような問題意識が欠如しているのではないか】みたいなことを書けるようになりたいものです。
返信する

コメントを投稿