鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

八駿馬図鐔 永壽 Eiju Tsuba

2014-01-14 | 
八駿馬図鐔 永壽


八駿馬図鐔 銘永壽(花押)

 このような動物などを題材として採る場合、阿吽の思想を背景とした場合には偶数(二頭)でも描くが、三、五、七、九などのように奇数で描くことがほとんど。これも実は陰陽の思想を背景にした数である。ところがここでは八頭の馬を描いている。古代中国の伝説にある八駿馬が題材である。桂永寿もまた馬を作品として多く遺した金工である。この鐔も、かつて『銀座情報』にて紹介したことがあるので、その解説全文を掲載する。


 神仙の術に深く傾倒し、薬種にかかわりのある菊慈童を寵愛したことでも知られる西周の穆王(紀元前九百五十年頃)は、天下巡遊を目的に、そして長いあいだ憧れていた西王母をエンジ山に訪ねるために、八頭立ての馬車を特別に仕立てたといわれている。これを曳いたのが、古代中国の歴史と伝説を飾る八駿馬であった。
 因みに古く中国では、大宇宙は八角形に構成されていると考えられていた。これゆえに八は万物の根源たる数として以降の思想に備わってゆくのであり、八頭立ての馬車も、装剣小道具の画題として広く知られている八仙人図もこれに拠るものである。
 天下巡遊に際して車を引く馬の選定を命ぜられたのは、穆王に仕え、名馬を育てるを得意としていた造父であった。造父は、かつて殷を倒した武王が、奪取した名馬を崋山の麓に放したことを知っていた。その後、自然の中で交配された馬は崋山が生み出す気によって特殊な能力を持ち、足が地面に着かないほどに早く走る能力を、あるいは一夜に一万里を走る能力を備えたと信じられていた。
 造父は崋山で野生化したこの名高い馬の調教に成功し、駿馬として後に穆王に献上したのであるが、穆王はさらにこれを、竜芻という草の育つ東海の島にて育成させたといわれている。平素、馬が竜芻を食すると平時の十倍以上の力を発揮すると考えられたもので、これを餌とした八駿馬は超常的な力を発し、ついには背に翼を持つ馬が誕生したという伝説も生まれたほど。以降、名馬の象徴として八駿馬の名が語り伝えられていったのである。
 写真の鐔と縁頭は、八駿馬の伝説を下敷きとしたものであろう、広大な草原にて伸びやかに育つ八頭の馬を自然味溢れる景観で捉え、表情豊かに彫り表わした、軽やかな趣の感じられる作品。製作は筑後国久留米に生まれた桂永壽。江戸に出て横谷英精の門及び二代宗與の門に学んで洗練された感覚を養い、郷里の久留米にて独立開業し有馬家の御用を勤める。後に再び出府して江戸を活動の場に定め、横谷流の美しい作品を遺している。
 漆黒の赤銅地を丸形に造り込み、深味のある光沢を持つ奇麗に揃った魚子地に仕上げ、他に一切の添景を描かずに八駿馬を彫り表わし、耳には金の覆輪を廻らして絵画的な空間性を考慮すると共に、高位の武家の装剣金具としての風格ある側面を明確にしている。八駿馬は激しく跳躍する姿、疾駆する姿、野に伏す姿、草を食む姿と、いずれも異なる姿態で高肉に彫り出し、金、銀、朧銀の色絵を加え、動きを活性化させる片切彫状の線刻を的確に配し、筋肉の盛り上がりとその動き、跳躍感、そして彼らを包む風の動きまでも靡かせる鬣の様子で表現している。窪んだ眼窩に丸く大きく見開いた瞳の表情も見逃せない。
 これに添う縁頭にも横谷流の駿馬を配し、微細な魚子地に量感のある高彫とし、赤銅地に銀の平象嵌を加えて斑毛の様子を渋味のある色調で表現。また、銀を割り込んだ金を用い、これによって斑毛の様子を鮮やかに表現している。




放馬図大小目貫 柳川直春 Naoharu Menuki

2014-01-13 | 目貫
放馬図大小目貫 柳川直春


放馬図大小目貫 銘柳川直春(花押)

 これも後藤光乗の目貫と比較鑑賞すると面白い。明らかに後藤流ではない。野を駆け巡る馬を快活に描き、古典的な阿吽の思想など微塵にも感じさせていない。そもそも目貫は表裏があることから、両者を違えて描く場合が多い。そこで陰陽、昼夜、阿吽の表現が生み出されたものであろう。そのような古典的な意識に捉われずに楽しみたい場合がある。

放馬図鐔 柳川直春 Naoharu Tsuba

2014-01-11 | 
放馬図鐔 柳川直春


放馬図鐔 銘柳川直春(花押)

 疾駆する馬、後ろ脚を激しく蹴り上げる馬、のんびりと草を食む馬。それぞれを的確な姿態に彫り描き、金銀のみならず色合いを違えた金と朧銀、素銅など色絵の配置も巧みに生命感に溢れた作品としている。直春は馬を描いた作品を多く遺している。目に優しさが感じられるのが特徴的。70ミリ。


放馬図鐔 柳川直光 Nomitsu Tsuba

2014-01-11 | 
放馬図鐔 柳川直光


放馬図鐔 銘柳川直光(花押)

 赤銅魚子地に高彫表現した作。柳川家は横谷流の金工で、本作のような写実的表現になる馬や動物、霊獣などを得意とした。魚子地は大草原。ここにタンポポを描いて野原の様子を窺わせている。66.3ミリ


放馬図目貫 宗與 Soyo Menuki

2014-01-10 | 目貫
放馬図目貫 横谷宗與




放馬図目貫 銘宗與(花押)

 宗與は横谷派の三代目。宗の弟子で、後に横谷家を継いだ名工。この目貫は金無垢地を容彫に表現した華やかな作。何とも色合いと光沢が鮮やかで暖か味がある。彫刻技術も飛びぬけて優れ、横谷派が江戸金工の一つの祖流で、多くの枝流を成したのも理解できよう。先に紹介した後藤光乗の目貫と比較してみても判るのだが、明らかに後藤の作風が下地としてある。それでいてどことなく優しさが感じられ、後藤とは異なった品位も漂っている。ただし宗が小柄に描いた馬の様子とは違う。


白馬節会図鐔 横谷宗 Soumin Tsuba

2014-01-09 | 
白馬節会図鐔 宗ソウミン(ミンの文字が再現できていなければご容赦のほど)


白馬節会図鐔 銘 宗(花押)

横谷派の金工も馬を描いた作品を多く遺している。宗に、静かに佇む放馬を描いた小柄が何点かある。宗は華やかな高彫色絵表現の他、この鐔のような活力のある片切彫手法の作品を多々遺している。今年の『銀座情報』の正月号の表紙を飾った作である。以下に解説全文を掲載するので参考にされたい。

 正月七日の夜、宮中の紫宸殿において天皇が白い馬をご覧になる白馬節会がある。嵯峨天皇の頃から記録にみられるようになった正月の儀式の一つで、鬼やらいや小松曳き、七草粥などと同様に、白馬を見ることによって邪気を祓い、白馬が備えている陽の気を体内に採り入れ長命を得るというもの。左右馬寮によって南の庭に曳き出された白馬を群臣と共に愛で、宴を催したという。また、詳らかではないが白馬を紫宸殿の周りを巡らせることによって邪気を祓ったものとも伝えられている。馬は陽の動物であり、殊に万物の萌え出る春の色でもある青色の毛を備えた白馬は縁起が良いとされていたのである。
 『源氏物語』少女の段にも白馬節会が記されている。光源氏の理想でもあった四季折々の草花が咲き乱れる六条院の御殿の改修が物語の背景としてあり、その説明に伴って貴族の年中行事を紹介している。物語では、藤原良房が古例に倣った白馬節会を催したことに対し、新趣に富む白馬節会を催した光源氏の才気の在りようを示している。作者紫式部の時代には、香合わせ、絵合わせ、花合わせなど様々な比べ遊びがあったが、白馬節会ですら互いに競い合うような流行となっていたのであろうか。
 和歌にも白馬節会が記されている。鎌倉時代初期の藤原定家の「いつしかと春のけしきにひきかへて雲井の庭にいづる白馬」は有名。南北朝時代の『年中行事歌合』には「松の葉の色にかはらぬ青馬を 引ば是もや子日なるらん」がある。時代が遡って万葉集には大伴家持の「水鳥の鴨の羽の色の青馬を 今日見るひとはかぎりなしといふ」が遺されている。いずれも清らな空気感が漂う歌であり、白馬の様子を松のあおあおとした葉や水鳥の羽の色に擬えた意識も伝わりくる。
 八駿馬の伝説にもあるように、為政者にとっての馬は、武力、戦闘能力に直接関わり、統治力に重ねられる大きな存在。平安時代後期には河内源氏の武将が馬寮に任官されたことから、この官職は武士の憧れの的となっていた。鎌倉時代初期の源実朝などが歴任し、また、室町時代初期以降は次期将軍職とみなされる者が馬寮に就いていることも興味深い事実である。
 もちろん武家の権力の拡大に、名馬の産地の掌握は少なからず影響していよう。源平合戦では、名馬を間にしてその取り合いをした伝承もある。
 古い行事が失われてゆく中で、現在でも白馬節会が行われているのは京都の賀茂別雷神社、大阪の住吉大社など。茨城県の鹿島神宮では古様式のままの夜間の行事であり、殊に伝統を大切にしているようだ。しかも、維新前の鹿島神宮では、元旦から白馬節会が行われるまでの間は楽曲が控えられていたともいう。
 獅子舞や萬歳と同様、正月の門付け芸の一つとして街中にみられた春駒も、実はこの白馬節会が市井に広まったもの。馬の首形を手にして馬に跨っているような仕草をし、家々を巡って言祝を述べる様子は初春らしく華やかであり、後には馬の首形も飾りとして、また子供の遊びや玩具としても定着している。
 写真は、このように宮中のみならず武家においても、また下っては庶民にも広まった我が国の伝統文化である白馬節会に取材し、その主役でもある若駒の快活な姿を彫り描いた横谷宗の鐔。
 豪奢とも評される獅子牡丹図や、清楚に佇む放馬図小柄で知られる宗は、寛文十年の生まれ。十八歳にして父横谷二代目の宗知が没したため、祖父の後見を得て家督を相続、宗と改銘して幕府の御用を勤めた。十年ほど後には御用を辞して自由な作風の追求へと視野を広げたことはあまりにも有名。町人文化の活性化が極まった元禄中頃のことであり、創作活動に強い影響を与えたのが同時代の知識人で、多くの芸術家と交流していた紀伊国屋文左衛門や英一蝶であることも良く知られている。親しかった両者には奇想天外とも言い得る行動があることから、宗との関係においても伝説や後の創作が多い。
 この鐔は、宗が得意とする片切彫を駆使した作。宗は、後藤家に学んだことから赤銅魚子地に高彫色絵仕立ての作風も良く知られているが、強弱抑揚を付けた片切彫のみの手法は、古典的な彫技を洗練させたもので、幅広く細く、深く浅くと、まさに絵筆を走らせたように変化に富んで動きを生み出している。さらに描線は簡潔ながら首から腹、脚部にかけての肉感を明確にし、鬣の線も揃って蹴上がる拍子に揺れ動く様子が的確。馬を曳き出そうとする官人には、勇み立つ若駒への対処に困惑している様子が窺いとれるほど。夜間の儀式であることを暗に示したものであろう地金は漆黒の赤銅地一色で、中央部の厚い碁石形に造り込んで金覆輪を掛けている。



放れ馬図鐔 東雨 Touu Yasuchika Tsuba

2014-01-08 | 
放れ馬図鐔 東雨


放れ馬図鐔 銘東雨

 土屋安親の馬図鐔である。切羽台厚辺りを中心にして、裏にはしっかりと大地に根を張る老松を、表には快活な馬を描いている。素敵な構成で、松樹と馬の生命力が暗に表現されているのである。薄肉彫も巧みに、下草のみわずかに金象嵌を加えている。華やかではない、安親の魅力横溢の作である。

宇治川合戦図縁頭 利壽・清壽 Toshinaga・Kiyotoshi Fuchigashira

2014-01-07 | 縁頭
宇治川合戦図縁頭 利壽・清壽


宇治川合戦図縁頭 利壽・清壽

 以前に紹介したことのある作。奈良利壽が遺した縁に、江戸後期の名工東龍斎清壽が頭を合せて製作したもの。江戸時代中期の利壽には、時代的に縁だけの作が多く、後に縁頭の必要な拵を想定した場合には別の作を合せざるを得ない。そこで清壽に製作させたもの。作行や流派はもちろんだが、描かれている場面に歴史があり面白い。縁頭には、宇治川の激流に足を採られて流されそうになった部下を助けて対岸に放り投げ、さらに恐れをなして足竦む馬を自ら背負って渡河したという東国の猛者畠山重忠の逸話が描かれている。両工の馬を拡大したので比較鑑賞されたい。□

 

軍馬図小柄 Kozuka

2014-01-06 | 目貫
軍馬図小柄


軍馬図小柄

 赤銅魚子地高彫金銀色絵。主のないまま競い合う様子は、その背にいるはずの人物を想像させてしまう。これも佐々木高綱と梶原景季を暗に表現したものであろうか。



武者図目貫

馬上の武者を左右に対比させた図。宇治川先陣の場面であろうか。


軍馬に猿図目貫 後藤 Goto Menuki

2014-01-01 | 目貫
軍馬に猿図目貫 後藤



軍馬に猿図目貫 後藤

 ふっくらと打ち出されて量感のある造り込みとされた目貫。桃山頃から江戸時代初期の後藤の作。馬と猿とは相性が良いらしい。古い絵にも、厩に猿が飼われている様子が描かれている例がある。その両者を、特に猿が世話を焼いているように構成している。鮮やかな金無垢地に両者の特徴が示されている。