鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

分銅形鐔 飾剣 Tsuba-Kazaritachi

2011-06-13 | 鐔の歴史
分銅形鐔 飾剣   (鐔の歴史)



分銅形鐔 飾剣

 時代は江戸初期まで下がるが、遍く知られている聖徳太子像に描かれているような飾剣の例。この種の拵で、健全であり時代の上がるものは頗る少ない。江戸初期あれば充分に古いと言えよう。時代は下がるが、様式は伝統が守られており、古いままである。
 金銅製の金具は質素な魚子地と毛彫表現になる唐草文が廻らされている。飾り金具には七宝が施されている。
 公家が用いた飾剣などは、武士の用いた実戦用の太刀とは異なる。鐔も異なるはずだが、江戸時代には太刀鐔を打刀の鐔に意匠している。葵木瓜形、分銅形などの太刀鐔のデザインを採ることが多い。


分銅形鐔 飾剣

 江戸時代後期の作になる絢爛豪華な飾剣とその鐔。金鍍金を施した飾り金具は古式の金銅地と銀地を重ねたもので、天然石と硝子を象嵌している。金沃懸地の鞘には鳳凰文を螺鈿で描いている。この鐔も分銅形で、唐草文は高彫表現。贅を尽くした作である。

卵倒形鐔 Tsuba

2011-06-12 | 鐔の歴史
鐔の歴史

 実用の時代の簡素で力強い道具としての鐔と、江戸時代に美術品して完成へと突き進む鐔とでは、存在理由が大きく異なる。とは言え、どちらも魅力的な存在である。
ところで、日本刀の鐔の歴史を説明することになると、古墳時代の直刀の鐔、卵倒形鐔にまで遡るのはどうだろう、適当であろうか。
 日本刀とは、我が国で創案され完成された彎刀、即ち反りのある刀のことであり、古墳時代の刀は大陸から伝播した文化の一部。更に突き詰めると、武士の台頭する平安時代から我が国の武器の歴史が始まると言い得る。
 それでも古墳時代の鐔を紹介する理由は、後に上杉拵に掛けられているような車透鐔があり、これに意匠が良く似ているからであろう。鐔を道具として、機能として考えると、このような形が基本ということなのであろうか。
 また、貴族が身に着ける儀式用の太刀も存在し、後にこれらが刀の意匠にも採り入れられている。我々がイメージする武士の姿やその時代とは遠く隔たりがあるも、やはり古墳時代から眺めなければならないのであろう。





卵倒形鐔 古墳時代

 素材は粗銅地を打ち叩いて車状に透かしを設け、金の鍍金を施している。このような銅に金鍍金の技法を金銅と呼んでいる。耳は打ち叩いて折り返すように高く仕立てている。腐蝕して緑青が生じ、欠落している部分もあるが、造り込みの様子は良く理解できる。写真例のような圭頭大刀などに用いられたものである。九三・五ミリ。

車透図鐔  Tsuba

2011-06-11 | 鐔の歴史
車透図鐔  (鐔の歴史)



車透図鐔 黒蝋色塗鞘打刀拵

 上杉家伝来の打刀拵とその柄前である。この反り格好から、長寸の太刀が収められていたことが推測される。長い柄に大振りの金具、いずれも質素な造り込みで、藍鮫革着に皮巻柄。目貫も質素な鷹の羽図。鐔は鉄地丸形に放射状の透かしを施した、菊花透とも車透とも呼ばれる、この大太刀に相応しい作。透かしを施してあるのは重量を調子するためであろう。このような車透を意匠とした鐔の歴史はことのほか古い。
 先に紹介した小柄や目貫に描かれている拵とは雰囲気が異なる。上杉謙信の養子となった景勝もまた刀好きとみえ、名匠の手になる三十五腰を伝えているが、その中に鐔を設けない長寸刀の拵が何点か存在する。鐔を設けないという理由は、刀のバランスを考慮したもの。鐔とは、一般的に拳を保護することが第一の目的と考えられているようだが、本来は、命を預ける刀を、より使いやすくするためのものであることが、このような拵があることによって判明するのである。
 因みに、写真の質素な長柄の拵も上杉家三十五腰の一である。

川中島合戦図目貫 Menuki

2011-06-10 | 目貫
川中島合戦図目貫


川中島合戦図目貫

数多ある戦国時代の戦いの中で、この場面を有名にしている理由は、一騎打ちという中世初頭の戦いの方法を両者が採ったからに他ならない(結果的にそのような状況に至ったものながら)。もう一つ、例えば内陸の武田氏が陸路を断たれて海産である塩を手に入れられなくなった際には、敵ながら謙信が塩を贈ったという出来事もあり、伝説化される運命にあったと言えよう。
 目貫は両雄の対決の場面。
その後、戦国時代を勝ちぬいた徳川家康は、戦による疲弊を避けて豊かさを望み、崩壊へ向かう状況を安定へと向けるために新たな規範を構築した。江戸時代、権力者は武家の教育に際し、『平家物語』などに残されている武士が採った道を再確認させることで、武士の存在意義を示そうとした。このように考えると、伝説は意図して生み出されたものとなる。
 この川中島の両雄の図は、現実に起こったか否かは別として、中世的な思考の終わりを意味するものではなかろうかと考えている。

川中島合戦図小柄 Kozuka

2011-06-09 | 小柄
川中島合戦図小柄


川中島合戦図小柄

 南北朝時代から室町時代の動乱は、下克上の言葉があるように、主を頂点とした権力のピラミッド構造を崩壊させた。それは国そのものの骨組みさえ危ういものになる可能性を秘めていた。
 この戦国動乱の時代、鎌倉時代の一騎打ちを想わせる伝説を残した武将がいる。武田信玄と上杉謙信である。幾たびか両雄が戦った川中島でのことである。
 川中島の合戦は、大きな視点で捉えると、信濃国からさらに北へ進出を目論む武田氏と、それを阻もうとする上杉氏の戦い。その中、永禄四年に行われた最大の合戦で、武田軍の陣中まで馬を進めた上杉謙信が、床机に掛ける信玄に太刀を打ち下ろすという状況が起こった。信玄は見事に軍配で避け、勝敗は決しなかったが、このような伝説を生み出した。
 小柄はこの場面、陣中の信玄と、これに向かって馬を走らせる謙信を、左右に彫り分けている。

大森彦七図鐔 Tsuba

2011-06-08 | 
大森彦七図鐔


大森彦七図鐔

 大森彦七は、湊川の戦いでは楠木正成軍を壊滅させる功績をあげ、戦後は伊予国正木に領地を賜っている。この伝説は、南北朝の騒乱の後に起きたこと。とある夕刻、大森彦七が能楽の宴に出かける最中、矢取川にさしかかったとき、川を渉れずに難儀している一人の女に出合った。そこで彦七は女を背負うことになる。ところが川の中ほどにさしかかったとき、女は鬼に変化して彦七に襲いかかった。目的は腰にしている太刀を奪うこと。この太刀こそ戦功による恩賞、正成の所持していた太刀であり、鬼は正成の怨霊であった。
 この伝説は幾つかの意味を内包している。その一つは能楽の流行である。人が鬼に変化する話は能楽、謡曲という創作の舞台が生み出したもの。『平家物語』に描かれている初期の鬼は、最初から鬼として登場している。羅城門の鬼から創作された『茨木』の鬼も老婆に変化して渡辺綱に迫っている。大きな違いである。
 もちろんこの伝説にも太刀、名刀伝説がある。


大森彦七図小柄

桜井の別れ図小柄 Kozuka

2011-06-07 | 小柄
桜井の別れ図小柄


桜井の別れ図小柄

 九州から攻め上がる足利尊氏軍の壊滅を目的として湊川に戦うことを命じられた楠正成は、この戦に勝ち目がないことに気付いており、死を覚悟していた。南北朝時代とは、下克上といわれるように、主従関係に混乱が始まった時代である。その中で、最期まで、しかも死ぬことが判っていながら、無理難題に臨まねばならなかった楠正成は、それ故に近世でも、殊に明治新政府の時代に高く評価された武将である。
 その正成が子の正行と別れるのが桜井の駅である。

新田義貞稲村ヶ崎図縁頭 Fuchigashira

2011-06-06 | 縁頭
新田義貞稲村ヶ崎図縁頭


新田義貞稲村ヶ崎図縁頭

 鎌倉攻めの新田義貞を描いた縁頭。自然の山並みが楯となっている鎌倉は、その地勢そのものが天然自然の城郭。これに入る道は、幾筋かの山を切り通した隘路があるのみ。それがために守りが固く、中々攻め入ることができない義貞は、稲村が崎の海辺を進むことを決意した。だが、波打ち際であり、通行は困難。そこで、海神に念じ、太刀を海に投じたところ、なんと波が引き始め、ようやく人の通行が可能な状態となった。それっとばかりに義貞軍は鎌倉へと攻め入った。
 念じた程度で海の水が引くわけがない。これに関しては、この時代には、現在よりも水位が低く、干満の時間を知っていたという説もある。地震によって水が一時的に引いたという方もいるがどうだろう。新田義貞を有名にしている伝説である。

村上義光図小柄 安達真速 Mahaya-Adachi Kozuka

2011-06-04 | 小柄
村上義光図小柄 安達真速


村上義光図小柄 銘 安達幽斎

 後醍醐天皇が笠置山から逃れるも捕縛されたとき、別の一団が熊野を目指して笠置山を脱出していた。護良親王とそれを護る精兵である。
 その一行が熊野へ向かう山中の芋瀬の館を通過しようとしたとき、芋瀬の軍勢が行く手を阻んだ。これを回避するため、護良親王が手にしていた錦の御旗を渡すことになった。錦の御旗は再挙のためには重要なものながら、その再挙さえ危うい状況。錦の御旗を手離すことで護良親王は通過はしたのだが。・・・その後、はるか後方を守っていた村上義光がようやく芋瀬に到着、通過しようとしたときのことである。何と護良親王の許にあるはずの錦の御旗を芋瀬の将が手にしていることに気付いた。事前の出来事を知らなかった義光は、さては、先行する親王が襲われたと判断し、錦の御旗を奪回するべくたった一人で奮戦。寄せ来る雑兵を掴んでは投げ・・・の場面。
 安達幽斎は幕末から明治にかけて活躍した金工。朧銀地に片切彫を施す躍動感のある人物描写を得意とした。この場面も臨場感に溢れる画面としている。

児島高徳図鐔 後藤春乗 Shunjo-Goto Tsuba

2011-06-02 | 
児島高徳図鐔 後藤春乗


児島高徳図鐔 銘 後藤春乗(花押)

 武士の生き様や合戦を題とした装剣具では『太平記』にも取材されることがある。比較的多いのは、後醍醐天皇が隠岐に流される最中、これを救出しようと児島高徳が画策した場面。
 後醍醐天皇は元弘元年に挙兵。ところが裏切り者が出て露見。笠置山に逃れたもののここも陥落、ついに捕らわれる。隠岐に移送されるその天皇の一行が美作に至った頃のとある夜、救出を目的にその寝所まで高徳が忍び寄るが、ついに果たされなかった。ただ、高徳は天皇に意志を伝える目的で、桜の幹に漢詩を刻したという。警護の武士はこの詩に首を捻るばかりであったが、天皇は理解し、逆転の時が来ることを待ったという。桜の鮮やかに咲く頃であった。
 後藤春乗は後藤七郎右衛門家の三代目。京都に活躍した武家金工の一人。後藤家というと赤銅魚子地高彫色絵表現になる小柄笄目貫を専ら製作していたが、江戸時代後期には鉄地などを用い、鐔なども遺している。

江口君と西行図鐔 大月光興 Mitsuoki-Otsuki Tsuba

2011-06-01 | 
江口君と西行図鐔 大月光興


江口君と西行図鐔 銘 月光興鐫(大月)

 西行が天王寺へ向かう途中の夕暮れ時、江口の里で雨に降りこまれた。西行は、とある遊女宿で雨宿りを乞うたが、遊女は僧の姿をみると拒絶。途方にくれた西行は、しばらく佇み、「世の中を厭うまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな」と呼びかけるように詠むと、この歌に感じた遊女は「世を厭う人としきけば仮の宿に 心とむなと思うばかりぞ」と返したという。僧が西行であることを知った遊女は、一夜を通して身の上を語り明かしたという。
 この江口の遊女こそ源平合戦で敗れた平家の資盛の子で妙女。平家追討の追手を逃れ、江口の里で隠れるように生きていたのである。
 この鐔は、江戸後期の京都金工を代表する大月光興(みつおき)の作。図に東海澤庵和尚の賛が金象嵌で刻されている。即ち、禅に生きた三者を題とした作品。そして光興もまた禅に生きたことが読み取ることのできる鐔である。
 平家の女人が、源平合戦の後に遊女として生きたことは、琵琶湖の東に位置する港町辺りにも伝説があり、装剣具の画題に採られることが多い。朝妻舟図である。


朝妻舟図鐔 銘 後藤法橋一乗(花押)