とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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朝日新聞。エセ文化人の必読紙

2005年03月30日 22時33分22秒 | エトセトラ
今から約150年前、日本は有史以来の危機に直面した。
嘉永6年。アメリカからの強圧的なお客様、ペリー提督率いる東洋艦隊が浦賀沖にやってきて、250年間にわたる徳川時代という平和な時代に終止符が打たれたのだ。
「通商を認めよ」
「港を開港せよ」
「鎖国を解いて、外国人への入国の自由を与えよ」
武器を携えたお世辞にも紳士的とは言えない彼らの態度は全国各地の武士階級をはじめ、あらゆる人々を憤慨させた。やがてそれは過激な攘夷運動に発展し、多くのテロルを生み出していくことになった。
ペリー艦隊の登場は、日本人が世界の中の日本人として初めて自覚する機会を与え、その結果、日本史上初の愛国精神(勤王精神)が全国土を包み込み、徳川幕府の存在意義を問うようになり、これがやがて倒幕運動、新政府樹立につながっていく。

当時、世界は帝国主義がもっとも盛んであった時代。とりわけ英国とフランスが日本への侵略の魔の手を伸ばそうとしていた。
「日本も支那やインドのように扱えば大丈夫」
などと彼らも考えていたが甘かった。
まず英国艦隊が薩英戦争で手痛い敗戦を喫してしまい、責任者はロンドンの議会で糾弾された。
つづいて下関での長州藩との領土割譲交渉で、長州側の優秀な外交官(高杉晋作)にやり込まれ、インドや東南アジアの国々とは事情がかなり異なることを痛感せねばならなかった。
日本を帝国主義の魔の手から守り通したものは武士階級を中心とする国民個々の高い教育水準と、純粋無垢な愛国精神(勤王精神)であったことは間違いない。
明治を築いた先人たちは強者のみが生き残れる時代にあって太平洋戦争に敗れるまで、石ころ一つ外国に奪われなかった。

しかしこの幕末期において、たった一人、おかしな行動をその信条にしていた高級官吏がいた。
その名前を小栗上野介という。
勝海舟の政敵として知られる小栗は幼少より秀才を謳われ若くして高級官吏への道を歩み始めた当時最高の文化人であった。
その高い教養でガチガチに固められた佐幕主義は、融資をきっかけに日本の権益全てを奪い、幕府を操り植民地にしてしまおうと画策しているフランスとの悪魔の握手も厭わなかったのだ。
勤王精神などどうでもよく、単に徳川政権の継続のみに固執して、武器や設備、教育に至まで、日本侵略を企むフランスの金にすがった人物が小栗という文化人なのだった。

第二次大戦後、文化人の必読紙として、その地位を確立してきた新聞が朝日新聞。
革新的思想をもつ学者や教師、学生たちに尊ばれ、「知識階級は朝日を読む。サンケイなんて三流紙」と言わしめたのは、そんな古い話ではない。
その「文化人の必読紙」朝日新聞の連載コラムに「竹島を友好の島に」と題した売国記事が掲載された。
領土問題で注目を集めている竹島を、この際、友好の印に韓国にくれてやり「友好の島」にしましょうという、普通の頭で読んでみると「狂っている」としか思えない趣旨のコラムなのだ。
執筆者の若宮啓文という朝日の論説主幹は「戦争できない日本は平和のために竹島を韓国に譲ろう」などと宣っているエセ文化人だ。
ここに記されている「日本の平和」こそ、戦後朝日が呪文のように唱え続けてきた「ちんけな平和」にほかならない。
この「朝日だけの平和思想」を貫くためなら、自国の領土割譲も厭わない、おまえは平成の小栗上野介か。

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