とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

ローレライ

2005年03月12日 18時11分44秒 | 映画評論
とりがら映画評(ご注意:若干のネタバレあり)

まずこの映画を、いわゆる歴史フィクションとして鑑賞するとかなり強烈な裏切りに遭うことになる。
この映画の評価をいくつかのサイトで検索してみると、はっきりと二つに別れていることに気付かされるのだが、実際に観賞してみて、その理由がはっきりした。

もともと予告編で興味を魅かれ、原作小説を読むことなく映画館に足を運んだので、私自身もこの映画は歴史の事象を背景にしたフィクションだと想像していた。ところが実際には明らかなファンタジー作品で、潜水艦を舞台にした他の映画と同じものを期待していると、足下をすくわれることになる。

これまでの潜水艦映画はドイツ映画の「Uボート」やアメリカ映画の「クリムゾンタイト」などに見られるように、どちらかというとフィクションであってもノンフィクションに近いリアルさを多分に含んだものが多かった。
このノンフィクション的な緊張感が潜水艦映画としての魅力であり、面白さなのだ。
潜水艦という狭い艦内で繰り広げられる極限状態における人間ドラマは、他の戦争ドラマやアクションドラマとは明らかに質を異にしている。
敵の攻撃で艦に損傷が加えられても脱出することはほとんど不可能で、艦長以下乗組員の生死にかかる運命はすべて同じ条件のもとに晒されているという特異さが存在するのだ。

「ローレライ」も潜水艦ドラマとしての面白さは十分に満たしており、ファンタジーとして鑑賞するるなら実にスリリングで二時間以上にわたる上映時間のほとんどすべてを楽しむことができる。ある意味においては戦争娯楽作品ということができる。
きっとこの映画に高い得点を与えている人々は、そういった角度からこの作品を観てきた人たちなのだろう。
しかし、少し辛口に述べさせてもらうと、やはり先述した「Uボート」や「クリムゾンタイト」はもちろん最近の「U571」「K-19」と比べると、潜水艦ドラマとしては力量不足の感は否めない。
いくつかのドラマ部分は明らかに他の潜水艦映画ではすでに使い古されているアイデアであるし、ファンタジーなので仕方がないがリアリズムを軽視しているところが、観る者が集中できない弱さになっている。
史実とかなり異なる部分や、描写の拙劣さが、現実さを求めた観客から低い点数をつけられてしまった原因ではないだろうか。
実際私自身、のっけからこれが現実であればあり得ないといういくつかのストーリー設定に直面し、戸惑った部分も少なくない。
まず、降伏寸前に日本に向けて回送された「ドイツ製大型潜水艦」というコンセプトで躓いた。もともと大型潜水艦は日本の得意とする分野であったし、Uボート程度しか持っていなかった海軍力の弱いドイツ軍と、当時世界最大級であったイ号潜水艦を持つ日本海軍とは比べるべくもなかった。
そして映画の各所で展開されるCGによる戦闘シーンは、予算の関係からかまるっきり十数年前に作成したのではないか、と思われるほどリアリティに欠けていた。
その昔、展示会で目撃したシリコングラフィックス社のグラフィックワークステーションで作成したような映像だった。つまりアーケードゲームの戦闘画面を見ているような品質だったのだ。
屋外の撮影はワザとだろうが、露出に失敗したような色飛びした絵作りで、これもとても気にくわない要素になっている。

ともかく、映画としては面白い。ただし、ファンタジーとして観ること。それが条件である。