タイ、ミャンマー、ラオスの国境付近、つまりゴールデントライアングと呼ばれる地域でメコン川を目にした私の次の目的は、
「メコンデルタを見ること」
だった。
ベトナムは、以前から一度は訪問したいと考えていたところだった。
なぜなら、ベトナムという国名には、特別なものを感じさせる何かがあったからだ。
というのも、私が子供の頃のベトナムは戦場だった。
小学校低学年であった私のようなガキの目にもベトナム戦争は残酷で、いつ終わるものやらまったくわからない戦いに映った。
ちなみにベトナム戦争はベトナムではアメリカ戦争という。
もっともだが、目からうろこであった。
そのベトナム戦争が終結して30年近くが経過し、計画経済のドイモイ政策を耳にしたり、巷に溢れる観光ガイドを見かけては、
「ベトナムへ行ってみたいな」
という気持ちが芽生え始めていた。
そのベトナムへ行きたいという心の中の莟を開花させたのは、近藤紘一の著作との出会いだった。
「ベトナムから来た妻と娘」
「サイゴンの一番長い日」
「バンコクへ来た妻と娘」
など、東南アジアを舞台にした元産経新聞記者の故近藤紘一の著作はベトナムという国を身近に感じさせ、サイゴンからメコンデルタにわたるベトナム南部地域への私の思いは徐々に強まっていったのであった。
ベトナムへはタイのバンコク経由で出かけた。
このときすでに、成田に先立ち関西空港からはホーチミン市行きの直航便が毎日運行していたのだが、私は全日空のマイレージ欲しさにスターアライアンスに加盟していないベトナム航空を避け、タイ航空を選択した。
これ以降タイ国内同様、バンコクを起点に東南アジアをうろうろすることになった。
つまり、マイレージが欲しいという欲求がバンコクを旅の起点にさせたのであった。
ベトナムへの旅は困難を極めた。
いや、困難というよりも、
「あんた、大丈夫か?」
と会社や得意先、友人連中から数多くの心配を頂戴した。
なぜなら、新型肺炎SARSが中国から東南アジアにけかて猛威を振るい始め、ベトナムの首都ハノイではすでに死者も出ていたからであった。
まず、影響は出発前々日から表れた。
「あ、○○さんですか?」
いつもお世話になっている航空券を買った旅行社からの電話であった。
「そうですけど」
「毎度お世話になります。」
「こちらこそ」
「あの、ホーチミンからバンコクへ帰る便ですけど」
「はい」
「キャンセルになりました」
「えっ?」
「利用者激減でキャンセルです。○○さんのチケット発券済みですけど、便、無くなったから乗れません」
「で、どうすれば.......」
「○○さん、ホーチミンから午前の便でしたね。」
「はい、午後はバンコクのチャトチャックへ買い物に行くつもりなんですけど」
「夕方の夜の便が飛ぶみたいですから、それに乗ってください」
「航空券.......エアチケットはどうしたらええんですか?」
「そのままチェックインできる、ってタイ航空が言うてますから、とりあえず信じて、それを現地で見せてください」
「はあ」
「で、あかんかったら、ウチに電話ください」
「はあ?」
ということで、納得したら良いものかどうか、悩むような連絡なのであった。
いざ出発してみると関空からバンコクの便はいつもの通りだったものの、バンコクからホーチミンへの便では搭乗するなり使い捨ての医療用マスクが配られてきた。
しかも便数が減らされているにも関わらず機内はガラガラであった。
機内食も配られなかった。
フライトアテンダントたちは全員マスク着用で、アテンダントというよりも看護婦さん、飛行機の機内というよりも病院の中、といった雰囲気だった。
「えらいことに、なってしまった」
と、思ったが、こんなことはめったに経験できることでもなく、私はなんとなく浮き浮きしていたのであった。
「これで土産話が一つできた」
とさえ思った。
この土産話がくせ者だった。
というのも、この土産話がやがて旅行記となり、カナダ在住の親友Sさん限定のメールマガジンとなり、やがてブログに発展していくことになるのだ。
ともかく、SARSへの質問表をイミグレーションカードとは別に書かされ、ホーチミンのタイソニャット空港では医師の診断も受けるという、またとない体験をしたのだった。
つづく
「メコンデルタを見ること」
だった。
ベトナムは、以前から一度は訪問したいと考えていたところだった。
なぜなら、ベトナムという国名には、特別なものを感じさせる何かがあったからだ。
というのも、私が子供の頃のベトナムは戦場だった。
小学校低学年であった私のようなガキの目にもベトナム戦争は残酷で、いつ終わるものやらまったくわからない戦いに映った。
ちなみにベトナム戦争はベトナムではアメリカ戦争という。
もっともだが、目からうろこであった。
そのベトナム戦争が終結して30年近くが経過し、計画経済のドイモイ政策を耳にしたり、巷に溢れる観光ガイドを見かけては、
「ベトナムへ行ってみたいな」
という気持ちが芽生え始めていた。
そのベトナムへ行きたいという心の中の莟を開花させたのは、近藤紘一の著作との出会いだった。
「ベトナムから来た妻と娘」
「サイゴンの一番長い日」
「バンコクへ来た妻と娘」
など、東南アジアを舞台にした元産経新聞記者の故近藤紘一の著作はベトナムという国を身近に感じさせ、サイゴンからメコンデルタにわたるベトナム南部地域への私の思いは徐々に強まっていったのであった。
ベトナムへはタイのバンコク経由で出かけた。
このときすでに、成田に先立ち関西空港からはホーチミン市行きの直航便が毎日運行していたのだが、私は全日空のマイレージ欲しさにスターアライアンスに加盟していないベトナム航空を避け、タイ航空を選択した。
これ以降タイ国内同様、バンコクを起点に東南アジアをうろうろすることになった。
つまり、マイレージが欲しいという欲求がバンコクを旅の起点にさせたのであった。
ベトナムへの旅は困難を極めた。
いや、困難というよりも、
「あんた、大丈夫か?」
と会社や得意先、友人連中から数多くの心配を頂戴した。
なぜなら、新型肺炎SARSが中国から東南アジアにけかて猛威を振るい始め、ベトナムの首都ハノイではすでに死者も出ていたからであった。
まず、影響は出発前々日から表れた。
「あ、○○さんですか?」
いつもお世話になっている航空券を買った旅行社からの電話であった。
「そうですけど」
「毎度お世話になります。」
「こちらこそ」
「あの、ホーチミンからバンコクへ帰る便ですけど」
「はい」
「キャンセルになりました」
「えっ?」
「利用者激減でキャンセルです。○○さんのチケット発券済みですけど、便、無くなったから乗れません」
「で、どうすれば.......」
「○○さん、ホーチミンから午前の便でしたね。」
「はい、午後はバンコクのチャトチャックへ買い物に行くつもりなんですけど」
「夕方の夜の便が飛ぶみたいですから、それに乗ってください」
「航空券.......エアチケットはどうしたらええんですか?」
「そのままチェックインできる、ってタイ航空が言うてますから、とりあえず信じて、それを現地で見せてください」
「はあ」
「で、あかんかったら、ウチに電話ください」
「はあ?」
ということで、納得したら良いものかどうか、悩むような連絡なのであった。
いざ出発してみると関空からバンコクの便はいつもの通りだったものの、バンコクからホーチミンへの便では搭乗するなり使い捨ての医療用マスクが配られてきた。
しかも便数が減らされているにも関わらず機内はガラガラであった。
機内食も配られなかった。
フライトアテンダントたちは全員マスク着用で、アテンダントというよりも看護婦さん、飛行機の機内というよりも病院の中、といった雰囲気だった。
「えらいことに、なってしまった」
と、思ったが、こんなことはめったに経験できることでもなく、私はなんとなく浮き浮きしていたのであった。
「これで土産話が一つできた」
とさえ思った。
この土産話がくせ者だった。
というのも、この土産話がやがて旅行記となり、カナダ在住の親友Sさん限定のメールマガジンとなり、やがてブログに発展していくことになるのだ。
ともかく、SARSへの質問表をイミグレーションカードとは別に書かされ、ホーチミンのタイソニャット空港では医師の診断も受けるという、またとない体験をしたのだった。
つづく
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